2021年10月17日(日) 霜田哲也 @TARPノート
ドローイング ZINE『TARP vol.02』より、参加作家による日記や写真、絵を更新しています。先日パークギャラリーで開催していた、TARP vol.2 原画展 “STORYLINES” の一部展示作品を、引き続きパークギャラリーのオンラインストアにて期間限定で販売中です。展示は終わりましたが、気になっている作品がある方はぜひオンラインストアでも引き続きおたのしみください。
『TARP ノート』は、絵描きたちによる投稿を更新しています。
今回は霜田哲也さんの投稿です。
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「メメントモリ: to 二十数年前の私」
今朝方、鳥が死んでいた。
死んでいた、と言うと悲惨な最期をイマージュしてしまうが、びっくりするくらいそれは美しく、その横たわる姿が東京の雑多な街の景色からそこだけ綺麗に切り抜かれたような、崇高な光景だった。鳥の名前はついに判
らなかった。
初めて死んだ人に会ったのは、勿論お葬式でなのだけれど、身内でもなんでもない、祖父母の家のお向かいさんの、老夫婦のおばさんの、全くしらないお母さんのお葬式だった。その時分、私はまだ小学生の二年生くらいで、喪服なんてまだあつらえていないので、小学校の制服姿で父親に手を引かれ、大きな葬儀場という場所にはじめてやってきた。当時の制服は白すぎるブラウスに紺色の短パンという具合だった。冬には膝が凍えて、人肌なのかと疑問に思うくらい乾燥して、肌がやや固くなることもしばしばだった。
死んでしまったはずのおばさんのお母さんは全然、お昼寝をしているような寝顔で、こじんまりした棺桶に、銀色の布で包まれて、収まっていた。
「これが死んだ人なんやで、触っときや」と老夫婦に手を取られ、血の通わなくなった冷たい皺くちゃの頬に触れてみたけれど、ユニバーサルスタジオジャパンのクラッシュバンディクゥーの着ぐるみに初めて会った時のようにてんでわたしには何にも感じなかった。まるでそれは偽物のようで。
その当時、テレビではとある男性歌手の歌唱によって「大きなのっぽの古時計」が大流行していた。連日のようにチャンネルからそれが流れてきては、幼い私は事あるごとにそれを口ずさんで日々を過ごしていた。正直、歌詞の物語性と言うよりも、メロディアスなコード進行に心奪われて、初めて歌に酔いしれた瞬間だったかもしれない。けれどある晩、湯船に浸かっていると、えも言われぬ恐怖に襲われて、泣いてしまった。
ある風景が私の脳裏をよぎった。それは家の近所の、路線の高架下。小さなたこ焼き屋がある所で、嫌にリアルな蛸の人形が三匹並んで軒先に吊るされていたのだけれど、なぜかその店先の景色がやけに黄色いモヤに包まれて淡く思い出されるのと同時に胸が締め付けられるような、そして何もないただただ真っ暗な空間に投げ出されるような虚無感をも感じるのだった。そしてそれは決まって、湯船に浸かって「大きなのっぽの古時計」について思いめぐらせている時分に限ってであった。
そしてその発作は定期的に私を苦しめた。
恐らくそれは、初めて私が死を意識した瞬間だったのかもしれない。それ以前にもご近所さんのお葬式に赴いて実際の死にこそは触れてはいたものの、それは全く完結された死であって、幼い私にはそのコンテキストを読み解くのは些か難解であり、表面的過ぎだった。
しかし、同時に思い描かれる、モヤに包まれた高架下のたこ焼き屋の風景についてはどうも謎が残る。なぜ、その場所を私はかの曲から連想し、かつ心理的に揺さぶられてしまうのか?小学生の私は当時、その高架下のたこ焼き屋に通い詰めた思い出はなかったし、ましてやそこのたこ焼きがとんでもなく不味くて嫌な気持ちを思い返した様な気もしない。
これについて現在の私は、しばし思いめぐらせていたのだが、おそらくこの件については小学生当時の記憶のみに頼るのでは無く、それ以前の、幼稚園の時代まで記憶を遡らざるを得ないのではないか、と感じた。というのも、その店先は私の登園ルートであったように思う。
