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平均と極限 〜銃撃事件によせて〜

日本の平均年収:461万円。
日本の年収の中央値:433万円(男女計)。

中央値を男女別にみると、
男性が約532万円。
女性が約293万円。

(レポートでもなんでもないので、引用元とか特に書かないよ)

平均は当てにならないという話でよく使われます。

上位数%の高い極限値が平均を押し上げており、みんなが通常平均として意識する数字は、中央値のほうが近いよ、っていう。


でもそもそも、当てにする、ってなんでしょうか。

平均も中央値も、当てにするという考えも常識も、全部自分から半径1mくらいの世界でしか使えないし使わない。

その半径1mくらいの世界は、全体から見て平均的な世界なの?真ん中の世界なの?

という意味の無い堂々巡りが始まってしまうのです。


平均を意識することや、平均的な生活や平均的な幸せを目指すことは悪いことではないです。

だって結局は半径1mの中で生き続けるわけだし、その中で如何に波風を立てないようにするか=平均的な生き方=生きやすさ、なんでしょう。

ただ、このように当てにならない平均や常識を他人に押し付けることはしたくないですね。

それが自分にとって居心地が悪いなら、黙って円の外に出してしまえばいいだけですから。


でも実はそれって、円の外に出してるんじゃなくて、円を縮めているという行為ともとれます。

自分から異質なもの、違和感を感じるもの、平均から外れたものを遠ざけることは、即ち自分の世界を狭くすることなのかもしれません。

極限値に目を向けてこそ、社会構造の実存的意味が見えてくると考えています。


今アメリカでは銃撃事件が立て続けに起こっています。

一般家庭でも銃を所持しているという平均値から、銃撃事件という極限値が生まれる。

銃規制という平均値を変えることが、極限値の発生を防ぐことに本当につながるのだろうか。


平均を求め一定の価値基準に同化しようとしている集団が何かに異質さを認めた時、それを否定的アイデンティティとして刻印し続ける体験が、彼らに極限のケースを起こさせる動機となっていることに気付くべきです。

彼らを異常者として円の外に出すのではなく、彼らを生み出したのは私たち自身ではないか、それも無意識のうちに、と、まずは自分の胸に手を当てて考えてみたいですね。


今日も読んでくれてありがとう、きゅんです💗

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