役人かくあるべし

私が1年目で最初の人事院研修を受けていた時、財務省から来た課長クラスが、「役人の仕事とは何だと思うか」と言って、20人くらいいるヒヨッコに考えさせる時間があった。当然みんな公務員試験は通っているわけで、「役人の仕事は矩を超えないこと」だなんてみんな分かっている。だから、「いくつかの選択肢とその理由を携えて、最後は政治家に選んでもらいます。役人はシンクタンク的な役割を担うべきと思います。」なんて優等生な答えをする。すると、その課長は、心底我々を軽蔑したように言ったのだ。

「担当者で責任者の我々が必ずしもお勧めできない案を選ばせる余地を残すのか」と。

課長は言う。「いいか、シンクタンク的なんて言うのは、実務やってないから言えることだ。責任がないから言えることだ。責任を負っている以上、答えは1つにしなきゃならない。その答えが選ばれなければならない。そんないくつもシミュレーションして選んでください、なんて無責任だ」と。

こんなにカッコよく言ってたかなと書いてみて思ったが、相当前の話の話だから仕方がない。要は、「結局実際に実務を回すのは俺たちなんだから、俺たちが出来る範囲の案であるべきで、その案は1つ最良で最適なものを考えるのがお前らの仕事だろ、何寝ぼけたこと言ってんだ」ということを言っていた。

役人は責任を負えない以上、その責任を負うべき政治家に選ばせるべきと、正直思う部分がある一方で、政治家にどんなに説明を尽くそうにも、限られた時間の中で限られた情報でしか判断できないのだから、自分の首をかけてでも、案を1つにしてそれを通すべきという意見にも頷ける。まぁ、「無責任」とはその文字通りで、政治家に嫌われて左遷される以外に、本当にその責任を取る手段がほぼないんだが。

政治主導の下、こういう気骨ある幹部がいなくなってしまったわけではないのだろうが、最近では、確かに実務をガン無視して後々問題になる政策が度々目につく。例えばGotoイートの鳥貴族錬金術だが、普通に考えてやらねーだろとは思いつつ、一応制限つけとくのが役人のはずが、当時の江崎大臣の一声で、制限もつけられないまま政策が実行に移され、結局農水省が釈明と修正に追われることになった。

正直、GoToイートは単発の仕組みなので、税金の無駄遣い以上の意味はないが、より深刻な欠陥政策は、いま人気の「ふるさと納税」だろう。「ふるさと納税」は、本来、便益を受ける層が税金を負担すべきという「受益者原則」に真っ向から反し、富裕層への実質的な減税となることで、税の公平性をゆがめる。更に、ワンストップ特例を作ったとしてもなお、税の簡素性を破壊し行政コストを増やす。理屈のほぼ全てにケンカを売っている税制だが、まさに菅元総務大臣と自民党の愉快な仲間たちにより、恒久制度として作ってしまった。一度作ってしまえば、23区が青筋立てて反論したところで、最大の恩恵を受けている都心のサラリーマン層の口に手を突っ込んで甘い飴を無理やり取り上げるようなことはもうできない。

「役人はどうあるべきなのか」というのは、総論でいえば、「滅私奉公、憲法に従い全国民に尽くす」の一言でほぼ異論がないのだが、じゃあ具体的にどうするのかと言われると答えに詰まる。いつも疑問なのだ。「官僚は優秀であるべき」という人は、果たしてどちらの役割が期待されているのかと。政治家の有能な手足であるべきと思っているのか、あるいは、実務を熟知して政治家の意思決定にまで深く介入するべきと思っているのか。

この世に「正しい」意見も、「正しい」政策もない。そもそも、政策というものは、EBPMなんて言われて久しいが、決して理屈だけでは決まらない。地元への利益誘導、自身の経験に基づく情緒的判断、利害関係者への配慮、地元の支援を受ける議員にとって、これは決して無縁ではいられないものだ。そもそも政策の一番重要な部分は、その「目的」であって、その傍証たる数字は、付けようと思えばいくらでもつく。EBPMは、一定の価値判断を補強する材料にしか使えない。先行きがどうなるか、なんて、置いた仮定次第でいかようにもなる。だからこそ、やはり政策の最後の最後のよりどころは「価値判断」だ。どんな政策でも、その価値判断が根っこにあり、その価値判断次第で、手段は大きく変わる。

その価値判断をいくつか提示し、政治家に決断を迫り、実行するのが官僚なのか、あるいは、その価値判断そのものを押し通し、目的から手段まですべてを請け負うのが官僚なのか。正直、熱弁ふるってくれた財務省の課長には悪いが、後者は若干傲慢に映る。

おそらく、役人の考え方そのものが、政治主導の中で少しずつ変わってきている。後者のように、よく言えば「(どうせ責任取る手段はないが)より多くの責任を負おうとする」考え方は、だんだん幹部の世迷言みたいになりつつあり、前者のように「いや政治家先生が決めてよ」という考え方が少しずつ浸透しているように感じる。

だからこそ、これまでのような党の下働きみたいな仕事を拒絶する雰囲気が出来ている。厚労省がうっかりリークしてしまった「自民党のあいさつ文」問題は、まさにこの意識と切っても切り離せない。もともと、全ての意思決定に介入しようとしてきた、そして実際に介入してきた幹部たちからすれば、自民党の先生のご機嫌とりは、自分たちの政策を実現する必要かつ最小限のリスクにすぎない。一方で、そもそも「政治家先生が話し合って決めれば?手伝うからさ」と、あるべき政策を必ずしも押し通す気のない若手衆からすれば、自民党の先生のご機嫌取りは、もうほぼ意味がないタダの理不尽な雑用だ。

