ありがとうありがとう(9/1~9/7)

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カコン

文章のししおどしが満タンになり、今音を立てて石を打ちました。これを読んでいる鹿がいるなら逃げてください。

9/1 犯人がいます

ここ半年、パトカーが毎日のように近所を巡回している。サイレンは鳴らさず、しかし爆音でアナウンスを繰り返す。「現在、この市内に、オレオレ詐欺の犯人がいます!!!!」だ。

初めてこのアナウンスを聞いたのは休日、昼寝をしている時だった。夢の中で「犯人がいます!!!!」の部分だけが耳に入り飛び起きた俺は、前半部分を聞いて「だから何よ」と二度寝へ落ちた。「だから何よ」と署内からも指摘されたのか、一ヶ月ほど経つと文言は「オレオレ詐欺の犯人がいます、十分注意してください!!!!」にアップデートされていた。だとしても何よ。

しかし不思議である。犯人がいる場所=詐欺が多発する場所ではない。実際はむしろ逆で、住んでいる場所とは離れた地域を狙ったほうが足が付きにくいだろう。犯人がこの市に住んでいたとして、毎日パトカーで注意喚起をし回る必要があるのだろうか。

などと思っていると最近、パトカーは「この地域を狙った詐欺が多発しております!!!!」と叫ぶようになった。であれば納得がいく。この地域が狙われているのであれば、そこをパトカーで巡回するのが効果的であろう。ではなぜ、この辺に住んでいる詐欺グループが、この辺に住んでいる老人をわざわざ狙うのか。謎である。うち以外の市外局番を知らないという、バカな犯人であることを祈る。

夕方、銀行に向かう。下ろしたお札を財布にしまいながら出ていくと、そこで警察官とおじいさんが会話をしていた。「いや~すみませんね、一応聞く決まりになっているので」と警官、「いえいえ、いつもパトカーが言ってるので気をつけてたんですよ」とおじいさん。パトカーが叫べば叫ぶほど「まだ捕まっていない」という事実が強調される。が、どうやらアナウンスの効果はあったようだ。



9/2 俺の許可

夜、最寄り駅に着くと人だかりから拍手が起こり山本太郎がステージに登場した。彼の背後にはモニターが2台用意されており、街宣にしてはかなり気合が入っている。「れいわ新選組、変な名前だなとたくさん言われてきました」お決まりのオープニングトークだろうか、流暢な語り口で演説が始まる。どうやら毎月12万円くれるらしい。ください。横目にして飯屋に入る。

俺は駅前で行われる何らかの活動が嫌いだ!!!!!!!!!!!!! すみません、いきなり大きな声を出してしまいました。ともかく俺は、選挙演説、ユニセフ、動物の殺処分に反対、難病のなんとかちゃんに寄付を、などのありとあらゆる駅前活動が嫌いだ。

特に一番嫌いなのは選挙演説である。動物の殺処分ファンや難病ちゃんファンがこの世に存在しない一方、なぜか政治家には熱心なファンがいるので非常に混み合う。ここは俺の市であり俺の駅だ。俺は俺の市や駅が混み合うのを許していない。許していないにもかかわらず、なぜ市や駅は俺に断りもなく活動に許可を出すのだろうか。

俺は市でもあるし俺は駅でもある。なのに当の市や駅は、俺にお伺い立てることなく森羅万象の活動に許可を出す。では俺も、市に許可を取らず税を払わない。俺の、税払わない活動の許可は俺が出す。

駅前での大声イベントは、たびたび弱者を引き連れて行われる。動物愛護団体は実際の犬を座らせ、ユニセフは近所の小学生に大声を張らせる。相変わらず俺の許可が降りていない。「犬を炎天下で座らせてよいですか」「子供に夜まで大声出させてよいですか」そういったお伺いは一切俺の元に届いていない。俺が俺の駅に着き、そこで初めて知るのである。

そうなってくると、俺も市や駅に許可を取らず活動をするしかない。犬!クーラーの効いた部屋で寝ていなさい。小学生!Switchを持ち寄ってマリオカートをしなさい。市であり駅である俺が彼らに許可を出す。その許可出し運動の許可も俺が出す。

飯を食い終わったころ、山本太郎と観衆は急なゲリラ豪雨に襲われていた。人混みをすり抜けて一安心していたら、女性のスタッフが「山本太郎です」とチラシを差し出すので、こちらも「パラドクスです」と言ってクシャクシャになった飯屋のレシートを渡す。殴り合いのコミュニケーションを死ぬまで続けよう。



9/3 記憶を消して

Twitchでプライムビデオの動画を流すことができるようになりました。これが何かというと、配信者が流した動画をみんなで観ながらチャットできるというマジで最高サービスなんですが、

これ使って「全員絶対観てる動画」を初見のテイで観ませんか?まあ「全員絶対観てる動画」ってM-1グランプリのことなんですけど。M-1を初回から順に流して、コメント欄が全員初見のリアクションだったら面白そうじゃないですか?

