わたしにできることなんてほとんどない

一つ前の投稿にも書いたけど、わたしはシェアハウスには暮らしていない。この先も当分その予定はない。

さっき離乳食の事を書いたけれど、わたしは静かな場所が好きだ。食事も落ち着いた場所で、こじんまりとりたい。離乳食となるとなおさらだ。気が散れば散るほど集中できない。以前シェアハウスで離乳食を食べる子を見て、そう思った。そのママの人は、程なくしてシェアハウスを出た。

大人の都合で子どもを振り回すのは簡単だ。わたしは本気の多動なので、環境設定に関しては出産してからはかなり気を付けるようにしているつもりだ。それでもまだ足りないと思う。折り合いをつけるのは難しい。

ひかりさんを出産して、1年が過ぎようとしている。意外とゆっくりと、濃い時間を味わいながらの1年だった。これも全て、周りの人のおかげだ。近所の人を含めて、親族や友人・知人の力添えあってのこと。とても充実した1年だったし、いろんなできごとがあったにしては全然余裕もあるし、まだまだどんどん産んで育てたいとも考えている。

1年経って気付いたことがいくつかある。それは「わたしにできることなんてとても限られている」ということ。食事を作って、風呂に入れ、衛生面を保って、命の危険に晒されないようにする。親だからなんて言ったって、できることなんて所詮たかが知れていると思った。

年の近い、幼い人を見た時に、ひかりさんは声をあげる。ア!とか、オ!とか。向こうもそれに応じれば、彼らは自然と遊び始める。その光景を見ていると、「いつも相手をしているのはわたしたち」ではなくて、大人がいつも相手をして構ってもらっているようなものだなと感心する。

なんでもやってあげたい、してやれると思うのは、「親」という存在としてのおごりだとおもった。教育やしつけなんていうのも、きっと自然と周囲とのかかわりの中で学んでくるのだろうなと思った。偉ぶることはしたくない。

せめて自分は、いい姿勢でいようと思う。きもちよく挨拶をして、近所の人やお店の人と他愛もない会話を重ねて、ありがとうを言おう。それぐらいを今のところ、心に決めている。

もうひとつ大事なことに気づいた。「問題には、必ず終わりがある」。出産する前は終わりのない問題にただ悩み「なぜ生きているのか」「どう生きたらいいのか」なんて一晩中悩んだりしたけど、今のひかりさんを見ていると「泣いているけど、必ず泣き止む」「なかなか寝ないけど、必ず眠る」ということはわかっている。つまり、問題には必ず終わりがあるのだ。

そんな簡単なことにも気づかなかった30年間、振り返ってみるとずいぶん無駄なことで頭を悩ませてきたように思う。

これから何が起こるだろう?不安は全くない。だって、こんなにも豊かな国に生まれて、素晴らしい人たちとの出会いがあるから。あらゆる人への奉仕を忘れず、感謝を続ければ、きっとお導きがある。いつもありがとう。

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