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価値・観

お久しぶりです。そうたろうです。
今日は価値観の話をします。
価値観というと、価値観が合うとか合わないとか、いい価値観をしているとか、そういう用法が真っ先に思い浮かぶだろうと思います。
今回はその中身ではなく、価値というのが何者で、どこから来ていて、どう取り扱うべきだと考えているのかという「価値・観」と区切るような価値観の話がしたいんです。
だから、どちらかというと価値についてかもしれないです。価値の話をさせてください。


価値について、まず大前提として話したいのは、「価値がある」というのは、何か上位の目的に従属している、ということです。
価値は普段「価値がある」という用法で使われますが、それは「(〇〇にとって)価値がある」という、副詞の部分が省略されているということがわかると思います。価値というのは常に、誰にとって/どこから見ての価値なのかというのがくっついてくるというわけです。
これは友達が酔っ払ったときに話していた内容なので(そしてぼくが理解していないので)正しくない話を書くんですが、バタイユだったかがこういう「何かに隷属することでしか維持できない価値」みたいなものを嫌って、無価値/無意味みたいなものに突っ走っていったとかいう話をされたことがあって、あーなるほど、価値って価値だからあたかも目指すべきもののように感じるけれども、別に最上位のものじゃないんであればそんなに苦しむ必要がないっていことなのかー、などと思ったことが思い出されます。ニーチェの「神は死んだ」も、誰もが共通で疑うことなく信じている価値が失われたという話でしたよね。


ただ、現実では「〇〇にとって」の部分は省略されても通じるケースがたくさん存在しています。勝手に「我々にとって」と共通認識を持っていると決め打ちされちゃってるわけですね。当然共通じゃない場合もたくさんあると思うのですが、この共通する/しないの対象こそが、世にいう「価値観」ってやつだと思います。
なんで平然と「我々にとって」と傲慢な決め打ちが許されてしまうかと言えば、ぼくらが同じルール内で同じ立場を共有しているケースがたくさんあるからだと思います。仕事とか、恋愛とか、勉強とか……。みんな似たような達成したい目的を持っていて、そこから考えたら「価値がある/ない」になるんですよね。そうやって、似たようなケースで捉えることができるから、「価値のある仕事をしているね」とか「その努力に価値はないからやめた方がいい」とか言えるわけです。あくまでも、仕事(と、それを通じた関係者)にとっての価値です。


では、人の価値は?人そのものの価値をあれこれ言われること、遭遇すると思います。価値のない人生だった、生きていても無価値、お前に価値はない、まあなんでもいいですけど、価値のある人や価値のある人生って逆になんやねんって思うとさっきまでの話を持ってくることができるようになるわけです。誰にとっての価値なんですかという話です。
ぼくは、人そのものの価値について話すときに、仕事だとか恋愛だとかの市場の評価みたいなのを持ってくるのは完全に越権行為だと思っています。有能で引く手数多な人間は、会社にとっては価値があると思いますし、モテる人間は異性にとって価値があるんだと思います。で、それが人そのものの価値なんですか、ということを尋ねたいわけです。市場の評価だと、あくまでも、多くの他者にとって価値があるにすぎないのです。


自分の人生の受益者は自分自身です。自分自身にとって自分という存在に価値があるかないか、自分の立ち位置から判断してあげるべきだと思っています。他人にとって役立つかとか他人にとって欲しくなるかとかは一旦避けて、自分にとって何が価値になるのか考えてみると、中々面白いです。
ぼくが存在しているから、この世界に溢れている事象をぼくのものとして切り取って経験することができています。正直、ぼくはこれだけで十分嬉しいです。日光を浴びるとか、ご飯を食べるとか、顔を洗うとか、全部ぼく個人の経験です。自分という存在が、いかに自分にとって有用なものであるかということです。
ここまで低いレイヤーまで落とさなくとも、自分にとって、自分が存在するということが価値になりそうなのは伝わるかと思います。


確かに他人や社会から見ての自分の有用性だったり価値だったりみたいなのは存在しますが、自分の人生の一番の受益者は自分ですから、自分にとっての自分の価値というのが優位であるのに変わりはないはずです。
他人だったり社会だったりから、自分の人生の価値に干渉されそうになったら「いや、おれの価値はおれ自身で決めるが……」という顔をして切り返してあげるのが、よいと思います。


また気が向いたら書きます。


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