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礼拝説教「傷だらけの栄光」(ヨハネ12:20~26)

「ギリシャ人たちがエルサレムへ礼拝しにきた」と書かれていますので、彼らはユダヤ教に改宗していたのでしょう。エルサレムに来て祭りに参加したけれど、それでも外国人だし、エルサレムじゃ冷たい目で見られたりもして、なんだか満たされない気持ちになっていたかもしれません。そんな時にイエス様のことが聞こえてきて「なんとか会いたいなあ」と思ったのでしょう。そこで彼らはフィリポに「なんとかイエスという人に会わせておくれよ」と頼み込みます。フィリポというのはどうもギリシャ的な名前らしくて、その名前や雰囲気から彼らは自分たちと通じるものがあると思って声をかけたのかもしれません。
 
フィリポはアンデレに声をかけてイエス様に彼らを紹介するわけですが、このアンデレは、最初、洗礼者ヨハネの弟子でした。それがイエス様と出会ってその弟子となり、その翌日、兄弟であるシモン・ペトロを、イエス・キリストに引き合わすという大事な役回りを演じました。他にも五千人の給食の奇跡ではパンと魚を持っていた少年をイエス様に紹介しています。
フィリポは弟子になった直後に、ナタナエルにそのことを話し、ナタナエルをイエス様に紹介するのです。弟子になってすぐに伝道を始めた人たちです。ここでもギリシア人たちをイエス・キリストに引き合わせるという役割を果たしました。

 ここで劇的なことが起きたのです。なんだかわかりますか?キリストの福音がイスラエルの民の間だけでなく、国籍を超えて伝わった記念すべき瞬間なんです。ここで私たちキリスト者の役目を胸に刻みましょう。それは「人々をイエス様の元へ導くと」いう大切な務めです。
 
 話は変わりますけれどつい先日、某神学校(教団じゃないですよ)で精神科医の方(キリスト教徒)の講演会に行きました。内容としては「うつ病の基本」だったのですが、講演後で出た質問でこんなものがありました。
「うつ病の中で『これは悪霊の仕業だ』と思われる病気のケースを教えてください」
 人の心が病んでしまうのには、おそらく何らかの悪しき力が働いているのでしょう。子どもたちの間のイジメ、職場でのパワハラ、家庭におけるDV・虐待。貧困・格差・・・人が人を抑圧的に支配せんとするところには、悪魔的な力が動いていると言わざるをえません。心の病それ自体は良いことではもちろんありません。不当な禍です。
 ですが、病による苦しみが、与えられた使命のひとつとして私たちの胸に押し寄せる時に、その苦しみに自分自身が立ち向かい、苦しみに備える中で、良きものを見出すことがあります。このように感じられた時にそれは「神の恵み」だといえるのではないでしょうか。誰も好き好んで心の病になどなりたくはありませんが、心の病を単に「悪魔の仕業」とだけ考えるのは実に勿体ない…というよりキリスト者の理解としては不十分なのです。
私たちは今、受難説を過ごしていますが、キリストの十字架は言ってみれば「不当な死」としか言いようがありません。だが神はイエスに「赦しをもってこの不当にみえる苦難を担うように」望まれたのです。この方法によってのみ、私たちは神の愛を知ることができるのです。一粒の麦として死なれたキリストの愛ゆえに。
 それにしても…ユダヤ人が世界中で迫害された理由が「奴らはキリストを不当に十字架につけた」というものなんだそうです。キリスト者がそういうことを言うっておかしいと思いませんか?十字架刑という「不当な死」をイエス様ご自身がその身に引き受けられたからこそのキリスト教信仰ではないですか?それに、そもそもイエス様だってユダヤ人じゃないですか。クリスチャンじゃないですよね…?
 
 コロナウィルスが蔓延した初期の頃のことですが、イタリアでウィルスによる死者が続出した際、臨終に立ち会われたり、葬儀を司られた神父様たちが次々と亡くなられたのです。イタリアは言うまでもなくカトリックの国ですが、今や日曜日にミサに出かける人は極少ない。そんな中で神父たちの働きはまさに「地に落とされた一粒の麦」に他ならなかったのです。まだコロナウィルスへの対応もよくわかっていなかった頃のことですが、精一杯その時に神父としてすべきことをなされたのですよね。一粒の麦として死なれた神父様たちのことを忘れずにいましょう。

 25節の言葉には違和感を感じるでしょう。もちろん人は自分の命を憎んだり否定すべきじゃない。ここでいう自分の命を愛する者とは「自分のことだけを大事にする者」という意味です。この後の31節には「今こその世が裁かれ、この世の支配者が追放される」とあります。あの…なんでしょうね、参院の政倫審。「裏金」だとか「俺じゃなくて幹部が悪いんだ」とか「税金として納入する気はない」だとか…自分の栄華ばっかり追い求めている人たちの結末がこれなのかなと。

 だけど、キリストはそういう人たちのためにも…いやそういう人たちのためにこそ血を流して人々に踏みつけられてその命を投げ出されたんですよね…そのことを、ぜひあの人たちにわかっていただきたいものだなと思うのです。

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