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小説で宗教を書くことについて、私の場合は

野球と政治と宗教の話はしてはいけないって、ネットリテラシーで最初に教わる(?)ことですけど、宗教モチーフを多数扱っている小説書きとしては、どこかで一度表明しておかなければなァと思ったので書きます。

※私は誰かと宗教について論じるつもりはありません。議論したい方はこの記事を読まず、どうぞ他の方をあたってください。


前置きとして

こういう作品を書いている

 私の書く多くの作品では、共通して「ヴァチカン教会」という架空の宗教が登場する。あくまで架空の宗教であって、実在する宗教とは全く微塵もなにひとつ関係がない。私の妄想の産物である。ただし、モチーフは言い訳ができないくらいにキリスト教カトリックであって、むしろ私は積極的にカトリック文化や芸術を勉強し、創作に取り入れている。

 例えば、「A Thorny Path」という私の代表作シリーズ。こちらにはほぼ悪役という立ち位置でヴァチカン教会が登場する。この作品の中では、歴史上のどこかの時点でキリスト教が変容し、教皇の地位が神に匹敵するくらい上がってしまったという設定になっている。そのため、救世主や聖母信仰は「かつてそういうものがあった」と台詞の中で軽く触れられる程度である。

 また例えば、「Memento Furor -聖バシリオ精神病棟慰問日誌」という作品。具体的な宗教名こそ出ないものの、修道士が主人公であり、十字架や悪魔といったモチーフが繰り返し登場する。

 他にも、今後予定している新しいホラー作品では、やはりカトリックの司祭が主人公のひとりとなる。こちらは現代舞台の作品なので、実在する宗教的モチーフをできるだけ正確に描きたいと思っている。

 聖的なものを性的な目で見てしまっているので、不敬で背徳で冒涜なことは自覚している。申し開きはなにもない。
 ただひとつ言い添えることがあるとすれば、私はそこに現実の宗教についての思想を持ち込むつもりが一切ないということだけだ。

私と宗教の関わり

 私の両親はキリスト教プロテスタントの洗礼を受けている。多少言い方が回りくどいのは、現在の両親に信仰心が見られないからだ。たぶんもう信仰していない。それでも、中学生くらいまでは毎年クリスマスイブの礼拝に通っていたし、私は七五三(と言っていいのかは不明)を教会で受けている。
  
 母は結婚するまでカトリックの修道院で働いていた。シスターたちに説得されるまでは、本気で修道女になろうと思っていたらしい。だから、年に1度の修道院のお祭りに連れて行ってもらっていた。もう母を知るシスターもみんな神様の元へ行ってしまったから、久しく訪れてはいないけれど、灰色の修道服を着た女性たちは私にとっては見慣れたものであった。

 そんな母の母方の祖父、つまり私の曾祖父は真言密教の偉いお坊さんで、バリバリ修業をしたり霊を降ろしたり祓ったりしていたらしい。どこまで本当かは不明である。父方はおそらく代々無宗教だ。叔父は創価学会だそうだけど、正直あまり関わりがないので、そっちは全然わからない。

 ここまで見てきただけでも、宗教が入り乱れている。ある意味、極めて日本人らしいかもしれない。結果的に現在の私は無宗教だけれど、独自の信仰を持っているといった方が個人的には正しいと思う。私は神的存在を信じている。
 以上のことが関係があるかはわからないが、私の大学での専攻は宗教学だ。キリスト教のシンボルについて卒論を書いた。でも、修論は浅草寺について書いているので、やっぱりここでも宗教が入り乱れている(なんでだ)

 つまり、宗教というのは私にとって意外と身近で、決して悪い存在ではなかったのである。

私の中の約束事

①現実の宗教については書かない

 できることならば、架空の宗教を考え出すべきだとわかっている。しかし、なぜか私はキリスト教のモチーフがこの上なく好きで、書いているととても癒される。ワクワクする。テンションが上がる。なにより、関連する知識は作家としての武器である。
 小説作品として考えても、『ダヴィンチ・コード』とか読んだ人ならわかるだろうが、フィクションにはある程度までリアルな知識が混じっている方が面白いのだ。それが正しい知識なら勉強にもなる。
 ということを踏まえた結果、ヴァチカン教会という限りなく似て非なるものをつくって誤魔化しているわけだ。

 そんな私が絶対に決めていることは、現実の宗教については書かないことである。
 具体的に言えば、架空のヴァチカン教会を悪役に据えることはあっても、カトリック教会で実際に起こった犯罪を題材にすることはない。言及することもないだろう。そういったことはエンタメ作家を志す私の役目ではない。

 現在の母はy〇utubeに毒された陰謀論者なので(諸行無常…)、バチカンの話をするとすぐ陰謀云々と言いたがる。私はそれにいい顔をしない。確かにバチカン内部の腐敗は長年指摘されていることであるが、それ以前に多くの人々にとって信仰の中心であり、対象なのだ。その方々への敬意を忘れてはいけないと思う。信仰と犯罪は切り離して考えるべきことだ。

 おっと。今「宗教団体による犯罪行為は?」と思ったそこのあなた。今その話はしていない。私は「善良な(=他人の権利を侵害しない)信者たちの祈りへの敬意を持ちたい」という話をしている。
 日本では特に宗教団体による凶悪な事件が想起され、「宗教」という言葉に悪い印象を持ちやすい。だが、何かの信仰を持っているからと言って、善良な信者までもが悪く言われてしまうのは違うと思う。それとこれとは別の問題で、善良な人々の信仰には敬意を払われてしかるべきだ。

②私自身の思想を作品に代弁させない

 ……というのが私の宗教について考えていることの1つであるが、これを作品内で表現することは絶対にしない。おそらく「宗教とは」という命題を扱うこともないだろう。私は作者である私の思想を作品に代弁させることをしたくない

 作品内で、登場人物が信仰について語る場面はある。前述の作品にも出てきた。登場人物が自身の信仰について悩み葛藤する場面はひとつの見せ場にもなっている。
 だが、あくまでそれは登場人物の思想なのだ。私の考えではない。私は作者の考えが透けて見えたり、あまつさえ押し付けるような作品がとても苦手だ。思想から解放された自由で気楽な小説を書きたい。だから、自分の考えを意識的に書かないようにしている。

 信仰も、宗教も、多種多様だ。様々な側面を持っていて、それは歴史の上で多角的に変化している。一括りにしてしまうには、あまりにも膨大過ぎるだろう。
 それに、もう1つだけ私の信仰に対する思想(※宗教への思想ではない)を開示するならば、信仰とはあくまで個人的なものであるから、個人個人で解釈すべきものだと思っている。私は私の信仰を大切にするために、それを誰かに見せたいとは思わない。

最後に

 きっとこれからも宗教モチーフの作品を沢山書く。不道徳なものも沢山書く。むしろそれしか書かない。それでも上記2つの約束事は守りたいと思うから、どうか私にそれらを求めないでほしい。

 宗教という大きな存在について直接書かない私のことを「逃げ」という人もいるかもしれないが、それならそれで構わない。私は強い人間ではないから、この件について誰かと議論したいとも思わない。ただ、私は私の面白いと思う小説を書きたいだけだ。


うわ~~~~書いた~~~~~怖かった~~~~~~!!!
怖い人の目に留まったり、何か不味いことになったら速攻で消します!!!では!!!!!!

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