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短編『楽園から来た人』概要【後半】

クナシリ島に住んでいた著者クズネツォフ‐トゥリャーニン氏が
1999年に執筆、2004年に雑誌で発表、2008年に出版した短編小説
『楽園から来た人』(ロシア語原題 "Человек из рая")後半を紹介します。

ロシア語原文 はリンク先にも公開されています。前半はこちらから。

 アルチョムは、私が小屋を留守にしている間に出て行ってしまった。大嫌いな魚加工工場での仕事から私が帰ってくると、ドアのところに置手紙があった。「俺の銃をとっておいてくれ。元気でな。」出て行く者にはロマンチックな自由があるが、置いて行かれる者は悲しくなる。しかし悲しみも束の間で、私はすぐにアルチョムのことを忘れ、次に誰が隣に住むことになるのかに関心が移った。ところが、彼は出発から1週間もしないというのに出戻ってきたのである。

 夕方、私が仕事で疲れて着替えもせずにベッドで休んでいると、耳の下で、まるで井戸の中から静かにこだまするような声がした。そして壁の向こうから衣擦れの音がした。それから固いものでたたくような音。私はそっと中庭に出たが、近くに人影はなかった。アルチョムの部屋のドアに手を伸ばすと、中から鍵がかけられていた。
 「そこでごそごそしているのは誰だ?開けてくれよ。」
 私の声は、まるで自分の声ではないかのように轟いた。ドアは突然開いて、アルチョムの姿がちらっと見え、私は彼の部屋に入った。暖かい日だというのに、彼は紺地に赤でアディダスと書かれたニット帽を耳までかぶり、髭も長いこと剃っていないようだった。まるで怪我人のように弱々しくベッドに腰かける彼に、私は尋ねた。
 「戻ってきたのか。」
 「そうさ、見て分からないのか?」
 彼は煙草を取り出して何回か吸ったが、途中で止め、長い吸い殻を床に捨てて踏みつけた。その靴には何故か靴紐がなかった。スーツケースからウォッカの瓶を取り出し、2人で飲んだ。アルチョムがニット帽を脱ぐと、私はあっけにとられた。彼の髪は無造作に切られ、斑な坊主になっていたのだ。私は自問した。「はて、彼のお姉さんは美容師だったはずだが…?」私たちは黙って飲んだ。
 「銃はどこだ?」
 彼が暗い声で言った。
 「今は銃は必要ないんじゃないのか。後で…」
 私は恐る恐る言った。
 「いや、心配するな、持ってこい。明日森に行くから。」
 私が物置から銃を持って帰ってくると、アルチョムは膝に肘をつき、顔を両手で覆っていた。肩だけが、辛うじて呼吸のたびに上に動いたが、彼は静止していた。「泣いているんだろうか?」私はコップにもう一杯ずつウォッカを注いで彼をそっとしておいた。私は彼に何があったのか知りたかったが、我慢強い性格から明日まで待つことにした。

 しかしそうこうしているうちに、更に1週間が経った。クリル諸島民には毎年恒例である、なぜだかいつも通り女性の名前の付いた台風がやって来て、アルチョムが森から帰ってきたのだ。台風初日はまだ天候ももちこたえていたが、当たり前のようにクナシリ島中が停電し、小屋は雨漏りした。私は外で竜巻が暴れる中、悲しそうな顔をしたアルチョムからモスクワでの話を聞くことになった。彼の顔の前では蝋燭の明かりが揺れており、私は不格好な丸坊主にされた彼の頭を見て笑いをこらえた。涙が出るまで必死で我慢したが、とうとう吹き出してしまった。
 「何を馬鹿みたいに笑っているんだ?」
 何日かすると、集落中が彼の話を知っていた。「モスクワの美容院に髪を切りに行ったんだろう?どうだった?」と茶化されることもあったが、彼は次第に怒らなくなった。

