見出し画像

短編『アルセーニエフの歯』【後編】

前編はこちら

 夜は濃くなり、就寝時間となった。アルカーシャは1番最後に自分の寝床に入っていった。もう大多数の仲間は眠っており、彼がやってきた音を聞かなかった。しかし夜中には、敏感な仲間たちは目を覚まし始めた。アルカーシャはベッドの上で右へ左へと寝返りを打ち、時々大声で悲しげに唸った。誰かが頭を上げて、彼に好ましくない言葉をかけると、彼はしばらく黙った。しかしそれからまた、まるで悪夢にうなされるかのようにうわごとを言い、動き始めた。翌朝我々は、奇妙な状態のアルカーシャを見つけた。彼は白目をむき、寝床に交差して横になり、赤毛の両足を壁に突き上げていた。彼の腕は胸に布団を押し付け、頭はだらんと寝床から垂れ下がった。彼の苦しむ瞳の計り知れない奥底を見ながら、我々は自分たちの自身の目にも涙が湧き上がるのを感じた。アルカーシャの口が開き、かすれた唸り声をもって2つの短いフレーズが空間に飛び出した。

「ああ、歯が。無理だよ…ああ、歯が…無理だ…」

団長は、何事かと見て取ると、唾を吐いた。

「知るかよ!女みたいに泣きやがって。」しかし誰かが割って入った。

「いやいや、俺だって歯が痛けりゃ壁を這うだろうよ。」団長は答えた。

「うるせえな。もううんざりだ。」

漁団は仕事をせねばならず、コックと痛みに苦しむアルカーシャ以外の我々は海へと出て行き、5時間後にようやく戻って来た。かなりの量のカラフトマスの大群が網にかかったからである。我々は魚の選別のためびしょ濡れで疲れていた。

 アルカーシャの状態には、何も変化がなかった。「こいつの調子は?」という団長の質問に対し、コックは首を横に振り、望みがないことを示して唇を曲げた。リョーヴァは寝床の端に腰掛け、友に寄り添った。

「痛いか?」

「ああ、痛い、リョーヴァ… もうダメだ…」彼はかすれ声を出した。最終的には汗びっしょりになり、茫然自失して友人を見た。「リョーヴァ、こいつを抜いてくれ… 我慢できん… 抜いてくれ…」

リョーヴァは決断して立ち上がり、暖炉の後ろの道具箱の方へ行き、そこで何かゴソゴソとして、錆びたペンチを持って来た。彼は動揺し始めた団長の方を向いて言った。

「やるぞ。」

「俺には関係ねえよ、抜けよ、」団長は窓のほうを向いて答えたが、動揺は高まった。団長は、団員が自分の持ち物の中からほしがっているものが分かったが、頑としてその場を動かなかった。我々は団長を取り囲んだ。

「お前も残忍な野郎だな、団長。」我々のうち1人が言った。「まさか、生きた人間から麻酔なしで歯を抜いてもいいと思っているのか?」

「うるせえ、構うな」団長は答えた。

「大事な時なんだよ、」我々は譲らなかった。

「仕方ねえな…」団長はようやく手を振り、機嫌悪そうに自分の寝床の宝箱のもとへ行って、錠を外し始めた。

 ガラスは魅惑的に輝き、液体が流れ出し、お馴染みの香りがめまいを起こした。アルコールの入ったカットグラスはバラックを横切って、不格好に横たわる人のもとへと跳ねていった。コップは慎重に、手から手へと渡された。透明な夢に満たされたこの容器に、皆が触れたがった。その他気配りが良く、感受性が高くて気を遣う者たちの腕が、アルカーシャに麻酔を飲ませようと、熱い湯気の中で蒸されて柔らかくなったパンを切り、柄杓に入った冷たい水を持ってきた。また別の人の腕は慎重に病人の頭を持ち上げた。それはまるで頭ではなく、精密な化学実験用の、柔らかくて脆いフラスコのようだった。その中には今にも実験溶液が注がれんとしている。グラスは小さな飛行船のように滑らかに飛んで、荒く震えるアルカーシャの手の中に現れた。干からびたぎこちない触角が何滴か麻酔を落とすと、大気中では重々しい、喪失のため息が口々に起こった。

アルカーシャは黙り、意識を集中させた。我々も彼を見ながらじっと立ち尽くし、最終的に飢え乾きし彼の唇がグラスの中へ、アルコールの中へと流れていき、アルコールは唇の中に流れていった。彼はいわゆる一気飲みでゴクンと、グラス一杯の96度ストレートのアルコールを飲んだ。彼は飲み干し、水の入った柄杓を押しのけ、パンを一切れ手に取った。 我々は5分ほど彼を見つめ、壁越しに絶えることのないさざ波の音を無意識に聴いた。また我々は、アルカーシャのうつろな瞳がが少しずつ空間の中に焦点を見つけ、落ち着きつつあるのを見た。リョーヴァは彼の上に身を屈めた。

「どうだ?」

「大丈夫だ。」アルカーシャは震える声で言った。

「ビビるなよ、ちゃんとやってやるから。それに俺の死んだ爺ちゃんは、クナシリに送られた人たちの中で最初の歯医者さんだったんだぜ。壁の方を向いて長椅子に腰かけな。どの歯だよ?」

「こいつだ、」長椅子に掛けなおし、壁のほうにふんぞり返って、アルカーシャは自分の口の奥の方を指で示した。

神経の弱い人たちはそっぽを向いた。リョーヴァは腰掛け、ペンチが歯を慎重に叩く音が聞こえた。最終的に我々は不快な軋みを聞いた。まるで錆びた掛け金が軋み、何かがミシミシといって、何かの糸が切れる音がした。我々は手術が終わったということがすぐには分からなかった。アルカーシャは手術中、唸り声一つ上げなかったのだ。リョーヴァは自分の鼻の前にペンチを持ってきて、抜いた歯を見つめた。彼は驚きと当惑を表情に表し、唖然とした。彼はもごもごと言った。

「アルカーシャ、俺、違う歯を抜いちゃったよ …」

「いいや、」小柄なアルカーシャは長椅子から返答した。「それだよ。」

「いたって健康な歯じゃないか!」

我々はリョーヴァを取り囲んだ。根元が二つに分かれた歯は、血痕がついており、傷はまったくなく、生まれたての真珠のように輝いた。リラックスして壁にもたれるアルカーシャの方を、皆が向いた。彼は血の塊を飲み込み、顔がアルコールで深紅になり、優しい笑顔を見せた。これを見て我々一人一人の心の中に、呼応する暖かさと喜びが生まれた。

「アルカーシャ、どういうこったい…健全な歯じゃないか。」

「だから何なんだよ?」彼はそう言って瞳を閉じた。彼にとってはもうどうでもよく、我々の話も、笑い声も、意地悪なジョークも聞かず、大いなる夢の国へと飛び立った。そこでは雲が桃色に染まり、いつもジャスミンの香りがしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?