「政治主導、役人は政治家に従うべき」はもう水戸黄門の印籠に近い。この言葉の前にはひれ伏すしかない。だが、「どこまで役人は仕事をするべきなのか」という問題には、依然として明確な解がない。「あくまでシンクタンクであるべき」なのか、「政治家を必死の形相で説得してでも信じる道を突き進むべき」なのか。もし前者であるとするなら、もう役人は、自民党の党内手続きのお世話をやめるべきだ。党内の意見調整はあくまで政府に入った政治家にすべて任せ、結論だけを粛々と受け入れ、実現に万全を期すべきだ。

だが、もし後者であるとするなら、あるいは、それが本当に期待されているとするなら、今の若い役人はもう腑抜けに近い。ほぼ自民党内で結論が出つつあった消費税増税凍結にアジビラ作って最後まで抵抗した香川元財務次官のように、現役の大臣と敵対してでもGPIFの組織改革に抵抗した香取元年金局長のように、あるいは、ふるさと納税創設に最後の最後まで抵抗した平嶋元自治税務局長のように、(例が抵抗ばっかりだけど)たとえ役人の矩をはみ出してでも、あるべき姿に固執する姿はもうない。

正直なところ、個人的にはもう後者でいく道はないと思う。行政改革の中で定員が減り、かつ職員が高齢化し、また、毎年のように若手補佐が辞め、どんどん組織の足腰が弱っている中で、もう「役所の理屈」を押し通すための労力を負う余力はない。幹部がどんなに腹をくくって左遷の覚悟を決めようと、もうそれをお支えする気力も能力もない。そしてなにより、「政治家が決めたこと」に逆らうほど、「あるべき政策」と信ずるものを持てていない。世の中が多様化する中で、見なければならないスコープが格段に広くなる一方で、女性割合の上昇と共働き世帯の増加で、激務はそれほど変わらないまま求められる家庭内での役割は激増し、結果、知見は細り、現場を訪ねることもなく、もはや幹部も含め「あるべき」ものそのものを見失っている。

かといって、前者もいばらの道だ。すでに一度民主党で大失敗しているコンセプトをもう一回持ち出すのはあまりにリスキーだし、そもそも、「もう政策がどうなるかは知りません、そっちで話し合って決めて。だから党内のお世話も根回しもしません。」なんて、いきなり放り投げられるはずもない。

今の現状としては、「政治主導」の下で、プライオリティが最高に高い官邸の判断を実現すべく奔走しつつ、一方では、これまでのように「役所から必要と考える政策」を求められるため、通常業務として審議会を回し、政策を形にする法令業務から与党内の意見調整まで一手に引き受ける。要すれば、昔のままの仕組みで動いているにも関わらず、職員の能力と余力は大きく減退し、加えて官邸からの仕事が最大かつ最重要な仕事として上にオンされている。体力が落ちてるところにこれまで以上に負荷をかけているので、もう「やりがい」とか「誇り」で何とかなる次元はとうに過ぎ、もはや誰もどうすればいいのか分からなくなっている。

これまで役人は、極めて労力を要する政治調整を一手に引き受け、その過程で自分たちの考える「あるべき政策」を押し通してきた。自民党内の調整は、政策を実現するために必要な「コスト」に過ぎず、多少の妥協を飲みつつも、骨格はあくまで自分たちの案を維持した。それが彼らの「誇り」であり、また一方で「傲慢」でもあった。本来選挙で選ばれた政治家が行うべき意思決定に過剰なまでに介入し、時には重鎮を説得して党内を押さえつけてもらい、また時には若手を扇動して勉強会を開かせる。政治家にへばりつき、説得し、懐柔し、時には予算に地元誘導予算をつけ、彼らなりの「あるべき政策」を追い求めてきた。

しかし、現実的な問題として、社会のあり方、働き方、それと意識が変わる中で、もうこのプロセスを維持できなくなってきた。未だに当たり前のように、自民党の部会の議事次第をつくり、シナリオを作り、部会長の挨拶メモまで作る。なんなら自民党の議員の地元での講演資料までつくる。そこまでしておきながら、役人は、あるべき政策の姿を見失いつつある。本末転倒どころの話ではない。

おそらく自民党の先生は薄々気付いている。霞ヶ関から上がってくる政策のクオリティの低さ、実務の粗さ、そして調整の拙さ。これまでのような仕事ができないなら、仕事を減らすしかないが、そうはいっても、レベルが下がったとはいえ依然として霞ヶ関の使い勝手は群を抜いている。なによりタダだ。手放せるはずがない。

複雑に絡み合った歯車の中で、そのうち1つの歯車そのものが劣化でもう壊れそうなとき、もういっそ仕組みごとガラポンして新しい形の歯車を作るのか、同じ歯車をもう一度鍛え直すのか、これは極めて大きな政治決断だ。願わくば構造ごと作り直してほしいと思うけど、おそらくそうはならないので、効率が悪いまま、ギシギシと不穏な音を立て回し続けながら、霞ヶ関を鍛え直す試みは何度もなされていくだろう。これらは抜本的な解決にはならないが、歯車の寿命を少しだけ伸ばす。新規採用という自己回復機能をもつ歯車が完全にイカれることはなく、どこかで歯車の回復と崩壊のスピードが釣り合って均衡するはずだけど、それがどこにあるのかは誰にもわからない。

官僚はどうあるべきなのか。自分で問題提起にしておいてなんだが、こんな不毛なこと考える前にとっとと辞める方が圧倒的に賢い。良くなる見込みのない職場にすがりつくほど、惨めで愚かなことはない。でも、そうはいっても、一度役所に就職し、もうすでに転職の機会を逸した身としては、願わくば、今の局長クラスには答えて欲しいなとは思う。