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中編小説「王様とまっすぐのぐぅ」

あらすじ

 王様は、お城の中で、いつも退屈していた。何一つ自分だけでは決められない。温泉宿で休暇中に地震が起こる。そこで出会う宿の者たちと交流を深める。出会いとは、使命とは、王様の成長物語。 

本文

 この国に住むあなたは、この国そのものではない。それは、かつての日本も、フランスも、アメリカでさえ、国籍があっただけで、国は、あなたそのものではなかった。第二次大戦終結後も、再び世界の秩序は乱れ、それぞれの国民たちは指導者に失望し、次々に国を見捨てた。やがて国境線は、地図上のものでしかなくなった。

 時が経ち、私は、現在、この国の王様である。ゆえに私はこの国そのものとなった。王様はこの国のものでなければならない。不満があったとしても、この国のことを背負い、守らなければならない。あなたは、国外に逃げ出すことができても、王様の私にはそれはできない。私とこの国が離れるとき、それは、私が殺されるか、病死のどちらかしかない。自殺することもできない。この城を一歩出ることさえ一人では決められない。この城は、私のために先代の王様が建てた。私を自由にするためではなく、逃がさないために建てられた城だ。 

 私の父は、見落とした。国が私そのものならば、親の跡を否応なしに継ぐしかない地獄を生きるしかない。そこに叫ぶべき自由は、私には一生与えられない。城の外に出ることが、許されていない以上、いつも同じ顔の家臣たちとしか接する機会がない。

 若い頃は、誰から見られても恥ずかしくないようにと身なりを気にして、鏡をよく見たものだった。今となっては、疲れた顔をしている自分の姿しかうつさない鏡を落ち込んで見つめるだけとなった。

「今日の私の顔はどうだ?」

 と試しに、家臣のバンに聞いたことがある。すると、どうだ。

「調子がすこぶる良さそうに見えます」

 と答える。私は、自分の部屋に帰り、まじまじと鏡の中の自分を見つめる。さきほどより、もっと疲れた顔をしていた。

 自分が思う顔と鏡にうつる顔と他人から見える顔は、全部違うのだろうか。その違いを確かめる手段はないが。この状況のままでは私の本当の姿など探してみても、私には一生見つけられないだろうと思い、また考えることを諦めた。考えることを諦めるということに理解が及ぶだろうか。時に考えることを手放すことでしか救われないときがある。私のためと言いながら、たくさんの自由を奪われてきた身になったことがあるか。やがて現状にただ従うだけの、誰かが思い込みで決めた立派な王様が出来上がった。私の本当の顔とは関係のない怪物だ。

 家臣とも言葉を交わすたびに、私の心は家臣たちから離れた。

 だから、ある瞬間から私は、国のためと嘘つきながら、私の心の声を平気で無視するようになった。それが、今の私だ。空虚だった。嘘などつかないほうがずっといい。

それで周りの家臣たちにだけはせめて好かれる王様であろうと、悪あがきをし、

「この柿をみなで分けるように」

 と言えば、必ず家臣のバンは、答える。

「さすがですね。一人で食べることもできるのに、そうしないところが王様の素晴らしいところですね。素晴らしい気遣いありがとうございます。みんな喜びます」

 みんなが指すその先の人物が誰であるかまでは、具体的に提示されることもない。それでも、私は、感謝されているのだと思えることだけで満足だった。いつも国民の幸せも願っていた。

 ただ私の感じた寂しさが、私を周りに迎合する王様に変えていった。

 父である先代の王は、混乱の中で、殺戮や強奪、ミサイル攻撃などを繰り返し、この国を建てた。その王は、私が産声をあげ、よちよちと歩き始め、順調に成長する私の姿を間近で見ていて、何かを感じ、たぶん平和を願い、この城を国のために作り始めた。そして、言葉を覚えると同時ぐらいに、私は、この城で、一人、次の君主となるための教育を受けた。実に情報の制約が多い生活だ。余計なことは、一切教えられることはなかった。

 幼き好奇心で、よく私は聞いた。

「それじゃ、これはどういうことなの?」

「それは、若君は、知らなくていいことでございます」 

 みんな余計な質問をすると、こう答えた。

 私は、父からいいことしか教わらなかった。私には見せない、語らない、教えないことが多かった。

父の悪行について知ることができたのは、家臣がトイレに忘れていった本をこっそり読んでしまったからだった。そして、父の悪行について私が知っていることも、父に悟られないように上手に隠した。

 父は、常に私の前で乱世を終わらせた史上ナンバーワン主君として振舞った。死ぬまで、その姿だけを息子である私に見せ、父を心から信じている息子だと私を勘違いしながら、死んでいった。

 父が死んだのは、私が十八の誕生日を迎えてすぐのことだ。病死だった。母も幼い頃に亡くなっていた。

 父の葬儀も終わらぬうちに、私は、王様に言われた通りに、あらゆる国と呼ばれるところと平和条約と停戦協定の締結を家臣のバンに命令した。その時から、バンは、私の専属の家臣だ。バンは、私より十歳以上年上で、バンの父も私の父に仕えていた。

 幼い頃からバンは、私に対して、低姿勢に話しかけた。そのことが、私に寂しさを植え付けているのが、バンに伝わっているだろうか。おそらくこの虚しさの正体など気づいてもいないのだろう。

「バン、私は、国民の本当の姿を見ていないのだ」

 と愚痴を言うと、

「王様、私が代わりに行って、この国の者たちがどんな幸せな顔をしているか写真に収めてきましょう」

 とバンは答える。そういうことではないのだということが、どう伝えれば、伝わるだろうか。

「写真ではなく、私はこの目で見たいのだ」

「王様が直接見て、おもしろいものはありません。なぜならば、この国の者たちは、みんな笑顔しか持ち合わせていないのですから」

「そうか?」

 そう言われれば、これ以上、話す必要はない。私の虚しさを残したままに。

 私は、いつも退屈だった。予想のできる答えしか答えない家臣たちとは、親しく話すこともない。だから、退屈と寂しさを埋めるために、国民に喜んでもらえると思える策に夢中になった。

「国直営のレストランを作って、安い値段で国民が食べられるようにしよう」

 家臣の中で位が一番高いところにいるバンは、私の言うことを実行する実行隊長だ。

 私の提案が実現すると、写真を持ってきて、どうなったかを説明した。そこには、完成されたレストランで食事を取る国民の姿が写っていた。私は、その写真を満足げに寝室に飾った。

 ある日、バンに提案した。

「実際にできたレストランに出向き、食事がしたい」

 わがままだとは承知だ。

「王様、只今、このレストランは、国民に大人気で、予約でいっぱいで大変でございます」

 そう言われて、私は言った。

「そうか。それでは私が行くと、迷惑になってしまうな」

「さすがです。まず始めに、国民のことを考えてくださる王様を国民すべての者たちが誇りに思っています」

「そうか、そうか」

 私は、また自分の気持ちを隠して、国民に慕われる王様を演じ続けていた。

 城で働く者たちに、せめてこの気持ちが満たされぬなら、良い王様であると思われたかった。

「家臣たちと立食パーティーはどうだ?城で働く者たちの労をねぎらうのだ」

「それは、すぐに実行いたしましょう」

「そうだな、イタミ国から最高級のあんこうを。エイヤ国からポルチーニだ。家への土産には、肌に良い油をつけよう」

「さすがです。王様。それこそ我々の苦労が報われるというものです」

 立食パーティーは、贅を尽くして、開催された。しかし、せっかく城で働く者たちと交流しようと企画しても、私の周りには、誰も寄り付かなかった。私は、みなが思い思いに食事する様子を段の高いテーブルから、キレイに皿にあらかじめ盛り付けられた前菜と冷えたあんこう鍋を食べていた。

 それでも、私は、王様としての威厳を保つために、笑いたくないのに、笑みを浮かべ、背筋をぴんと伸ばし、会が終わるのを待った。

バンのすすめで結婚した王女にも私は物足りなさを感じていた。

「どうだ?庭でも一緒に散歩しないか」

 と私が提案しても、王女は夫婦の会話を楽しもうとはせずに、

「今、化粧品の新商品を試すの。一人でいってらっしゃいな。その方が息抜きできるでしょ。私がいない方が」

 などと言い出す。何もわかってないのだ。王女は、私と過ごすことより贅沢をすることに興味があるようだった。私は、何も口出さなくなった。それ以上誘うことはしなくなっていった。無理強いすることは、わたしのすべきことではない。

 そんな様子を見たバンは言った。

「他の女性には興味はありませんか?」

 バンは続けて言った。

「王女様のご提案なのです。王様の幸せが、王女様の幸せであるといっておられます」

 私は、寂しさを埋めるかのように、与えられた女性をかわるがわるに変えて、抱いた。

 そして、決まって相手の女性に聞いた。

「私といるのは、どんな気持ちがするのだ?」

 相手の女性たちは、決まってこう言った。

「この国で一番素晴らしい王様と同じ時間を過ごせて、私は幸せ者です」

 女性たちは、一言一句違わず、同じ言葉を繰り返した。私は、いつか違った言葉を話す女性が来るのではと期待を抱いたが、そうはならなかった。

 私の唯一の楽しみは、国民が喜んでいる姿を見ることだった。不満だったのは、国民の笑顔を見ることができるのは決まって、写真の中に限られていることだった。

 私が、毎日しつこくバンに話しかけるようになると、バンは、一つ妥協し、国営の新しいレジャー施設を視察できることになった。それも私の願いの一つだった。これでやっと国民の喜ぶ姿を自分の目で見ることができるととても楽しみにしていた。

