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処女の奇妙な冒険

 油性のマーカーで塗りつぶした黒い空。その中に空本来の青の絵の具が割って入りこんでいるはずだがよく見えない。今日は新月だったっけ、それとも目が悪いのか? 星や月は見えない。そんな景色をずっと部屋の窓から見ていた。

丑三つ時に起き、冷蔵庫を物色して食物を得、何十回も見た漫画をまた眺め、時折いかがわしい情報を摂取しては自慰に耽り、疲れてくるのと同時に太陽が昇ってくるので、その時に寝る。そんな生活をしていた。親から与えられる援助によって三大欲求を満たす生活はすこし前までかけがえのないものであったはずだが、実感として日に日に性欲だけが強まっているような気がした。

例のごとく、冷蔵庫を物色する。豆腐しかなかった。仕方がないので醤油をかけて食べることにしたが、あんまりおいしくない。おいしくないという不快感が、やがて波のように押し寄せてきて結局戻してしまった。ぜえぜえはあはあ、息も絶え絶えになりながらそういえば今日は処方箋をまだ飲んでいないことを思いだす。いまあんまり調子が良くないのは、きっとちゃんと薬を飲んでいないからだ。そしていつ飲んだか覚えていない飲みかけの牛乳で一気に薬を流し込んだ。やたら牛乳は甘かった。
それでも気分は優れなかった。気分が悪い時こそ、私は自分の欲望に忠実になる。心が幼児のように駄々をこねてしまい、それによって身体の諸機関がうまく働かなくなる。よくあることだ。そういう時、まだ見ぬ我が子ではあるが、私の子をあやすように、自分の欲望をかなえてあげる。つまり何が言いたいかって、眠れないなら、飯を食う。自慰をする。

最近めっきり寒くなってしまって、本当に生活するのに困る。暖房をつけたら電気代がかかってしまうし、かといって凍え死ぬ訳にはいかない。そんな状態なのに今日も自慰行為に耽る。毎日欠かさず自慰を全うする。わざわざ余所行きのためのダッフルコートまでジャージの上に着込んでおいて、恥部だけ剥き出しだ。おかげさまで鼻水・咳・痰が止まらない。しかしながら、だ。父親でいうところの酒、母親でいうところの陰口になるのだが、自分の人生にはこれぐらいしか価値を見出せない。なんてさみしい人生であろうか。それぐらいの悲しみは自負しているが、他のものに重きを置く人生がよくわからないので足掻く気には全くなれない。全く。

悲しいことに今日見た動画はどれもはずれであった。95年代ものの古典的作品であるレズビアンものはすごくギラギラしていて受け付けられなかった。両女優が「あなたより私の方が性的魅力において勝っているのよ」と言わんばかりのマウンティング前戯。果たしてそれでちゃんとエクスタシーを感じられるのだろうか。そもそも、このAVという世界でちゃんとイく場面は存在しているのだろうか。すべてまやかしなのではないか。まやかしかどうかに目を注いでしまう自分の幼稚さがほとほと嫌になる。
あの首相は事実を隠蔽している。あのアイドルの陰にはドンがいる。テレビは嘘をついている。ふーん。だから? というスタンスで生きている以上、AV女優の喘ぎ声が嘘か真かなんて目を凝らして疑っているなんていうことがあってはならない。でも目の前で女の子が大声で何を主張しているのか、という点を考えてみよう。こんなあられもない姿になりグロテスクな器具で恥部を弄られてそれが気持ち良くないのに「気持ちいい」だなんて嘘ついて、本当はとっても痛がっている、という事実があるのだとすれば、女性性ってなんだと思う。痛々しい姿こそ輝くのか。
確かに、いまAVに見入っている自分がいる。仁科百華のおかげで、倦怠感とか吐き気とかを忘れられている。仁科百華がいなかったら私はせっかく飲んだ抗うつ剤も統合失調症の特効薬も戻して泡沫になってしまったに違いない。今日という命の恩人である。

