ウミユリ海底譚 歌詞 考察
はじめに
この記事が多くの人に読まれるとは思っていないので、自己紹介する気にもあまりなれませんが、一応。私は経済学を専攻している大学生です。到底敵いませんが文学や哲学に興味がありますし、そういうことを考えるのは好きです。(現役時は文学部を受けました)
話は変わりますが、歌詞の解釈に関する私自身の考えを述べたいと思います。私は、歌詞は必ずしも解釈をすべきだとは思いません。敢えて見方を固定しないことで、年齢や経験を経て、歌の解釈が個人の中で柔軟に変わっていくのも面白いとかんがえているからです。
解釈をする過程では、ある個人視点から見る、つまりある種の色眼鏡を通すことは避けられない。だから、解釈には正解がないし色々あっていいと思います。確かに、なんらかの正解はあるのかもしれないけれども、どうせ歌を作った人の考えが全てが分かるなんてあり得ないのだし。
この考察だって私の主観がかなり入っています。これを正解だと押し付けるつもりは全くありませんし、他人から見れば違っていると感じる部分も多々あると思います。だから、違う意見なり感想なりがあれば私はそれを聞いてみたいです。
ウミユリ海底譚について
ウミユリ海底譚は、n-bunaの13作目となるオリジナル楽曲だ。
この歌のメインの登場人物は「僕」と「君」。
歌を作っている、つまり音楽をしている「僕」と彼から離れていく「君」との別れが「僕」の視点から描かれている。
そもそも、ウミユリとはどのような生物だろうか。
名前から勝手に植物を想起していたが、ヒトデやナマコと同様の棘皮動物門に属する生物のことらしい。漢字でも「海百合」と書くように、植物のユリのようなかたちをした深海の生き物で、幼体の間は自由に海を泳ぎまわることができるが、成体になると岩などに固着して生活を営むことが主だという。
現在では水質の変化が少ない各地の深海に棲んでいて、生きている化石とも言われている。
ここで、あえてウミユリが選ばれた理由を考えてみたい。ウミユリは上にも述べた通り固着生物だ。この歌の歌詞では、海底で浮遊したり固着したりといった生活を送り、海の外へ出ることができないウミユリは、今いる場所に取り残され、「君」が去っていってしまった後を追うことができない「僕」のメタファーだと考えられる。
また、関係があるかは微妙だが、植物の百合の花言葉にも目を向けてみたい。百合の花言葉は諸説あるが、有名なものを挙げると、純粋、無垢、自尊心だ。
ここには、「僕」の、音楽への純粋な気持ち、そして自身の音楽作品に対するプライドの意味も込められているのではないだろうか。
「君」は僕の音楽を、そしてそれに夢中になる「僕」自身を理解してくれず、「僕」から離れていってしまう。「僕」は「君」への想いと、音楽に対するプライドとの葛藤に苦しんでいる。最終的には音楽を選ぶことになるのだが、曲中では、そこに至るまでの「僕」の心の動きが繊細に綴られている。
歌詞本文の考察
最初の二行は、「僕」の音楽を理解できすに離れていく君に対する僕の心の叫び(=SOS)だろう。
「君」は「僕」の歌を理解できずにそれを笑っている。
“空中散歩”は、まだ幼体のウミユリが海中を浮遊している様子だ。彼はまだこの段階では「君」を追いかけようとしているのだろうか。
ウミユリは水質変化の大きい環境では生息できない。“灰に塗れていく”という表現から、僕が生きづらさを抱えていることが窺える。
“息を飲み干す夢”は、
息を飲み干す=吸った息を使い果たす=新たに息を吸えない
と考えると、ここにも「僕」の生きづらさが暗に示されていると捉えられる。
“揺らぎ”とは、深海にいる僕が水面越しに空を眺めているため、空がゆらめいて見えることを表している。
また、“僕の手を遮った”からは、海の外(=君の側の世界)に行こうという僕の意志が断たれてしまったことが読み取れる。
