中島めも


この1ヶ月くらい、中国古典の「荘子」を読んでる。いわゆる万物の根源である「道」に則したあり方を語った老荘思想の代表作。いまどきハーバード大の若者にも人気らしい。

その中で「不射之射」という話があるのだが、これは元祖スポ根の短編小説でおなじみ、中島敦の「名人伝」の題材となった話である。

例えば、物語で書かれている「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」などは、一見ボケたようにも思えるが、荘子の中心的な考え方「万物斉同」を表していると思う。

ここまではまあいいんだけど、Wikiで確認すると「主人公は本当に名人になれたのか」という議論があるらしい。

物語中、仙人の下で修行した主人公は、そののち弓を手に取る描写がなく、ただ周りの人々が彼を名人と呼んでいるだけ、結局主人公は弓矢もその使い方も忘れてしまったので、解釈が読者によって分かれるらしい。
確かにそうだけど、いまさらながら、ナンダッテーって感じ。

思うに、老荘思想っぽくいえば、主人公は「道」に至るなかで、その媒体である弓矢を必要としなくなった、のであり、弓矢の名人になれたのかは特に問題ではない、のではないか。
たとえ、不射之射を会得できなかったとしても、もはや重要なのはそこじゃないというか。

でもそれだと何の名人伝だよって感じなので、
弓矢にこだわるなら、少年マンガにありがちな強さのインフレか作者自身まとめきれない無限の世界が始まるので打ち切った、と考えてもいいんじゃないか。

(投げた、弓矢だけにね)

ちなみに「荘子」の作者である荘周の人物像は、権力に流されずありのままに生きた人として定評があるが、一方で、勝ち組になれなかった典型、説明が上手いだけで中身は二番煎じという評価もあり、まあねーって感じ。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html

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