 しかし、施設に着いた私は、とてもがっかりした。プールや温泉があるのだが、私が施設を見学するというので、利用者は、城の者しか入場できない臨時休業だと言うのだ。それは、見慣れた顔をまた見るだけではないか。私は怒りが沸き上がったが、それを城の者たちに見せるわけにはいかないので、平静を装った。

 バンは言った。

「王様のためです。今は、どんな人物が凶行に出るかわからないのです。襲われてしまったら、再びこの国の危機がやってきます」

「私は、恨まれているのか?」

「いいえ。王様は良いことしかしていません。念のための最善の安全策なのです。バンのことを信用していただけないのですか。私はやりすぎですか?」

「そうではない。ただ私は、国民の喜ぶ姿をこの目で見たかっただけなのだ」

「大丈夫です。国民は喜んでいます。バンを信じてください」

 そう言われても、心の奥では納得がいかなかった。ひどく残念に思った。この施設を私は、城の者たちのためにではなく、国民のために作ったのだ。

 城の中で何度も顔を見合わせている家臣たちがプールや温泉で楽しんでいた。私の夜の相手をした女性たちもその中にいた。

 やけくそになった私はバンに言った。

「私も温泉に入ろうか」

 バンは慌てて言った。

「王様は、こんな温泉にはいるべきではありません。他の者たちにも恐れ多いことです」

「そうか」

 言ってみただけだ。叶うとは思っていない。

 大きな川のそばを走る車の中で私は言った。

「そうだ。ここに橋を作ろう。そしたら、城下町の者たちも移動が楽になって、遊びに来やすくなるだろう」

 バンは言った。

「そうですね。いつも国民のことを考えている王様にしか思いつかないことです。視察は大成功でしたね。すぐ橋を作らせます」

「それはいい。国民は必ず喜んでくれるだろう」

 私は、虚しさを隠しながら、バンに満足したようにほほえんで見せた。

 私は、自分の髪型一つ自分で決めることができなかった。左と右が非対称な髪型にすることなどありえないことだった。

「王様は、このスタイルが一番似合っています」

 そう言われて、一週間に一回、美容師がやってきて、切っているのか切っていないのかわからないぐらいの微調整をした。

 下着もそうだった。

「今日は、違った下着を着けて、女性に会いたいのだが」

 と私が言った途端に、バンは顔色を変えて、こう言った。

「王様、何をおっしゃるのですか。王様の身につけている商品は、この国でも世界でも一番手に入りにくい極上の商品です。女性もその下着を見られるのが嬉しいのです。滅多に見られるものではないのですから」

「私は、ショッピングがしたいのだ」

「王様、正気ですか?何を言い出すのか。王様の持っているものは、極上で最上の、最高級品で、王様が身に着けるにふさわしいものは、現在のもの以外にありません」

「私は、わがままを言っているのか?」

「王様は、わがままは言いません。私たち家臣を困らせるような王様ではありません。ただバンは、王様が最高のものを身に着けておられると忘れておられるのが残念でなりません」

 私は、バンにそこまで言われると、また自分の気持ちを正直に話す機会を失うのだ。ただ私の気持ちを少し想像してみてくれと。それだけなのだ。

 家臣たちは、季節が変われば、着ているものも変わった。それを見て、今は、そのようなものが流行っているのだと様子を見ては、楽しんでいた。私にもその楽しみを、と願うことは、無駄な抵抗なのだ。事務方の者が、私の身に着けるものリストを、毎月、右から左へと記入し、機械的に納品される。そのことが、寂しいのだ。

 私が欲しいと言えば、この国や隣国での最上級の私自身が求める以上のものが与えられた。私の虚しさがそこにあることなど誰が考えてくれようか。すぐに欲しいものが手に入る人間なんて世界中を探しても数えられるぐらいしかいないのだ。わかっている。ただ安くても、選択肢が、私側にあってほしいと。それだけなのだ。

 古い日本史の本を読んでいて、私は、また思いついた。そうだ、目安箱を設置して、国民の声を聞こうと。

 すぐにバンを呼び寄せ、提案した。バンの顔は曇り、また余計なことを考えついてくれたと言いたげな表情をした。

「わかりました」

 とだけ言って、バンは戻っていった。

 それから城の入口にあるという目安箱に投函された手紙を読むことを私は日課とした。

 そこには、私への感謝が綴られているものがほとんどだった。たまに要望が寄せられた。

「アボカドがたくさん食べたいです」

 まだ文字を覚えたてのようなつたない文字で書かれた手紙には、毎日アボカドを届けるようにバンに指示した。

 すると、二日後には、アボカドを嬉しそうに食べる少年の写真を見せられた。

 毎朝届く目安箱の手紙を見るのが、私は楽しかった。次は、国民のためにどんな問題を解決してやろうかと意気込んでいた。

 しかし、三日、四日、一週間と過ぎると、目安箱に投函される手紙の数は明らかに減っていった。

 私は、たまらずバンに聞いた。

「なぜ手紙の数が減ったのだろうか」

 バンは笑いながら言った。

「王様、それは、みんながこの国に満足しているからですよ。王様の素晴らしい行いによって、国民は他に望むものがないほど満たされているのです」

「そうか。それならいいのだ」

 私は、良いことのはずなのに、意気消沈して、目安箱を中止することを決めた。

 その様子を見たバンは言った。

「私が王様の代わりに国民に王様への要望を聞いて参りましょう」

「そうだな、そのほうが確実な方法だな」

 そう言うのが、精一杯だった。寂しさが全身に広がっていくのをただ何もできずに感じた。また私の思いは無視された。

 城の中で家臣たちが、談笑している姿をよく見かける。その様子を見るだけで、私は、なぜその輪の中に私がいないのかと絶望的な気持ちになるのだ。

 たまらずに、バンに告白した。

「私は、気軽に話せる友がいないのだ」

「何を言い出すのですか。王様には私がいるではありませんか」

 そう言われた私は、自分がおかしいのだと思って、すぐに、

「わがままを言ってしまった」

 と反省した。バンは、続けて言った。

「なんでも話してくれていいのですよ」

「そうだな」

 私は、それ以上何も言わなかった。そのときに感じた気持ちを言葉にできなかった。私が与えられた境遇、本、知識では説明のできない気持ちだった。部屋中にぎっしりの本があっても、私の心の中を代弁してくれる本は、この城にはなかった。ないのだ。いくら探しても。

 とにかく私は、日々に退屈していた。読書、茶道、書道にピアノ、どれを取っても、一人では楽しみが半減してしまう。

 ある日、城の中の女性たちの話し声が大きく、私の耳にまで届いた。私は、気づかれないように女性たちに近づき、柱の影から耳をそばだてた。

「流山源太は、素敵だったわね。金メダルはもう無理かと思ったら、最後の追い上げ、見た?」

「見たわよ。最高だったわ」

「今日の新聞買った?」

「一面が、流山源太だったわね。あの名シーン」

「流山源太のお嫁さんになりたいわ」

 私は、流山源太という者の名など聞いたことがなかった。

 私はすぐにバンを呼び寄せて聞いた。

「流山源太というのは誰だ?」

「国際体育大会の我が国の代表選手です」

「なぜ城の者たちは、知っているのだ?」

 なぜ私は知らないかという意味だ。問い詰めたかった。バンは一つも悪びれずに言った。

「王様にスポーツなど見せるわけにはいきません」

「なぜだ?」

 私は怒っていた。

「ドキドキはらはらして。心臓に悪いからです。王様には必要ありません。それにスポーツは時差の関係で深夜に行われることもあるのです」

「私にスポーツは必要ないと?」

「そうです」

 バンは、まっすぐに私を見て言った。バンと話しても、らちが明かない。それでも私は、バンに食い下がった。

「バン、私はスポーツが見たいのだ」

 いつも平静でいる私が、明らかに怒りの表情を浮かべたのをバンは見逃さなかった。そういうところだけ、バンは鋭かった。いつも私の気持ちには鈍感でも、バンの方に後ろめたさがあるときだけ敏感に反応した。

「わかりました。テレビをご用意いたしましょう」

 三か月後、私の部屋にテレビと言われるものがやってきた。見るのは、初めてである。

「早く流山源太が見たいのだ」

「もう国際体育大会は、終わりました。今は、総集編が放映されています」

 王様は、テレビのしくみがわからなかったので、テレビは、家臣に見ると言わないと見ることができないものだと思ったので、バンに言った。

「テレビというものは、誰かに見たいと言わないと見れぬなど、どうも不便だ。どうにか改善するように技術者にアドバイスするのだ」

「わかりました。王様は、素晴らしいアイデアをお持ちです」

 私は、それでもなお、寂しさを感じずにはいられなかった。テレビを見ても、城の中には私がテレビの感想を話せる相手などいなかった。

 最近、私はどうも思うように身体が動かなくなった。どうしても身体に力が入らなくなった。不調を訴えると、すぐにこの国でも指折りの著名な医者と言われる主治医がやってきた。そして、あらゆるところを検査し、こう言った。

「おいしい食事、心地よい排便、快眠が、王様が自分一人で手にいられる幸せであります。その三つを大事にされるのが、王様の役目であります」

「そうか」

 病名を告げることもなく、薬だけがどんどん増えた。一日に薬を何錠飲んだか自分ではわからぬほどだった。

 食事は何を食べてもおいしく感じられず、トイレに何時間座っても、便通はなく、お腹は苦しく、考えすぎか、全く眠れなくなって、夜がやってくることが恐怖でしかなくなっていた。