“夢の跡”とは、「おくのほそ道―平泉」に載せる、松尾芭蕉の俳句からの引用だろう。あるできごとのあった現場のようすが、すっかり変わってしまっていることのたとえ、と辞書にある。「君」と過ごしたいつかの日々が、今ではすっかり様変わりしてしまった。“君の嗚咽”からも、「僕」から離れる時に「君」が泣いていたことが読み取れる。
また、“吐き出せない泡沫”というフレーズに注目してみよう。ここでも「僕」が海の中にいる、つまり「君」に置いていかれて取り残されている。海の中なら呼吸すれば泡が口から漏れるはずだが「僕」はそれを吐き出せていない。よって、この歌詞には「僕」がうまく呼吸できておらず、息を吐けずにいることが表されている。
そして“庭の隅”は新美南吉の詩『庭の隅』から引用とされていると考えられる。
ここで、新見の詩の全文を参考に載せておく。
ここで、先に出てきた、“灰に塗れていく”の“灰”は、この新見の詩と関連があると推測できる。新見の詩の一部を抜粋すると、
詩から、雨蛙は自身が住んでいる灰色の石に体も心も同化していったことが読み取れる。蛙の心や世界観は冷え切ってしまった。
ここには、「僕」の精神世界のメタファーである海の底が灰に塗れてしまったことで、彼の心や世界観も冷えていってしまう恐れが暗示されているのではないだろうか。だから「僕」は、自らの心が灰に塗れるのを恐れて、泡沫を吐き出せない=呼吸ができないのかもしれない。
解釈が長くなったので、歌詞の一部を再喝する。
“光の泳ぐ空”とは、先ほどと同様に海の底から空を見ていることを描写している。プールや海の中から水面を見上げた時、太陽の光が水面に反射してひどく煌めいて見えた経験が誰でもあるはずだ。海の外、つまり「僕」の心が生きている世界の外側には光=「君」がいる。それを「僕」は海の底から眺めている。
また、ここでの“文字”とは、「僕」の書いてた歌の歌詞のこと。おそらくこの歌詞は「君」のことを想って書いた歌詞だったんだろう。でもその歌詞の奥に込めた「僕」の気持ちは「君」には伝わることがなかった。「君」の心は海にいる「僕」から離れていく。海の外へは届かず行き場を失った「僕」の言葉は、水面に浮遊したまま、波に流されていってしまう。
“もっと縋ってよ 知ってしまうから 僕の歌を笑わないで” は「君」に対する「僕」の心の声だ。「縋る」とはしがみつく、頼りにする、という意味である。この歌詞は、「君」が離れていきそうな予感がした「僕」が、二人の関係の終わりがくることを知りたくはないという気持ちから、もっと自分に縋ってほしい、離れていかないでほしい、自分の音楽を理解してほしいと胸の内で叫んでいることを表している。
そして、ここから「君」を突き放すような「僕」の心情が表れてくる。“海中列車に遠のいた涙”とは、海から離れていく「君」が流した涙のこと。「僕」は「君」が自分のもとを去って行ってしまうなら、「君」が流した涙も取り去ってほしい、そして「僕」のもとへは戻らないでほしいと思っている。去っていく「君」が残した涙を見てしまうと、「僕」は寂しさに襲われてしまうだろうから。「君」への想いが断ち切れてはいないのにも関わらず、「僕」が「君」を突き放そうとする理由はもう分かるだろう。「君」は、「僕」が身を捧げて作り上げた音楽を理解できず笑ったからだ。
“空中散歩”は、先程と同様に、まだ幼体のウミユリが海中を浮遊している様子だ。“四拍子”とあることから、「僕」は「君」ではなく音楽を選ぶと決めたことが示唆されているが、まだゆらゆらとあてもなく彷徨っている「僕」。ここにも「君」のへ思いを完全には断ち切れていない「僕」の曖昧な心模様が描かれている。
ここで時間が経過したようだ。空の底が藍に呑まれていくという表現から、日が沈み、空が深い藍色に染まる情景が目に浮かぶ。「僕」は依然、灰色に塗れた海の中で、夢を描いている。この夢とは、音楽で生きたいという夢と、「君」と一緒にいたいという夢のどちらも含まれていると考える。
