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磐城棚倉藩としくじり大名、井上正甫


近代史、特に昭和史をターゲットにしていることが多い拙記事ですが、今回はかなり珍しい江戸時代のお話となります。

1. 東北の訳アリ藩

東北地方の最南端、白河の隣に棚倉という場所があります。
コロナもまっただ中に東北で仕事をしていたのですが、「みちのく一人旅」と勝手に名付けて旅をしていました。関西に住んでいると、東北は「日本語が通じる外国」「新幹線で行ける外国」感覚ですからね。

畑俊六元帥終焉の地、福島県棚倉町
陸軍元帥畑俊六が亡くなった地でもあります…

隣の白河藩のネームバリューが大きすぎて知名度は低いですが、ここには江戸時代、棚倉藩という藩が存在していました。

石高は10万石(19世紀初頭)なものの、実際の収入はその半分ほどだったという小さな藩でしたが、領主の数は、江戸時代を通して9家18人。ざっくり計算で約28年ごとに領主が変わっているという、なんともカオスを感じる藩なのですが、この藩、ちょっと「訳アリ」なのです。

棚倉藩の訳ありの理由、実はこの藩、大名が何かしくじった時の懲罰的として移封(異動)される的な場所だったこと。

立花宗茂公肖像画

その第一号は、あの立花宗茂。
棚倉城や城下町を築いたのは宗茂の後の丹羽長重ですが、九州、いや西日本最強の武士もののふと現在でも戦国マニアの間でトップクラスの人気を誇る名将が、一時期とはいえ九州とは真逆の福島県にいたことは意外です。
関ケ原の戦いにより、宗茂は領地没収の憂き目に遭います。ところが、その誉れ高い武勇や人格がもったいないと家康の寵臣本多忠勝や他大名がフォローしてくれた結果、祖地の柳川へと戻った美談がありますが、それまでの領地がここ棚倉でした。

その後も、色々とやらかした「しくじり大名」がここに転封されることとなりました。

棚倉藩の歴代藩主のすべてが訳あり大名というわけではないものの、隣の白河藩最後の藩主、阿部正静きよも老中だった父が外交上の不手際をやらかして強制隠居。子の正静が後を継いだものの、同時に棚倉藩へと懲罰移封。ここに東北の名門白河藩は終焉、そのまま戊辰戦争・明治維新を迎えました。

ここまで書くと、棚倉藩にはすごくネガティブなイメージがありますが、ほとんどがのちに許され、中には老中になった人もいます。窓際というより、ここでしばらく頭冷やせという謹慎的な意味だったのだと考察しています。

そして中には、「武士としてあり得ない理由」で棚倉へ飛ばされた人物もいるのです。

彼の名は井上正甫(1775~1858)。「正甫」とは見慣れぬ名前ですが、「まさとも」と読みます。
井上家は知名度は低いものの、三河時代から家康に従った家臣の一人。大坂の陣の働きで1万石の大名へ。
正甫は2代目浜松城主だった父が早世したため12歳で井上家の当主となり、その後は特に大きなトラブルもなく無難に藩主としての責務をこなしていきました。

江戸時代は疎いので聞いた話でしかないですが、神君家康公がかつて城主だった浜松城主は、譜代大名の中でもエリートがなる地位。老中など幕政にかかわるためのMUSTキャリアだったと記憶しています。

あとは老中のお声がかかるだけ…という順風満帆な井上が40過ぎのとき、人生を大転落させる「しくじり」を起こしてしまいます。

◆井上正甫「某重大事件」…

現在の新宿御苑周辺にあった信州高遠藩の下屋敷に招待された正甫さん、そこで狩りを愉しんでいるうちにその隣にある千駄ヶ谷村へと迷い込むことに。

そこで、ある農家の女が井上の視界に入りました。
よほど艶めかしいセクシーな女性だったのでしょう、男の欲情がムラムラと湧き上がってしまった殿はご乱心。事もあろうにその百姓女を押し倒してしまいました。

しかし、彼女はすでに結婚していた人妻。
最中に偶然かそれとも女房の悲鳴を聞いたか、おそらく後者だと思いますが、旦那が家に帰ってきました。

自分の女房を、家で押し倒し事に及ぼうとしている男を目の前にして、誰だと聞く間もなく、行為を止めようと井上に飛びかかります。
しかし、いくら欲情を制御できないバカ殿でも、いちおうは武芸の心得がある武士。すぐに刀を抜き旦那の腕に命中。腕は吹き飛び旦那は重傷を負ってしまいます。