おそらくこの症状は、統合失調症の特効薬の副作用だろう。飲む前と比べて冷静になり生き易くなったもののこういった吐き気やイライラが募ってくるとなるとプラマイゼロである。何のために肝臓に負担をかけているのだろうか。仕方ない。これも「普通が一番よ」と言わんばかりの両親の愛だ。
彼らには、普通とはちょっと違う生娘を野放しで育てることができない。本当は、大きく違うことができていたならば、そのまま突き進むことを世間も認めざるを得なかっただろう。またそれが才能だとかと持て囃されることも有り得ただろう。しかし現実は、ちょっと違うだけ。ちょっとだけ違うなら、矯正されてしまうのが世の常である。

じゃあ私は、一般とどこがどう違うのかと聞かれてしまったら困る。そういう時ろくにものが言えないこと、それこそが一般と違うことのような気がする。他にも、自分は他の人とは何か違うという自負によって選民意識を持ってしまったため、人の趣味があまりにも良くなってしまった。おかげで友人は、こちらがはっきりと断定できる友人は一人とていない。
あとは人より過敏である、といったところであろうか。自分のダークな心情の際に配慮もなく大きな音・うるさい声がいきなり登場すると心が散り散りになる。あとはただ人がどうも機嫌を悪そうにしているだけでもこちらはダメージを受ける。そんな話を高校の友人に勇気をだして告白したら「そんなのみんな一緒でわたしもだよ」の一点張りであった。4年後私はやっと彼女を脳内で殺すことができるようになった。しかしながら、過敏であることは社会不適合の要因である。非常に生きづらい。生きづらいということはつまりあんまり報われない。
私は知っている。過敏じゃないふりぐらい自分にできることを。私はこれも知っている。過敏じゃないふりをすることは自分を殺すことと同義であることを。何事もタイミングが大事であり、うまい時に過敏さを隠したり隠さなかったりすることで生き延びられるのかもしれないことも分かっているけど、運のない私はそのタイミングをことごとく掛け違ってしまっているようなのだ。

そこで思わないだろか。痛々しいと。私の生は見ていて痛々しいものではないだろうか。でもそれは、バイブを股間にあてられる痛みには敵わないのだろうか。私は女であり、女として生まれてしまった以上男に気に入られて生を全うしたい。手足を拘束し凌辱されたことであんなに輝けるのなら、私もそうなりたい。

自慰を終えた。日記がてら、ネット上に自慰の記録を残す。今日はこの動画でヌいた、というような旨だけ。女なのにオナニーしているだとか、一日二回するくらいむちゃくちゃ性欲が強いとか思われたくないので、男のふりして投稿する。しばらくして、通知のバイブが鳴った。

「仁科霊華いいよね、おっぱい特に。俺も度々お世話になる」

 こいつは、いつも私のアカウントにつっかかってくる得体の知れない野郎である。ツイッターを始めて一、二年くらい経ったころ白石幽莉奈の動画をブックマークがてら「いいね」をつけたらフォローされた。こいつも、私と同じでむやみやたらに自己開示をしない。アイコンも人型である。よくよく見たら同じ県内にいるのだが共通点と言えばAV好きとそれぐらいだった。
 性欲が高まる今日この頃、さっさと処女膜を破りたくて仕方がなかった。もし包茎でもホームレスでもサクラでもスパムでもいいから、突破口にするとしたらこいつしかいないような気がしていた。しかしつい最近まで塩対応で流していたため、いきなりがっつり仲良くして見せようとするのは不自然なためそれができないでいた。

「仁科霊華の母乳舐められたら昇天も本望」

 今日はこのぐらいにしてやろうかと思っていた。
 そんな時であった。

「仁科霊華のチェキ会とか来ません? もしかしたらワンチャンありますよ」

 私は奴のツイートを遡った。結構AV女優のイベントに来るのはなんとなく知っていた。もしかしたら、仁科百華のイベントに行けば、会えるかもしれない。

「いいっすね。福岡のクリスマスイベント参戦させていただきます」

……送ってしまった。

 行く、とは言ったものの、完全に金銭面でのリスクを忘れていた。クリスマスイベントに参加する前に、交通費とCDについている握手券がいる。私は生まれて初めて母親の財布から1万円を盗んだ。玄関を出ると、母親が目を丸くしていた。
「あんた、どこいくの」
「どこでもいいじゃん」
「変な人に引っかからないでよ」
「えっ」
「一応私たちが大事に育てた女の子なんだからさ」
 あっそ。女の子だなんて表現、親以外で聞いたことない。

