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語止しめ

執筆:ラボラトリオ研究員 鴨 奢摩他(かものしゃまた)

今回は、私が以前に勤めていた会社の設備について書いていきたいと思います。

昔、勤務していた電子楽器製造会社の技術研究所内に無響室という部屋がありました。

無響室とは「音がまったく響かない部屋」のことで音響機器などの試験を行うために使われる特殊な部屋です。分厚い扉と壁で仕切られて、外部の音を一切遮断する構造で、部屋の中は音を吸収する材料が前後左右の壁と天井、床の六面に全てに貼られているので、外部の音も聴こえず、音の反響も限りなくゼロに近い環境でした。

声を出しても、手を叩いても、音がすべてが吸収され、消えてしまうような空間です。

床の吸収材の上には、金網が貼られた構造で、そこに人間が立つので、中に入ると宙に浮かんでいるような感覚になります。

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研究所勤務だった頃には、この無響室によく入ったものでした。
仕事でもそれ以外でも。(仕事以外では、よく休憩に使いました。)

部屋の中は完全無音で音の反射が無いため実に奇妙な感覚になりました。
日常、如何に環境音に囲まれ反射音に慣れて、それを当たり前としているかが分かります。

分厚い扉を閉めて照明を消すと漆黒の闇と完全無音/無反響状態となり、耳鳴りが凄くなり、「サーッ」というホワイトノイズのような血流の音が聴こえたり、唾を飲み込む「ゴクッ」という音も聴こえたりします。

人間は、普通の環境では五感で、特に目と耳からかなりの情報を受け取って反応して方向や空間を把握しているんだな、ということを実感しました。

視覚、聴覚で感じる情報をほとんど遮断してしまうと、自分という存在が消えてしまいそうになって恐怖を感じる場合と、なんとも言えない安らぎに包まれる場合があるようです。

私は、初めて入って真っ暗になった瞬間は、やはり少し恐怖を感じたのですが、すぐに安らぎを感じるようになりました。

部屋自体はそんなに広くはなかったのですが、方向も距離感も掴めなくて漆黒の闇に包まれるためか、空間が果てしなく広がっているように感じられながらも不思議な安堵感があり、また同時に空中浮揚感があって、お尻がムズムズしていました。

まるで、小学校の初めての修学旅行前夜の寝床で興奮状態の時に経験したように。

それでも「眼識・耳識」とそれに反応する「意識」を鎮めるのに当時は、これ以上の環境はなかったのではないかと思います。

仕事はハードでしたが、ちょっと抜け出して無響室で10分ほど寛ぐ(同僚が息抜きにタバコ休憩に出るのと同じ感覚でしょうかね)あの時間は、自分にとって貴重な安らぎの時間でありながら、無用な情報を遮断することで頭の中の情報の滞りを解消していたように思います。その後の仕事の捗り方も、全然違いました。

当時は、使用頻度も少なくて自由に出入りできたので、もっともっと入っておけば良かったと思います。惜しいことをしたものです。

それから数年してからEMC*の業務に就きましたが、今度は音の無響室ではなく、電波無響室(電波暗室)電磁波遮蔽室(シールドルーム)の建設の責任者となり、その設備を整備しました。

その設備は、製品から出る電波(電磁波ノイズ)を測定するために、外部の電波を一切遮断するために金属で厳重に囲った部屋と、その部屋に電波を吸収して反射を無くす電波吸収体を前後左右の壁と天井に貼りつけた部屋でした。

*EMC: Electro-Magnetic Compatibility / 電磁波両立性のことで、電磁波を多く出さないことと電磁波の影響を受けないことを両立させること。

この電波無響室・電波遮蔽室では、20年近く計測業務を行なったりしましたが、先の無響室同様に、部屋に入る度にすっきりするというか、何か頭の中のごちゃごちゃしたものから解放されたような気分がしたものです。
(ごちゃごちゃしたものが電磁波によって引き起こされていたのかどうかは分かりませんが)

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以下に示したグラフは、屋外の電波環境を示したイメージ図ですが、通常私たちは、このような電波の飛びまくっている環境の中に暮らしている訳です。

電波暗室内では、これらの屋外の電波(外来ノイズと呼びます)の影響を受けずに、製品だけから出る電磁波を測定するために電波を遮蔽した環境を作り出しています。

図6

屋外の電波環境の例(電波暗室内では全て遮蔽される)

最初は、無響室で音と光の刺激を抑制することで解放され、その後、電磁波という目には見えないけれども確実に存在しているものを抑制することで解放されて、結果、いずれの場合も自分の心が鎮まっているということに気づきました。

