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敬天愛人について

お師匠さんは危ない。お師匠さんが磔になる。僕がそれを止めることができたらどんなにいいだろう。

僕はお師匠さんが神業から遠ざかる事を予期して、お師匠さんを売ることにした。お師匠さんの勢いが失墜したらお師匠さんは僕たちだけのお師匠さんになるだろう。

しかしお師匠さんはお天道様と結婚することになった。お師匠さんが時空とボクシングしている時、ちょっといやかなり、時空に切れ目を入れることができたらしい。お師匠さんは未来永劫の人類のために、お天道様と契りを交わす。それは天命なのだと。それを僕は抗うことはできない。

お師匠さんは言った。「誰かがきっと僕を裏切る。それにしても、僕を裏切るならその人は生まれてこなければよかった。それはともかくとして、乾杯だ」そう言って僕たちにパンとワインを分け与えた。
僕はきっと未来永劫この業を罵られて不憫扱いされることだろう。

お師匠さんが磔に遭った時、僕は一応抵抗したけど、お師匠さんは見事に肉体を傷つけられ、果てた。と見せかけて、刑務所に留置されて生きながらえた。こういうのがくだらないなと僕は思っている。

これが神と結婚するということなのだろうか。神の前に生贄になる、ということに、血が流れるのを求めてしまうのは、人間として失格なのだろうか。神の贄になるということは、愚者であると同義で、俺にはキリストが馬鹿であるようにしか見えない。ペテン師と神と、どちらを呼べば誠実であろうか。

神の贄。それは民衆の中に実存を宿すこと。それが終わったら、民衆の解釈を裏切らぬよう、駒として生きるということ。実力があると思いあがってはならない。これが神業なのだろう。

僕は、神様を磔から引き剝がして、現実を突きつけたかったが、それは現実ではないのかもしれない。神様が、意表をついて、つき続けて、みんなに受け入れられ、大衆にイエスにノーという意志を孕ませて、実行させたことに、イニシアチブとしては勝利を収めたということに他ならない。ノーを食らったイエスは、何日かあとに復活して、それから隠居をする。たくさんの弟子を取ったお師匠さんは、弟子からの恵みで生きていくことになる。

文字を受肉して、文字によって生かされ、文字上で死んだイエスは、磔に遭った時確かにお天道様と契りを交わし、自らもお天道様になった。それから2000年が経ち、今も12月になると、イエス様の弔いが始まる、弔いなのか祝祭なのか。嘘が嘘であることに感謝し、イエス様の行いに敬意を払い、時給マイナス100万円の労働をイエスに課す。

あれから2000年、俺はいつもユダと呼ばれ、詰られ、憐れまれた。しかし、俺は真っ当な人間をやってるまでなので、他者らの評価にはそぐわない。君たちだって、お師匠さんが酔っぱらって管をまいていたら、嫌気がさすだろう?

大衆に現実を突きつける。それをずっと意識していたけれど、俺が間違っているのかもしれない。そういう次元を2000年もやっている。最近初めて、僕に発言権が与えられて、僕の言葉が軽くみ言葉になり始めている。キリストはペテン師だ。そういっても、みんな気に留めない。そもそも宗教がヤバいからだ。でも俺は思うね。心のよりどころってなんだ。恋か?家族か?期待に沿えないときそしたらどうすんだ?でも日本と言う国では、個人単位でも(個人の持つ)宗教レベルの期待に応えてくれる国なのだろう。それをわざわざ神と呼ぶのは陳腐なのだろう。

神様と繋がったほうがいい、と神を知る者は語るが、はっきり言っておこう、神はいない。あなたがいると信じれば存在する。近くで弟子をやっていた者から言わせていただくと、神、は、酔っぱらって管をまいているだけだ。水がワインに変わったのは寓話だ。イエスが酒屋のパトロンを手にしただけだ。君もそうしたいならすればいい。

僕の現世のお師匠さんは、何回も生まれ変わった結果イエス・キリスト時代の荒業を恥じているらしく、規模はかなり小さい中なりも、やはりSNS上で奇跡を起こし続けている。僕はそれをくだらなく思っている。みんなが思う奇跡というのは、実は奇跡ではない。イリュージョンはいつだって、手作りの継ぎ接ぎで編まれている。最近はそういうの、よくわかられている。神の死んだ世界、なかなか悪くない。あなたにとって神ってなんですか、みたいな話、それは嘘でできた奇跡を信じ続けていることなのだ。神がいなくなったとしても、個人が個人の中の期待に応え続けていれば、世界にいるみんなはしあわせだし、だけど、一番ふがいないのは、神をやっている人の虚栄心が一切報われてこないところにあるのだろう。そういう人がアフリカなどに言っても彼らは皆かしこいので、オアシスが存在しないことになる。

そういえば、お師匠さんに言うの忘れてた。あなたのほうが虚栄心に塗れて、やがて自分のほうが生まれてこなければよかったなどと思う日がくるのではないでしょうか? しかし、それは端からそう思っているに違いないのであり、お師匠さんはいつどこにいても、イリュージョンをしたがるのであろう。