 アルチョムがモスクワのフヌコヴォ空港で飛行機を降りた時のことを想像すると、笑いがこみ上げてくる。アルチョムはコーヒー色のジャケットを身に着け、先のとがった靴を履いていた。彼のファッションからは、とっくにこの世を去り、墓に葬られた1982年という時代の埃がたっていた。大陸は、アルチョムがその目で最後に見た10年前の姿から変わり果てていた。島からモスクワへは3日間の旅路であった。サハリンまで船で2日、その後長い飛行機の旅…。クリル諸島の大自然に慣れ親しんだ彼の眼は、空港で目に飛び込んでくる群衆、ロゴ、広告といったものを一度に受け付けることができなかった。彼の頭は疲れ、荷物を受け取ると、空港の出口で客引きをするタクシーの運転手に運転を頼んだ。島では空港からユーゴ・ザーパドナヤ駅までの乗り合いバスを利用するよう勧められていたが、「メーターで計算するから」という誘い文句に安心してしまったのだ。

 アルチョムは空港の待合室でビールとウォッカを2本ずつ買っており、タクシーに向かいながらビールを飲み始めた。青いジグリの助手席に腰かけ、彼はもう1つミスをした。運転手に「ここに来るのは初めてか」と聞かれ、「そうだ」と言ってしまったのだ。彼は今までドモジェドヴォ空港を利用しており、フヌコヴォ空港に来るのは初めてだという意味で言ったが、運転手は彼がモスクワに来るのが初めのシベリア民であると理解した。運転手はアルチョムにメーターを見せ、出発した。お客がシベリアよりさらに遠く、クリル諸島から来たことを知ると、運転手は「それは遠いねえ、寒かろう…」と言った。アルチョムは微笑み、寒さについては特に言及しなかった。車窓からはきれいな新しい車、大きな建物、群衆、広告など、計り知れず巨大に成長した文明が見えた。運転手は、自分の兄弟がマガダンに、叔父と叔母がハバロフスク郊外に住んでいて自分も行ったことがあると言った。

 町はピンクのスモッグの煙に引っ張られ、太陽によって空間から切り抜かれた。「モスクワか…」アルチョムは脈絡もなく考え、心が温かくなった。古びた家の多い地域に入ってくると、その中にも西洋の町のポストカードから出てきたような新しい家が建っていた。「おお、家が建ったんだな…」アルチョムは一人で驚いた。タクシーは渋滞にはまり、周りには何十もの車と、その中の人々の顔がひしめき合った。これら一つ一つの顔は、個性と自分の思考を持った人間なのである。「でもそのことに気付いている人はこの中に一人もいないんだ。」アルチョムは考えた。

 前方に赤い建物が霞み、アルチョムは胸騒ぎの中理解した。「クレムリンだ。」タクシーはモスクワ川の川沿いを走り始めた。

 「これは何だ?」
 アルチョムは巨大な彫刻に目を留めて尋ねた。
 「ピョートル像さ。お客さん、雑誌を読まないのかい。」

 「めったに読まないかな。」
 「まあ、タイガだもんな。でも聖ハリストス教会のことは聞いたことあるだろ?」
 「ああ、聞いたことがある。」
 「ほら、あれがそうだよ。」
 「じゃあこれは何だ?」
 「これって…銀行だよ!」

 タクシーは進んでいったが、アルチョムは自分に当たる太陽の位置から、運転手がかなり遠回りをしていることに気が付いた。運転手は相変わらずおしゃべりを続けたが、アルチョムは姉の住むチェルタノヴォはどこで、自分たちは今どこにいるのかが気がかりになった。何度もモスクワ川を横切り、アルチョムは怪訝そうに運転手を見つめた。時間だけは経っており、とっくにビールは2本とも空になり、アルチョムの足元でカラカラと音を立てた。運転手はそろそろ助手席を空にすべきかと思ったのか、間もなくチェルタノヴォに到着した。スピードメーターの数字は、出発時よりも115多かった。

