見出し画像

オチはないです

何語だったかで、"言葉がとめどなく出てくる状態"、たしか病気だったと思うんだけど、を表す単語があるらしいという話を旧Twitterで見かけた。(随分前のことだから、既に手元にはないけれど)言葉の洪水だとか下痢だとかそういう感じの意味を繋げた単語らしく、旧Twitterやnoteにいる人間はこの言葉の感じがわかる人、とても多いんじゃないかと思う。

約束というのがとても苦手で、こんなことを言うと各所から怒られが発生すると思うんだけど、約束を守るっていうことがあんまりにも最上位の徳みたいになり過ぎていて、息苦しいなあと思ったりしている。約束はもっと適度に守られなくていい。これまた元のツイートを見失ってしまったのだけれど、「外国と違って日本のいいところは電車が時間通りに来るところ」というありがち言説に対して、その時間にその場にいなければならない理由がより強固になるだけであって、これは豊かさでもなんでもないという趣旨の発言を見かけたときに、ぼくの立ち位置ってこれに近いなと思ったりもしたわけである。

これは国が滅びてほしいとかそういう破滅願望のようなものではなくて、むしろ、この国で暮らす人たちがより豊かになるにはというのを考えたら出てくる答えだと思っている。要は「しかたない」がもっと増えてほしいということだ。

潔癖症の人間について、いけ好かないなと思っている点は、潔癖である自分の方が衛生観念が上で、より正しい、進歩した価値観を持っているという考え方の人間が多いところだ。潔癖症の人間はきっと一緒に暮らすことのできる人がぼくより少ないし、東南アジアの旅行にもきっといっしょに行けないし、身の回りで許せることが少ないのだろうと思う。

許せることを多くしていくのはきっと人生のうちで大切な課題だろう。ぼくは今のところ許せないものごとが多すぎる。なんで世の人間はこんなものに惹きつけられるんだ、なんでこんなもの買ってしまうんだ、なんでこんな考え方を良しとしてしまうんだ、それで徒党を組んでぼくのような人間を迫害するんだ、なんて風に考え出すときりがなくて、もっと気楽に、肩の力を抜いて、いろんな考え方を丸ごと飲み込んで生きていたいのが本当のところ。

人の欲望をそれなりに真似して生きている自覚はあるんだけれど、真似をしていくなかで、"こういうものに欲を向かせるようにしよう"という売り手の狙いやたくらみに触れたと感じる瞬間がある。よく言われる話(みんな同じように感じているんでしょうね)は二重整形だとかなんだけど、二重の方がきれいに見えるという価値観を、あなたが素朴に持つのは結構でも、広告とかを使って"二重を綺麗だと思う価値観がスタンダード"だとバンバン喧伝して、みんながそういう風に思うと困るのだ。何が綺麗で何が醜いと感じるかはおまえが自分で決めろ。腹落ちしていない価値観を気づかない間に刷り込まれて、他人を抑圧する側に回るんじゃないよ。

ぼくが最終的に人生でやりたいことって土いじりに行きつくんじゃないかなと思っていて、多分、お金稼ぎでは満たされないんだと思う。土いじりじゃなくて音楽とかかもしれないし、そこの部分は何か別のものが入るかもしれないけれど、それはそれとしてお金がないと死んでしまうから、いかにして「お金稼ぎのための労働」と「人生の本筋である仕事」のバランスを取るか(取れるのか?)はずっと気にしている。ぼくが為すべき仕事ってなんなんだろうなというのはいまいち見えてこないけれど、あってほしいなと素朴に思っている。

子どもは好きだけど、子どもを産むという行動には頭で考える分には反対なので、おそらくぼくの人生は子どもがいない形で進むと思う。身近な親族はみんな子どもがいるので、子どもに自分の人生の意味、それこそ「仕事」を託せない生き方というのはどう成り立つんだろうかと気になる。

思っていること書いただけなので事実は一つもないです。オチもないです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?