 夜の暗闇の中にいると、宇宙の中で、ぽつんと取り残されたような感覚に陥った。呼吸も苦しくなって、やがてこのまま息絶えてしまうような恐怖に怯えた。毎日生きているのが苦しい。

 人に気を遣うのが、つらい。出口が見えないというのは、こんなにつらいものなのか。誰に話しかけても、同じ答えだ。私の気持ちをまっすぐに正直に話せる友もいない。家臣もいない。どうして私はここにいるのか。このままずっとこの城の中で死ぬのを待ちながら暮らしていくだけなのか。全身に力が入らなくなった。

 ここ一か月の私は、ひどい便秘で、食べる意欲もなく、夜も眠れないものだから、昼間もずっとベッドで横になっていた。

 周りの家臣たちは、私にかける言葉もないようだった。

 トイレに行って帰るときに、女性の声が聞こえた。

「王様は、ご乱心になられた」

 そうヒソヒソ話をしていた。その声が、聞こえたときに、私は、必死に繕っていた外側に作っていた内面の壁も崩壊したのを感じた。外面だけは威厳を保っていたはずだった。変えられないと絶望して、反抗し続けることが私にいつまでできるか。希望など見つからなかった。

 バンは、そんな私の様子を見てたまらず言った。

「王様、仕事をしてください」

「私にできる仕事などない」 

「では、こうしましょう。バンは、毎日書類にハンコを押す仕事をしています。その仕事を王様にしていただきたいのです」

「バンの仕事を私がやるのか?」

「そうです」

 甘く見られたものだと思ったが、私は素直にバンに従った。

 毎日毎日、家臣の女性が、

「ここに押してください」

 と差し出す書類に、リズム良く、ハンコを押すのだ。少し気を抜くと、

「王様、真面目にやってください。均等に力を加えないとかすれてしまいます」

 と怒られるが、少しだけ私の心が軽くなった。

 それで何の書類にハンコを教えているのか気になり、書類の内容を確認しようと手を止めたりすると、家臣の女性は、

「王様、余計なことはしないでください。仕事に集中してください」

 と怒る。今まであまり怒られたことがなく、新鮮な気持ちがして、その家臣の女性を夜の部屋に誘うと、その女性は、少し嫌そうな顔をしたが、夜になると、私の部屋にちゃんとその女性はいた。私は、その女性と一夜を共にした。

 昼間は、あんなに強気だったその女性も他の女性と同じだった。

「私といるのは、どんな気持ちだ?」

「この国で一番素晴らしい王様と同じ時間を過ごせて、私は幸せ者です」

 次の日、その女性と仕事しようとすると、目の下がクマで真っ黒で、泣きはらしたような目をしていた。

 そして、私がハンコ押しに失敗しても、もう注意することはなかった。

 そのまた次の日には、その女性は、もう仕事にやってこなかった。

 私は、バンに聞いた。

「あの女性はどうしたのだ」

「あの者は、田舎の親が体調を崩し、田舎へ帰りました」

 私は言った。

「私はもうハンコ押しはしない」

 バンは言った。

「そうですか」

 私は、また無気力な王様に戻った。

 私は、城の天守閣から、空を見上げて、ぼんやりすることが多くなった。

 こんなにどこまでも続く空の下、この城から出られずに、一生を終えていいものだろうか。そこに私の幸せはあるのだろうか。本当にこの世は平和になったのだろうか。城の外のことは知らない。ずらりと並んだ本棚を見て、これだけの本を読んできたが、ここにある本には、私の心の奥底の悩みについて書かれた本などない。絶望的な気持ちになった。

 時間をただ浪費して、いつもと変わらない朝を待つだけの日々にいったいどんな意味があるだろうか。死をひたすらに待っているようにしか感じられなかった。私は王様である。しかし、正気でいられる自信がない。また五年後、こうやって私は空を見上げているだけなのだろうか。ここで。何も変わらずに。

 最近、私は笑っていないことに気づいた。もう何年笑っていないだろうか。最後に笑ったのはいつだったか。泣いた記憶はある。昨日も自分の境遇を嘆き、なぜか涙が出た。なぜ私は王様なのに、泣く必要がある?笑ったことはないが、泣くことはある。それが悲しいことだと同情してくれる者はこの城の中にはいない。

 私は、家臣たちの本当の気持ちはわからない。私は家臣になったことがないのだから。家臣が王様になったことがないように。

 あの著名な主治医は言った。快便、快眠、おいしい食事。どれも簡単に手に入るものだと甘く見ていた。

 長く生きて、私にどんな喜びが訪れるというのだ。笑いの一つもない毎日に。

 涙ならいくらでも出る。だが、それを家臣に見せてはならない。

 せめてこの苦しさを正直に話せる相手がいたなら。しかし、私には、心の底から笑い合えた相手がいたことはなく、無表情に生きることを求められてきた。人前で顔に喜びや悲しみの感情が浮かぶのは、悪だった。それが、王様の役目だと口々に言われてきた。

 このむなしさの元をたどれば、たどるほど私の睡眠時間は削られ、人生の生きる目的を失わせた。心から笑いたいのだ。心から。

 私が食事も取らずに、ふさぎ込んでいるので、家臣たちも自分たちばかり笑い合うのは悪いと思ったのか、城の中はしんと静まり返った。家臣たちは、自分たちのために私を元気にさせようと躍起になった。

 逆に私は、家臣たちにそこまで気を遣わせるのは悪いことだと自分を責め始めた。ビクビクと自信のない王様の私で家臣たちは満足なのだろうか。

 私のことなどほっといてくれていいのだ。空だけを見ているから。

 あらゆる専門家が私の元へやってきた。薬草に詳しい者に、元気になる薬を持ってこさせたり、栄養学に詳しい者に、バリエーション豊かな食事を持ってこさせたり、私が好物なものの量を増やしたりした。それでも、私の元気が復活することはなかった。こんなにしてもらっても、大切にされているとは思えなかった。また薬が増えた。

 最初から大して私のことに興味がない王女も家臣たちの懇願により駆り出されなければならないほどだったらしい。

 王女が珍しく私が横になっているところにやってきて言った。

「そうだわ。私にいいアイデアがあるわ。私の懇意にしている温泉へ行きましょう」

 王女の案が採用されれば、家臣たちが王女に尊敬のまなざしを向けるからだと計算しているかどうかなど私にはどうでもいいことだった。実際にそうとしか考えられなかったが。

 私はずっと城の中に閉じ込められているのは、耐えられないと考えていたので、二つ返事で了承した。

 私は、これまでキシャに一度しか乗ったことがなかった。十歳のときに、母の故郷での葬儀に参列されるために、ほんの短い距離を移動するために乗ったことがあるだけだった。そのときは、城から母の家に着くまで、国民が列を作り、人が溢れていた。

 今日、温泉に行くために乗るのが、二度目だった。王様なのに。

 キシャの中で王女と向かい合って、お茶をしていると、王女が口を開いた。

「そんなに何を悩んでおられますの?楽しめばいいじゃありませんか。一度きりの人生ですもの」

「私には自由がないのだ」

「あなたそれはおかしいですわ。自由より、私がいるではありませんの?それでは満足できないとおっしゃいますの?今日も私の髪型が変わったこともおっしゃってくれないわ。私の話など聞かずに、いつも天守閣にいて、私を仲間にいれてくれないから、元気も出ないのよ」

 私は、その言葉をじっと聞いて言った。

「君とは話ができない」

「あなたは不器用な人ね。私が喜ぶ言葉だけおっしゃればいいのに。その方がずっとましなのに」

 王女も最初から私が王女に好意があるとは思っていないのだ。そうだ。それは、当たっていた。

 私は、王女が話している間中、私の心の中を想像してくれる気持ちがこれっぽっちもないことを私は、はっきりと確認した。私を本当に心配してくれている人の言葉だとはとても思えなかった。せっかく城から出ることができたのに、気持ちは城の中にいるのと同じに深く沈んだ。

 それでもここにしかいることのできない運命を呪いながら、バンに救いを求めるように言った。

「窓の外の景色が見たいのだ。空が」

「王様、見るほどの景色はございません。田んぼと海ぐらいのものです。一流が撮った写真で見た景色には及びません」

「それでもいいのだ」

「王様が、温泉に来ているというのは、国民には秘密になっております。もし見つかったならば、人が溢れ、大変なことになってしまいます」

「そうか、それでこのように窓の外の景色が見えないようになっているのだな?」

「そうでございます。王女と楽しい会話をしていてください。王女の提案で、高級な紅茶にスコーンという食べ物も持ってきております」

 私はこれ以上、王女と話す気になれなかった。この王女と話していると、まるで私が頭のおかしな王様だとずっと言われているようで、落ち込んでしまうのだ。

 それでも私はなんとか気持ちを立て直そうと、キシャの内部をつぶさに観察した。このカーテンの色は何色と言うのだろう。誰にも質問はしなかった。ただただキシャの内部を物珍しそうに眺めているだけだ。

 温泉宿に着くと、山が見えて、その山頂に雪が積もっているのが見えた。それだけで気持ちが、すっとした。温泉宿の者たちも親切で、王様だとわかっていても、お国言葉で、とても丁寧に料理の説明をしてくれた。

