わたしの旧家族を紹介します

わたしには父親、母親、弟がいます。
両親はわたしが若い頃に離婚していて、母親は現在では再婚しています。
これが生まれ育った家族というものです。
いわゆる核家族で育ちました。

父の話をします。
長崎の五島列島・福江島で介護をしながら、畑で働いています。
たまに野菜を送ってくれたり、親父ギャグのようなものが行き過ぎて暗号のようなメールを送ってきてくれたりします。
使っている携帯はガラケーですが、わたしが数年前に贈った格安SIM入りのタブレットでLINEやFacebookを楽しんでいます。

わたしと父は出産前まではとても仲良く、母との離婚後に同居をした時期もあり、長屋に一緒に住んでいたこともありました。母と関係が悪かった時は、母より父がよくなりとても仲良くやっていました。祖父母の介護のために長崎に戻った父は、とても家族思いのいい父です。

このあいだのNHKのドキュメンタリーではディレクターの方に「父親の暴力」にスポットライトを当てるのはやめてくれと事前に散々お願いしたにもかかわらず、何度も放送の中でそういう風に取り扱われたため大変傷ついたようです。

そのことについてわたしは父親に随分話をしてきました。ただ長年「俺が子どもに暴力をふるうはずがない」と言い張って、そんなはずないという態度で真剣には取り合ってもらえもらえませんでした。

第一子の産前産後は、父の子育てに対する態度などで怒りもありほぼ音信不通状態、連絡も全くとらなくなり、初めての絶縁状態になっていました。更に今回のドキュメンタリーで親族は大荒れです。

ただ今回、こうやってメディアを介して露出されたことにより、良くも悪くもこの話に焦点を当てて話さざるを得なくなりました。

父は離婚している母にも事実確認を行い、暴力があったことは間違いないと理解することになり、父からは「本当にないと思っていたけど、あったんだ。詫びてどうにかなる話ではないが謝らせて欲しい」と言われてわたしはストンと納得でき、お互い泣きながら電話で話しました。

父は子ども大好き、家族想いのいい父です。たくさん旅行にも連れて行ってくれたし、一生懸命働く姿も、仕事で苦悩を抱える姿も見てきました。もちろんそれはいま家族写真を見直したって伝わってくるし、頭の中にたっくさん思い出のカケラがあるのです。

その全てがいい思い出だったのに、いろんな謎のスイッチが同時に押されたことによって、わたしの記憶は大きく塗り替えられてしまい、カラーだったものがモノクロになってしまうような、そんな瞬間が確かにあったのです。

人は過ちを犯します。人に八つ当たりしたり、攻撃したり、愛することもあれば、憎悪することもある。愛というものを履き違えることだってあるし、今だって履き違えてないとは言い切れません。

今まで多くの過ちを犯してきたし、これからも犯すのだろうなという予測があります。妊娠出産を経たことで、自分ではコントロールできないなにかに遭遇したというのも事実としてあります。ただよくある話ですが、それによって得た「親の苦労が想像できる」というターンがあったことも事実です。

父に「今回の一連の騒動を文章にしたい」と相談したところ「いろんな人がそういうことに悩んでいるだろうから、誰かの役に立つかもしれないね、大賛成だよ」と返答があったので早速言語化しているのですが、今は「いい奥さんにめぐり逢えて、素晴らしい子どもに恵まれ、かわいい孫に出逢えて幸せだよ」とメッセージが来ました。

わたしは、母と父がいたから産まれました。子の父親しょうちゃんも、彼の両親がいたから産まれました。だから、今、子たちはここに産まれました。こうやって生命は産まれて、死んで、また産まれていくのだなと単純に思います。

子の父親であるしょうちゃんに初めて出会って、この人いいなと手を見て思いました。ゴツゴツして節の大きくなった、力仕事の働き者の手でした。まるで父親とそっくりな手。美しいと思いました。

