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福音であると呼ぶためには

 以前ある旧約聖書の先生の講演を聴いたことがある。正直いうと講演そのものにはあまり「これ」というものを感じなかった。ただその話の中で「私は旧約が一応専門ですが、礼拝では旧約で説教をすることはしません。ユダヤ教ではありませんから」と語られていたことだけは印象に残っている。というのも私も同じスタンスだからだ。私にとってその日の礼拝は福音書が基本。使徒書や旧約はあくまでもその日の日課のひとつとして取り上げる、という立ち位置だ。旧約だけでは福音にならないではないか、というのが私の立場である。この部分の考え方はそれぞれだとは思うが。

 旧約聖書には「正しき者が苦しみ、悪しき者が栄えているように見えても、最後にはかならず正しい者は祝福を得て、悪しき者は滅びに至る」ということが書かれている。たとえば「悪事を謀る者のことで苛立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる」(詩編37:1-2)などのように。このような聖句は憎しみを抱える私たちの励みにはなる。

 だがそれだけで終わっては、キリスト教信仰は「因果応報」と変わらないのではないか。もちろんキリスト者は救い主によって赦されているとしても、何をしても罪が問われないなどということはない。「人は、自分の蒔いたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)のも真実だ。

 殺したいぐらいに憎らしい、二度と会いたくもない人間は確かに誰にも存在する。ここで忘れてはならないのは、貴方が殺したい人間の罪のためにもキリストは十字架につかれたということだ。ここで「だからそいつのことを赦してあげなさい」などとお説教するつもりはないが、キリストがなされた業のことは心の中に置いておきたい。
 また、私にとって殺してやりたいぐらいに憎らしい相手がいるのと同時に、今ここにいるこの私もまた、知らずしらずに誰かにとって憎しみの対象にもなっている。罪ある存在として生まれた私たちはそのことからも逃れることはできない。

子どもの頃にみていたドラマの主題歌の一説を今も鮮烈に思い出す。
”男だったら、流れ弾のひとつやふたつ
胸にいつでも 刺さってる 刺さってる”
(『男たちのメロディー』(SHOGUN 作詞:喜多條忠 作曲:ケーシー・ランキン)

 この仕事をしていると、流れ弾もたくさん受ける。一方で私が乱れ撃ちした弾が思いがけない誰かの胸に深く刺さってもいるだろう。申し訳ないと思う。「お互い様さ」なんていうつもりもないけれど、そのような罪深い私や貴方がそれでもキリスト者として呼ばれ、牧師として用いられている。そういう流れ弾の疼きを抱えながら生かされているのではないか。

旧約聖書だけを読んで「悪は滅びるのだ」と叫ぶだけでは”福音”と呼ぶには些か不十分だとはいえないだろうか。


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