「このお豆腐は、こちらで毎朝手作りしております」

 そう言われると、私は、何時に起きて作っているのか、温泉宿の従業員の数や生活について質問を繰り返した。城にいる者たちとは違い、自分の言葉で、笑みを浮かべながら楽しそうに話すので、私は、どんどん楽しくなり、話が弾んだ。こういう交流をずっと私は求めていたのだ。大事なことはそんなにない。主治医が言ったように。

 すると、そのあたたかな雰囲気を壊すようにバンが言った。

「そのようなくだらない話はもういい。下がれ」

 バンにそう言われた女将は、

「申し訳ありません」

 と怯え、声を震わし、すぐに部屋から出て行ってしまった。

「なぜそのようなことを言うのだ?」

「王様にくだらない話は必要ありません」

「くだらない話かどうかは、私が決める」

 私がそう言うと、隣で日本酒を飲んでいた王女が言った。

「バンの方が正しいですわ。温泉宿の者との会話などくだらないですわ」

 私はめまいがした。城の外でもおかしいのは、私だと。そう王女も言った。

 帰りに女将がお別れの挨拶をしに来たが、もうその女将は余計なことは何一つ話そうとはしなかった。

 しかし、キシャの外の景色がみられなくとも、女将との会話を遮られようとも、城の外へ出ることができたのは、私にとっては収穫であった。そこに一縷の光を感じた。

 城の中では、愛が見つけられなかった。温泉宿の中では、すぐに見つけることができたのに。愛を受信する機能まで破壊されてはいなかった。ちゃんとじんわりあたたかさを感じる感覚が私にはあった。

 強く望めば、また温泉宿に行くことができる。そう思えたことは、私を元気にした。

 どうせ理解されないだろうと口を閉ざす。何を聞いても、話しても無駄だと。そう思ったら、全てがむなしさの毒で口まで動かなくなってしまう。やがて温泉宿に行く前の私のように身体にまで変調をきたすのだ。

「今度は、バンも王女も連れて行かないことにしよう」

 私は、心の中でつぶやいた。頭の中でも言葉にできた目標は、少しずつ生活へ潤いを持たせた。どうにか一人で温泉宿に行く口実はないかと知恵を絞り出すことが、私を前へ向かわせた。

 どうにか一人で温泉宿に行く方法はないか、それだけ考えた。風呂でも、トイレでも、食事をしていても。

 そしたら、ある日、天守閣で、いつものように空を見ていたら、アイデアが降りてきた。

 すぐにバンを呼び寄せて言った。

「バン、城の者に休暇を与える」

「休暇ですか?」

「そうだ。考えたことなどなかっただろう。休暇を取るのだ」

「お休みならもらっていますが」

「二週間だ。二週間、城の者たちに休暇と特別手当を与える」

「どうしてですか?王様はどうなされますか?」

「私は、こないだの温泉に行く。宿の者たちが世話をしてくれるだろう。ついてくる者は、一人でいい。城の家臣の中で一番若い独身の者と二人で温泉に行く。王女も実家でゆっくりするように手配してくれ。私は温泉で休暇を取るのだ。みな賛成するだろう。みな、休むのだ」

 バンは、特別手当と聞いて、気を良くしたようだった。私にはそう見えた。

 王女は、私の元へやってきて、嬉しそうに言った。

「私も実家に帰っていいのですか?」

「そうだ。二週間だ」

「嬉しいわ。王様はなんていいことを思いつくのでしょう」

「ゆっくり休むといい」

 バンも特別手当と二週間の休みとは魅力的だったろう。バンは、数多くの家臣の中から選ばれたしっかりとした若い家臣に、私の扱いで間違いを犯さないように、休暇の日までずっと脇に置き、あらゆる問題を想定し、細かな私の扱い方を教え続けた。

 若い家臣は私に聞いた。

「なぜ私が選ばれたのでしょうか?」

「若いからだ」

「それだけですか?」

「いや、頭の良い者と言ったら、君が選ばれたのだ。喜んでいい」

「そうですか」

 褒められて、悪い気がする人はいないだろう。その若い家臣も笑顔になった。

 いよいよ温泉へ出発の時がやってきた。私は、胸の高鳴りをおさえきれなかった。鏡にうつる私の顔色は良かった。目もいつもより見開いているように見える。

 温泉に行くまでの途中で、キシャの窓を開けようとすると、若い家臣は言った。

「王様には、外は見せてはいけないと言われております」

 と若い家臣のトニは言った。

「そうか、そうか」

私は、それぐらいのことでは挫けなかった。想定の範囲内だ。何よりバンも王女もいない温泉宿で、過ごせるのが嬉しくてたまらなかった。少し自由を感じて、私は、にやけた。

 宿に到着すると、女将が出迎えた。

「あの、王様とあの、」

 女将が私とトニを見て、何か言いにくそうにしている。

「トニだ。私とトニで二週間世話になる。頼むぞ」

 すると、女将は言った。

「てっきり大人数でやってこられると思っておりまして」

「私とトニでいっぱい食べるぞ」

「それは、それは、大歓迎でございます」

 女将は、バンがいないことに安心したのではないかと私は推察した。口うるさい王女もいない。

「温泉に入りたいのだ」

「もちろんです」

 女将は、仲居を呼び、部屋へと案内させた。トニが部屋に荷物を運び終えると、私は、ここでどれだけの自由が与えられるかを試すように、女将に言った。

「私は、ロビーに行ってもいいか?」

「もちろんです」

「女将、私が大浴場に入ることは可能か?」

 女将は、トニの方を見た。トニは、どうしたらいいのかと顔が曇った。

「王様、それは、」

「それはなんだ」

 トニは、女将がうなずくのを見てから、意を決したように言った。

「王様が、一人で入られるならいいと思います」

 私は、下っ端のトニを連れてきて大正解だったと思った。

 私は、温泉のロビーで、ゆっくり丁寧に淹れられた珈琲を飲み、温泉宿の仲居たちが働く様子をつぶさに観察した。

 すると、一人の少年が、どこからかやってきて言った。

「おじさん、偉い人?」

 そんな風に今まで話しかけられたことのない私は、驚いてしまった。

 すぐに女将がやってきて、

「ほら、ぐぅ、お客様に話しかけてはいけないと言ってるでしょ」

 と怒っている。

「まぁ、いいではないか。君はいくつだ?」

「十一歳だよ。ツバキ小学校に通ってるよ」

「まぁ、王様にそんな口をきいて」

 女将は、慌てふためき、すぐにぐぅを連れて行こうとする。

「王様なの?」

「そうだ」

「ふぅん」

 と言ったところで、女将はぐぅを羽交い絞めにした。後から来た男性にぐぅは足を持たれ、ぐぅは運ばれていった。

私はその様子がおかしくてたまらなかった。城で、こんなことはありえない。私の前ではいつでも誰でも礼儀正しかった。

 ぐぅが連れ去られてから、すぐに仲居がやってきて、

「王様、大浴場の準備ができました。すぐ入られますか?」

 と私に聞いた。

 今まで私のすることは、全て決められていた。食事は、何時から何時まで、風呂の時間は、何時から、好き勝手にするのは、悪とされてきた。昼間に風呂に入るなど考えられないことだった。

 それに本来なら、仲居は私へ聞く前に、トニに聞かなければならないのに、仲居は直接、私に聞いてきた。城では、王女とバン以外の人間が、バンの許可なく私に話しかけることはない。トニは、仕事に不慣れなだけでなく、私に指示しようという気はないらしい。

 私は、嬉しくて仕方なかった。

「そうだ。今すぐ入りたい」

「案内させていただきます。こちらへどうぞ」

 そこには、石鹸も浴衣も全てそろえられていた。ここの女将も仲居も教育が行き届いている。私はここで自分の意志で自分のしたいように行動していいのだ。トニに頼めば、かなり融通が利くだろう。

 この温泉宿は、この国の中でもとても評価の高い宿なのだろう。居心地の良さを感じて、私の顔はほころんだ。それぞれの者たちが、自分の仕事に誇りを持ち、働いているのが伝わってきた。

 大浴場で、一人、温泉に入る。至福のときだ。これほど王様になってから、自由を感じたことなどなかった。身体中の血が巡るのが感じられる。心も満たされている。これ以上の幸福があろうか。

だが、至福のときは長くは続かなかった。

 突如、入っていた湯が風呂から溢れ、ぐらんぐらんと足元が揺れた。生まれて初めての揺れだった。とりあえず湯から出て、大浴場の真ん中で真っ裸で仁王立ちをした。

 すると、トニが慌てて、大浴場に服のまま入ってきて言った。

「王様、王様、大丈夫ですか」

 裸の私を見て、どこか怪我していないか確認して、とりあえず安心したようだった。

 自分も不安であろうこの時に、何より先に私の身を案じてくれたトニを見て、私はこんなときでも悪い気はしなかった。

「大丈夫だ」

 と私は答えた。

「大きな地震でしたね。王様、風邪をひいてしまいます。すぐ浴衣を着てください」

 浴衣を着て、風呂を出ると、温泉宿にいるすべての者たちが、私が出てくるのを待っていた。

 その様子を見た私は、二週間、絶対に城には帰りたくないと思った。

「大きな地震であった。宿にいる者たちは、みな無事であるか?」

 と尋ねると、ぐぅが言った。

「みんな、王様のことを心配してたよ」

 女将は、ぐぅをにらんで、ぐぅの口を両手で押さえると言った。

「お客様は、王様しかおりませんし、この宿は、著名な建築家が素晴らしい材料を集めて、建てておりますし、地盤もしっかりしていて、幸い震源地からも遠く、この宿の者たちはみな無事です。少し調理場の皿が割れたぐらいでございます」

