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原田高校生徒会長森永大樹

 原始の記憶は、僕が三歳のころ。サイゼリヤに連れて行って貰った時、すごく感動して、なにかにつけて「おいしいねぇ、おかあさん!」と連呼していた。すると母親は

「私はねえ、おいしいって言うために料理してないから」

と、ブチ切れたことがある。僕はその時の大きな大きな動揺を忘れない。おいしいと言えば、問答無用で和まないんだろう。

 僕の家は一見のどかで裕福そうに見えるが、気を抜いて信頼しているとぶっつりと切りつけられることがある。そういうものだよね、生きることとか、人間関係とか、家族ってさあ……。と思っていたら、高校に入って友達ができて話したりすると食い違いが出てくる。テレビって粗悪な家庭の人が見るもんでしょ? 両親って常に家にいるもんでしょ? 全然そうじゃないのだ。

 僕んちがおかしい、そう思い始めて、ついに学校をサボり父親の後をつけてみた。父親は農業をやっていると聞いたが、後をつけてみると駅前のファミレスでずっとぷよぷよクエストをやっているだけのようだ。

「父さん、何やってんの」

 僕は意を決して話しかけた。

「お前、学校は?」

「休んだ。僕んち、おかしいと思って」

 それから話を聞いてみると、どうも父親は日本犯罪史上最悪の未解決事件の主犯のひとりだと言うことが告げられた。大企業から金を揺すって、そのお金で日中贅沢を尽くしてきたらしい。

「お前がここまで気づかなかったのがもはや奇跡なんだとしか思いようがないな」

「僕は僕で必死だから……」

「とにかく、おれがどうかなってもお前だけは生き延びてくれ。何かあっても、めげずに強く立ち回ってくれ」

 そう言われてもショックは癒えない。傷ついたものは修復しない。なんて。僕は生まれてからずっと、なにかと失望し続けてきた。父さんが悪をやったのもわからないではない。父さんは精密機械の内部損傷を誘発させる能力があったってことは、僕にもそういう素質があるわけで。父さんの身の回りに機械を置くと全部壊れる。それくらいパワーがある人なんだけど、僕もそういうスピリチュアルな力を持っている。生まれてこの方、その事実に絶望し続けている。僕は人に触れればその人の全知全能を電波として受け取り、理解する力がある。父さんはその物体に触れただけで弄る能力がある。僕は感受性が父さんよりもセンシティブで、まなざしひとつでその人の意識の温度を感じることができる。それは、小説を読んでいるとわかるけど、でもまあ皆会得しているか……。

 人の気持ちがわかっても、いいことなんてない。性善説なんか嘘っぱちだ。かといって悪でもないけど、みんな善でもない悪でもないその間の狭い少ない道を行ったり来たりしている。ほんとつまんない。多様性とかあるけど、あんなん建前で、実際はステレオタイプをそのまま人類は突き進んでいる。

 僕は自分の能力を障害だと思っている。小さい頃はいかにかわいそうに思ってもらうかに命かけていたけど、僕の田舎では腕のない秀才や小人病の常識人、場面緘黙症の美少女がいて、僕よりも濃い人生を送っているのをまざまざと見せつけられてから諦めるようになった。要するに障害というのは障碍であり、プレゼントであり、自分らしさであることを心得た。それから自分がどんな花を咲かせるかだが、僕がうじうじしていても、彼らは綺麗な花を育てているわけだから、それを見ていながらくすぶってもしかたない。そういう風に教育現場が育てたのだ。

 僕のお父さんは情けないほど人間らしい人間で、晩年官公庁で文章改竄をしていたらある日突然責任を負うこととなり、自殺することを上司に強要された。自殺したら僕やお母さんの面倒は何不自由なくみてやるから、という取引で、父さんは自殺した。あの世はどうなっているのだろう。お父さんの気配は亡くなってから一度も感じたことがない。ブラックな雇用状態であるにもかかわらず、成仏したんだろうか。

 あれから母さんと姉ちゃんと三人で、何事もなかったかのように毎日おやつも食べて不自由なく、むしろ贅沢なくらしをしてはいるが、僕はしずかに怒っていた。世の中というものは建前だらけで違反者だらけだ。だったら僕も大きく間違ってやる。

