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音源式麻薬兵器VANILLA

 20XX年の日本がどうなっているか教えてさしあげよう。
2018年と言えばA政権の綻びが問題視される一方でブラック企業が次々と槍玉に挙げられ、ああでもないこうでもないと人々は悩み苦しみ煮たぎったスープで水泳をするような息苦しさがあった。それは成熟した社会だからだということにしておいた。

 現在20XX年。世間というスープはもっと煮詰まった。人々はなんだかんだ言って自分本位に生きていた方が結局得だということに気が付いた。宗教もあの世もないこの国では平和的9条が存在していながらどの国よりも貧困が蔓延り・疲弊し・悪の巣窟となった。
 そんなアナーキーな時代ではあるが、これだけは皆守っている規範がある。貞操だ。やっぱり不倫とか売春とかにはうるさい。節操のないものを魔女狩りのごとく炙り出すことには抵抗はなかった。
そんな折、エイズや梅毒よろしく新たな性病が性風俗大国日本で発見された。それはとあるソープランドから発生したものであり、とにかくその病原菌の保有者と性行為をすると一定の期間の後、全身の穴という穴から乳白色の脂肪が噴き出して朽ちていく。その脂肪がアイスクリームの人気フレーバーによく似ているため、この病気は通称VANILLAと呼ぶ。これを防ぐにはコンドームを装着するか清潔な人間と性行為をすることが必要とされていた。
蛆胎咽子は17年前そんな日本に生れ堕ちてしまったのであった。

咽子は高校の帰り、鬱宮缶奈と一緒に中洲のスラム街を歩いていた。
「質実剛健って何だろ。健全な精神のことを指すのかなあ」
「健全な精神を叩き込みたいなら、なんでこの高校は中洲の近くに作ったのかな。クラスの男子なんかここを冷やかしてばっかだよ」
「冷やかしているのは私たちもだよ、缶奈。バニラにかかりたくないなあ」
「安心して。ここをほっつき歩くだけではバニラにはならないよ」
「そうなのかな。でもみんな簡単にバニラになるのはどうして? わたしは怖い。誰かを好きになることさえ汚らわしく思えてきちゃう」
「そしたら咽っちゃんは、私のこと好きじゃないの」
「……だーいすき」
「えへへ」
「今日のことは秘密だよー」
「わかってるよ!」

 彼女らが向かう先は春吉。言わずもがなファッションホテル街である。二人は親に嘘を吐き、お金を得てとあるホテルを予約した。近くのファストフード店のトイレで化粧し、制服から私服に着替える。
「缶奈。まだぁ?」
「ごめーん、ちょっと待ってて」
「わかったあ」
 咽子はトイレから出て、適当にシェイクを頼んでいると見覚えのある顔が近づいていることに気づいた。彼の名は涜川冥介。いつも伏し目がちな、色白でほっそりとした少年は咽子の唯一の幼馴染であり、同級生であった。いつも話しかけるのは咽子のほうであるのに、今日は冥介が声をかけてきた。
「なにしてるの」
「なにって、べつに」
「ふーん」
「冥介こそなにしてるの」
「べつに」
 そういえば、冥介がこんなところにいるのは珍しいことなのであった。冥介の頭脳は高校でトップ程度に優秀で、理系クラスでしゃにむに勉強させられているイメージが咽子にはあったが、久しぶりに見る冥介はずいぶん垢抜けた様子だった。
「冥介なんか変わったよね」
「そう? 髭とか剃ったりしてるからかな」
「あ、わかった。その馬鹿でかいヘッドホンが功を奏してるんだよ。何聴いてるの?」
「……秘密」
「えー。それ秘密にする?」

 そんな時、とある街宣車が二人のいる店を横切った。
 V、A、L、A、N・N・A VANILLA!
 バーニラ。バニラ。バーニラ。即日入金、高収入~♪
 よくある光景だった。咽子は聞き流していた。すると、冥介の両手が咽子の耳を塞いだ。
「……聞くな」
「え、なにすんの」
「あの宣伝の曲、実は音源式の麻薬兵器なんだ」
「はあ?」
「嘘じゃない。あれはバニラを引き寄せるんだ」
「ふ、ふーん……」
咽子が若干冥介の電波ぶりに引いていると、トイレから意気揚々と缶奈が登場した。
「咽っちゃん、おまたせ」
「あ、缶奈。遅いよ~」
「ごめんね~さ、いこいこ」
「じゃあね、冥介」
「気をつけて」

