これまで起きたこと、そして、これから起こること

 ただでさえ少子化で優秀な母数が減っているというのに、入り口の人気がなくなり、出口ばかり増えていく。こんな状況を見て、みんな霞が関は「危機的」「国民生活の危機だ」だと口にはすれど、じゃあ結局これから何が起こるのかは、誰も何も言わない。そもそも、役人の質が下がって「国民生活に危害がある」なんてことがなぜ起きうるのか、正直なところよくわからないはずだ。直感的には、確かに行政に支障は出るかもしれないけど、その程度は当然分からないし、東大生が早大生や北大生に置き換えられたとして、それって本当に質が下がっているのかもよくわからない。この20年間で「行政の質が下がった」と、どれだけの人が確信をもって主張できるだろうか。

 正直なところ、このまま霞が関がクソブラックでも、(給料がちゃんと支払われる限り)ちゃんと官僚になりたがる奴はいるし、離職が増えても行政は今までのように回っていくはずだ。たとえ東大生が官僚にならなくとも、なりたい奴は(ペーパー試験のハードルさえ下がれば)いくらでもいる。そして、結局働いてみれば、それが東大生だろうが早大生だろうが何だろうが、慣れてしまえば業務は回せるだろう。毎日毎日、政策はちゃんと動いていくし、国会もつつがなく毎年のように開かれる。たとえどんなに人がつぶれようが、残業がそのままだろうが、ちゃんと政府は機能しているように見えるはずだし、一見して何も変わらないだろう。結局、優秀な東大生が戻ってきて若手が辞めなくなったとしても、あるいは、東大生が他大生に置きかえられ若手の離職が増えたとしても、外から見れば何も変わらないはずだ。

 そうはいっても、じゃあ今までと何も変わらないのかと言われると、この5年間を見ていると、そうでもないのかなと思い始めてきた。なんというか、「その時点時点でみると、表面上はたぶん何も変わらない」んだけれども、5年間くらいを追ってみていると、霞が関の機能が変質してきているように感じられるのである。

 まず、そもそも霞が関の仕事の大前提として、「制度は作っただけでは終わりではなく」、必ずそれを「つつがなく運用せねば」ならず、その「運用も相当のコスト」がかかる事実がある。例えば税金を例にとっても、「新たな税金を作る」には法律で相当の労力が必要だが、その税金を「徴収」する、要は制度を「事故なく」運用するにも、それ以上のコストがかかる。役所は大きなくくりで「局」、もう少し小さいくくりで「課」に分かれるが、それぞれの「課」の最も重要な任務は、「制度を作ること」ではなく「所掌する制度を運用すること」である。

 これは水や空気のように当たり前にあるものと思われるが、決してそうではない。制度を動かせば、常に必ず何か虫のように大なり小なり問題がわく。それに一つ一つちゃんと対応していくために、常勤職員はいるのであって、「その制度が話題にならない」ことは、彼らがちゃんと仕事をしている証左でもある。

 ただこの20年、行政改革の名の下で、こうした「とにかく制度を事故なく回すこと」に裂けるリソースが減ってきた。その最たる例が統計であり、統計部門は、緊急性も国会対応もなく、ただただ「決まった通りに調査をし公表する」ため、幹部もろくに報告など聞かないし、そもそも興味を持たれてこなかった。結果として、統計部門の「使える」職員をより目立つところ(炎上しているところ)に回し、一言でいえば「やばい奴」を統計部門に押し付け、質・量ともに減らしてきた。よく言えば「選択と集中」であり、「つつがなく回すだけならそんなに有能な職員はいらないでしょ?」という暗黙の了解の下、「統計部門」全体が「(うつ病とかの人の)お休みポスト」となっていった。だが、「何もないように見える」ことは、「問題が起きていない」ことと同じではない。統計部門であっても、必ず何かしらの問題は起き続けていて、これまではそれが表面化する前につぶせていただけである。行政改革が激しかったことで、統計部門のリソースを思った以上に減らさなければならなくなり、段々と「制度をつつがなく運用する」ことすら危うくなって早10年、ついに起きたのが去年の統計問題である。

 統計問題は、軽んじられがちな「運用」の最たるものである。統計ミスっても人は死なないし、そうそう新聞にも取り上げられない。「統計が国の礎」なんて言うは易しで、「じゃあ礎のために増税します」といって了承する人はこの日本にほとんどいないだろう。結局、限られたリソースをその時々で重要な問題に対応するために振り分けてきた結果として、統計のリソースが削減され続け、ついに「制度を運用する」という行政の本来的な使命すら果たせなくなった(果たせるだけの人材がいなくなった)のである。その時々で「ありえない判断」というのはよくされがちだが、その「判断」をどこかで止めるのが組織である。課長がやばい判断をしそうになったら補佐はちゃんと指摘せねばならないし、係長だって気づけば言わなければならない。それが給料をいただくことの最低限の責任であり、だからこそ、組織としての回答は、「一定の質」が保たれるのである。行政だって全員が完璧なわけではなく、当然人材の質にはグラデーションがある。やばい課長だって、やばい補佐だっているが、全員が全員やばい課というのは、それは組織の体をなしてない。統計部門が、「組織の体をなしていない」までに人材が刈られつくしたのは、この20年の間違いない事実であり、それは少しずつ地殻変動のように歪が蓄積していき、2018年12月末、突然マグマのように爆発したのである。

