正しさを認められるか、エゴと解釈されるか、の差とは
所属する会社では、私にとって、かなりのプレッシャーがかかる。
トラブルが起きると、原因は徹底的に詳細まで追求される。次に同じトラブルが起きないようにするためだ。
それは、ある意味心を削り取られるようなプレッシャーとの闘いだ。
自分が正しいと思うことを追求するという事は、
その事象に対しての解釈を固定することになる。短期的にはそれが吉と出る場合もあり、結果が出ればその事は正しいと認められることになることが多い。
しかし、長期的に振り返ってみたとき、それが果たして正解だったのかな、と思う事もある。
正義というものは、ある意味では厄介なモノになる。間違いに対して、対象物が人になると、追求はされる側にとっては攻撃されているようなものだが、追求する側は、そのことに対して悪い思わない分、加減が無くなる事も多い。
共有という名の元で、大勢の前でその追求を受けているのを見ることは、決して心地の良いものではない。
最近、自分が正しいという前提は、正義を盾にしながら悪を他に見出し、人を間違った方向に導く事もある、という事を学んだ事があった。
そして、その事がトリガーとなって、その方とのご縁を切ることになった。
本当に川瀨さんのおっしゃる通りだと思う。
深く共感し、私の心に響いた。
(こんなに素敵な祝辞を聞ける東大生が羨ましい。もう1つ取り上げたいので、別記事で綴ろうと思う)
正しい事は、やはり良いことなのだとは思うが、その正しさは、謙虚さや誠実さ、人の尊厳を保つ、という土壌の上にあってこそ、正しさの追求は栄養になり、自らの血肉になるのだろう。
逆に、その土壌が豊かでなければ、本人が正しいと思っていることは、他人にはただのエゴに写ることがある、ということだ。
それは品格の差として現れてくるのだと思う。
人生は一生勉強なのだなぁ。
人は決して1人では生きていないこと、それぞれの意見は尊重される事を前提に、常に謙虚に感謝の気持ちを忘れないこと。違うからこそ引き立つ事を見つける努力を惜しまないこと。
精進します。
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