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L.トルストイ『人間は何に生かされているか』(1882)概要

 L.トルストイ(1828-1910)によって改作され、1882年に発表されたロシア民話『人間は何に生かされているか』 (ロシア語原題 «Чем люди живы»)は、聖書の教えに基づいた説話である。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』により世界的名声を上げた後のトルストイは、上流階級に限らず、多くの民衆が聖書の教え「人間は愛に生かされる」を理解することを目的とし、本作品のような原始キリスト教的説話を書いた。

 本作品の構成は以下の通り12章に分かれている。神に逆らった「天使」が罰として人間の世界に送られ、「人間に関する3つの問い」の答えを探す。1つ目の問いの答えが第1~4章、2つ目の問いの答えが第5~7章、3つ目の問いの答えが第8,9章で見つかる。しかし、謎の中心人物ミハイラが「天使」であること、彼がなぜ地上に降りてきて、何を学んだのかは、第10章からミハイラが独白を始めるまで読者に知らされない。

◆序章(愛と神、生死について聖書引用。)

「我々は兄弟を愛することで生を受け、兄弟を愛さぬ者には死が待ち受けている。(ヨハネ 14章)」
「皆さん!言葉や口先だけで愛すのではなく、本質で愛し、行動で愛を示しましょう。(ヨハネ 3章)」
「愛さぬ者は神を知らない者である、なぜなら神とは愛であるから。(ヨハネ 4章)」など。

◆第1章(貧しいセミョーンと裸のミハイラの出会い①)

 季節は晩秋。セミョーン(英語名:シモン) は、赤貧の靴職人。冬に備えて羊の革で外套を作らなくてはならない。しかしお金は足りず、貸してくれる人もいない。あきらめて手ぶらで帰宅する道すがら、酒で寒さを紛らわし、礼拝堂にも立ち寄る。夜になろうという時に、裸で横たわる男を見つける。セミョーンは一度、彼を見なかったことにして通り過ぎた。しかし、人が死にかけているのに通り過ぎるのは良くないと思い直し、Uターンしてその男に近づいた。

◆第2章(貧しいセミョーンと裸のミハイラの出会い②)

 その男は寒さで凍え、おびえていた。セミョーンは自分の服を脱ぎ、売ってお金にしようとしていた靴をその男に身につけさせた。その男の素性を尋ねたが、よく分からない。「誰に嫌われて追い出されたのでもなく、ただ天罰が下った」と言うのみだ。セミョーンはその男を家まで連れて帰ることにした。

◆第3章(妻マトリョーナとの口論)

 家では妻のマトリョーナ が、最後のパンを今食べるべきか、明日にとっておくべきか迷いながら夫の帰りを待っていた。縫物をしながら、夫が悪い人に騙されていないかを気に掛けていた。夫が帰ってくると、妻は激怒した。羊の皮を手に入れず、酒場で寄り道をし、さらには見知らぬ男を連れ帰ってきたためだ。セミョーンは男をかくまうように主張し、妻はそんな余裕はないと言う。夫婦の口論が続く。

◆第4章(最初の笑顔 ― 人間には何があるか)

 口論の中で、セミョーンが問う。「Матрена, али в тебе бога нет?! ―マトリョーナ、君の中に神はいないのか?」妻はこれを聞き、はっとして考え直した。妻は見知らぬ男になけなしの食べ物をもてなし、寝床を準備してやった。すると男はまなざしを上げてマトリョーナを見つめ、微笑みかけた。最後のパンがなくなってしまったが、男の笑顔はマトリョーナの心に深く刻まれた。「我々はこの男にパンや服を与えるのに、我々のことは誰も助けてくれないとはどういうことか?」マトリョーナは小言を垂れ、セミョーンは少し考えた。「そのうち分かるさ。」そう言って彼は眠りに落ちた。

◆第5章(真面目によく働くミハイラ)

 その男の名はミハイラといった。彼はセミョーンの元に住まい、食事をいただく対価として労働を提供した。彼は素早く仕事を覚え、黙々と働いた。最初の日の夕食以来笑顔は見せず、外出もせず、あまり食べなかった。

◆第6章(地主の訪問、2度目の笑顔 ― 人間には何が与えられていないか)

 ミハイラがやって来て1年後、冬。ミハイラがせっせと作る靴は丈夫で、評判が立った。靴職人の仕事は大繁盛。そこに、立派な身なりをした金持ちの地主が、高価な生地を持って訪ねて来た。地主は高圧的な態度で長椅子に座り込んだ。「1年履いてもくたびれないような、頑丈な長靴を作れ。10ルーブルやろう。」ミハイラはこれを引き受け、天井を見上げて久々に笑顔になった。地主は職人の家を出るにあたり、横木で頭を打った。