 この5年間の傾向で言えば、本来「空気や水のように」意識されることなく行われるべき「バグ取り」や「制度のマイナーチェンジ」が、人手不足からうまく行えなくなっていることから、これまでは、制度を「少しずつメンテナンスをしながら」、世間が問題に気付かない程度にはうまく運用していたものが、そもそもそのメンテナンスが追い付かなくなり、毎年毎年歪をため込み、それが不満となって一気に爆発したときだけ、尋常じゃないコストをかけて「大手術」をしてなんとか世間に追いついていくようになっている。統計問題、障害者問題、森友問題、普通に考えてありえねーだろ、という判断が、本来であれば、国会対応もない暇な部署で為されるようになってきた結果、それがばれたときに、国中を巻き込む大騒動へとつながり、尋常じゃないコストをかけて、その見直しを図るのである。これは、明らかに、政策のパラダイムシフトである。短期的には一気に政策が動くように見えるので「政策のダイナミズムが上がった」ともいえるだろうが、はっきり言って、これでは政策の「パッチワーク」である。

 こうした「パッチワーク的対処」は、本来はメンテナンスの中で少しずつ達成されるべきものが、目の前の大問題に対応する中で一気に変わっているだけであり、関係者のコンセンサスを得ながら少しずつ変わっていくことに比べてれば、コストも(吟味しきれなかったが故の)問題点もずっと大きい。そして、毎年のように時限爆弾が爆発するようになれば、役人は、その時点時点で尋常じゃない働き方を強いられるので、より官僚の労働環境は悪化し、成り手はともかく、離職者は増えるだろう。そうすると、特に「キャリア」は、これまでは(比較的忙しいところだとしても)運用部門で仕事をできたものが、その時々に起こる大問題の火消し的使われ方を毎年のようにするようになる。そして、どんどん「運用部門」から人材がはがされていく。そうしたある種の「選択と集中」は、集中されなかった部門における歪を生み出し、次の時限爆弾がまた少しずつ育っていくことになる。

 そうした中で、本来は声なき声を拾うべき役所が、すでに爆発した「目立つ問題」にしか対応しなくなっていく。何人かの(元)役人が指摘する「役人が人と会わなくなった」というのは、単に役人が忙しすぎて時間が無くなったからだけではない。おそらく、単に「会う必要がなくなった」からである。起きた問題に対応すればよいのに、わざわざまだ表面化していない問題に対応することはない。つまり、声なき声を拾う必要などないのである。その「声なき声」がSNS等で同情を集め、それが世間の関心を得たときになってはじめて、その声にこたえる政策が極めて短期間でパッチワーク的に行えばいいし、リソース的にもそうするしかない。

 行政は目立つところは、まさに氷山の一角で、ほとんどの制度や仕組みは見えないところで回っている。行政の本当の役割というのは、この見えない制度や仕組みをしっかりと国民に届けるべく、メンテナンスを続け、マイナーチェンジを続け、「事故なく」仕組みを具体化し続けることにある。ただ、連鎖的に問題が起き続ける中で、霞が関は、もはや「仕組みのメンテナンス」をできなくなっており、その時点時点の問題に対応することで精いっぱいになっているように見える。これは、もともとは労働環境の悪化や人員削減で、様々な歪が溜まりやすくなったことによるものだが、20年間の改革でこうした悪循環にはまりつつあるので、これを元に戻すのは、おそらく同じくらいの年月が必要となるだろう。とすると、対応策は「行政改革の20年間の成果を、これから20年かけて人員を増やして元に戻します」ということになるが、国民の理解が到底得られるわけがなく、変わってしまったものを元に戻すのはもう不可能である。

 行政改革の成果をちゃぶ台返しする以外に出来ることを挙げるとすれば、「炎上したときの負担を軽く(国会対応を軽減)し、その分浮いた人材を運用部門に戻し、パッチワークとメンテナンスを並行して回せるようにする」しか方法がない。果たしてこれが出来るだろうか。炎上している問題の国会対応を軽減させるということは、政府の攻めどころに「そんなに怒らないで、詰めないで」と泣きつき、野党の先生が最も重要視する「民主主義における行政の監視機能」を少し弱めろと言っているに等しいが、果たしてこれが出来るだろうか。世論的にも政治的にも難しいのではなかろうか。

 結局、このまま霞が関の働き方改革が進まないのであれば、最近増えている異常気象のように、毎年のように時限爆弾が爆発するようになるのではないかと危惧している。これにより、政策が「少しずつ動く」から「一気に動く」傾向が顕著となるが、その分、目に見えない部分はなかなか動かないようになり、声なき声を役人が少しでも反映するといった、これまでのような役人の仕事は減らざるを得ないだろう。これはますますキャリアの負担を増やし、また仕事へのやりがいを奪う。

 なんというか、この5年間の傾向をみていると、そして、それを踏まえて将来を予想すると、このままの霞が関であり続けるのであれば、霞が関の仕事がより「場当たり的」、要は、「メンテナンス」から「修理人」へとジョブチェンジしていく傾向が止まらない気がしている。それは我々の仕事がよりしんどくなるなぁという憂鬱ももちろんだが、そんな中で、一体何のために役所に入ったのか、もはやよくわからなくなってきているのである。