 僕にとって悪とは、何も定義できないけれど、これだけはまずいと思っていたものがある。それは淫行だ。僕って成人していないけれど、未成年と交際したら処罰されるのだろうか。とにかく目の前に白いむくむくが現れた。白いむくむくは話しかけると喜び、触るところころ笑う。赤い丸が一個あって、ひとつ頬張るとふたつになる。白いむくむくは、歯ざわりといい味といいほぼほぼ生クリームだ。赤い丸をいっぱいつけて、おやっ、ここはひときわ甘酸っぱいるつぼがある。飲み干しても飲み干しても枯れていかない。僕ははじめての気分になる。僕のあそこがギンギンに熱いんだ。最初のうちは、るつぼを覗きながら精液を抜いていたが、ついに入れてしまった。すると、泣けてきて泣けてきてしかたなかった。ジュブナイルで味わっていいのかわからないほど孤独が癒えた。ゴムをつけてやっていたけどむくむくが次第にラテックスアレルギーになったので、それからは技術が必要となった。

 白いむくむくは、僕のことを怖いとか思ってないはず。秘密の遊びも気づいてないはず。というわけで、僕はロリコンというわけだ。女なんてのは全部まやかしだ。当然僕は女から一切相手にされないが、僕もただの女はお断りだ。女なんてのはまやかしだ。とか言いながら、むくむくの快楽が一番まやかしなのだが。

 むくむくと遊んでいる夜長を考えるとすべてがちゃんちゃらおかしくなる。勉強とかしなきゃいけないものなのかもしれないが、やる気がないので、建前程度にいなしていく。むくむくのことを思うだけで朝日が夕日に替わる。

 僕が人としてなにかが欠けているのだとしたら、むくむくを手に入れた時すべてが説明されるだろう。僕はむくむくを手に入れたいと思った。結婚したいと思った。むくむくが女の人になる時までにやるべきことはなんだろうかと熱心に考えた結果、校内のポスターが目についた。「生徒会長募集」。そうだ、僕、徳を積もう。喜びの種とは何か、だったり、蒔く技術を学ぶことで、白馬の王子様どころではなく、永遠にむくむくを養える王様になれるのではないかと思った。

 でも僕は悪の道に染まった。中学校の時から、むくむくが好きだ。赤ん坊のころから、こっそり人がいないところでクリトリスを弄っている。むくむくにチャクラを説いて、ずっと僕のものである。

 意味が分からないだろう。僕は、僕が13歳の時に生まれたむくむくが好きで、現在むくむくは4歳だが、チャクラを施していつもむくむくの意識を僕が見張っている。ここに、僕の手があります。空気の中、手を泳がせると、そこにたちまち意識はあらわれます。僕の指先に、むくむくの性器があります。僕はそれを一日中こねくり回している。

 しかし、淫行という概念を最近知った。僕は犯罪者なのだろう。しかし霊体ですべてを解決している僕を誰が裁けるのだろうか。きっといとこが自立したときにでも訴えられたりするのかな。その時司法はどこまで人を守っているのかな。警察は幽霊で絶対動かないと聞いている。

 僕って罪人なんだよな。と思いつつも裁かれない。このジレンマ、お分かりいただけるだろうか? 僕は罪人じゃないとしても父親は罪人だ。僕は悪のサラブレッドなのだ。

 僕は今から生きるのが苦しくなった。苦しいと思いながら、やることもないからただ高校に通い続けた。

 中学校までは、ただただいじめられた僕だが、高校になると底辺高校に入ったこともあり成績優秀なので民度が高くなって僕にも人権が与えられている。建前なのかもしれないが。鬱屈していると「どうしたの?」と言ってくれるクラスメイトはいるし、担任も気をつかってプリントを配る時僕の代わりに後ろの席に回してくれる。

 僕は、この優しい人たちから、もっと優しさを毟り取れないかなと考えた。そんな折、移動教室で廊下を歩いていると、掲示板に

「求! 原田高校生徒会長」

とあったので、僕は早速応募することにした。

 生徒会長選にあたって、選挙応援者を三人、模造紙で作った襷、ポスターを三枚、原稿用紙にしたためた公約を五枚提出するように言われた。

 僕に話しかけてくれるくらいにはクラスメイトはいい人たちだが、その中に応援を頼める人はいなかった。僕は期日ギリギリになっても応援者を探すことができず、現役の生徒会役員が代行してくれることになった。その役員とは最後まで他人行儀だった。