とは言ったものの、俺はM-1のことを何も覚えていませんでした。初見のフリをするどころか、そもそも今観ても初見とほぼ変わらないということです。というのもですね、先日、しもふりチューブの芸人クイズ回に触発されて一度観たはずのM-1(2005の)を観たのですが、なんと全漫才が初見でした。そんなことある?どうやら俺は記憶するのがとても苦手なようです。

お、話が変わりそうなブロックだ
入ってみよ ウィーン

ペルソナ4(ザ・ゴールデン)が先日PCで遊べるようになりました。12年前に出たゲームです。当時遊んでいたのですが、クリアした記憶が全くない。クリアした記憶が全くないので、当然結末も知りません。これはいいぜ、あの結末を解き明かしてみせるぜ、と早速購入、ワクワクしながらプレイを始めました。結果、「ここまではやってる」「これも見た気がする」と物語を進めていくうちに、いつのまにかエンディングまで行き着いてしまいました。つまり俺は12年前にクリアし、結末を知っているにもかかわらず、それを未クリアだと思い込んでいたようです。「記憶を消してもう一度」なんてオタクがよく言うじゃないですか?それを、俺はできるということです。オタクども羨ましいか?俺はクリアしたゲームを覚えていないんだぜ。

羨ましくもなんともないでしょう。糧や肥やしと思って口にしたものが、吸収もされずすべて排泄されている。何にも身につかず、世のエンターテインメントを一時の快楽として消費しています。どうですか?そんな俺と一緒にM-1グランプリを観てみるってのは。みんなが100回観たM-1を新鮮に笑う俺、かわいいと思います。



9/4 ありがとうありがとう

朝起きるとMoney Forwardから「高額の振込がありました」と通知があり、口座残高を見てみると宝くじが当たっていた。もう一度よく見ると、宝くじではなく祖父からの振込だった。

入金に気付いたころ、父から「おじいちゃんから少し遅い誕生日プレゼントです」のLINEが届く。祖父から振込なんてはじめてのことだ。聞くと、生前贈与のつもりじゃないかな、とのこと。

毎年の正月とお盆、祖父母の家に顔を出して「孫は元気ですよ」「祖父母は元気ですよ」の相互確認をしてきた。祖父母の家は、実家から車で三時間ほど行った山奥。最寄りのコンビニまでおよそ10kmの何もないところだった。おいしいご飯を囲み、お酒を囲み、お互いの無事を安心しあう、それが我が家の恒例行事だった。

宴会の翌日、孫たちが帰宅の準備をするころ、おじいちゃんから「これ少ないけど」とお小遣いを渡される。これも恒例行事の一つ。俺たちは、子供ながらに「いいよいいよ」と口にしながらありがたく受け取った。孫が一人ずつ成人し、自分の収入で生活をはじめるにつれて、「いいよいいよ」の攻防戦は長くなっていった。

今年は、一人暮らしをしてから初めて帰省しないお盆だった。もしかしてこの入金はその代わりなのかもしれない。でも、これはいままで受け取っていた「孫へのお小遣い」とは変わってくる。手渡しだと可能だった「いいよいいよ」は、振込だと不可能になってしまうのだ。すでに俺の口座の一部となってしまっているお金に対しては、遠慮が成立しないのである。いいよいいよは日本人の美徳であり、孫としての矜持なのに。急いで祖父に電話をかける。

「はい、〇〇です」とおじいちゃんが出る。俺の名前を告げると、電話越しでも分かるくらいの笑顔で「わー!元気かえ?」と言われる。はっと気づく。俺は、成人しようが自分の収入で生活しようが、おじいちゃんとおばあちゃんのかわいいかわいい孫だった。

振込済みのお小遣いの前で、「いいよいいよ」は「ありがとうありがとう」に変わった。おじいちゃんは「いえいえ」と照れくさそうに笑い、早々に別の話題を始める。でも、これでよいのかもしれない。結局のところ、いいよいいよは「私は卑しい人間ではないです」というアピールであり、そして「私は卑しい人間ではないよな」という自分への言い聞かせだ。社会では必要なフレーズかもしれないが、祖父母が孫のそんなアピールや言い聞かせを見たいわけがない。「ありがとうありがとう」こそ、孫から聞きたい唯一の言葉であった。

