それで、あなたは何を聖書から聴いたのか。

 礼拝の中心は説教である―とプロテスタント教会では一般に言われています。私はそうは考えません。実は最も礼拝の中で省いてよいものこそが説教である。これはある神父さんも言われてましたがその通りなのです。み言葉そのものが読まれる。これこそが決して外してはならないこと。だから聖書朗読は極めて重要な事柄なのです。
 とは言いましても「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒8:31)とあるように聖書そのものをどう人々に伝えるのかーこれが牧師・神父にとって大切な事柄であることは変わりがありません。

 時々他教会の信徒さんからお聞きするのは「〇〇先生の説教、引用ばっかりなんですよねえ…」という愚痴です。私も時々他教会の礼拝に出席して同様のことを感じます。いやなにも引用するのが悪いって決めつけてるんじゃないですよ。私だって時々しますから(言い訳)。ただ礼拝に来る人たちはそういうものを求めちゃあいないんです。牧師がその心で何をそのみ言葉から受け取ったのか、そのみ言葉とどう向き合い、心揺り動かされ、格闘してきたのか…それを聴きたいのですよ。つまり「いま、ここにたしかに生きている福音」が聴きたくて礼拝やミサに馳せ参じているのです。
 
 もちろん若いうちは、牧会生活の短いうちは、説教に悩みも多く何を語ってよいのかわからないことばかりでしょう。ただ、だからこそ聖書がどのような背景で書かれたか、歴史的にどう読まれたかを学ぶべきでしょう。自分がその聖書に「励まされました!救われました!」というだけでなく、「この箇所を読んでも、そこにあるはずの福音がとても受け入れがたい」という感情にも向き合うべきでしょう。あるいは「悲惨な現実の中でそれでも示されるものとは何か?」を語ってほしいとみんな願っているんですよ。日曜日に教会に来ている人たちは、そういう思いを胸に抱いているということは忘れずにおきましょう。
 
 誰かの言葉だとか、映画や歌のフレーズを引用することそのものが悪だということはもちろんありません。問題はそれが語る「私」の中で活きているかどうかなのです。それを無視して表面的なキリスト教的フレーバーを塗しただけのものはまさに「お説教」で終わり。「福音」にはなりません。今から手抜きせずに、悩んで、福音と向き合いましょう。

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