そして、この空の情景は「僕」の心と連動し、「僕」の心の中にあった光も消えてしまう。先にあったように、“光”は「君」の隠喩だ。「君」の背中すら見失った「僕」の想いは次の歌詞に描写されている。
この歌詞での夢は、「君」と一緒にいたいという願いの意味が強いと考えられる。「僕」はまだ「君」と過ごした日々を忘れられないけれども、その日々はもう続くことはない。そう意識した「僕」の心では、離れていく「君」への切ない想いが高まっている。
「僕」は光(=君)に手を伸ばした。でも、「君」を引き留めることはできなかった。去っていた「君」を眺めている「僕」。夜は一層深くなっていく……。
この歌詞は、「君」に対する「僕」の想いだ。「君」は「僕」に嘘を付いた。憶測でしかないが、「音楽をしているあなた、好きだったよ」的な優しい嘘だったのではないだろうか。「僕」はそんな嘘をつく「君」の口を塞ぎたくなった。口先だけの優しさなんて、もういらなかったから。
二人がお互いに「信じてた」って笑い合うような結末は、もう「僕」と「君」との間には生まれないことを悟った「僕」。
「『君』は『僕』のいる場所にとどまらずに離れていって。別れる今『君』は泣いているけど、『君』には笑っていてほしい。そして『君』は『僕』から遠く離れたところで輝いていて。」
このような「君」の幸せを願う「僕」の愛が、この詞には歌われているのかもしれない。
この辺りから自信がないけど、なけなしの想像妄想力を駆使して足掻いてみる。
「僕」が描いた歌の中の「君」は色褪せることがなかった。一方、現実では「君」の心は僕から離れていく。叶わないとは知りながらも、「僕」は「君」からの愛を欲していた。でも「君」の愛は「僕」が知らない誰かに向けられているようだ。
「僕」は周囲の人から、「僕」の音楽が活動に対する期待の言葉をかけられていた。しかし、「僕」はその周囲の期待に耐えきれず、心が壊れてしまった。でも「君」はそんな言葉や僕の精神的な痛みには気づかないふりをして、「僕」ではない誰かと笑っている。
「僕」の音楽に対して理解を示すような「君」の言葉なんてもう求めないから「僕」から離れていかないで、そばにいてほしい。だから「僕」の音楽を分かっているというような嘘をつく「君」の口を塞ぎたい。「君」と「僕」はお互いのことを十分には理解し合えなかった。でも、今となっては、もうそんな曖昧な愛でもいいから…..。「僕」が「君」へ切ない想いを募らせていることが伝わってくる。
ここでは、音楽を理解してほしいという「僕」の気持ちが強くなっている。“なんでもない” とあることから、ひとつ前の歌詞で「僕」が「君」へ募らせた想い、つまり音楽を理解してくれなくてもいいからそばにいてほしいという思いを「君」にはっきり伝えることはなかったのだろう。僕はやっぱり、音楽という夢を一番に考えたし、それが理解されずに笑われることが耐えられなかった。
“海中列車”という表現で、「君」が「僕」から離れていくことが再び示されている。どうせ「君」が「僕」のもとを去ってしまうのなら、「君」が流した涙も消え去ってほしい。「僕」の心が「君」への切ない想いに囚われないように。
そして「僕」は音楽の道へ進む。別れ際、「僕」も「君」も泣いていた。でも「僕」も「君」も笑える日が来てほしい。おそらくそれは別々の場所だろうけど。SOSはまだ「僕」の心の傷が癒えておらず、助けを欲していることを表している。
“最終列車”という表現は、「君」がもう戻らないことを明らかにしている。そして「僕」と「君」は泣き止んだ。二人は悲しみを受け入れ、別々の人生へと足を踏み出した。
だけど、僕は「君」のことが忘れられない。残された「僕」はまだ、去ってしまった「君」との日々に想いを馳せ、いつかの思い出に浸っていく。
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