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『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル vs.「悟浄出世」中島敦・・読書メモ

Kindleで『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエルを再度読んだ。
彼の援用例が適切でない個所がある。単純に、ヴィトゲンシュタイン以降の「言語」哲学から見ると、「レイヤーの違い」「メタ言語の違い」で説明がつく程度。つまり、意図的かどうかは知らないが、初歩的な誤謬かと。

もっと本質的なところを「悟浄出世」中島敦から見てみたい。

「悟浄出世」引用・・
「究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。・・この病には、薬もなければ、医者もない。」
「自己だと? 世界だと? 自己を外(ほか)にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻(まぼろし)じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見(びゅうけん)じゃ。世界が消えても、正体の判(わか)らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」

まぁ、前述の「レイヤーの違い」「メタ言語の違い」も本質的に関係しているので、中島敦に語らせよう。

「悟浄出世」引用・・
「文字の発明は疾(とく)に人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑する習慣があった。生きておる智慧が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも画かけようが。)それは、煙をその形のままに手で執(と)らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。」

『なぜ世界は存在しないのか』というセンセーショナルなタイトルは別として、マルクス・ガブリエルと中島敦の「悟浄出世」は、意外と近いでしょ?! 中島敦の論は、ずっと後の時代の論理実証主義などを彷彿とさせる新しさがある。
それを踏まえて、マルクス・ガブリエルに反論しよう。
『究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとする』のがある種の人間であり、ソクラテス以前の哲学者たちなのだろう(プラトン・アリストテレス以降ではなく・・)。井上忠に言わせると、ここにこそ、真の愛智者(哲学者)がいるということになるのかもしれない。
要するに、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は、プラトン・アリストテレス以降(ソクラテス以前ではなく)、近現代までに至る思索の一定の帰結からの、一種の「エポケー」、問題の回避に過ぎないのではないだろうか(日下部吉信氏を援用したいところ)。「アルケー」「根拠」からの問い自体は依然として「存在」し続けている。マルクス・ガブリエルは(中島敦も)、その根拠の問いを回避しているのだから。『この世の生き物の間の約束』(中島敦)を破ろうとする『病人』(中島敦も)こそがソクラテス以前の哲学者なのではなかったのでは。さらに言えば、中島敦こそ、『病人』のひとりだからこそ、「悟浄出世」を書けたのは間違いない。
(写真はソクラテスの牢屋フィロパポス/アテネ)


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