◆第7章(地主の死とミハイラの予知能力)

 ミハイラは預かった高級な生地で長靴を作らなかった。代わりに部屋靴を縫い上げ、セミョーンがこれを見つけ慌てた。そこに地主の手伝い人がやって来た。「地主はお宅を去った後、家にもたどり着けず死んでしまいました。死者に履かせる部屋靴を作ってください。」ミハイラは準備されていた部屋靴を手渡し、手伝い人に別れを告げた。

◆第8章(双子の娘の訪問、ミハイラの異変)

 ミハイラがセミョーンの元にやって来て6年目、皆特に変わりのない暮らしをしていた。そこに、小さな双子の娘を連れた女性が訪ねてきた。女性は娘たちのために、春用の革靴を注文した。ミハイラは奇妙なことに、作業を取りやめ、双子の娘たちから目を離さなかった。この双子は、女性の実の子ではなかった。女性マリアは言った。「赤の他人ではありますが、私にとって双子の養子は神からの贈り物であり、愛さずにはいられない存在なのです。」

◆第9章(女性の話と3度目の笑顔 ― 人間は何に生かされているか)

 マリアの話によると、6年前、ある火曜日に双子の父親が林で独り仕事をしている最中に亡くなった。母親も金曜日に独り飢えながら出産し、そのまま亡くなった。残った双子の女の子たちは、近所の中で唯一子持ちであった女性マリアのもとに引き取られた。マリアは自分の息子を含め、3人の子を母乳で育て上げた。その後自分の息子は2歳で死んでしまい、新しく子供を授かることもなかった。マトリョーナが言った。「ことわざにあるように、両親がいなくとも生きてはいけるが、神がいなければ生きてはいけない。(без отца, матери проживут, а без бога не проживут. )」ミハイラは両手を膝に置いて座り、上を向いて微笑んでいた。

◆第10章(ミハイラが天使であること、人間になるに至った経緯を告白。)

 ミハイラは立ち上がって言った。
「ご主人様、お許しください。神様には許していただけましたから。」
 セミョーンは尋ねた。
「1つだけ教えてくれ、私が家に連れ帰った日、君は暗かった。しかし家内が夕飯を出したら笑顔になって、明るくなった。それから、地主が長靴を注文したらまた笑顔を見せて、さらに明るくなった。そして今、女性が娘たちを連れてきて君はまた笑顔を見せ、光を放つまでに明るくなった。その光は何だ?なぜ3度笑ったのだ?」
 ミハイラの答えはこうだ。
「神のお許しが出たため光っているのです。そして、私が3度笑ったのは、その都度神の課題の答えを知ったからです。私は天使でした。しかし、神の言うことに逆らったため処罰されました。私はあの双子の、実の母親の魂を抜くよう命令を受けたのですが、あの母親は『子供を残して死ねない』と懇願するもんですから。私は母親の両手に娘たちを抱かせ、神のもとへ昇って事情を説明しました。すると神は、母親から魂を抜くよう言い、次の3つの課題を私に与えました。人間には何があるか、人間には何が与えられていないか、人間は何に生かされているか。分かったら天に帰って来なさい、と。そして私は地上に引き戻されたのです。」

◆第11章(天使ミハイラの目線でこれまでの物語をなぞりなおす。)

 セミョーンとマトリョーナは、これまで服を着せ、食べ物を与えてきたミハイラの正体を知ると、恐怖と喜びで泣き始めた。ミハイラは夫婦が自分を見捨てようとした時、そこに死の顔、死の口などを見ていたことを告白した。死が夫婦をかすめていたが、神の存在を思い出し、ミハイラを助けることによって生を呼び戻したのである。そしてミハイラは、人間には愛があるということを理解し、初めて笑った。
 それから夫婦と1年過ごしたところに、1年履ける長靴の注文が来た。ミハイラは地主の背後に死神を見て、太陽が沈む前に地主が死ぬことを理解したが、自分の他には誰も気が付かなかった。そして、人間は自分の体に何が必要か分かる力を持たないということを理解し、2度目に笑った。
 6年目、自分が魂を抜いた母親の娘たちがどうなったかを知って、ミハイラは考えた。「母親は子供のために生きたいと言ったが、赤の他人の女性が子供を育て上げたじゃないか。」彼はその女性の中に生きた神を見て、人間が何に生かされているかを理解した。そして神の赦しを得ると同時に、3度目に笑った。

◆第12章(人間は何に生かされているかの回答、天使ミハイラの帰還)