「それは、良かった。何か不都合なことがあれば、城から持ってこさせよう」

 そう言うと、宿の者たちは、顔を見合わせた。

 余震も少しおさまり、部屋へ戻ると、着いたときにあったテレビが撤去されようとしているところだった。

「バン様より、撤去するように申し伝えがありました」

「そうか」

 私は、ここまでもバンの影響を受けるのかと一瞬身構えたが、テレビがなくとも、退屈しなさそうだったので、納得した。

 地震直後からトニは、城と連絡を取ることに忙しく、私はほったらかしの身となった。誰も私の世話をしないなど城では考えられないことだった。

 何かさきほどの大きな地震で何かが起こったことは感じ取ったが、王様として動じるわけにはいかなかった。

「食事の用意はできるか?働いている者の分もあるのか?」

 そう女将に訊ねると、

「王様がやってくるというので、たくさんのお付きの皆様もやってくると思い、いつもよりたくさんの材料を仕入れており、食事に困るということはありません」

 と返ってきた。老舗温泉宿としてのプライドを見たように思った。この者たちに任せておけば、安心だと思った。

 私は、今、自分にできることに集中すればいいのだ。部屋で、宿の者たちの邪魔にならないように、文をしたためた。バン宛の文だ。城の様子を訊ねるためだった。それを書き終えると、持ってきた本を読んで、一人の時間を楽しんだ。

部屋からの景色も穏やかに川が流れていて、美しいものだった。天守閣で、空を見ているよりずっと幸せだった。時々、仲居たちの話し声が聞こえたが、城のように雑音としてではなく、人の営みとしての時間を過ごす音として私の耳に届いた。

余震がやってきて、部屋が揺れると、慌てて、トニがそのたびにやってきたが、それ以外は、全くトニは、王様の部屋へは姿を見せなかった。一人で過ごしていても、なぜか寂しくはなかった。

 私は、地震や災害があったとき、慌てる様子を見せるわけにはいかない。私が慌ててしまったら、もっと国民を不安にされるからだ。尊敬される主君でいなければならない。私が今、すべきことは待つことだけだ。みなが、浮足立つときこそ堂々と威厳を保つこと。それが国民に信頼される王様の姿だと信じている。

こういうときのために、王様がいるのだ。安心、平和、温厚、それこそ求められるものなのだ。慌てふためくべきではない。国民が困難に直面しているときこそ王様は平常心でいなければならない。そう私は、自分に言い聞かせていた。心のうちを言えば、私にもいつも不安はついて回るけども。

一日一日がとても大切に過ぎた。一日過ぎるたびに、宿の者たちも自然に私に接するようになってきた。私にも一日の自然なルーティンができて、少しばかりあった緊張もほどけてきた。朝食を部屋で食べ終えると、ロビーへ向かい、珈琲を飲みながら、男性従業員とチェスをする。たまたま風呂場に忘れた指輪を届けに来てくれた者と世話話をすると、チェスの話題が出て、教えてもらえることになった。私のこれまでの人生の中で、初めて自然な会話を通して、人とのつながりを持てた。とても新鮮だった。幼い頃から先生にマンツーマンで、和歌や帝王学、一般常識を教わったが、その先生たちとも勉強以外のことを話したことなどない。男性従業員とは、チェスをしながら、キシャの乗り心地について熱く語り合った。

王様になってからは、決められたことを実行するか、一方的に私が家臣たちに指示するかのどちらかだ。相互に会話が成り立つことなどなかった。

王様だと知っていても、優しく接してくれる人たちと過ごす時間は、格別だった。ここに愛があった。普通の日常をただ笑って過ごした。

中でも、ぐぅと過ごすときは、格別だった。

「王様は、お小遣いは、いくらもらってるの?」

 そう言われたときには、私は仰天してしまった。世の中の人たちには、お小遣いというものがあるらしいのだ。働いて得るお金以外に、お年玉やお小遣いを子供がもらうらしいのだ。

「私はもらったことがない」

 と、ぐぅに答えると、

「どうやってお菓子を買うの?」

 と聞くのだ。

「お菓子は午後三時に出てくる」

 と言うと、

「じゃ、午前中にお腹がすいたらどうするの?」

 とまた質問してくる。私は、そんなこと今まで考えたことがなかった。午前中にお腹がすくこともなかった。

 ぐぅは女将に行動を見張られている。私の所にいるとわかると、すぐ連れ出されてしまった。

「本当に申し訳ございません。私の教育が行き届いていなくて」

 と言う女将に私は言った。

「子供は自由がいいのだ」

 自分の経験を振り返り、ぐぅの屈託ないふるまいに憧れを感じた。

 そろそろ二週間のときが過ぎようとしていた。バンへ送った文も返事が返ってきていなかった。そのことをトニに訊ねると、

「バン様も休暇中でございます」

 と言うだけだった。

 王様は、ひそかに二週間後もここにいられないかと策を練っていた。

 ここには、王様にとっての憩いがあった。あの城の中に、私はいない。私がいることで迷惑であるぐらいなのだ。現に二週間が経とうとしても、誰一人、様子を訊ねる文の一つも送ってこないではないか。

 城へ帰る予定日の前日、トニはバンの文を持って、慌てて王様の部屋に入ってきた。

「バン様からでございます」

 そう言って、文を差し出した。中身を確認すると、この時期を利用して、城の改修をすることにしたこと、あと二週間、私は宿に滞在してくれとのことだった。私は、やはり城では、私のことなど気にしていないのだと少し寂しく思った。

 すぐに女将を呼び寄せて言った。

「申し訳ないが、あと二週間ここで世話になる」

 そう言うと、女将は、

「今までのようなことしかできませんが、それでもよろしいのでしょうか。こんな田舎の宿でよろしいのでしょうか」

 と弱気なことを言った。

 私はすぐさま言った。

「ここがいいのだ。素晴らしい宿だ」

 女将は、褒められて安心したようだった。

 さらに私は、女将に言った。

「ぐぅはどこだ。連れてきてくれないか?」

「ぐぅですか?ぐぅはまだ学校から帰っていません」

「ならば、帰ってきたら、私の部屋に来るように言ってはくれないか?」

 女将は心配そうにトニを見た。トニは、言った。

「王様、特定の人物と仲良くするには、バン様の許可が必要であります」

「では、バンはどこにおる?」

「城でございます」

「では、私がぐぅと過ごしても、他言する者がいなければバレないではないか。それにぐぅは子供だ」

 今度は、トニが女将を見た。

「わかりました。一日一時間だけです」

「トニ、お前は仕事のできる男だと、城に戻ったら、バンに真っ先に伝えることにしよう」

 それを聞いたトニは気を良くしたようだった。

 ぐぅと私はとても気が合った。私が、今まで思っていても、言葉にできなかった思いをぐぅは何でも口にした。

「偉いってどんな感じ?」

「そうだな。どんな感じか。考えたことがなかったな」

「お城の中は、広い?」

「あぁ、広い。この宿よりずっと広い」

「いいな。走れるぐらい?」

「城の中は走ってはいけないのだ」

「なんだ、つまんない」

「本ならいっぱいあるぞ。部屋一面に本が並んでおるぞ」

「本ならいい。ひかり書店にいっぱい本があるからいい。チエが読んでくれるから」

「この宿の近くに本屋があるのか?」

「そうだよ。知らないの?」

「王様だからといって、なんでも知っているとは限らないのだ」

「そうなの?国で一番偉いのに?」

「特に、この宿やこの宿の周辺のことは、ぐぅの方がずっと詳しいのだよ」

「教えてほしい?」

「そうだ。王様は知りたいのだ」

「じゃ、ぐぅが先生になってあげる」

ぐぅと遊ぶときは、二人きりにしてくれと指示すると、トニも女将も抵抗を諦めたようだった。城の中では、バンの許可がないと誰かと話すこともできなかったことを思うと、自由で楽しくて仕方なかった。

トニとの付き合い方についても私は慣れていった。トニと二人で身の上話をすることもあった。バンとは全く違う話ができた。

「トニ、君はどこの出身か?」

「上走地区の出身でございます」

「ご両親は何をしておる?」

「父は亡くなりましたが、母は教師をしております」

「家計は大変か?」

「幸い、父が残した家があり、贅沢をしなければ、母も私も充分なお給料をいただいております」

「お小遣いもか?」

「お小遣いですか?」

 ときょとんとした顔をトニがするので、私は、

「こっちの話であった」

 と笑った。その意味がトニにはわからなかったようだった。

「なぜ城で働こうと思ったのだ?」

「私は、自分が目立つことより、人の影となり、尽くす方が性に合っているのです」

「なぜそう思ったのだ」

「人前で発表となると、緊張して、ガチガチになり、何も話せないのです。ですが、人のために尽くすとなると、力がみなぎるのです。それに自分で言うのは、恥ずかしいですが、国家試験に受かる自信があったのです」