 僕は習字が得意なので、毛筆で襷とポスターを書き上げた。肝心の公約だが、応募してその日のうちには書き上げることができた。

 この度第八七代原田高等学校生徒会長に立候補した森永大樹です。生徒会に立候補した理由を話す前に、僕がどんな人物であるかを知らせなければなりません。僕の生い立ちについてどうか語らせてください。

 僕はどんな子どもだったのか、一言でずばり言い表せます。それは「いじめられっ子」です。僕は気がついたら嫌われていました。それは何故か見当がつかないでもないです。僕は超自己中心主義なのです。鬼の役になって必死に走り回るのがいやだから鬼ごっこへの参加を拒否したり、とにかく必死になることが何より恥ずかしくて、体育を欠席したり、お遊戯会の稽古も休むことが多かったです。そういう性格の悪さを周囲に見抜かれて、僕は徹底的に仲間はずれとなり、村八分となりました。寂しい気持ちはないとは言いませんが、それでも生活できたので僕は平気でした。

 高校に入るといつも眠たかったです。どんなに寝ても寝足りないのです。僕は赤点ばかり取っていましたし、予習なんか一度もやったことがありません。よく英語の先生に予習をしてこなかったことを責められて教室外に出されることもしばしばありました。僕はそれだけで十分禊は終えたのだろうと思っていました。しかし、予習をしてこないことによって、クラスメイトには知らず知らずの内に迷惑をかけていたみたいです。でも僕は自己中心主義ですから、例えば僕が怒られることによって授業が進まないために予習にストックができるだろうから、各々都合が良いように考えてくれ、と思っていました。僕のことを「とにかく駄目な奴」と見做す人もいるかもしれませんが、僕はそれを否定する気はさらさらありません。纏う空気はいつだって冷ややかだけど、それでもこの高校の人たちは僕の田舎の奴らよりははるかに大人でした。使い走りにされることはないし、下手に付き合わされることはない。僕はこの高校に入って本当に良かったと思っていました。

 高校生活での一番の楽しみは図書室で過ごす昼休みでした。図書室はいつも暖かくて、そこに居る人々は干渉しないけど適度に距離を置いて、細やかに気を配ってくれました。しかしながら、何を思ったかこの高校は図書館を外部の人々に開放するような計画を採用し、僕の憩いの場であった旧図書館は破壊されました。新図書館は洒落た喫茶コーナーを作り、僕の好きだったSFの小説群は消え去っていました。図書館が新しくなって目につくのは喫茶コーナーに入ることで自分も洗練されたように勘違いしている民度の低いお喋り達とゴミばかりです。

 図書委員会に入ることも考えたのですが、調べていく内にその委員会は形だけ、お喋りたちのただの女子会程度のものだと分かりました、図書館で出会った人々は何者でもなかったのです。

 僕は、この高校はくそだと思っています。私立故かお金儲けばかり考えて本当に大事なことは何かを見抜けない。お喋りはそんなに楽しいことなのですか。楽しいことが大事なのですか。それこそ自己中心主義ではないですか。僕が思うに、本当に大事なことは、自分以外の誰かを思うことです。僕は、僕みたいな奴がこの高校に入った時に本当に居場所がなくなってしまうのを見ていられません。僕は今日を以って、自己中心主義に則って生きていくことをやめます。予習もします。だから、僕たちに、図書館を取り戻させてください。僕の生徒会長に立候補した理由はそれです。

 この選挙に当選した暁には、図書館を元に戻す、なんて現実味のないことはしません。この高校の生徒の喫茶コーナーの利用を禁止します。不満のある方は学食を積極的に使ってください。そして図書委員会を廃止します。図書委員会をまた新しく作り、応募したいと思います。僕は本当に図書館をあるいは読書を愛している人なら新しい図書委員会に入ってくれることを期待しています。