 その後の二人のロマンスは筆舌に尽くしがたいものであった。やわらかな唇をくっつけ合うと二人のリビドーは爆発。ブラジャーの中からはちきれそうなおわん型のみずみずしい果実を互いが互いに味わった。――でも咽子の頭は意外や意外に冷静で、今回になってやけに缶奈の口臭が気になり、また喘ぎ声のヒステリックさや一見色素が薄いのに恥部は剛毛だとかそういうところをいちいち大幅減点している自分がいた。これが気持ちのよいことなのか、甚だ疑問であった。
 すると、部屋の外でなんだか騒がしい物音がする。あまりの物々しさにムードが消えてしまった。
「なんか、きこえない?」と咽子。
「開けてみようか」と缶奈。缶奈も意外と冷静であったようだ。
ドアを開け部屋の外を覗くと「バニラだーッ!」と誰かが叫んでいた。廊下に出て、一番向こうの端のドアから、バニラアイス色の膨張が見えてしまった。それから二人は、ショックのあまり一言も喋らずにホテルを後にし、帰宅した。咽子はこの時ほど誰かにすがりたい気持ちはなかった。墓場までの秘密にしようと思ったし、なんなら墓場も近いような気がした。

 翌日から缶奈は学校に来なくなった。咽子の連絡にも対応しなくなった。缶奈の情事に幻滅しかけたとはいえ「我見限られたり」と咽子は途方に暮れるしかなかった。咽子がひとりで飯を食べていると、冥介がやってきた。
「よお」
「めーすけ……」
「鬱宮、バニラだって噂だけど」
「……だったら、わたしもバニラかも」
「えっ」
「あ、いやなんでもない。じゃあね」
 
生活をしているとふと咽子は気づいてしまった。世の中はあの街宣車の音楽で溢れかえっている。何気なくテレビを点けたら流れているじゃないか、高収入求人バニラの音源が。厳密に言えばバニラの音源と似たような調べが流れているだけなのだが、彼女にとっては一緒だった。とっくに前から自分はおかしかったのだった。とにかく自分は遅かれ早かれバニラになる。早すぎる死との対峙に立ちすくむのもあるし、また世間の非難轟々が自分に向けられるのではないかという恐怖も大きかった。これを一人で抱え込むには咽子は未熟であった。

気が付いたら、屋上に来てしまった。手すりにふとつかまり、下界を見下ろす。
「なにしてるの」
そこにはまたも冥介がいた。
「なんか……もう意味わかんない……みんなバニラになっていくし私もいずれバニラになるし……」
「なんかよくわからないけど。大丈夫だよ」
「缶奈とセックスしちゃった……ホテルでバニラの死体も見たし、もうどうしよおう」
泣き喚く咽子を冥介は抱き寄せた。
「大丈夫」
「冥介」
「俺ずっと咽子のこと好きだった」
「えっ」
「キスしてもいい?」
「えっ、ちょっと……」
咽子はすこし驚いたものの、抵抗できるほど不快感がなかったのでその雰囲気を受け入れてしまった。自身の唇を押し付けた冥介はそれをいいことに咽子の口腔内を掻き乱した。すると、
「うっ。うううううう」
と咽子が嗚咽をあげた。顔を放すと、おくびが止まらず吐瀉物が口から流れてきた。バニラ色のゲロが辺り一面に広がった。下瞼の小さい穴、肛門、耳の穴、口、ささくれなど穴という穴から空気がぷしゅうと漏れ、たちまちホイップクリーム状のゲルが溢れ出す。
(死、死ぬ……)
そんな時、咽子は冥介が自分のバニラホイップクリームを頬張っていることに気が付いた。食べられるのかという衝撃で体中のほとばしりの激しさなどへの意識が飛んだ。
「お、おいしい……おいしい……」
冥介は恍惚の表情を浮かべていた。屋上の上に投げ出された冥介のカバンの中にはあのヘッドホンと缶奈の携帯電話や制服が入っていた。ヘッドホンからは
V、A、L、A、N・N・A VANILLA!
バーニラ。バニラ。バーニラ。即日入金、高収入~♪
という調べが流れていた。