「人にどう尽くしたかったのだ?」

「みなが笑顔でいられる国を作るお手伝いがしたかったのです」

 私は、それを聞いて、立場は違うが、目指すものは似ていると感じた。

 その後もトニの個人的なことをいろいろ質問攻めにして、その結果、トニは信用できる男だと思った。

トニも距離が近づいたと思ってくれたのか、私を信用してくれたのか、私のすることを禁止することは次第に少なくなっていった。

 ある日、私は、勇気を出して言った。

「ぐぅと一緒に外出がしたい」

 それを聞いた女将とトニは頭を抱えてしまった。私のしたいようにさせてあげたいが、外出となると、別問題だというのが、二人の意見だった。トニは言った。

「王様、何か必要なものがあるのですか?」

「それなら私たちのどちらかが買ってきましょう」

 女将も心配して言った。

「そういうものではないのだ。国民の生活を見たいのだ。町に詳しいぐぅが一緒ならば、抜け道もあるだろうと思ったのだ」

「欲しいものがあるわけではないのですか」

 とトニは少し怒っていた。

「本屋だ。二週間も休みが延長になり、私の元にはもう読む本がない」

 トニは、女将と顔を見合わせて言った。

「そのことに関しましては、私たちに考える時間をください。町の者とも相談しなければなりません」

 トニはバンとは違う。頭ごなしに私の意見を否定しない。

 二日後、トニと女将がやってきて言った。

「ひかり書店だけなら」

 と言うのを聞くなり、私はガッツポーズで、飛びあがって喜んだ。

「いいのか?」

 自分で言っておいておかしいのだが、願いが叶うとは思っていなかった。トニは続けて言った。

「しかし、宿の男たちが行動を見張っています。見えない位置からですが。それでいいですか?」

「それだけでいいのか?」

「ダメですか?」

「いや、問題はない」

「ぐぅは、その日休ませます。休日の混雑は、避けます。時間も朝早く周りの店が開く前の時間にしていただきます。ひかり書店は、孫のチエと祖父のスクがやっている店です。この宿の者たちも本を買う際は、ひかり書店を使っています。馴染みの店なので、王様のことを相談すると、喜んでお迎えするとのことでした」

私の目は潤んだ。嬉しくて。

 ぐぅは、その外出が決まったという知らせを聞いてから、いつものように部屋にやってくると言った。

「王様は、わがままだね。外出する日の給食は、僕の大好きなメニューだったんだよ」

「それは悪いことをしたな。代わりに小遣いで、本を買ってあげよう」

「ほんとに?お小遣いもらってないのに?」

「必要なときには、もらえるのだ。王様と他の者は違うのだ。他の者は欲しいものが、お金になったり、休暇になったり、愛になったり、いつでも欲求不満だ。私はそうではない。常に与えられる側なのだ。だけど、私には、自由になるお金などなかったのだよ。出かけることが決まって、初めてお小遣いをもらったのだよ」

「じゃ、王様、大切に使わないと」

「私は王様だよ。好きなものが買えるさ」

 ぐぅには、わがままが言えた。わがままを言ってもいい関係というのがあるのだと私は知った。

「王様、これが外出時の予算です」

 そう言って、トニからこの国の通貨を受け取った。

「これが、お小遣いか?」

「お小遣いだなんて。王様のお金です。滅相もないです」

 私は、自分でお金を払ったことがなかった。それはそうだろう。いつでも私の代わりに払ってくれる誰かがそばにいなければ、生活ができないと思わされていたのだ。

 ぐぅとは、外出の日のことばかり話していた。

「ひかり書店はどんなところだ?」

「たくさんの本があるところだよ」

「どんな服で行けばいいか?」

 まさかいつも来ている一発で王様とわかる服で行くわけにはいかないだろう。その質問にぐぅはこう答えた。

「好きな服でいいよ」

 だけど、その答えに私は困り果ててしまった。

「トニ、頼みがある」

「なんでもおっしゃってください」

「私は、どんな服を着て外出すればいいのだ?恥ずかしくない恰好がいいのだ。王様だとは、わからない服装で出かけたいのだよ」

「それは難しいことではありません」

 私は、自分がとても恥ずかしくて口にできない、相談などできそうもないと思うようなことも少しだけ勇気を出して、他人に相談すると案外他人には恥ずかしいことでも何でもないことがあるのだと理解した。

「王様、靴も服も自分でお選びになりますか?」

「こんなわがままを言っていいのかわからんが、トニにだから言うのだ。宿の者たちに意見を聞きたいのだよ」

「わかりました。では、即席のファッションショーを宿の者たちを集めて開きましょう。王様の代わりに宿の者たちに身に着けてもらい、王様がお決めになるのです」

「トニ、君はなんてやつだ。そんなことができてしまうのか」

 数日後、宿のロビーを利用したファッションショーが行われた。全ての仕事をいったん保留にし、女性も男性も子供たちも宿の者たちは、みな集まった。

 スーツ姿、スウェット姿、ヒップホップ風、アメカジ、休日のお父さん風など、トニと宿の者たちが、それぞれに選んだ服を着た男たちが、私の前を歩いた。決めポーズをする者もいて、私は笑いながら、楽しんだ。全ての服を見終えると、私は言った。

「それでは、みなでどの服装が一番外出着に合っているのか投票するのだ」

 宿の者たちもとても楽しんでいるように見えた。結局、選ばれた服はこれといって特徴のない服が選ばれた。どうも出てきてすぐに全員一致でその服装だと思っていたらしい。それは、後から聞いた話だと、トニが選んだ服だということだった。もちろん私もその服が一番だと思った。

 私とぐぅは、親子のように仲良くなっていた。

 外出当日、私は、みなで選んだ服を身に着け、靴を履くと言った。

「ありがたい」

 トニには聞こえたかもしれない。私のわがままのために人が動いてくれるのが、私はありがたくて仕方なかった。

 宿を出て、町に着くと、城とは全く違う光景が広がっていた。ものすごく高いビルがいくつもあり、王様の私が気後れした。

 ぐぅは、宿を出るとすぐに、不安そうな私の気持ちを察したのか、

「手をつなぐ?」

 と聞いてきた。

「なぜだ?」

「王様を守ってあげたいから」

 そうぐぅに言われて、子供ながらに役目を全うしようと頑張っているのだと思った。

「いや、手はつながない」

「そう?」

「そうだ。いいのだ。ぐぅは、いつも通りでいいのだ」

 宿を出ても、ついてくる者は見つけられなかった。少し心細さを感じたが、一緒にいるぐぅを頼もしく感じて、ずんずんと進んだ。

「あそこを左に行くよ」

 ぐぅは、他の人に聞こえない大きさの声で私に指示をした。

 少し歩くと、蒸し器から湯気のたちのぼる店があった。

「僕は王様に肉まんおごるよ」

「肉まんとな?」

「待ってて」

 そこに立ち止まって、ぐぅが戻ってくるのを素直に待っていた。小さな袋を、右手と左手に一つずつ持って、ぐぅは戻ってきた。

 一つ私に差し出した。

「なんだこれは?」

「肉まんだよ。こうして食べるんだ」

 とぐぅは言い、二つに割って、片方を口に入れた。

「にはちまんじゅうの肉まんは最高だよ。王様もあったかいうちに食べて」

「そうか?」

 恐る恐る私もぐぅと同じように二つに分けて口へと運んだ。

「うまい」

「でしょ?」

「高いのであろう。こんなにうまいものは初めてだ」

 ぐぅは満足そうにうなずいた。また歩き出すと、今度は機械がたくさん並んでいる場所があった。

「あれはなんだ?」

 私がぐぅに聞くと、

「ガチャガチャが集まっているところだよ」

 と言うのだ。

「ガチャガチャとはなんだ?」

「おもちゃの小さいやつだよ。百年前からあるよ」

 私は名案を思いついた。

「そうだ、ぐぅ、さっきの肉まんのお礼にガチャガチャなるものをプレゼントしよう」

「いいの?」

「私も興味があるのだよ」

 二人で予定になかったガチャガチャの店に入った。家族連れが二組ほどいた。

 小声でぐぅに王様とは呼ばないようにアドバイスした。

「どれにする?」

 私には、目に映る全てのものが新しく感じられた。

「ぐぅはどれにするのだ?」

「僕は、このアニメが好きだから、これにする」

 お金を渡して、手に入れると、ぐぅは笑った。

「嫌いな悪役が出ちゃった」

「私も同じものを買おう」

 開けて、ぐぅに見せると、

「僕が一番欲しかったやつだ」

 と言うので、私は言った。

「交換しよう。私は、悪役が欲しかったのだ」

「ほんと?」

「ほんとだよ」

「ラッキー」

 とぐぅは喜んだ。警備している者たちもやきもきしている頃だと思った。私は言った。

「ひかり書店に向かおう」

「すぐだよ」

 歩きながら、私は自慢げに、ぐぅに聞いた。

「この服はどうだい?」

「そこら辺にいる普通のおじさんと一緒だよ」

 とぐぅが言うので、

「あぁ、それはいい。普通のおじさんはいい」

 と私が高笑いすると、ぐぅは不思議そうにしていた。

「あそこだよ」

指差した先を見ると、ひかり書店と書かれた看板を見つけた。王様が想像していたよりも大きく、立派な店だった。

 店の前には、こちらの方に手を振っているエプロンをつけた若い女性がいた。

「ぐぅー」

 とぐぅの名を女性は呼んだ。

「チエ、連れてきたよ」

 と自分の役目を果たしたぐぅが誇らしげに言った。

「待ってたのよ、なかなか来ないから」

 と言うチエの言葉で、私とぐぅは顔を見合わせた。

トニの段取りで、きっと宿から何分で着くなどスケジュール管理されていたんだろう。

ひかり書店は、ピカピカのビルとビルの間にしっかりと存在していた。

 私は、チエをまじまじと見た。この店に置いておくには、もったいないような美人であった。大きな目は、この世の全て見尽くしてやろうと思っているかのように輝き、王女とは違って、化粧は薄くしてあるだけだが、肌がとても透き通って見えた。いきいきとした笑顔がとても似合う女性だった。