 最後になりますが、他の立候補者に比べて人脈も人徳も愛嬌もない僕が生徒会長になることに不安に思う方が大半だと思います。僕もこんな大きな賭けに出た運命の日は今までに経験したことがありません。こんな言葉を言うのは卑怯だと個人的には思いますが、僕はこれからの一年、学校と共に大きく変わりたいです。この高校に不満を持っている人、少しでも何か変わってほしいと思っている人がいるなら、僕に票を投じてください。結果がどうあれ、その票はこの高校に対するメッセージとなるはずです。

ご清聴ありがとうございました。

 この公約を提出した後、職員室に呼び出された。

「長い」

「七枚じゃだめなんですか」

「自分語りを減らせばどうにかなるだろ」

 僕は公約を簡潔にまとめた。これからやることとなぜそれをやる必要があるか。それだけを考えた。図書館をつぶし、建物をタバコを吸う場所にすると書いて先生に見せたら通った。

 僕は図書館を公園化すべく花壇に植える花を検索していた。ケシとかアザミとかアネモネとかいいだろう。

「森永くん」

 なにかとお世話をしてくれる先輩・Aだ。この人はあっけらかんとしているがなかなか図々しい。

「公約練り直した?」

「まあ、自分語りを省いたらどうにかなりました」

「自分語りってなに? そんなに自分があるの?」

 ほら、こういうところだよ。僕は嫌そうな顔をごまかすために太陽を見上げた。太陽は僕を見下ろし、いつも味方になってくれそうな顔をするが僕はそれをあんまり信用していない。

「まあ、選挙までもうすぐだし、各教室も挨拶に出向かったし、あとは日が来るのを待つだけだね」

「そうですね」

「本当森永くんってラッキーだよね。今年他に立候補者いないんでしょ」

「そうですね……」

「生徒会長になったら、誰を据えるとか決まってんの」

「まあなるようになりますよ」

「そんなの駄目だよ。生徒会をとりまく人間性、教えてあげる」

そう言ってAはセーラー服を脱ぎ始めた。おっといけないいけない。むくむくとの対話の始まりだ。

 大人になったむくむくは語った。

「副会長は安本くんがいいよ。いい人だから。書記は間島さんがいいよ。しっかりしてるから」

 むくむくは未来からやってきてたまに僕にこうやって助言する。人の眼を憚って。むくむくの長い髪の毛から何とも言えないシャンプーのすごいいい匂いがする。たまらない。僕はいつだってむくむくを報いたいのにそんなのはずっと未来の話らしい。僕はいいかげん一人のいい大人だ。むくむくを連れ去って南の国の無人島にでも飛んで、ずっと見つめて過ごしていたい……。

 あ、Aに戻った。

「どうしたの、森永くん」

 Aは無味無臭だった。未来にはどんなシャンプーが待ち受けているのか。僕はむくむくから全知全能を学ぶ。

「まあ、考えておきますよ」

「じゃあ、わたし、部活あるから」

 Aって何部だったっけ。もはや興味がない。そうなんだよ僕は、むくむく以外に考えることがない。なのに生徒会長になろうとしている。

僕には友達がいない。僕の話を聞いてくれるのなら話すけど 今まで見た夢で面白かったのは水浸しの夢。

女の子と僕は近未来的なカフェで待ち合わせして、時計の針が3時を回ると部屋の隙間と言う隙間から水が溢れ出す。客はたちまち水流に掻き混ぜられ、僕と女の子は洗濯機の中から脱出する。一緒に入っていた洗濯物は僕の実家の一室に飛び散らかす。

僕は女の子と手を繋ぎたかったけど、触れたら駄目。夢が醒める。何の前情報もなく、本能的にこの女の子はここに居て良い人じゃない、だったら僕が向こうに行けばいい。焦るあまりパスポートに細工をしてこの世を出ようとしたら追っ手がやって来て、慌てた僕に彼女は「ここに隠れるよ」と池を指さす。

池に飛び込むと、僕たちは水の中に溶けてしまって鯉がその中を泳ぐ。僕は水の泡となった。ここで目が醒める。

これだけは見た瞬間感動してついメモに起こしてしまった。当時むくむくはいたけれど、その彼女は別人だった。夢の女とは会ったことがない。恐らく今まで見てきた女性の顔からひとつひとつパーツを拝借して僕が合成したイメージの産物でしかないだろう。今となっては顔が思い出せない。

