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もしやこれはロマンチックのしっぽ

 阪急を通ると必ず、ここで服を買うことはないという現実が突きつけられていく。香水なんて誰が買うものか。柄でもないくせに発情してると思われる。

定時で上がり、田舎からはるばる二時間かけて博多に来たのだがお目当てのCDはタワレコにもHMVにもなくて一気に疲労感に襲われる。わたしのお気に入りのアイドルは、メジャーでもないのでカラオケで歌うことができないし福岡になんて来てくれない。せめてCDぐらい発売日に購入させてよ。

適当にマクドナルドに入ってハンバーガーを食べると、パート先の社員である三田さんから連絡が来た。
「今度ごはんとかいかない?」
なんかこの三田さんとかいう人はわりと最近わたしの勤務先に仙台から転勤してきた人だけど、ことあるごとにごはんに誘ってくる。一回も行ったことないけど。
「すみません。給料日前なんで遠慮しますね」

明日は土曜日だが年末なので、働かねばならない。いまから地元に二時間かけて帰るなんてまっぴらごめんだ。それでも帰るなんて偉い。バスに乗るのだが、乗るや否や電子マネーの残額が気になる。600円も入っていないはずなのでチャージしに行くとふと視線を感じた。視線の主は大の男で、安っぽいスポーツブランドのジャージを着ているのだがところどころ煤けたり破れたりしている。どこか後ろめたそうに、かつ獰猛な眼で真っ直ぐわたしの胸元を見ている。この人はやばいやつだ、とすぐにわかった。

わたしはあえてその人を避けた席に座るが、なんと彼はわたしの方向へ移動する。生命の危機を感じていると、誰かが割り込んで座った。
三田さんだった。
「え? なんで三田さんいるんですか」
「水野さん。また会ったね、どうしてここにいるの」
 しまった。そういえば残業しなきゃいけないのにお腹が痛いとか言って早退したんだった。
「あ、あはは。ここらへんに通院しているんですよね」
「ふーん。なんかあった?」
「いや。なんもなかったです」
「あっそうなの。僕はちょっと外回りでさ」
「そういえばそうでしたね」
 誰が居てもそれはそうだが、知り合いが隣に居るのは特にストレスフルだ。おしりとおしりがくっつくかくっつかないかの距離を臀部いっぱいに緊張感張り巡らせて一時間保つのは無理である。途中で降りて乗り換えるのにも45分くらいかかる。西鉄バスはもっと座席を拡張しろ。いや三田さんがもう少し痩せてくれればいいのに。
 窓を見つめてしばらくすると、となりから異変が聞こえた。振り返ると三田さんが持っていたリュックサックの中にゲロを吐いていた。わたしは居ても立っても居られず三田さんとバスを降りてしまった。

 三田さんはひとしきり吐いた後、コンビニで水2リットルを買ってダイソンの掃除機のように吸い上げた。やたらにつきまとっていた異臭はこの人が飲み会帰りだったせいだな。
「ごめん。水野さん。今度なんかお礼させて」
「いいですよ。気にしないでください」
「それより、次のバスいつかな?」
「今調べてます。えーと。1時間後ですね」
「遅いな……ちょっと歩くか」
 わたしは賛同した。このままじっと待っていると寒くて、三田さんのゲロごときでバスを降りてしまったことを絶対後悔し始めるからだ。しかしながら、なんとなく嫌な予感がした。それは来来亭を通り過ぎてすぐに的中した。
 煌々としたネオン。このしみったれた現代に存在してみせるメルヘンなお城。そう、ここにはラブホテルがある。周囲には浮かれている男女ばかり。相反してわたしの心は興醒めしていく。もし、三田さんの脳みそが現在とてつもなく目出度いのであれば。もし、三田さんの欲求不満が高まり爆発しそうなのであれば。わたしの貞操は。
第二の生命の危機にわたしは名実ともに腹痛になった。
「どうしたの? 水野さん」
「え、あ、い。いや。お腹が痛くて」
「え、どっかで休む?」
「ええええ。いや結構です。た、タクシーで帰ります」
「お金ある? 駅まで5000円くらいかかるけど」
 もしかしてと財布を見ると、2450円しかなかった。
「わかった。僕が払うよ」
「え、でも」
「元はと言えば僕のせいだし」
「あ、ありがとうございます……」
 しかし三田さんの財布の中には1300円しかなかった。
「……あれっ。おかしいな」
「これはバスを待つしかないですね」