 アルチョムは冷たい手で、黙って1150ルーブルを差し出した。この際彼は誤って100ルーブル余分に運転手の手に乗せてしまったのだが、驚いたことに、運転手はそれを指摘することなく、スッと自分の懐にしまった。アルチョムは2本のウォッカのうち1本を袋から取り出し、運転手に「どうぞ」と渡した。すると運転手は当然のようにウォッカを受け取った。その時はまだアルチョムは考えることができなったが、後でこう考えた。「あの運転手、あれで自分は人間だと思っているのか?」車から出ると、運転手はトランクから彼の荷物を降ろしてくれた。彼はウォッカの入った袋を地面に置き、左手で革ジャンの胸ぐらを掴み、白いスニーカーを履いた両足が宙に浮くまで運転手を持ち上げた。そして張り詰めた様子で言った。
 「俺はな、兄ちゃん、生粋のモスクワっ子なんだよ。ここで生まれて、モスクワ国立大学を出たんだ。そんな俺をよく連れ回してくれたものだ。」
 アルチョムは30歳ばかりの運転手のおでこに拳骨を食らわせた。

 運転手をタクシーのボンネットに放り投げ、アルチョムは姉の家の前で待った。そこには黒い鉄のドアがそびえ立っており、誰か住民が出入りするときに彼も入ろうと思ったのである。背後で何やら運転手の声がしたが、すぐに聞こえなくなった。彼はスーツケースに腰かけ、煙草を吸い始めた。何分かすると、あの運転手が灰色の制服を着た警察官2人と共に駆けてきた。アルチョムは大人しく彼らに従ったところ、近くの建物に連れていかれ、そこでスーツケース、パスポート、お金を取り上げられた。アルチョムは解放してもらえず、忘れられてしまったかのようだった。この愛想のよくない町ではもう日も暮れかけていて、何百万ワットものイルミネーションが点灯し始めていた。制服を着た見回りの者が常に煙草をくわえていたため、アルチョムは部屋の中で椅子に灰を落としながら煙草を吸った。もちろん、室内は禁煙であったため制服の男と口論になり、男が電話ボックスに手を伸ばしたところ、アルチョムは本日二発目の拳骨を男の額に食らわせた。その音が建物中に響き渡り、アルチョムは窓のない部屋に連れていかれた。そこではパンツ一丁になるまで脱がされ、両手を肘のところで縛られ、めいっぱい鋤骨や腹を殴られた。そして切れ味の悪いはさみで髪を切り刻まれた。

 アルチョムは夜明けの公園に、スーツケースと服と共に投げ出された。4400ドルあったお金はいくらか盗まれたが、幸いなことに、1万ルーブルほど残っていたため、島に帰ることができた。その何時間か後には、彼は飛行機の座席に座っていた。モスクワ、クラスノヤルスク、ハバロフスク、そしてユジノサハリンスクへと飛ぶのだ。

 私は笑わずにはいられなかった。まず、アルチョムに起こったことは、そうなって当然の結果であったからだ。飛行機を降りて、首都に足を踏み入れさせてもらえただけでも大したものである。次に、これは歓喜の笑いだ。彼が生きて帰って来てくれたことは、喜び以外の何でもない。あの連中には感謝せねばならない。君が帰路に就く1万ルーブルと、今どき流行のヘアスタイルをプレゼントしてくれたんだから。

 島には冬がやってきた。アルチョムは準備を万端にして、2日間の狩りに出ている。おそらく私はもうこの人に会うことはない。今度は私がこの島を出て、金と物欲にまみれた地獄に戻る番だ。私もあそこで生まれ、かつては生活していたが、数年前に逃げるようにして世界の果てにやってきたのだ。我々はあの地獄を大陸と呼ぶ。やっと友人同士になれたのに、お隣とのお別れは寂しい。それから彼が少しうらやましい。世界中を旅した人なら私の言うことが分かるだろう。我々が、慣れ親しんだ人を残してある場所から出ていかなくてはならなくなったとき、その場所よりも希望に満ちていて、快適な場所は他に存在しないように感じるものなのだ。

(画像はすべて拙写、2014年 9月)

 クナシリ島に住んでいた著者クズネツォフ‐トゥリャーニン氏の横顔はこちらから。


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