 天使ミハイラは裸になり、光に包まれ姿が見えなくなった。彼は天から語り掛けるように言った。「人間は皆、何か気にかかる事があるから生かされているのではない。そう思っているのは人間だけで、実際はただ愛のみによって生かされるのだ。子供たちが生き延びるために、自分の存在が必要であるかどうかは、あの母親には分からなかった。金持ちの地主が自分に必要な靴を見極められなかったことと同じだ。人間は皆、自分の身に何が必要なのかを知ることができない。私は人間になった時、初めて飢えと寒さを経験し、どうすればいいのか分からなかった。私は通行人とその妻に愛があったことによって、人間として生かされた。孤児が生かされたのも、赤の他人の女性の愛のおかげだ。自分で自分のことを考えるから生きていられるのではなく、人々の間に愛があるから生きていられるのだ。神が人間に生を与え、人間は神が望むから生きていることは知っていたが、さらに理解が深まった。神は、人間が互いに離れて生きるのではなく、互いに寄り添って生きることを望む。愛の中に生きる者は、神の中に生きる者であり、その者の中には神がいる。なぜなら神とは愛であるからだ。」天使は讃美歌を歌い始め、その声によって木造の家が震えた。天井が開け、地から天に向かって光の筋が立ち上がり、夫婦と子供たちは地面に投げ出された。天使の背中には羽が生え、天に昇って行った。セミョーンが目を覚ますと家の中は普段通りで、家族だけがそこにいた。

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 本作品の邦訳は『人は何で生きるか』(北御門 二郎 訳、2006年)、英訳は“What Men Live By”などが出版されている。本記事では、造格のчем(手段)と、神(愛)によって生きている=神(愛)に生かされているという意味でのживыが解釈されやすいよう、『人間は何に生かされているか』と訳した。(露語原文

 読者は題名の「人間は何に生かされているか」という問いの答えを探しながら読むことになる。例えば、第4章でマトリョーナがミハイラに夕食を出したところ、パンが底をついた。

「パンなくして、明日はどのようにして生きていくのか」

と絶望していると、夫が言う。

「Живы будем, сыты будем.(おなかをすかせて生きていくのさ。)」

 この会話シーンでは、人間はパンに生かされているのではないことが読みとられる。この小説の主題「愛が人間を生かす」ことを強調するため、第11章でミハイラは次のように振り返る。

「隣人であるオレを愛すことを辞めようとしたとき、そういえば君ら夫婦には死相が浮かんでいたっけな~」

 このミハイラという天使は極めて曖昧な存在である。彼は飢えや寒さには打ち勝てずに夫婦に助けられる、寡黙で真面目に働くという人間のような側面を持ちながらも、仕事を瞬速で覚える、死神や死相を見るという天使の技能も継続的に兼ね備えており、なんとも都合がいい。第12章で彼は「人間が生かされることの大前提として、神がその人間の生を望むこと」と述べる。この「神」という存在が「愛」そのものであるから、「愛が人間を生かしている」と無理やり結論づけ、説話が終わる。強欲な地主はともかく、双子の両親やマリアの一人息子がなぜ亡くなったのかについては、突っ込んで考えたところで仕方がない。

 実際には矛盾を孕みながらも、説話が結論付けられ、「愛が人間を生かす」の考えが多くの人々に受け入れられてきた。これには序章の聖書の引用が物語の方向性/テーマを位置付けていることが一役かっている。アレキサンドル・クシニール監督による当作品の映画『Чем люди живы』(2009)においては、物語がすべて終了した後、エピローグにて天使がこれらの引用を読み上げる。

 また、説話的な3つの出来事が起きた後、第10章よりミハイラによって出来事が再度俯瞰され、一気に謎解きが行われるという構造も、読者が「なるほどそうだったのか」と納得してしまう所以である。

 トルストイ自身も2歳で母親を、9歳で父親をなくし、その後育ててくれた祖母もなくなり、遠く故郷を離れて叔母に育てられている。クリミア戦争を生き抜き、19世紀ロシアで農村が退廃する中、「人間を生かすもの」を常に考えてきたのかもしれない。彼は50歳になったあたりから、生きることの無意味さに苦しめられた。その末に農村の素朴な生活、原始キリスト教に回帰し、本作品を含む一連の説話を晩年まで書いた。「人間の中に神がいる」から「愛すことができる」などと言われても、聖書に親しみのない者には実感がわかない。だが要は寄り添って生きていきましょう、そして自分を愛し生かしてくれる身近な人に感謝し、行動にうつしましょう、ということだ。ガンジーとトルストイが面会したとき、非暴力の考え方で意気投合したというが、生死を前にして人間が守るべき教えは宗教を超えて共通しているのかもしれない。

表紙絵 アリスタルフ・レントゥーロフ (1915)

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