「コロナ大丈夫か」おじいちゃんは言う。「大丈夫、おじいちゃんもね」と答えてから、コンビニまで10kmかかる山奥だったことに気付く。「正月こそは帰るね」と約束して電話を切る。約束したものの、果たして正月には帰れるようになるだろうか。あと数えるほどしかないであろう対面で、ありがとうありがとうをたくさん言えたらいい。



9/5 汚れた矢羽根

子曰く、20はSNSで自己顕示欲を満たし、30は而立、40はSNSでニュースに対して講釈を垂れるらしい。

ではその而立とは何かと言うと、20のそれにも40のそれにもなりたくない者が、20のそれにも40のそれにもなりたくないとnoteで駄々をこねることを指す。ガキを見ては「ガキだな」と余裕を持ち、ジジイを見ては「ジジイになりたくない」と思うことである。もっと言えば、上司には一目置かれたいし、女にはエッチと思われたくない。而立とは、「自分をどうしても見てほしい時期」と、「自分がどう見えても良い時期」との間に浮かんだ大きな穴のこと。その暗がりの中で、ただじっと「自分が悪く映らないでいてくれ」と耐えるのみの日々である。

皆さんは日常においてキリキリと張り詰めて生きていらっしゃると思うが、とかく俺には張っている感触がない。弓を引き始めて十数年、「ここだ」という手心地がないままずるずると後退を続け、弓の本体は遥か遠く見えなくなっている。とてつもなくたゆんだ弦(つる)からはもう数年前から手応えがない。矢羽根は手汗で薄黒く汚れており、果たして射ったところで真っ直ぐ飛ぶかどうかも分からない。末弭(うらはず)だと思って見つめていた小さな点は、目の中に入ったゴミだととうの昔に気付いている。それでも引きに引く、そんな毎日を過ごすのである。

朝、上島珈琲でモーニングのAセットを頼む。「dカードはお持ちですか」と尋ねられたのでアプリを開いたところ、そこで初めて8000円相当のポイントが貯まっていることを知る。これも俺が引きに引いた矢だ。いつまでお前は引くつもりなんだ。いま、射るんだ。

矢羽根は手汗で薄黒く汚れており、果たして射ったところで真っ直ぐ飛ぶかどうかも分からない。

俺が上島珈琲 高円寺北口店に向けて放ったd矢は、名代 富士そば 高田馬場店に突き刺さり、店員が不慣れな日本語で「現金だけ」と折って捨てた。

(すみません、いま、史上最速の回想が挟まりませんでしたか?!)

心地よい張力に逆らって数年、手応えがなくなって数年。後退を続けている俺は、いつのまにか而立という大きな穴にすっぽり包まれていることにも気付かないまま未だ矢を握りしめている。そもそも、土台にくくりつけてきた弓柄(ゆづか)がいつまで耐えるか分からない。このまま引き続けていると、いつか遠く遠く遠くでバキリと音を立て、自分の顔面目掛けて鳥打(とりうち)が飛んでくるかもしれない。であるならば、ここからは20代で引きに引いた分惰性でずるずると前進しながら弓の元まで戻り、矢をそっと下ろすだけである。飛ばないと分かっている矢は射ない。


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9/6 天気予報のアンチ

休日の朝。休日の朝といえば洗濯だが、今日は一日雨が降るとの予報。カスである。

俺は部屋干しをしない。なぜならば、洗剤ではなく太陽を信じているからだ。ここ数十年の知恵で作られた部屋干し用洗剤なんかより、46億年もの間地球を照らしてきた太陽のほうが断然信用できる。もはや狂信といってもよい。一方で、俺は天気予報に強い強い強い猜疑心を抱いている。実はここに、見えない葛藤が生まれている。外干しを熱望すればするほど、忌むべきYahoo!天気を利用せざるを得ないのだ。

天気予報は、予報を外しても謝らない。絶対に謝らない。この態度がとてつもなく気に食わない。間違ったことをして謝らなくて済んでいるのは子供と天気予報だけ。俺はこれを子供だけにしたいのだ。なにも、50%を外した程度で謝れといっているわけではない。彼らは100%を豪語して外す。その上過去の予報を隠蔽し、クレーマーから指摘されないようにする。1時間前に、ギリギリ「やっぱ降らんわ!」と予報をサイレント修正をする。酷い態度である。これがゲームアプリであれば即炎上、長文の謝罪文とともにガチャ5回分くらいの詫び<何か>が配られることであろう。だが、天気予報は炎上も謝罪しない。天気予報はゲームアプリではないから炎上も謝罪しない。俺たちは嘘を吐かれて、びしょ濡れになっているというのに。