続きを見たいと夢見ながら惰眠を貪り目が覚めて明け方の空を眺め興奮したかと思ったら寝てしまった。気がついたら昼の一時。貯金というよりはたまたま残ってたお金で遊び、帰宅したら母親が夕飯を作って待っている。

昼飯に近所のファミレスでハンバーグを食べたら、井戸端会議中のおばさんに人権のない人間を見るような目で見つめられた。僕は非国民だ。

僕は隠れてタバコを吸っている。タバコをこの土砂降りの中買いにいかないと、僕は頸動脈をスパッと切りたくなるだろう。こんな低気圧、どうにかしたい。こんな寒暖差、なくしていきたい。雨どころじゃなくしたい。その一瞬の衝動を、過ぎ去るのと実行するのとでは全く違う。僕は無駄を消費する。それは人を殺さないためだし僕を終わらせないためでもある。本当ははやくこんな苦痛しかわからない身体消えて欲しいんだけど。

同じような事を三流芸能人が言ってた。しかもその界隈の娘はみんな口を揃えて同じ事を言ってた。発ガン性を疑われるメロンソーダかお前らは。ポップなんだよ。発ガン性なんて生きとし生けるもの総じて所有してる。まっとうすぎる正論を可愛さで誤魔化すな。俺はな、お前らと同じ精神なのに、脛毛腋毛髭ボーボーなんだぞ。毎日風呂入っても何か臭いんだぞ。股には重たい罪悪がぶら下がっていつも一喜一憂してるぞ。それを頑張って無視して、相手に合わせてみても、何言っても白けるんだぞ。お前らと何が違うのか。

いけない、今回こんな身の上話をしたかった訳じゃない。タバコを買いにいって、陰鬱な気持ちでさっきのような事を考えていたら案の定財布を忘れて今日僕は頸動脈を切ることになった。そういう取り決めをしたので。頸動脈切るなら何やってもいいよね。ビニール傘を叩きつけた。一瞬で骨がバラバラになった。周囲に流れた時間が一度止まって、また動き出した。ヒリヒリしている僕の見た目に反して、意外にも心はポップだ。僕は肉を剥がせば三流人間みたいだから。

寒い。冷たい。内臓が爛れていく。被爆をイメージする。僕は戦後七十年の子!被爆をわかるものか。原子レベルで一つ一つの細胞が傷ついて泣いている!僕は!馬鹿なことに!25にして傘を壊して泣いている!こんな奴に頸動脈が切れるか?あんまりにも寒くて木陰に入った。その木は毛虫が一杯でただでさえ凍える体を縮み上がらせた。雨量が増すとぼとぼと落ちてくる。はーあ、帰りたい!既に体に落ちてくるのを振り払っていくと、僕のTシャツはだんだん彼らの体液で赤く滲む。せめて口の中には入れたくない。雷が鳴った。この音は絶対どこか焼けた。轟音の雨が落ちてくる!同時に毛虫も!よろめいて尻餅をつく僕に降り注ぐ!こいつ、蛾じゃないだろうな!「ちりちり、むにゃっ」と間食がして、口の中に入ったんだと知る。甘酸っぱい血が僕をシャットダウンさせた。

全身がヒリヒリと痒くなって熱を持ち、穴という穴から泡が吹いていく。僕の皮膚も血肉も骨も、むくむくと液体に近づく。溶けて溶けて、パチパチと弾けて、やがて消える。空気に混じった僕は昇華されて、晴れ間が差し込むほうへ飛んでいった。このままだと太陽の熱で死滅しそうだ。空を飛んでいると、一人の女の子が僕を見上げる。僕に絡まった赤い風船を掴むと、彼女はそれを持ち帰った。

彼女は最初小学生だった。犬も筍も驚くスピードで成長して中学生になった。綺麗な泥団子さえ作れれば機嫌が良かったのに、中学生になると急に自意識過剰になった。大して胸囲もないのに男子の視線が気になり、大した個性もないのに女子からの評判に落ち込んでる。僕だって人のこと言えないようなくそみたいな学生時代だけど(9年間ぼっち飯だったし)、端から見ると本当につまんないことで悩んでる。もう少し元気だったら、何が勘違いで何が正気だったかを検討できるけど中学生になると勉強しなきゃいけないから憂鬱になるのは仕方ないよね。やっぱりあの子は引きこもり始めた。