わたしの母の話をします。
母の母は、母が5歳の時に亡くなりました。「だからわたしはお母さんっていうても何してやったらいいんか、よくわからへんねん」と、母が呟いてたのを時々思い出します。

母はとても強い人です。パワフルで働き者。本当にエネルギッシュで、口も達者。「普通は…」という感覚を大事にする人だったので、わたしが不登校気味で学校に行きたくない時に「行かなきゃいけない」と言われたことはキツかったですね、はい。

こんなにキツいからわたしも疲れちゃうし、お父さんも大変、なんて思って、若い頃は不仲で距離を置いていたのだけど、産後の父とのやりとりでわたしは気づきます。
「母をあんな風にキツくしたのは、母を取り巻く環境なんだ」と。

わたしは個性・性格というのは個人の特性だと思っていたところがありました。だけどやはり、いろんな人に出会って学ぶ中で、その人がそのような性格や気風になるというのにはそれなりの背景と原因があることに気づきました。

母という存在に対する無言の圧力はとても強いものでした。有言の圧力ももちろんあります。生命への責任感もあり、母の人は強くならざるを得ないのでしょう。

もっとも、そのようにわかってはいても家族のこととなると理解に苦しむ、というようなところがあると思います。

わたしはこのような旧家族とのやり取りがあったからこそ、現家族とのことに挑戦できますし、楽しんで取り組むことができます。

諦めなくてよかった。

この粘り強い行動というのは、やはり友人の自殺が深く関係しています。人は突然死ぬ。明日話そうと思ったり、次会ったら話そうと思っていたことだって、伝えられなくなる日がいつかくる。その日は誰にもわからない。

だからこそ、わたしはいいことも嫌なこともできる限り全て伝えたいのです。できれば顔をあわせて話したいし、友人や家族は会って紹介したい。

そしてできることなら、多くの人とそれをやり続けたい。それは家族とだけやるものではなくて、この苦しみや悩み、感動や激励、これを抱えて存在し続けることを、ただただ賞賛し続けたいのです。

その人が産まれて、憎しみあって、愛したり、闘ったりしながら、解決に向かう。それにただ、立ち会い続けたいのです。

ある人の言葉で「紛争は財産だ」という言葉があります。そう、わたしたちにとって、もともと紛争というのは自分で解決できるものだったのです。そして、それは自分達で解決できたという自信になり、今度仲間のなかで紛争が起きた時にまた解決につなげることができるヒントにもなった。

それが時間が経つごとにコミュニティや司法、行政やさまざまな「関係者」によって専門家の仕事となってしまい、どんどんねじれて、こじれていって、本人たち同士で話し合いは無理、という風に第三者に渡されることになり、「当人同士では絶対に無理よ」「あなたには今できないからやるべきでない」と言われるようになり、そのほうがいいような気もしたりしているのです。

問題によっては無理かもしれません、誰かが入ることでよりよい解決がある場合もあります。ただわたしは「紛争は財産だ」この言葉を忘れてはいけないなと強く感じています。

とても長くなりましたが、旧家族の話はここでおしまいです。あ、旧家族という表現はわたしが勝手に作った表現で、わたしにはいま旧家族と現家族があるという認識です。これは第1子の出産の直後に気づいたことで、一般的な表現ではありません悪しからず。

あと弟のことに触れなかったのは、弟は現在わたしとの交流があまり深くなく、本人もあまりそれを希望していないということを知っているからです。家族というもの、親族というものに自身の重きを置いていないという感じだけはわかっていて、ただ無視する・縁を切るという態度でないことだけは確かです。ただ、わたしが彼のプライバシーにどこまで触れていいものかわからないのは確かです。

少なくともわたしは昔からずっと弟のファンであり、これからもそれは変わらず、遠くに住んでいるけれど家族として何か役に立てたらいいなとかそういうことぐらいしかありません。独立し、自律している人なので、あまりここでは深く触れません。昔から今も変わらず大好きな人です。

以上がわたしの旧家族の話です。

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