「初めまして。ぐぅの友達のチエです。中で詳しいお話をさせてください」

 私は、本屋に来るのが、初めてでワクワクが止まらなかった。ここには、城にある古書とは違う本たちがたくさんある。このような明るい女性も見たことがなかった。城の女性たちは、いつも何かを気にしていた。私の指示か、バンの指示かを。

 チエはせっかちなのか、店に入るなり、

「では、各棚の説明をいたします」

 と言い出す。私は言った。

「まぁ、ゆっくり見ようではないか」

 そう言いながら、思い返した。

「もしかして開店時間が迫っているのか?」

「いいえ。今日は定休日です」

「なら、ゆっくり見よう」

 チエは言った。

「本当に王様ですか?」

私は、チエのその言葉に笑い出した。

「私にそのような質問をした者は、君が初めてだ」

「だってその恰好で」

「普通のおじさんだろ?」

 と私が言うと、チエも笑い出した。肝心の案内役のぐぅは、漫画コーナーで夢中で本を選んでいた。買ってあげると言ったからだと私は理解した。

「すいません。本来なら、店主のスクが案内するべきですが、今日の朝、ぎっくり腰をやってしまって動けないものですから。スクなら、身分の高い方の対応に慣れているのですが。本当に申し訳ないと申しておりました」

「全然構わない」

「全ての棚を説明しますか?」

「私の隣について歩き、質問に答えてくれるか?」

「はい。なんでもします」

 と明るい声でチエは私に対応した。

 時々、私は、

「このシリーズは続くのか?」

 などと質問したが、隣のチエのことも気になるし、知らない本を前にして、興奮していた。

 私は、チエと一緒に話す時間がとても好きだ。初めて会ったのに、いつもそこにあったかのように私の肌に合っていた。チエと話していると、とても心が落ち着いた。今までのふさぎ込んでいた気持ちなど一瞬で消えたような心持ちがした。

「これは?」

 と私が本に手を伸ばすと、チエもとっさに動き、二人の手が本の上で重なった。私たちは見つめ合い、何とも言えぬ空気が二人の間に流れた。私はもっと触れていたいと思い、チエは頬を赤らめた。実に、愛おしい。

「あら、余計な」

 とチエが言い、手は離れた。さらに本を二人で見ていると、チエは言った。

「王様ってもっと違う感じを想像していました」

「それはどんなか?」

「もっと偉そうな?違うわ、おじいさん」

 私が笑うと、続けてチエは言った。

「また余計な。こんなに楽しい時間を過ごせると思ってなかったのです」

 そう言いながら、チエは、口元を隠し、ふふふと笑った。

 挙句の果てに、あれだけ質問していて、私は、最後に、

「君の今まで読んだ本の中でベスト五の本を選んでくれ」

 と言った。とてもチエの読んできた本に興味があった。チエは、しばらく考えて、私の言う通りに、五冊選んだ。

「それでいい。それを買う」

 と言った。気になる相手がどんな本を読んでいるのか。そんな基準で選ばれた本を私は読んだことがなかった。

「ぐぅ、帰るぞ。本は、決まったか?」

「うん。何冊までいいの?」

「何冊あるのだ?」

「十冊」

「構わない」

「でも、重くて持って帰れないよ」

 その会話を聞いたチエは言った。

「宿に、王様とぐぅの本を届けるわ」

「それでは頼む」

 と私が言うと、チエは嬉しそうだった。

 すると、店の電話が鳴った。私は初めて電話の呼び出し音を聞いた。チエが私を見た。

「取っていいぞ」

 と言うと、電話にチエが出た。

「わかりました」

 とだけ聞こえた。

「ぐぅ、早く帰ってきなさいって女将が言ってる」

 私とぐぅはまた顔を見合わせた。チエは、その二人の息の合った様子を見て、笑った。

 私は宿に戻ると、トニが心配そうに宿の前で待っていた

「帰ったぞ」

 そう私が言うと、トニは安心したようにうなずいた。

 私はとても満足していた。新しい体験ができた。今までの人生のときで、一番リラックスして、あたたかで、楽しい時間だった。

 その日、私は、チエが本を持って現れるのではないかと思い、ロビーで浮かれながらずっと待っていた。

 ぐぅも自分の本が届くのを待っているらしく、私を見つけると言った。

「チエ来ないね」

「忙しいのであろう」

「だって定休日なのに?」

 と私と同じことを思っていたようだった。

 夕飯までロビーで待っていたが、チエがやってこないので、部屋に戻った。

「チエは、何をしているのだ」

 と独り言を言った。それを聞いたトニは、状況がわかっていないようで、黙っていた。

 次の日は、日課になっていた朝風呂にも入らずに、ロビーでチエを待った。

 登校するぐぅは、

「今日こそチエ来るかな」

 と私に言った。私は、それに対し、

「来るであろう」

 と言い、ぐぅに気を付けて学校へ行くようにと付け加えた。

 私は考えた。私の言ったことを今まで忘れた者がいただろうか。あんな恰好で行ったので、王様だと信じていないのかもしれない。信じてもらえているか不安になった。

 入口の方を気にしながら、珈琲を飲んでいると、チエが両手に荷物を抱えて、宿に入ってきた。

 チエはすぐに私を見つけて近寄ってきた。

「その服の方がお似合いですわ」

 チエが笑いながら言った。今朝、一番のお気に入りの服を選び、着ていたので、私は、照れ臭かった。チエが言った。

「あぁ、すいません。遅くなりました」

「遅いではないか。何かあったのか?」

「おじいちゃんが、ぎっくり腰で動けなくて、家のことや王様に読んでいただく本だと思ったら、気合いが入りすぎて、あれやこれや読み直したり、探したり、なかなか五冊と言われると最初に選んだ本と違うものもありますわ。決まらなくて」

「十冊でも良かったのだ」

「そうなの?」

「そうだ」

 チエと私は笑い出した。チエといると、心が安らぐのを感じた。私より、せっかちのくせに、時間をかけて本を選びなおしたかと思うと、おかしかった。

 チエが、私のために選んだ本を受け取り、ぐぅの分は、私とチエの会話の様子を奥から見ていた女将が受け取った。

 私は、チエに選んでもらった本をすぐに読み始めた。

 その本たちは、どれから先に読もうか迷うほど魅力的な本たちだった。ミステリーに、冒険物語、探偵物語、翻訳された海外の文芸作品、今一番店で売れているベストセラー、一つ一つに丁寧な説明文が、チエによって添えられていた。実にバラエティに富んだ選書だった。

「こんなことするから、届けるのが遅くなるのだ」

 と私は、微笑んだ。それに海外の文芸作品は、続きのあるものだった。

「また来いと言うのか」

 私は、独り言を言いながら、にやにやしていた。読みながら、この物語は、チエが好きなものだと思うと、すいすい読めた。ページをめくる手が急いだ。今まで読んだどんな本よりおもしろかった。

 ぐぅがやってきて言った。

「王様、本はおもしろい?」

「なぜだ」

「チエがね、とても心配してたよ。楽しんでもらえてるかって」

「チエに伝えてくれ。どれも本当におもしろいとな」

「わかった」

 ぐぅは、私が真剣に本を読んでいるので、邪魔しないようにそれだけ言うと、すぐに部屋を出ていった。

 私は、本を読みながら、恋を始めた。全ての女性主人公がチエで脳内再生された。あぁ、キスまであと少しといったように。私を包む空気に小さなハート型のしゃぼんが降っているように思えた。とてもいい気分だった。孤独だった私に変化をもたらした。チエを本の中に感じた。あのように時間をかけて、私のためにチエが選んだ本なのだと思ったら、心が熱くなり、激しく鼓動した。このように心の奥で誰かとつながったことなど私にはなかった。伝えたい思いを急速冷凍して、この鮮度と味を保ったまま、まるごと伝えたい、チエへと。

 ぐぅは、毎日私のところにやってきては聞いた。

「チエがね、本はどうかって?」

「おもしろいが、まだ読み終わってないと伝えるのだ」

「わかった」

「待て。ぐぅは、毎日チエに会うのか?」

「最近、僕が学校に行く時間に、お店の前に立っていて、チエが王様はどうしていると毎日聞くんだ」

「そうか」

 私は、にやにやが、止まらなかった。こそばゆかった。そして、私は言った。

「なぜ続編のある物語を選んだのか、チエに今度聞いてきてくれ」

「わかった」

 ぐぅは、そう言って、部屋を出ていった。なんとチエが言うのか楽しみで仕方がなかった。私には、そのなんとももどかしいやり取りが楽しかった。私がずっと守り続けてきた、誰にも触れさせなかった、隠しながらも見つけてもらうまで持っていたような、忘れていたような、人として生まれてきて、大切にされるべき心の奥が、チエの心に呼応して、リリンとなった。私が見つけた愛のかたちを確かに感じた。数日経ったら、誰にも相談せずに、一人でチエに会いに行こう。裏口はすでに、ぐぅに聞いてある。

 ぐぅは本ばかり読んでいる私に言った。

「仕事しなくていいの?」

「王様という仕事をしているのだ」

「だって本を読みながら、珈琲飲んで、温泉に入ってるだけじゃないか」

「そう見えるのか?そうか、そうか」

「そうかそうかじゃないよ。みんな仕事してるのに」

 私は思った。王様を王様だと証明することなど誰ができるだろう。明日からあなたは漁師であると周りの者全員に言われたなら漁師になるしかない。たとえ泳げなくても。パン屋ならパン屋になるのだ。パンを焼いていなくても。

