ピカソのモテモテ人生、そしてAI技術
またまた素人の駄文、失礼いたします。
ということで今回は美術初心者の入口であるピカソについてド素人目線で調査!
美術&ピカソ初心者が思う疑問。
それは「ピカソは本当に絵が上手いのか?」ということ。
結論から言ってしまうと、めちゃくちゃお上手!
ただし、その才能は女性に対しても同様で、相手を狂わせてしまうほどのモテモテ人生であったのだが、そこについては少し説明が必要になる。
幼い頃から40過ぎになるまで、ピカソの良さが全くもって理解できなかった。
大人になってからもピカソ展に足を運んだこともあったが、ただ「見た」だけであって、何も理解せず、美術に話が及んだ際はドヤッっ「この前ピカソ見てきたよ」くらいしか言えなかった。
さらに、あまり細かいことは知らないから「お願いだから細かいことは質問しないでね」と心の中では叫んでいたのである。
理解できなかったのはキュビスムの記事でも書いたが私自身とにかく無知であったということに尽きる。
モーツァルトと同様に幼少期から絵を描く才能は抜群で静岡の下田にある上原美術館の「科学と博愛」を見れば納得。
16歳で国の展覧会に入選した後、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ入学したが、1年で古典主義に飽きてバルセロナに帰ってくる。
当時のバルセロナにはガウディをはじめとする
アール・ヌーボーから影響を受けたモデルニスモと呼ばれる人たちがいて彼らからも刺激を受けていたようである。
バルセロナのカタルーニャ地方はパリに近く言語も似ていたこともあり友人のカサヘマスと共にピカソはパリへ行くことにする。
とここで少し聞いたことのある「青の時代」という言葉の登場である。
なぜ「青の時代」になったのかといえば、この友人のカサヘマスが自殺してしまったことが影響しているのだが、現在ではこの時期のピカソはブルーピカソとも呼ばれ評価も高くお値段も凄いことになっているようだ。
世は正に大海賊時代ならぬ「青を基調とした陰鬱な作風」の時代へと移行していく。
作品としてはの青の時代の集大成とも言え「人生(ラ・ヴィ)」があり、これは自殺してしまった友人カサヘマスを描いたものになる。
その後、ピカソはモンマルトルのバトー・ラヴォワール、俗に言われる「 洗濯船」で生活することになる。歩くと揺れてセーヌ川に浮かぶ洗濯船のようであるということから、洗濯船と呼ばれ、木造の安下宿であったが、その後多くの芸術家が集まり長い顔と首が印象的なモディリアーニや乳白色で有名な藤田嗣治もいた。
この藤田嗣治もかなりのモテモテ人生だったようであるが、いつの時代にも才能のある芸術家はモテるようで全く縁のない人生を生きてきた私には到底わからない世界である。知らんけど。
話が逸れたが、ピカソのモテモテ人生における最初の恋人「フェルナンド」がここで漸く登場するわけである。
気分が高揚したピカソの作風も「青の時代」から「バラ色の時代」へと移っていく。
なお、このフェルナンド以降に登場する恋人はドラを除きどんどん若くなっていき、
女性とともに天才ピカソの画風が変わっていくのである。
この「バラ色の時代」はサーカスの時代とも呼ばれるがバラ色を基調としたもので描いている内容は「青の時代」と変わらず、娼婦を描いたロートレックや社会の貧しい人たちを描いたドガを参考にしているようである。
そして、その後1907年に「アヴィニョンの娘たち」が完成するわけだが「青の時代」、「バラ色の時代」とは全く違った作風になる。
「ラ・ヴィ」が1904年で、たった3年の間に何があったのか?
