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虚無について

悟りなどの探求を始めると
虚無という言葉に出会います
仏教の世界観ではこの虚無とは
あらゆるものが無情である

無。。。
何もないこと
宗派や人それぞれに
この虚無の捉え方も違うのかと
思うのですが

私が悟り体験をしたすぐあとに
ある種の絶望感を抱いた時がありました
すべて決まっている

そう、大きな視点から観たときに
そこには何もなく肉体スーツの世界に
降り立った世界はある意味その瞬間から
決まっているような世界であって
そこに意味があるのだろうか?

初めから決まっていたということに
気が付いた時に喪失感しかなくなるんですよね
何のためにここにいるのか?
という感じで考えるのです

なんて感覚とまた虚無という世界
まさに何も無い空と表現したりもする

その世界、過去の自分が書き残したものを
読み返したりすると、そこはシーンとした静寂と
光も無く音もなくみたいなところです

そこが魂の世界であると考える人も多く
わたしも魂の還るべき場所と捉えました
この捉え方もそのとおりなのですが

思考や意識を働かせると
その場は冒頭でも述べているように
何もない状態であるからそこに
意識は存在しなくなるのです

ただ在る、しかし何も無い
魂の世界はそんな感覚ではないかと
思考は考えます

なにか相反する矛盾が沸き起こりますが
何も存在しない世界だから魂としての
わたしも何もないと思考するのです

ただ感じる世界としては
そこではただ在る
在る以上でも以下でもない
そして静寂だけです

喜びも悲しみも存在しない
感情すらもそこには何も無い

という世界を味わった後に
わたし自身に起きたこと
それは大笑いでした

前後するのですが
この虚無の世界は瞑想を始めてからは
幾度となく体験をしていて
ほんとうに何も無い虚無の世界に
沈んでいました

正確に覚醒・悟り体験をした時に
(これを一瞥体験じゃないかと言うかたも多いのですが
どうぞご自由にわたしのことを算定してくださいとしか
いうことが出来ません)
なんだ最初から知っているじゃないか
探しても見つからないさ
なぜならば、すでに自分の中にあったものだから
という感覚とゲラゲラと笑いが止まらないという
ことが起きました

そのときには肉体スーツのわたしと
魂としてのわたしは肉体スーツの意識を通して
不変なる魂の状態が湧き上がっていたのです

感覚としては肉体というわたしと
魂としてのわたしがくっきりと
同時に存在している瞬間でした

わたしがこの世界を探究していたときに
まだまだインターネット創成期の頃ですが
何人かの覚醒者?の方々の多くが
虚無の世界を知ったときにこの世に
生きている必要性が無いとのことで
自ら肉体を離れようとしていたこと

また実際のところは判らないのですが
自ら肉体を離れたとされるかたもいます

わたし自身はその頃から
どうも自分の体験に照らし合わせると
疑問符が湧きあがっていたのですが
それぞれがその人の世界を生きているので
それもあってしかり

というところに落ち着いています

この10数年、基本的には
変わらないわたしがいます
肉体スーツのわたしの操縦者であり
創造主であるわたしが

楽しむことがテーマで今生
わたしを選んできているので
粛々とそのテーマを消化しているのかも
しれません

一瞥体験とほんとうの悟りは
違うという主張の方々が多いのですが
そのカテゴライズ自体あまり意味がないと
思っているひとつの理由に

すでに悟っているといえば
みんなこの地球上のひとすべては
そういう人たちだからです

肉体スーツを纏っているので
そっちよりの思考や意識が
気が付いていない
もしくは気が付かせていない

ということではないのでしょうか?

痛み・苦しみ・喜び・等々
感情を感じるということは
虚無の世界からしたら楽しみですよね

で肉体スーツを通した
魂の世界は大笑いである
歓喜、JOYの世界なんだけどな
それこそがここに存在している
おおきなテーマのひとつ

ブラックホールという存在
これが虚無の世界と重なります
ここ最近の観察からその存在も
解ってきたきたようですが
それすらも肉体スーツの意識が
創り上げているかもしれないのですよね

とここでまとめて?
何しろ3次元地球に降り立ち
肉体スーツの誰々さん
となっている以上、そのフィールドで
あなた自身になりませんか?

ということをわたしは
発信したいのです
例えていうならば

広大なテーマパークの入り口で
どこに行けば良いんだろうか?
なんて足踏みしているのが
いまの状態ではありませんか?

虚無というブラックほーーるに
呑み込まれる前に
パークの入り口から
スタートいたしましょう!

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