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そんなの聞くために

 人は何を聞きたくて、何を得たくて礼拝に来るのだろう。もちろん福音を聞くためだ。それでは福音とは何か。それは聖書がこの時代もたしかに生きている、そのことを我が魂に注いで欲しいのだ。牧師が説教の原稿を土曜日の日中に書き上げたとする。ところが土曜日の午後、世間を揺るがす大事件が起きたとする。説教者の心も揺すぶられる。どうすべきか。私ならば原稿を書き換えるかはともかく、日曜日の礼拝において全く触れないということはあり得ないだろう。福音は私たちの生きる現実に向けて語られるものだからだ。神は説教者の心にその出来事を通じて語りかけておられるのだから。 
 礼拝における説教は「聖書のお勉強会」ではない。そんなものならば書店に行けば「はじめてのキリスト教」的な本でも読めば事足りる。
 現実の世界で何が起きようと、原稿は一字一句代えることなく用意した通りに話す。それがいいという人もいるのだろうが、私はそれは「生きた神の言葉」とはいえないと思うけれど。


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