答えは前回の記事でも書いた「ポール・セザンヌ」と「キュビスム」である。
詳細は前回の記事を見ていただけたらと思うが、1906年にセザンヌ大回顧展が開催され1907年にアヴィニョンの娘たちが描かれることになる。
絵を描く技術は圧倒的にセザンヌよりもピカソの方が秀でているにも関わらず、その後天才と呼ばれるピカソの作風に大きな影響を与えたセザンヌはやはり「現代アートの父」なのである。
この頃からのピカソが子供の頃から疑問に感じていた「ピカソって絵が上手いの?」を代表する作品となっていく。
本来はキューブではないが、アフリカの彫刻やゴーギャンのタヒチを描いたものなど民族美術を取り入れたものが「アビニョンの娘たち」の多面的に表現された「顔」なのである。
ここからピカソとブラックのキュビスムが始まっていくのであるが、とこのあたりでモテ男ピカソとしてのパワーの本領発揮となっていく。
2人目の女性「エヴァ・グエル」は病によってすぐに亡くなってしまうが、第一次世界大戦後にバレエの舞台美術を行うようになり3人目の女性「オルガ・コクローヴァ」と36歳で結婚。
オルガの影響で嫌いだった古典主義へ戻りオルガの人脈で上流階級層の肖像画を描き、一気に売れっ子画家になる。
ただここでまたピカソのモテモテオーラが発動され29歳年下の17歳のマリー・テレーズとお付き合い。
別居状態であったようだがいわゆる浮気と呼ばれるものだがマリーを口説く際に「私はピカソだ、君を書きたい」と言ったようだ。
比較対象にもならないが、今の私と年齢と変わらず、そんなことを街中で言ったら「おっさん、キモい」と言われるか下手したら連行されるようなことであろう。
そして約5年後に「泣く女の」モデルとして有名な写真家の3歳年上のドラ・マールとお付き合いを開始。
さらに驚くことにオルガとは別居中であったが、マリー・テレーズ、ドラ・マールの3人の女性と同時にお付き合いするという偉業を成し遂げるのである。
因みにドラ・マールが写真家であったため、制作中のスペイン内戦の悲劇を描いた「ゲルニカ」の描写過程がわかる貴重な資料として写真を残している。「ゲルニカ」はアメリカで展示されていたことで、第二次世界大戦中もドイツ軍の収奪を逃れ、現在はスペインのソフィア王妃芸術センターにあるが、ペンキで描かれていることから門外不出とされている。
もし鑑賞したい場合は徳島の「大塚国際美術館」で原寸大で見ることができる。
そして、この「ゲルニカ」作成中に修羅場を迎える。
複数人と同時交際中であったため、マリーが乗り込んできてドラと口論を開始。
マリーがどちらを選ぶのかピカソに迫った結果、ピカソは「君たちで争って決めたらいい」という発言をしている。
言いたくても言える機会がない発言!
2人は取っ組み合いのケンカを始めて、そんなドラを描いたのがこの「泣く女」という訳である。
いやはや天才という名を欲しいままにした本当に罪深い男である。
その後、画家のフランソワーズ・ジローとお付き合いし彼女が書いた自叙伝によって先ほどのマリーとドラの争いの内容がつまびらかにされるのであるが、マリーもドラも最終的には自殺して、ピカソと過去に付き合った女性は殆どが不幸な形で人生を終えている。
ジローは唯一ピカソから離れた女性で、その後も画家を続けて2023年6月に101歳で天寿を全うしている。
他にもお付き合いした女性はいるようだが、代表的な5名の女性を紹介させていただいた。
女性に対してはひどい男だが、才能もあって自由な人に惹かれる女性は多いのかもしれない。
モテない人生しか歩んでこなかった私には想像でしか語れない世界である。
少し長くなってしまったが、これを最近流行のChat GPTで「ピカソのモテモテ人生をわかりやすく説明して」とコマンドしたらものの30秒程で解説されてしまった。意外と作文するのに時間かかったのだが…。
恐るべきピカソ、そしてChat GPT。
この画像は生成AIで「ピカソ、油彩」で描いてもらったものである。恐るべきAI!
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