いずれのケースも、音や電磁波を精緻に計測するために不要な環境ノイズのない環境を作り出している訳ですが、医療器の世界では、こんな大掛かりな設備を使わずに不要な環境ノイズを排除する装置も存在するようです。

例えば、健康診断や人間ドックで心電図や脳波を計測しますが、これは心臓や脳の中に電圧の発生源があるためにできることで、電圧が発生すれば導電性である人体に電流が流れ、電流が流れると当然、脳や心臓にも磁界が発生することが知られています。

そしてこの脳磁界心磁界を測定して、より精密に心臓や脳の検査をすることも行われています。

しかし、この脳磁界心磁界は、数pT〜数十pT(テスラ)という地球上の地磁気(25〜65μT)の100万分の1から10億分の1レベルという非常に微弱なレベルであるため、地磁気(外部磁気雑音)の影響を取り除いてやらないと計測ができないようなのです。

一度、計測部周りの磁気雑音を鎮めてやらないといけない訳ですね。
そういう仕組みを採用した医療機器が、「SQUID磁束計*」と言われるものです。

*SQUID磁束計の原理については『TDK テクノマガジン』
 
https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200605/index3.htm に詳しい。

この装置は、磁界検出用のピックアップコイルの位置近傍に、左右逆巻きコイル(逆巻きのため、磁場は相殺し合う)を設置することで、空間的にほぼ均一である外来磁気雑音の時間変動は検出せず、脳磁界心磁界のような微弱な磁界の時間変化のみを計測することが行われるそうです。

以下に「SQUID磁束計」に使われる基本的な磁束検出コイルと出力の関係を紹介します。

(難しそうなことが書かれていますが、要は、逆向きのコイルの組み合わせで磁気雑音を相殺しているだけです。)

図5

図中(a)の例では、1つの検出コイルからなり、検出されるすべての磁束がそのまま出力B0で現れるため、磁気雑音の低減にはなりません。

図中(b)は、矢印で示すように、上下段のコイルC1、C2の巻き方向を反対にしたものですので、地磁気のように磁界発生源がコイルから遠く離れている磁界の場合はコイル周辺で均一な分布となって、コイルからの出力B0は現われません。

それは、二つのコイルC1、C2に同じ量の磁束が入り、互いに打ち消し合うからです。

このように、地磁気など、遠方発生源由来の均一な定常磁気雑音(静磁場)は、左右逆向きコイルにより消去することができるのです。

そして、例えば脳磁界を測定するような場合、頭表面に近いコイルには多くの磁束が入りますが、頭部から遠いコイルに入る磁束は少ないです。

また、C2の磁束の向きはC1と逆になります。そのため、出力B0はコイルC1、C2それぞれで測定される磁界BC1とBC2の差になり、その差が脳磁界として計測されることになります。

図中(c)は、中段のコイルC2の巻き方向を、その上下に配置したコイルC1、C3と互いに逆にしたものであり、図中(b)の形を2つ組み合わせたものといえます。

図7

64CH MR磁気センサアレイによる心臓磁場分布の測定・可視化例(TDKによる以下の公開記事より)
https://product.tdk.com/info/ja/techlibrary/developing/bio-sensor/index.html https://product.tdk.com/info/ja/techlibrary/developing/bio-sensor/index.html

荒波立つ湖面に石を投げてもそれが創り出す波紋は見えませんが、波一つ立っていない静かな湖面に石を投げると波紋が明確に分かるのと同じことですね。騒がしいものを鎮めることが、キーになってくるようです。


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【鴨 奢摩他(かものしゃまた)プロフィール】
「方丈記」が好きなことと「止観」をあらわす「奢摩他(シャマタ/サマタ) 毘鉢舍那(ヴィパシャナ)」から自戒の意味を込めて「 鴨 奢摩他」と名乗る。
京都の大学に在学中、当時、高野山の宿老をされていたO猊下の在家向け伝法を受講する機会に恵まれ、以来、在家でありながらも30年近く密教と深く縁のある日々を過ごす。
大学の経営学部を卒業後は、電子楽器メーカーに就職し各種業務を経験後、品質保証マネージャーを兼任しながら社内試験設備で電磁波測定の専門業務を20年近く続ける。
その後、電磁波を測定する試験所の能力を審査し認定を与える機関に移り技術部長を務める。
退職後、縁あってnetenで主に計測、実験の業務を担当している。
専門は、EMC(Electro-Magnetic Compatibility / 電磁波両立性)試験、品質法規全般。

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