その当時は遊具がほとんど無かった更地のような公園が、私の幼稚園の登園徒歩組の集合場所だった。先頭の若い女性の先生に続き、園児たちは2人1組になって手を繋ぎ登園するのだが、私はあまりお友達と手を繋ぐのが得意では無くて、最後まで組を作れず残ってしまった。そして決まって園長先生と手を繋いで登園したように思う。
園長先生は当時、既におじいさんで、骨に皮を貼り付けたように萎びた顔に、鋭い眼差しがギラギラ輝くお化けのようで、私は正直怖かった。
実際とても変わり者で、幼稚園の庭に咲くびわのみを丁寧に数え、そしてそれをしっかり把握していた。確認を怠らず、毎日のように数えている始末であった。
園長先生と手を繋ぐ、といっても幼い私の手のひらに園長先生の手は余りにも大きいので、いつも必ず小指を差し出され、私はそれを握った。その小指さえゴボウのようで、強く引けば抜けてしまうんじゃないかとヤキモキした。
集合場所の公園を抜け、住宅地の先の飲み屋街を通り、一度商店街のアーケードを横断すると例の高架下に出るのだが、私はいつもと言って良いほど例のたこ焼き屋の軒下に吊るされた、リアルな蛸の人形に見入っていたように思う。
私は当時から気になるとそれに集中してしまう性であったので、蛸の人形のあたりに差し掛かると妙に歩みを緩め、それがもとで園長先生はクイと小指を強く引くのだった。
記憶はほんのそれだけなのだけれど、ここまでの事象を改めて並べてみると、やはりこの蛸の人形というモチーフに引っ掛かりを感じる。というのもそれは人形であっても蛸であり、生き物であって、私はそれをテレビや水族館で見て既に知っていた。そして同時にそれはたこ焼きの具材でもあり、そこに命はないわけである。しかしどこか生きているような、今朝方釣り上げられ、まだ息のあるような精巧さを伴って、いつもそこに吊るされていて、やはりその仕様の妙に私は不思議な念を感じていたと思う。そしてそれは一方でいつもそこを通る時に、大変失礼ながら園長先生に対しても同じ念を感じていたとも思う。つまり、それは生きているとも、死んでいるとも言えないような曖昧な状態が、私の心の距離感を狂わせ、惹きつけていたのかも知れない。
しかし、その時分においては私はまだそれが如何様な物であるかは知れず、先に述べたお葬式の経験を通し、初めて完璧な死に触れるわけだが、そこにおいても私はまだ、それが何なのかわからなかった。けれども、ここまでに於いて、理解し得る材料は幾分か揃っていたわけで、ビンゴゲームで言うリーチの状態に非常に近い訳であった。
では「大きなのっぽの古時計」が何故、引き金になったのか。これも改めて内容を追うと、おじいさんは亡くなってしまい、愛用していた大きな時計だけが残り、そこに思い耽る詩であるのだが、モノは残るが肉体は消滅する摂理(モノも長いスパンでみると消滅はするが)について私はふいに気づいてしまったのではないかと思う。
消滅したはずの、同時にモノとしての形をとどめつづけるイマージュが、それはたこ焼きになったはずの蛸の人形であったり、生と死が混在したような園長先生の存在であったり、それこそ偽物のように死んでしまったご近所さんのおばさんのお母さんの死であったりが私の日常に介入し始めたので、それまで生一遍の私の日常を揺るがし、死というものの概念についての理解の助長を行った瞬間が、湯船の中で唐突に訪れた、ということではないだろうか。
私はお風呂に浸かりついつい物思いにふけるタチであるので、それが起こり得たことも否定できない。つまり、あの不意の不安感は言い換えるならば私の心の成長の瞬間であったのではないか、と二十数年越しの私は思う。
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霜田哲也
大阪生まれ。
ルーティンの結果、ゲシュタルト崩壊した先を目指す。
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