正甫はここで、「二重の罪」を犯したことになります。
一つは当然、通りすがりの女を押し倒した罪。今の法律なら強制わいせつか強制性交未遂罪です。

武士にはもう一つ、不文律の慣例がありました。それは、

「刀を抜いたら必ず相手を仕留めないといけない」

ということ。刀を抜くのは「相手を100%討ち取る覚悟」が必要、だから武士はおいそれと刀を抜けなかったのです。
逆に言えば、刀を抜くというのは「お前を(絶対に)斬る」という意思表示でもありました。
実際、町人に煽られ刀を抜いたものの取り逃がしてしまった尾張藩の武士が、それで藩より家禄没収・お家取り潰しに遭っています。

大きな特権の裏には、大きな義務と責任を抱えていたのです。

正甫も、素直にごめんなさいすればまだマシでした。が、彼が行ったのは口封じという最低最悪の選択。ここからは、二つの説があります。

①夫婦を浜松に強制移動させ軟禁、言いふらしたらぶっ殺すと脅しをかけた説
②慰謝料を渡して示談にしたものの、言いふらしたらぶっ殺すと脅しをかけた説

江戸時代は人の移動が自由ではなかったので、おそらく現実的な後者と考えるのが妥当だと思います。

しかし、当事者の口を封じても目撃者が多かったそうで、

「浜松の殿様が女を手籠めにしようとした上に、町人に刀抜きやがった❗❗」

という噂はすぐに江戸中に伝わりました。

彼が登城するときには、

「よっ❗色狂大名❗❗」
「百姓女のお味はいかがでございましたかwww」

と口さがない江戸の町人どころか、他家の家臣にも野次られる始末。ここまでヤジられても罵られても、武士は忍の一文字あるのみ。絶対に刀を抜いてはならないのです。

この噂が、幕府中枢の耳に入ることとなります。
井上は呼び出しを食らい事実関係を問われた結果、棚倉へ懲罰転封へ。文化14年(1817年)の話です。

さらに、ライバルがしくじって陰でガッツポーズをしたと思われる、一人の人物がいました。

学校の歴史の教科書でも必ず記載される老中、水野忠邦です。
彼は当時、江戸から遠い九州の唐津藩12万石の城主でした。ここもここで日本の安全保障を担う重要な藩だったのですが、水野は満足しません。

「俺は、絶対に江戸で幕政を担うんだ!」

唐津藩は長崎の見廻役という重要な責務を負う代わりに、慣例で老中になれないのです。

そこで、井上のしくじりです。
水野はここぞとばかりに浜松への転封を願い、幕府も了承しました。学校の授業レベルなので書くまでもないですが、水野は浜松城主をステップに出世を重ね、念願の老中となります。
ライバルの自爆とは言え、そこでチャンスを逃さず追い落とす水野忠邦とは恐ろしい男である。肖像画を見ても性格良さそうじゃないなと直感が申していたけれども、私の直感、まんざらハズレでもなかった(笑

井上の棚倉行きが決まった時、江戸ではこんなじゃれ唄が流行りました。

色でしくじりゃ井上様よ やるぞ奥州の棚倉へ

昭和50年代後半か60年代に、

私はこれで会社をやめました
禁煙パイポのCMより

「私はこれで、会社をやめました」

というCMの名文句がありましたが、この言葉を借りれば井上の失態はこうなります。

「余はこれで、6万石と出世の道を失ったのじゃ」

2. 井上のその後

しかし、井上正甫が棚倉へ行くことはありませんでした。家督を子供の正春に譲り、病気と称して自分は江戸に居座ったのです。事実上の赴任拒否、これじゃあ全然反省してへんやんと捉えられても仕方ない。たぶんすごくプライドが高く、反省してなかったんでしょうな…。

そして天保7年(1836)、石見浜田藩の松平家が密貿易でしくじってしまい棚倉へご案内。ところてん式に正春は許され、館林藩に栄転。

その後、父のしくじりを踏み台にしてのし上がった水野忠邦が、学校で習うとおり天保の改革でしくじってしまい失脚。弘化2年(1845)、正春は水野との入れ替わりの形で浜松藩主に返り咲くことに。父のしくじりから28年の月日が経っていました。

特に、正春にとって浜松は生まれ故郷。

「ソロm…ゲフンゲフン、浜松よ、私は帰ってきた!」

とガンダムシリーズ屈指の名言を叫びたくなるような、歴史のいたずらでした。

正春は浜松返り咲きから2年後に死去しましたが、父の正甫は息子より長く生き、安政5年(1858年)に亡くなります。享年84歳、当時としては超長寿の人生でした。

井上正甫のご乱心話は前々から知っており、どこかの藩に懲罰移封されたことも朧げに記憶にありました。で、棚倉藩のことを調べていて「訳アリ」ということを知り、

「もしかして、井上もここ?」

と勘が働いたら、やはりそうだったと。
これはけっこう前の話だったのですが、まさか筆者本人が棚倉の隣に「転封」されるとは、その時は夢にも思いませんでしたが。


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