 三田さんのお金がなくて、よかった。ラブホどころではなかった。本当によかった。手持ち無沙汰なわれわれは次のバス停まで歩いては、また次のバス停まで歩いていた。
「三田さんは飲み会だったんですか」
「そーそー。接待ってやつです」
「接待ってなにするんですか」
「えっ。それは……」
 急に三田さんがもじもじしだした。わたしはため息をついた。
「キャバクラくらいどうってことないですよ」
「あ。バレたか」
 なぜなら、社長か誰かえらい人が中洲とか雑餉隈とか好きだったって話を聞いている。それに三田さんの切迫した赤面具合は大体女がらみだ。
「おれ、ああいうところ苦手でさ」
「へー」
「だいたいああいう女の子たちに馬鹿にされるんだよね」
「そうなんですか」
 ガキの頃は運動能力、青年の時は偏差値、大人になると所得額で男性の価値というかヒエラルキーが決まるとどっかのツイッターアカウントが言っていたな。あんまりあてにするのはくだらないけど、町役場に勤める三田さんの価値とはどれほどのものなのだろう。安定した収入、締まりのない贅肉……。いろいろな単語が飛び交うも、一瞬でやめた。人の事をとやかく言うほど自分が立派じゃない。
「ぼくって、貫禄ないのかなあ」
「いや、貫禄はありますよ」
「そうかなあ」
「威厳がないんじゃないんですか」
「あー。威厳ね」
「年取ったらなんとかなるんじゃないですか」
「なるほど」
 三田さんは急にご機嫌になったところでわたしは違うことを考え始めた。年を取ることについて、今まではどんどん賢くなることのように考えてきていた。しかし仕事で失敗して「大丈夫だよ」と言われていくうちに恐怖を抱くようになった。いつまで若気の至りが許されるのだろう。
地下アイドルたちが大人になりたくないのは、いつまでもこのままで、つまりは気がくるっているままではいられないからだろう。わたしは地下アイドルではないにしろ、さっきのバスのあの人ではないにしろ、どこまで気がくるっているかわからない。わからないまま死ぬのだ。
でもどんなに気を付けて良い行いを積み重ねてきたとしても、いつか犯罪をしたり不倫をしたりしたらおしまいだ。わたしは、社会というのはつくづく気がくるわないように皆が互いを見張る装置のように見えてならない。でもそれは時として逆に、気がくるいそうになる。上司の指示中に無性に壁を蹴りたい日がある。今日も今日でさっきから三田さんの男根を引っこ抜きたい衝動に駆られている。

 ぼんやりしているふりする私を、三田さんはずっと眺めていたようだ。
「水野さんってさ、彼氏いるの」
「なんで急にそんなこと聞くんですか」
「いや。あの。うーん。気になって」
「今のご時世彼氏の有無を訊くなんてセクハラですからね。そこんところ三田さんには弁えてほしかったです」
「そう。ごめん」
 場が静まり返った。途端にやけに冷える。それもそのはず、
「雪が……降ってきましたね」
「寒いね」
「そうですね」
「早くバス来ないかなあ」
 初雪である。ラブホはなくなったけれど、家々のクリスマスに向けての飾りつけがきらきらとしている。なぜか脳内にはおとといフライデーの『もしやこれはロマンティックのしっぽ』が流れていてなんだかムードがある。そういえば寒すぎて、空気が澄んで、桶屋が儲かって……というサイクルで三田さんがかっこよく見える。あれ。いつも天津の向清太郎みたいな顔して冴えなさ抜群だけど、見ようによってはぽっちゃりとしたチュートリアル徳井義実みたいにも見えなくはない。ああもう。いかんいかん。頭が目出度くなっている。そもそも徳井義実ってそんなに好きじゃない。

「水野さん、ってさあ……」
「なんですか」
「あの……その、花本さんみたいに派手じゃないけどさ、かわいい……よねえ」
「えっ」
 いきなり容姿を褒めるなんて何事なのか。もしかして現状、三田さんの頭は本当の本当に目出度いんじゃなかろうか。
「あのさ、僕水野さんのこと好きかもしれない」
「やめてくださいよ」
「もしさ、よかったらつきあってくれないかな」
「三田さん。あなた。ちょっと前まで花本さんのこと好きだったでしょ」
 そう切り出した瞬間、三田さんの顔が歪んだ。
「なんで知ってるの……」
「そりゃあ。だって三田さんわかりやすいから」
「みんな知ってるの?」
「少なくとも女性陣の共通認識です」

 それから三田さんは、むっつり黙っていた。バスが着ても、全然喋らなかった。わたしはすこしわるかったかなあ、と思いながらおとといフライデーの『私ほとんどスカイフィッシュ』を聴いていた。
「……さん、水野さん」
「ぎゃあああ」
 バスの終点間際、再び三田さんが話しかけてきた。
「なんですか」
「花本さんが言ってたんだ。水野さんはこれを欲しがっているって」
 ゲロまみれであろうリュックサックの中から小包がでてきた。わたしはおとといフライデーの新盤に期待を膨らませたが、一瞥して違うとわかった。ビール臭い小包をわたしの傍にぽんと置くや否や、三田さんはバスを降りた。

 しばらくしてわたしもバスを降り、帰宅した。母親が適当に作った謎の煮物を食べながら、謎の小包を開けることにした。ロクシタンの香水を手に入れたわたしの背後からはとっくの昔に忘れていたはずの甘い匂いが漂っていた。