「お母さん食堂」はジェンダーバイアスか
今朝、SNSを見てたらこんな記事が流れてきた(3月の記事だが、Facebookではたまにある)
恥ずかしながらお母さん食堂に対してこういった意見があることは初めて知った。また、ちょっとセンシティブな内容だが、思うことを書いてみる。
そもそも論争のきっかけになったお母さん食堂がジェンダーバイアスとする主張としては、
『お母さんが食事を作るのが当たり前』という意識を社会に植え付けてしまう」と感じた。
とのこと。
なんとなく言わんとしていることはわからんでもないが、平成一桁世代の自分でも「?」と思う内容ではある。
前提相違
お母さん食堂のコンセプトは、
お客さまにとって「一番身近で美味しくて安心できる食堂」を目指しています。 (2021/7/24現在).
とHPにある。
少し遡ると2017年の賞品紹介記事ではこう書いてある。
・小さい頃、お母さんが作ってくれたような自然で、温かみがあって、美味しいお惣菜であること
・いま仕事と子育ての両立で忙しいお母さん達が、子供や家族みんなに安心して食べさせられる食事であること
つまり、「お母さん食堂」→「お母さんが作ったご飯を提供する食堂」→「お母さんはご飯を提供する役割」
という流れには全くなっていないのだ。
違和感の正体はこの前提相違にあるのだと感じる。
仕事していると、言葉の一部を切り取ってしまったり、発想が飛躍してしまったりというのはままあるが、これもそれを感じる。
今回の発端は高校生とのことだが、年齢問わず、固定観念、というものは育ってきた環境・見てきたもので必ず生まれる。
それを発信することは悪いことではないとは思うが、一方で必ず反対意見も生じるはずだし、そこには議論が必要となってくる。
さらに言えば、「ジェンダー」は明らかなる男尊女卑など不正解はあっても正解のないものであるから「どちらかが正義」というスタンスを取って時点で話は停滞するだろう。
「ジェンダー」等を盾に言葉狩りにならないよう、一方で「子供の言うことだから」・「未成熟だから」とならないよう。今自分が発そうとしていることがそもそもバイアスに塗れたものだと言う意識を持ちたい
区別と差別
さて、最近よく聞くようになった「ジェンダー」の話とそれに類する「差別」の話。
包含してしまうと大きな話になってしまうが、それでも聞いてて思うのは、「区別」と「差別」は別物だと言うこと。
ジェンダーでいえば、どう頑張っても「男女差」は生じる。
それは体の問題だったり、感受性だったら、身体能力だったり。
「男の方が運動能力が優れている」は差別だが、「男と女の運動能力が異なる」は区別だし、それは必要で見つめるべき事実だ。それらを一緒くたにして「平等」と言う言葉で包むこと自体があるまじき暴論だろう。
コロナワクチンのワクチンパスポートの話も出ているが、シンプルに「打ったことによるリスク低減度」があるなら「区別するべき」だし、さほどないのであれば、区別する必要はない。
その事実をすっ飛ばして「それは差別だ」「受けないという権利もある」とだけ主張するのは話が違う。
受けないと言う権利は確かにあるが、それによって感染リスクが上がることが明示的にわかっているのであれば、それは行動に差異を設けて然るべき。
どうにもこの話は仮に自分に子供がいて、子供の友達が「手洗いうがいは個人の自由でしょ、私はしない」と言った時に「じゃあ家には上がるな」と思うことと何が違うのか、と思ってしまう。
オワリ
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