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耳の良さは信仰力に宿る

Men I Trustのレコードを買ったから流してあげるよと言われ、正座待機していると、耳に入ってきたのは超良質音。低い音がいつもより深いところから感じる。スマホから流していた時は気づけなかった音も聞こえるような気がするけど、ちょっと待て。私ってそんなに音楽がわかる人間?今ここで、目を開くと「はい残念。実は今流していたのはスマホからだよー」と嘲笑われるのでは?私は本当にスマホ音源とレコードを聞き分けられていたのだろうか、そういう気になっていただけではないのだろうか。

この思考に共感してくれる人に読んでほしい。私は、もっと自分のことを信じてみたい。


疑いが五感を鈍らせていく

私は自分の感じたことに自信がなく、オリガミキング微妙で辛かったなーと思っていても、友人に「俺は面白いと思ったよ」と言われると何か見逃していたのかもと考えを簡単に翻す。

ひどいのは自身の体調不良ですら信じられないということだ。お腹が痛くても、「学校に行きたくないから、腹痛で休むべく痛いと思い込んでるのではないか」と疑ってしまう。当の本人が痛いと感じていることなのに。体温計で測ったとき熱があるとホッとする、自信のない子供だった。

音楽の話が出来ない

音楽の話には何か正解があり、それを言葉で当てなければ失格のような心持ちでいた。だから話題が音楽に移ると、どうしても聞き手一択に甘んじてしまい、何にも影響を与えない返事しかできなかった。もっと人と好きな音楽について話し合ってみたいのに、何を言えばいいのかさっぱりわからないのだ。

レコードを聞かせてくれた知り合いを参考にしよう。彼は自信家で「みんな俺になりたいと思うよ」と言い放つくらいのナルシストである。(そこまで言っておいてナルシストかは否定しているが)
彼は感想を話すことに物怖じしない。「草の匂いがした」「夏っぽい音楽っちゅーのは青くささと静けさよ」などとポンポン言葉が出てくる。適当なこと言っているな〜笑と思う時もある。だが、それでいいのだ。彼自身が感じたことを言語化できているかは関係なく、伸び伸びと話す迷いのなさをバネに、言葉による音楽の風景を広げることに意味がある。

そう考えると、もう少し肩の力を抜いて話してもいいのではと思えるようになってきた。やっとのやっとではあるが。

瞑想するように音楽にゆだねる

先の自信家の彼は、曲を聴いて音楽に入り込んでいくと「あ、全てわかった」となる瞬間が時々あるという。音楽にも悟りがあったのかと驚いた。そんな境地に行ける彼がとても羨ましい。

では、悟りを開くためには何が必要だろうか。それは信仰力だ。

「高音のノイズが聞こえる」

「空を飛んでいるようなメロディーだ」

それらを気のせいだとしたら、感じた事は全て無になる。

自分がそう感じた、触れた、聴いたという体験を信じずに、何を積み重ねられるだろう。

聴こえた音が現実に存在するかはどうでもいい。音も匂いも目に見えない不確かなものだ。はっきりと立たせるには信じることが鍵となる。瞑想に近いかもしれない。音楽に身をうずめ、体を開き、聴こえる音・匂いを素直に受け入れよう。そこで感じたものは全て正しい。







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