夕方、外が騒がしいのでほんの少しだけ窓を開けて様子をうかがう。見るに、自転車にまたがったおじさんが路肩に止まって叫んでいる。相手は誰かというと特に見当たらず、おじさんは虚空を指差しながら「もう来ないで!!!!」と25回叫び、その後「大学に行け!!!!」と25回叫んだ。どうやら俺らには見えない誰かがおじさんに近寄っているみたいだ。しかも就職希望の高校3年生と推測できる。若者思いの素晴らしいおじさんだ。もしくは、この街の全員に「もう来ないでほしいこと」「大学に行ってほしいこと」を伝えているのかもしれない。脇を通ろうとした母娘が、おじさんじゃない側に娘が来るよう入れ替わってすれ違った。街全員に思いを伝いきったのか、20分ほどしておじさんはいなくなった。こんなおじさんでもマスクをしているんだから、コロナってすごいんだね。

夜。結局雨は降らなかった。それどころか日中は晴れ間が見えるくらいだった。俺はこれを許さない。今ごろ気象庁は東京の全世帯に「9月6日分の誤報について」の書類と詫び洗剤の発送準備をしているころだろう。よろしくな。部屋干しのじゃないやつな。



9/7 置きソース

ステーキソースを大量に作った。今日から数日間は何かしらのステーキが続くことになる。

毎日料理をするのは面倒くさい、とはいえ大量に作り置きすると飽きてしまう。一人暮らしの全員(本当に全員)が抱えるグラヴィティ・バインド-超重力の網-である。そんな読者諸君に、一人暮らし歴12年の俺が編み出した技を伝授しよう。「置きソース」である。

俺たちは毎日退勤する。毎日退勤する度に、最寄り駅から自宅までに存在する甘い甘い誘惑に負ける。負け続ける。連敗続きである。東によい匂いする王将あれば、行って天津飯(京風ダレ)と餃子を食らい、西に湯気こもる丸亀製麺あれば、行ってぶっかけ(冷の大)とその時揚げたての天ぷらを食らい、南に美味そうな新商品をアピールする松屋あれば、その新商品と味噌汁を食らい、北にトッピング乗せただけの新商品をアピールするすき家あれば、つまらないからやめろと言う。

ともかく、帰りの電車の中で「今日は自炊するか~」と発起したとしても、おじさんとの押し合いへし合いに敗北しているうちに挫折へと変わり、最寄り駅に着く頃には松屋に吸い込まれてしまうという毎日である。そこで俺が提案するのが、「置きソース」なのだ。外食の誘惑に対する最適な防衛策は作り置きであり、その中でも置きソースが最良ということである。少年よ置きソースを作れ。さすればあなたは外食の誘惑に負ケズ、作り置き特有の飽きにも負ケズである。

「作り置きが飽きるならソースこそ飽きるでしょ」否。ステーキとは、肉に70、ソースに30の責任がある料理だ。つまり、ソースが同じ味であろうと、肉を変えればいくらでも食べ続けられるのである。そのため、必ず置きソースはたっぷり作ること。牛、豚、鶏をおよそ2周できるほどの量であればいい。せっかく大量に作るのであれば、すり下ろした玉ねぎやらニンニクを煮詰めてちゃんと手間をかける。あとは、2枚セットの美味そうな肉を隔日で買うだけである。

付け合せの野菜でも焼いてあげれば更によいだろう。人参、ブロッコリー、アスパラ、なんでもいい。ここで大事なのは、ちゃんと彼らに塩コショウをして焼くこと。「私は、あなたたちの野菜としてのポテンシャルを認めているので素材のまま味わいます」という立ち居振る舞いを見せることだ。そうすれば彼らはおとなしく香ばしく焼き上がってくれる。あとは皿に盛る際、うっかりを装って彼らにもソースをかけてしまうだけ。野菜たちの自尊心を保ちながら、美味しく食べることができる。

人は何かしらに縛られるのを大変嫌う。が、冷蔵庫の中の作り置きソースに縛られて生活する俺は、なぜかとても心地よい気持ちで過ごしている。誘惑だらけの商店街に、一人だけバリアを張って突入している気分だ。縛られるのも悪くないね、日常は発見に満ちあふれている。

ところで、俺の冷蔵庫には「置きソース」と同ロジックで作られた田楽味噌も大量に眠っている。いろんな献立を考えてみたが、ステーキと田楽が同じ食卓に並ぶことはない。置きソース・置き味噌からの緊縛が解かれる日は、しばらく先になりそうだ。

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