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「shangri-la」

僕は吃音で会話が成立しない。ので、ナンパができない。インターネットで誰かと出会ったとしても、きっと言葉によって僕が安全であることを証明する熱意が伝わらないだろう。僕はセックスがしたくてしたくてしょうがない。そこで、ラブドールを購入した。

両親が外出中に宅配してもらい、貯めたお小遣いをはたいて、空気達磨を迎えた。博多駅にあるショールームで品定めして、ネットで最終的に決断したため返品するわけがない。名前はりりと言うそうだが、僕は好きな女優にあやかって「ななみ」と名付けた。ななみと僕は早速ベッドの上で遊んだ。連日遊んだ。親の生活音に怯えながらも、寒い部屋でかじかんだ身体を温めた。

文明はすごい。生活の質がぐっと向上した気がする。と言っても、就労支援に通っている僕の生活が向上したって世界には何の影響もないのだろうけど。最初は無機質な達磨なのに、僕の熱が伝わってだんだん温まるのが何とも言えない。僕が、彼女に息を吹き込んでいるような気さえしている。たまに、こらえきれなくなって「ななみ」と呼んでしまう時があるが、もちろん返事はない。ラブドールなんだもの。

僕はよく映画を見る。障害者割引が利くから。「宮本から君へ」を観て大号泣していた。ハンカチを忘れてしまい、鼻水ぐぢゃぐぢゃを長袖で拭いていたが次から次へと涙が止まらない。映画が終わった後、隣に座っていた女の人にハンカチを貸してもらうこととなり、その場で眼鏡を拭いて返したところ、なんとななみにそっくりの顔がそこにあった。呆然としてしまう。

僕は生身のななみに会いたいと思ってしまった。ななみに会うために足しげく映画館に通う羽目になり、見たくもない映画を見ていった。ラブドールのななみに前ほど欲情することはなくなったけど、それでも特に寒い日なんかは触ってた。でも名前を呼んでも返事がないのがなんだか許せなかった。

映画ばかり見ていたらお金がなくなってしまい、生活に支障が出てきたので僕は部屋にある要らないものを片っ端からフリーマーケットや古本屋で売った。映画を見ても物にならないから悔しいなあ、とその時思った。勇気を出して買った原紗央莉の写真集が破格の値をつけられ、しょんぼりして100円を受け取ってブックオフを出た。するとななみが目の前を歩いていた。僕はここで話しかけないで何が人生なんだろうと思った。

「な。な。な。な。」

どうしよう。なが止まらない。周囲の人間は僕の異変に注目しはじめて、ドミノ式でななみさんにも伝わった。

「ああ。この前の人ですね」
「は、は、はい、あ、あ、あの、ぼ、ぼぼぼぼ、ぼっ、くくくぼくは、そ、その、すすすすすす、すす、すき、ききききで、で、で、すすすすすす」
「......まあ。近くのドトール行きましょう」

ドトールのナプキンにボールペンで告白したところ、ななみさんは有紗さんであることが判明した。有紗さんは僕の吃音を気にしなかったけど僕の告白をすごく疑っていた。

「なんで私なの」
「それは」

ラブドールに似てるから、だとは死んでも言えない。でも似てるから好きだとしかいいようがない。僕は、凄く久しぶりに嘘をひねりだした。

「夢で逢った人に似ているから」
「そうか。そしたら、今度ジョーカー観に行こう」

そうして、それきり、僕はななみとベッドの上で遊ぶことはなくなってしまった。有紗はななみと違って名前を呼ぶと反応するし、何より段違いにあったかかった。有紗が家に来る前に僕はななみを売ることにした。あんなに欲していたものも、今となっては全く未練がない。僕は元の箱に丁寧にななみをしまって、宅急便で引受主に送ることにした。ふと見やるとななみの背中にファスナーがついている。

最後に緩衝材を詰めて、ななみに「今までありがとう」と言った。すると、箱の中から緩衝材が飛び出してきて、むくむくとななみが起き上がった。ななみは、悲しそうにこちらを見つめて、まっすぐ僕にキスをした。

「なんだ君は」

びっくりして、あまりにびっくりして僕の吃音がどっか行った。

「ずっと我慢してた。ベッドの上で感情を出さないのはもちろん、君が飽きてきたのも知らないふりしてきたし、君の情熱が他の人にバレてしまったのもずっと我慢してきた......。でも、君のそばにいられないのは、どうしても耐えられない」

「でも、だって、ななみは、ラブドールじゃないか......」

「ああ。もう。ななみだって、そう思ってきたけど、君の息で芽吹いて、情を感じちゃったことは、どうしようもないじゃない。昔みたいになりたいとはとてもじゃないけど言えない。だけど、この部屋にななみをしまっておくだけでも、だめかなあ?」

そんなあ。感情のある人形が現れて、急にそう言われても。

「集荷がもうすぐきちゃう」
「ななみのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃ、ないけど......」
「じゃあ、傍に置いてくれる?」
「......わかったよ」

そういうと、ななみは物体になった。もし、感情のある人形がメルカリの受取人の元に渡ったら地獄だろう。僕は先方に連絡をして取引を撤回した。

僕は、ななみが好きなのか有紗が好きなのかわからなくなったし、吃音が治って有紗に会いづらくなってしまったこともあって有紗と連絡を取らなくなった。

クリスマスがやってきた。僕は吃音がすっかり治ったので年明けから本格的に一般枠で働くことにした。その前に旅行がてら唐津に行くことにした。カバンの中にななみを詰めて出かけた。無人の混浴風呂を見計らって、ふたりで入った。身ぎれいにして、部屋に戻るとななみが動き出した。

「本当にうれしい。ありがとう」
「いいや、こちらこそだよ」
「もし、困った時は後ろのファスナー開けてね」

僕がごちそうを食べているのをじーっと見つめながらななみはそう言った。
唐津から福岡へ戻る時、筑肥線が火花を散らして止まった。なかなか復旧せず、ほぼ崖の上で止まってしまった。やがて停電し、茫然と雪景色を見ていた。なんとなく、ちょっとした出来心で「ななみのファスナー開けたらどうなるんだろう」と思った。僕はカバンからななみをとりだし、ファスナーを開けた。すると、中にはたくさんのあったかい桃が入っていた。

ひとつ取り出して、齧ってみると青臭くて食べれるもんじゃない。悩んでいると、おじいさんに絡まれてしまった。そのエロい人形はなんだ? と訊かれ答えあぐねた。おじいさんがあったかい桃に目をつけて、やはり齧ってみるもとても不味かったらしく、窓を開けて外に投げてしまった。

「あっ、ちょっと何してくれたんですか」
「はあ。すまんなあ」

僕が悲しみに暮れていると、いつの間にか雪がやんで晴れ間がさし、筑肥線は動いた。この因果関係に気づいた頃には、ななみのあったかい桃はずいぶんと消えてなくなってしまっていた。あれは幻覚だったのか? でも、ななみがない。ななみの厚みどころか、皮すらなくなっている。僕は取り返しのつかないことをしてしまったようだ。

カバンの奥に、ひとつだけあったかい桃が残っていた。僕はどんなに青臭くても食べきってやろうとした。一たび齧ってみると、ものすごくやわらかくて甘くて果汁がしたたった。