そういえば久しぶりに外に出た。排気ガスが鼻につく。これが冬の匂いだった。
 バスは乗ることができなかった。バス酔いがひどくてまともに呼吸できなかった。電車だとだいぶましだった。
都会に辿りついて、自分の服のセンスのなさに愕然とした。今の流行りについていけない。元々乗っかっていく気概もなかったけど。CDを買う服がないので、とりあえずファストファッション店で服を買った。それでも残金はCD代しか残らなかったので、帰りはいざとなったら母親を呼ぼうと決心した。充電はあと60%ある。
 無事CDを買った。しかしイベントまで時間があったので、イベント周辺を探索する。腹が減ったけど、なにも買えない。コンビニで何も買わないくせに物色するふりをするのは気が引けるけど、ここ以外に居場所がないので仕方ない。

「何かお探しですか?」と店員。
「いや、大丈夫です」と逃げる。

 まさか話しかけられるとは思ってなかった。やはり気弱な態度がいけないのだろう。ふと目に入ったのだが、店員の手の甲には根性焼きが入っていた。現代社会の闇を垣間見てしまった。
 嫌だったけど結局天神の大画面前で人を待っているふりをすることになった。うすうす嫌な予感がしていた。そんな時、

「えっ、川上さんだよね」

話しかけてきたのは大学の部活の先輩であった。大学に入りたての頃、サブカルチャー部というマイナーサークルにだけ勧誘されたので入った。しかし、この先輩の容姿と経歴が端麗すぎて、この人の前だと呼吸がし辛くなって、次第にフェードアウトした。

「あ、あ、え、えと、こ、こんにちは」
「クリスマスに何してるんだろう? もしかしてデート?」
「え、あ、あ、いや」
「あ、ごめん。今の失言だったかな」
「え、や、いや、あ、あ、あ、」
「変わってないね。川上さん」
「……え?」
「おしゃれしてて、おっと思ったけど、やっぱりまだ吃音るね」
「……は、はい」
「そんじゃあ、僕もうそろそろ集合時間だから。メリークリスマス」

 思い出したくない過去だった。先輩以外には、吃音らなかった。先輩だけ、吃音ってしまう。それが、先輩に対して特別な気持ちを抱いていると勘違いされるのが嫌で嫌で仕方なかった。だけど、性欲が強い私は、誰でも好きになる勢いだった。自分で自分を見失い、自分は先輩のことが好きなんだと見做してしまうようになった。それが言動の端々に現れるや否や、先輩は私と距離を置いた。それが私はむちゃくちゃ悲しいことだった。3年経った最近、大したことないことで悩んでいたなあ、と思っていたけれど克服できていない自分がいた。

 家なんか出るもんじゃなかった。
 それでも私はセックスがしたかった。アカウント名:『バッカルコーン侍江夏』の姿を探す他やることがなかった。家に帰る手段もないし。
 
 やっと仁科霊華のイベントが始まった。私は仁科霊華のフェロモンを嗅ぐことすらなくただひたすらに落ち込んでいた。バッカルコーン侍江夏らしき人を探すどころか、私はバッカルコーン侍江夏らしさを統合できないままであった。完全に勢いだけで自分を突き動かしてきたが、肝心なところを考えずに、蓋をして突っ走ってしまった気がする。バッカルコーン侍江夏に、処女をあげていいとは思っていたけど、まず相手が冴えない自分の処女をいただきたいと思うのだろうか。それより、自分がネカマをしていたことに憤るだろうか。また、自分の動機の不純さがある。それらのことを考えると足元がふらついて立てなくなりそうだ。

