わたしは、さえちゃんママの名前を知らない

わたしはさえちゃんママの名前を知らない。そう、そうなんだ。

「自分のことを、産まれてきた子の前でなんと自称するか」は、わりと大きな問題だった。

区役所や保健センター、今まで名前で呼んでいた人までもが「あのね、お母さん」と切り出すようになった。別に名前で呼んでよ!と懇願するわけではないけれど(時には自己申請することもあった)、今になっては名前で呼んでくれていたころが懐かしいとさえ思う。

保育園に入所して、同じ月齢クラスのママ友ができた。みんなはわたしをひかりちゃんママと呼ぶ。保育士さんは「ママ来たよ~」と言う。不思議なことに、そこでは特に違和感がなかった。わたしはひかりちゃんママで間違いなかった。

よく話すのは、さえちゃんママだった。LINEグループもあるんだけど、わたしはさえちゃんママの下の名前を知らない。たぶんお互いにそうだ。

試しに、ひかりさんに話しかけるときに「お母さんね」とか「今日ママさ」とか、小さな声で試してみる。気恥ずかしい。なんだこれは…意識するからか、なんだかとても連続して大きな声では使えない…なんなんですかこれ。

わたしは産まれてきた人のことを「さんづけ」で呼んでいる。保育園に行って「ひーちゃん」と呼ばれていることに驚いた。そうやって愛称で呼ぶんだ…!友達の幾人かは「ひかちゃん」と呼ぶ。すごい。みんなニックネームの選択肢が色々ある。

わたしは何を隠そう、あつこ、だ。多くの人はあっちゃんと呼んだ。特になんでもない話なんだけど、考えたことも無いことを色んな人が考えている。

つまり、自分の考えていることなんて、なんてちっぽけな事なんだろうと気付いたってことだ。そのうち、わたしもなんにも気にせず「お母さんは」なんて言っているんだろうな、なんてふと思った。


最後に思い出したことがある。母親がわたしの小さなころのアルバムに「あつたろう/動物園にて」とか「あったん、長崎にて」や「あつまる・1歳のお祝い」とか、謎の手書きの小見出しを書いていたんだった。あの見出し、初めて見た時は「なんだこれ?」と流していたんだけど、つまりこういうことか。いろんなニックネームが存在して、思いついたり、人が名付けたり、ノリで呼んでみたり。紆余曲折したり、自称も悩んだりしたってことなのかもしれない。

時代は変わる。写真の中に映る「子の姿」は、洋服や風景などその時代を映し出す。だけど言葉はそう大して変わらない。親子でとるコミュニケーションもある一定は変わらない。こんな本当にとりとめのない話だけど、書きたくなって止められないから記録する。

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