引きこもるのか。別にいいけど……。でも勿体ない。自分の中身ばかり気にしてたら、自分の中身がいかに素晴らしかったり、全く理想に足りなかったりするのがわからないままだよ。人のこと言えないけど。端からみたら、いいもの持ってるはずなのに。そして君が散々ディスってるあの子たちも同じなんだけど。

むくむくは、ブロマイドのようなもの作ってるけど、誰が見るんだよ。サインも次々に作ってはボツにしてるし。迷走してるなあ。義務教育ぐらいレールに従って走ってみろよ……。僕はそれでも上手くいかなかったほうだけどさ。

僕は初めて女の子に話しかけた。

「おーい」

聞こえるはずもないだろう。僕は空気のようなもので、振動させる手段を持たない。

「なんですか」

と女の子は振り返り、きょとんとした。まずいかもしれないなあ、と思った。男の声だしなあ。普段着替えてるのとか排泄してるのとか見てるのバレたらどうしよう。立場が逆なら間違いなく自殺案件だ。

「……? 幻聴?」

確かに、彼女は幻聴が聞こえてもおかしくないような世界観で生きている。不思議ちゃんなんだよな。客観がぼんやりして主観だけが拡がるその世界はファンタジーだよ……。僕は意を決して、こう告げた。

「ちゃんと学校行けよな!」

罪悪感からその日は近くの公園で時間を潰していくうち、意識が回復した。

気がついたら木の下で寝転んでいて、体中雨垂れでびっしょりしている。内臓が悲鳴を上げ、僕は帰宅しようとしていたのを思い出す。なんか壮大な夢を見ていたような。今となってはどうでもいい。寒くて堪えている。家に帰ると、あったかい唐揚げが待っていて有り難い。胃が弱くなっていてあんまり食べられなかった。風呂に入って、歯を磨いて、寝る。この晩以来、夢がなくなった。厳密に言えば、むくむくの夢を僕が監督・脚本・撮影していた。僕は不眠症のような、でもちゃんと寝ていた。

 寝れば寝るほどむくむくが成長していく。むくむくはただの白い丸だったが、有象無象のかんばせと化していた。僕は生徒会長になった。Aの言う通りにしていて、つつがなく過ごしていた。

 ある夢むくむくが綺麗になったので、びっくりしていると、初体験を終えた次の日の話をしていた。むくむくは謎の性欲に悩んでいたので、手近なところで初体験を済ませたようだ。

 その相手が大麻を吸っていたので、むくむくも大麻を吸った。まあ僕もタバコを吸っているので似たようなもんだろうと思っていたら、その日から、むくむくの残像が変わっていった。むくむくは虎になったり、竜神になったり、麒麟になったりしたけど、ピンクの霞が僕をつつんで、すっきり消えてしまう。虎になって僕を噛み、竜神になって僕を雨でズタボロにし、麒麟になって遠くに行って、結局は姿かたちすっぱり消えていく。時に彼氏の痕が残っていて、彼氏の初恋の相手とか、母親のルイヴィトンが映っては消えていくけど、まあ瞬きみたいなものだったので、むくむくも彼氏のことがそんなに好きじゃないことくらい知ってたし自覚してたし、だけど、大麻でむくむくの脂肪があっという間に溶けてしまった。

 最初はむくむくが消えたとかは気づかなかった。たちまち手を空気にくぐらせば、むくむくの性器を感じ取れていたけど、なんか急に固まってきて、いつのまにか存在もしなくなった。

 僕は鈍い感覚の中生徒会長をやった。図書委員会は解散して新しくできた。僕の初期の熱意が伝わったのか、打算性のある委員会を運営することができた。喫茶はさすがに閉鎖はしなかったが、人が心を改めるとこんなに変わるのかというくらい、空間が変わった。だけど、まあ、むくむくはいない。

 生徒会長になっていろんな事件があった。プールにゴミが浮いていたけど、それは勝手にホームレスのおじちゃんが敷地内に入って鬼ころしを飲んでいたからだったのだが、僕がおじちゃんに話を聴いたら、「お前さん、寂しかろう」と言われてそれ以来来なくなった。