すぐさま「だいじょうぶですか」との声。
とっさに「だいじょうぶですよ」と言う。
さっきのコンビニの店員だった。名札には『江夏』。

「あ……」

 バッカルコーン侍江夏。お前だろう。でも言えなかった。むちゃくちゃ人のよさそうな顔をして、なのに手には根性焼きがあるのだから、お前をだましたなんて言えなかった。そんな時、通知が鳴った。

バッカルコーン侍江夏がツイッターで「いまどこですか?」と訊いていたのだった。

「君が……『ネオバキューム川上1世』?」

 逃れようがなかった。もう好きに憤るがよい。性欲が強すぎると迫害するがよい。

「ごめんなさい……」
「え、あ、や、いや、あえてよかった……」

 それから我々はすこし話をした。江夏解(さとる)と言うらしい。2つ年上であった。

「え、江夏さんは、何してるんですか」
「見ての通りコンビニでバイトしてる。これでもバイトリーダーなんだよ」
「お、おお金が必要なんですね」
「まあね。大変だよ。大学行ってないからさ。そっちは何してるの」
「あ、え……わたしですか」
「大学生に見えるけど」
「は、はい、そうです。大学さ、3年生で、さぶかるちゃあ部なるものに、入っております……」
「サブカルチャー部? なんだそりゃ」
「ゆ、ゆーれい部員なんで、なにしてるか、わかりません……」
「へぇー。気になるなあ。もしかして大学ってこの辺?」
「あ、そそうです。な、中洲、さんぎょー大学です・」
「ふーん。頭いいんやね」
「あ、いや、そ、そんな……べつに……」

近所のおばちゃん以来の学力への褒め言葉に辟易していて全く気付かなかったが、ふらふら歩いているとラブホ街に入ってしまった。江夏は気づくや否や

「え、あ! ごめん……」
と謝っていた。

「戻ろうか。川上さんは、帰りの電車いつなの」
「…………」

 母親に言えば帰ることもできるだろうが、帰りたくないのが本音だった。しかたなしに携帯を取り出すと電源が切れていた。

「どうした?」
「電源、切れました」
「え……」
 私たちはラブホに入ることになった。

 最高にチープなお城は奇跡的に一つだけ空室があった。初めて見る部屋は案外ファンシーではなかった。インテリアが好きな主婦が頑張って作ったリビングみたいな内装だった。金は後払いで、小さなカプセルにお金を詰めろとのことだったので江夏が「これでいいのかな」と言いながらお金を詰めていた。

「先に風呂入ったら」と言われたので入ることに。風呂場は見た感じ清潔そうなのだが、どんな誰がここで何をしているかわからない。もしかしたら性病の菌があるかもしれないので最新の注意を払って行水した。でもジャグジーは体験したかったので湯舟につかることにした。あまりの水圧の心地よさに「きょええええええ」と叫んでしまった。風呂から上がった後、ドキドキしながら江夏と対面したら「なんか楽しそうだったね」と言われ、一気に恥ずかしさで頭がくらくらする。カプセルをみたら、江夏の一万円が二千円に変わっていたので感動する。江夏も風呂に入るそうだ。

 私は江夏が風呂に入ってから、だんだんと不安になってきた。下着がダサいのである。こんなベージュのダレた下着をみて勃起できる殿方が地球上に存在するのだろうか。お尻の蒙古斑は成人を迎えても消えないし、体毛の処理を完全に忘れていた。これだから私は駄目なのだ。こんな気持ち悪い淫獣が絡みついてくる江夏を想像すると不憫すぎてこっちが涙出そう。ハラハラが増す心を蹂躙しに江夏がやってきた。

「……どうしたの?」
「えっ。いやべつに」
「そ、ならよかった。俺明日も早番だからさ。もう寝るね。おやすみ」

 江夏は紳士であった。私を傷つけることなく宿に休ませてくれたのである。でも私はあまりの予想外にただただ茫然と虚空を見つめることしかできなかった。
油性のマーカーで塗りつぶした黒い空。その中に空本来の青の絵の具が割って入りこんでいるはずだがよく見えない。そんな景色を今日も見つめることになるとは。