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「甘く危険なサタンの香り」(マタイ4:1~11)

(今日の礼拝動画、音声が入ってなかった…すみません、削除いたしました。)

 今日の聖書日課であるヤコブ書はちょっと書簡の中では異端児というか…変わった書物なんです。というのはパウロが確立したといえる、キリスト教信仰の根幹である「信仰義認(人は行いではなく、信仰によってのみ義とされる)」という教義への批判の書物とみられているからです。また律法を非常に重んじています。その思想は「行いを伴わない信仰は人を救うことができない」ということです。ルターは「藁の書」つまり「こんな書物は聖書の名に値しないぜええええ」ということです(笑)。でも、著者ヤコブは別に反パウロかというわけではないようです。信仰によってのみ義とされるというその考えを誤解している人々に対して、それを戒めるために書いたようなんですよね。
 試練、と訳されているギリシャ語は「誘惑」とも訳せます。どんな試練にも悪への誘惑が潜んでいます。誘惑にひかれる者がその責任を神様に転嫁してしまうことがあります。

 さて灰の水曜日から四旬節が始まりました。40日間、私たちはキリストのご受難を思いつつ歩みます。その最初の主日、サタンの誘惑の物語です。私たちは誰もがサタン(悪魔)の誘惑を受けています。頭から角を生やした、いかにも悪そうなキャラが悪辣な誘いを私たちにしてくるものではないのです。むしろサタンは私たちにとっては一見良いものに見える姿を装って迫るのです。
 だって、石をパンに変えられたらどんなに良いでしょう?イエス様だって「我らに日ごとのパンを与えたまえ」と祈られていますように、人が毎日食べられない状態を決して良しとはされない方です。コロナウィルスの影響で店をたたむ人が増え、経済的に追い詰められる人が後を絶ちません。そんな中で今の総理大臣の肝いり(てか圧力?)で携帯電話の料金が一気に下げられました。そりゃ有難いですよ。財布も助かります。でもそれと引き換えにむしろ生活が圧迫されるような政策が進められようとしてはいないだろうか?自分のスマホを見つめながら「スマホの料金云々ではなく、神の言葉が貫かれるこの世界なのだろうか?」と思うのです。

 また屋根から飛び降りた人が無事でいる、そんな奇跡が起きたりすれば、日本社会でマイノリティーなキリスト教の説得力は増すことでしょう。それに自ら命を絶とうとする人が昨年再び増加したこの国で、自死する人や困窮する人への対応もままならない中で、そんな奇跡が起きたらどれほど喜ばしいことでしょうか。けれど一方思うんですよね。そんな奇跡を願ってばかりでいいのかって。奇跡を起こすのは私たちの祈りなんじゃないですか?キリストが望んでいるのは、私たちが他者の痛みに寄り添うことなのです。「君が苦しんでいるそのすぐ隣に、キリストがともにおられるんだよ、そこから飛び降りてしまう前に、ここにおいで。」そういう神の愛を伝えるのが私たちなんですよね。

 サタンの誘惑が私たちの窮乏に対して、助けが必要な状況に対して、働きかけます。あるいは私たちが「良き行い」とか「前向きな姿勢」を見せる意志の中にこそ実に効果的に囁いてくるのです。教会は「宣教」「伝道」する共同体です。聖書的な「善き行い」をすることが求められます。でもその働きの中にこそ、もっとも罪が生じやすいというパラドックスを抱えます。

 そしてサタンは実によく聖書を知っているのです。たとえばわかりやすいカルト宗教が訪問してくれば、これはわかりやすいでしょう。追っ払うのも簡単ですよ。でも本当に厄介なのはキリスト者である私たち自身です。私たちは人を裁く時に、聖書の言葉を振りかざしてしまいます。また教会的常識、教会的思い込みが人を傷つけます。自分を甘やかし正当化する時に、聖書の言葉を使ったりもします。聖書の言葉を使って私たち自身が実にたやすくサタンになってしまうようです。

 私にはいわゆるLGBT、性的少数者のキリスト者の友人が何人かいます。彼らは言います。「教会に傷つけられてきた」「聖書の言葉を振りかざすクリスチャンに厳しく裁かれた」と。以前いた教会の信徒さんに「私には同性愛者の牧師の友人がいます」と話したところ「そいつは聖書を何だと思っているのですか。牧師をしていることをどう考えているのか」と真顔で言われました。「彼は私なんかより、実に真摯に聖書に向き合っていますよ」とお話しました。わかってはもらえなかったようですが。
 
 キリストは自分の力でサタンを撃退することもできたでしょう。けれどすべて聖書を引用されてサタンと向き合いました。ヤコブ書にありましたように、神の言葉はそのようなヤワなものではない。決してサタンに利用されるがままではないのです。神の言葉は人を切り捨てるものではないのです。

 別に聖書の言葉を振りかざすことはありません。だけど私たちは福音をいつも基本において誰かを支えましょう。困難にあるその人がこの状況から信仰を得て歩めるようにと祈りましょう。祈りは人間的な限界を超えることができるのです。イエス様は常に神のみ言葉に正しく立ち返ることで、サタンの誘惑を退けられました。福音の言葉は、私たち自身を、また隣人を助け支えることができるのです。でなければ、それは福音じゃないですよ。



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