 むくむくのような罪業が眩しくて、修学旅行や予餞会で詩を配ることをした。その詩は、いつもむくむくに対してやってきたことを文章化したものだった。詩は一冊千円でよく売れた。学年400人いて、男子が250人くらいなら、180人くらいに買ってもらえたと思う。みんなにとってはさぞ不思議な詩だろうと思っていたけど、案外みんな知ってる口なんだろう。そして僕が犯罪者の息子っていうのもあいまって興味を持たれていたのだろう。生徒会長になるということはそういうことだ。

 文化祭のイベントで誰もステージに上がることがなかった。誰も、かっこつけることに興味がなかった。変な時代だなと思っていた。僕は宗教音楽をかけてポエトリーリーディングをした。親父の話をした。いつも、いつも、僕はまっすぐいきたかったのに、いつも、いつも、そういう道が用意されてないんだ。いつも、いつも、誰もがやりたくないことをしてきたんだ。犯罪者ということにはなっているが、誰かがやらなかったことをやったまでだ。親父が乗り移って、書いてもないのに言葉が出てきた。

 むくむくのことを話そうとしたとき、むくむくが乗り移るというよりは、僕自身が覚醒してきて、今までの僕の行いを検証するかのような体験をした。その中で、むくむくは僕の性愛が心の底からいやだったことがわかった。大麻は罪業だが、僕はもっと罪業な訳で、さすが犯罪者の息子のカルマを背負っているだけあるなと思った。だけどどういうわけか罪悪感はなかった。そうするしかなかったし。

 体育祭が終わり、僕の任期も終焉を迎えた。生徒会総会が終わり、次の生徒会長が決まった。翌日、情報誌で大学の募集を探す。僕はその後手当たり次第大学を受ける。第一希望は落ちる。腹立たしい。仕方ない。仕方なくない。今にもこの一つの生命の可能性が黒点へと収束していきそう。俺を見いださない社会は正しいが、社会に対して加害者面を貫いていられるほど自分が悪いと思えない。確かに政府を初め世の中の仕組みは綻び始めているのかもしれないけど、文化人ではないし、労働者でもない僕は何も申し上げることがない。せいぜいひっそりと立身出世させてくれぐらいのものか。それも贅沢な気がしている。やはり、この生ぬるい精神には工事現場での肉体労働で全身改造しないと信頼されないのだろうか。苛められそうだなあ。

こういう人は僕だけなのか。進学にもありつけず、あらゆるチャンスをつるつると享受し損ねているのは。

知り合いの近況を見つめていると、うまくやってる人が1割、割りとうまくいってないっぽい。進学できるだけ羨ましい。そうもいかない人間が僕の周囲には多い、受験を経て人格破綻者として健常者の仮面をかぶって生活しているが上手くいかないなあ、みたいな人がほとんどで、どんどんカルマがかさんで人生を辞めて発狂してる人もいる。僕も逮捕までは考えてないがそういう部類なのだろう。繊細だし。AO入試、やったことがあるけど上手くいかなかったのは「自己分析が足りない」という回答ではいまいちだ。正解は「自分が健常者として生きるまでの想像ができない、と至るまでの自己分析が足りない」だ。一生懸命やるだけやって恥ずかしいなと思う。その時間、徳活やって貯金してたら今もっと楽できたのに。

財布を確かに掴んで自販機に向かうと、次は小銭が足りなかった。そういう所がある。

わざわざ喫煙所の近くを通り、副流煙によって吸った気持ちにさせる。蚊取り線香の匂いでもいい。帰ったらゴミ箱から吸い殻を取り戻して火をつけよう。そんな僕に、木の葉の大群が押し寄せてきた。葉っぱが枯れるような季節でもない。よく見たら鱗翅目が一気に僕に襲いかかってきた。僕は彼らの鱗粉にノックアウトした。

 むくむくのことを急に思い出した。むくむくは山麓にあるポピーに生まれ変わったらしい。むくむくは理想を手に入れた。むくむくは愛だけほしかった。ハチや蝶に囲まれて、退屈しないらしい。僕は退屈なので、予備校の知り合いに貰った大麻を吸った。