 仕事もしなければならないと思い、トニに聞いた。最近、トニは目に見えて元気がない。

「城の改修は順調なのか?」

 と私が、トニに訊ねても言葉を濁すだけなのだ。

 宿の者たちも最近、様子がおかしかった。

 私は聞くしかないのだ。ぐぅに聞いた。

「トニは何も言わないのだが、城で何かあったのか?」

 そうかろうじて私が知りたいことを聞くことができる相手は、まだ子供のぐぅしかいなかった。

「あのね、言っちゃいけないの」

 とだけ、ぐぅは最初言った。

「王様は、それでは何もできんのだ」

「あのね、とにかく大変なんだよ」

「何が大変なのだ?」

 ぐぅは、近くに女将のいないことを確認してから、王様に耳打ちした。

「お城が大変なんだよ」

 それだけ言うと、ぐぅは逃げてしまった。

 私は、これ以上は、子供に聞くべきではないと判断して、すぐにトニを呼び寄せた。

「トニ、何か隠しているな?」

 トニは、目に涙をいっぱいにして、私を見た。

「私の今の責任者は、トニ、お前だ。城で何があったのだ。私が、宿の者に一人一人聞いて回れと言うのか?」

 とトニに言うと、重い口を開いた。

「実は、この間の地震で城が大変なことになっています」

「なぜ私にそんな大事なことを言わないのだ」

 と珍しく私は怒った。私は、生まれて初めて怒りという感情を表に出した。信じていたのにとまでは言わないが、トニにとって仕えるに値する王様であると私が、勝手に思っていただけなのか。無力感は、怒りになった。怒りで初めて人前で我を忘れそうになった。

 私が真実を知り、とても悲しかったが、最近、快眠、快便、食事もどれもおいしいと感じていられたのは、トニたちの努力のおかげであったことは間違いない。

 そんなに城が大変なときに、私は本屋に行きたいと言ったのかと思うと、恥ずかしかった。

 せっかくぐぅとも仲良くなれたのに、宿の者たちとも別れ、城へ戻らなければならぬ。ここの者たちと別れたくないという私の思いは、沈黙となった。

 私は言った。

「明日、城に戻る」

 トニは、泣きながら同意した。

 私は、その夜に文をしたためた。チエにだ。私が、直接チエと文のやりとりをするわけにはいかなかった。バンに知られたら、どうなるかわからない。バンには秘密の恋だ。

「トニに手紙を出すのだ。本を添えて」

 チエならそれだけ書けば十分だろうと思った。その文をぐぅにチエに渡すように頼んだ。

「任せて」

ぐぅは言った。

 トニに城へ戻るキシャの中で言った。

「なぜすぐバレる嘘をつくのだ」

 トニは、潤んだ目で私を見た。

「お前にそんな目で見られるのは、私もつらいのだ」

 そして私は言った。

「外の景色を見よう」

 もうトニも止めようとはしなかった。私は、初めて写真以外の国の様子を知った。写真で見たような町はそこにはなかった。ビルは崩れ、家も形がなかった。ぐちゃぐちゃになった木材が散乱していた。

「この国は、地震によって深く傷ついたのだな」

 またトニの目に涙のようなものが浮かんだので、私は言った。

「もう泣くな。私がなんとかする」

 私は、こう考え、自分を律した。自分をよく働くロボットと考える。悲しい、嬉しい、大変、つらい、すべての感情を感じないロボットに。無感情のロボットになるのだ。この国のために。チエのすすめたくれた本の中の主人公のように。私が、ロボットメンタルで生きるとき、私の心は、チエのそばにあると。言えないな。いつでも野生の愛を呼び起こすのは、チエの声と本に込められた私への愛情だった。

 キシャが城の近くの駅に着くと、真っ先に城の姿を見た。私の口から出た一言目は、「なんじゃ、こりゃ」だった。

そこに、美しかった城の姿はなかった。瓦は落ち、外壁も崩れていた。たくさんの者たちが城の周りで作業し、服は泥だらけだった。宿から城へ戻り、一番にしたことは、働いている者たちの労をねぎらうことだった。その中には、バンや王女もいたが、私を見ても何も言わなかった。バンも疲れ切った表情をしていた。私は十分に感じた。何もできない王様が、こんなに遅れてやってきて、何をする気なのかと突き刺さるような視線が痛かった。それでも私はそんなことを気にしていられなかった。私は、どんなときでも王様でいることしかできないのだから。

 しばらく私は、ロボットメンタルで、機械的に右から左へと作業の指示をした。こう言うと、大変だろう、これは、無理だろう、迷惑をかけるだろうという優しさは私の心から消えたと。そう思われても構わないと思いながら、指示をした。直接私に非難の声をあげる者も出てきた。今までなら考えられないことだった。聞こえてくる国民の声は、散々だった。私は、誰のために、何のために、睡眠を削り、苦労して、動くのかわからなくなった。

 私は何も知らなかった頃とは、違うむなしさを抱えていた。この人の言うことは、心の底から発せられた言葉であるのか、ほんとは他に本心があるのではないか。他に意図があるのではないか。

 私は、ずっとまっすぐに相手を見てきたと思っていたが、私を置き去りにしたまま、地震が起きて、世界はぐるんと表と裏がひっくり返った。方向感覚を失った。上下左右もあいまいになった。

ある日、復興の作業をしていて、頭を抱えて、しゃがみこんで吐き気をもよおした私に真っ先に気づき、駆け寄ってきたのは、トニだけだった。

「大丈夫ですか?」

 そう言ったトニを見て、私は思った。世界は確かに変わったかもしれない。だが、トニはトニだった。トニでしかなかった。そういうトニと話すのは、楽だった。金も地位も名誉がなくても、たとえどんなときでも価値が変わらない人がそばにいてくれた。大切な人とは、そばにいるだけで、安心をもたらす存在になるのだと知った。

それこそ私の必要とした人だったのだ。どんな環境下でも、価値が変わらない。それが、トニであり、ぐぅであり、チエだった。金で買ったのではない関係だ。そのことを理解したとき、私の前に進むべき道が見えた。

 私は、バンと王女や疑う家臣たちがいる中で、何があれば頭がおかしくならず、国民のため、国のために働けるかを考え続けた。

 感じたのは、危機感だった。このままでは、国が滅びると。今、必要なことや大切なことを整理する必要があった。

 私は次にひたすら考えた。考えて、考えて、また考えた。誰かから見た私は、とてもひどい王様かもしれない。私は、これまで良いことをしているつもりのただの罪人だった。でも、私は自分のことが嫌いじゃなかった。誰かから見たら、足りないところはたくさんあるだろう。だが、私は私の人生を懸命に生きてきたという自負があった。そこに、恥じる気持ちはない。これからは、国民に私自身の生き方を伝えるべきだと考えた。国民とともに生きるために。ここから少しでも好きな王様になってもらえるように生きたい。

 だが、私の人気は、ちっとも上がらなかった。嫌われた。私は思った。こんなに国民のために働いているのに、伝わらないことに無力感を感じ始めていた。求めてはいけないと思いながら、必死に自分を奮い立たせた。

 とうとう私は、倒れてしまった。ふらふらと身体が揺れて、気を失った。目を開けると、トニがいた。

「王様、ご気分はいかがですか」

「私は、どうしたのだ」

「倒れられたのです」

「すぐに戻らないと」

「バン様より、少し休んで欲しいとのことでした」

「国がこんなに大変なときに、休んでなどいられるわけがないだろう」

「いいのです、いいのです」

 泣き虫のトニはまた泣いていた。私の前でこんなに泣く者は、珍しい。私は、トニの涙を不思議そうに見た。

「少し休んでください。宿から戻られてから、眠れていますか?」

 そう言えば、昼間は仕事をし、皆がいなくなると、チエからすすめられた本を読んで、寝ることを忘れていた。

「王様の身体は大事な身体なのです」

「私はいいのだ」

「よくありません」

「いいのだよ」

 私は、このまま死んでもいいとさえ思っていた。

 王様は、一人では成立しない。何が起こっているのかを一人で把握することはできないと痛感していた。城を立て直すことも、国を元気にすることも、私一人では何もできない。

私が今、信頼する家臣は、バンではなく、トニだった。現状を打破するには、トニと話す機会が必要だった。チエからの本をバンに内緒で届けに来たトニに話しかけた。

「一つ頼みがあるのだ」

「なんですか?」

「一日に十五分でいいのだ。ここに来て、私に国民の本当の暮らしぶりを話してはくれぬか?」

「バン様の許可が必要かもしれません」

「そうか。やはり許可が必要か。口実は、私が考えよう」

「お願いします。どうしても城の中では私も自由がきかないのです」

今すぐに宿に向かい、うまい珈琲を飲み、チエのすすめる本の話がしたかった。だが、そうすることができないことが、私にはわかっていた。これ以上、宿に迷惑をかけることはできない。そう心の中で私は考えていた。

 さて、バンをどうするかだ。私はとうに気づいていた。バンが私に悪影響を及ぼしていることを。

 私がいくら国民を思い、心を痛めていても、家臣たちが、国民のためよりもバンの機嫌を取ることを優先していては何も良くならないことも。震災での対応を見ていて、はっきりをわかっていた。バンについて回る者たちは、みな金が目当てのように私の目にはうつった。バンが連れてくる者たちは、私に会うと金のことしか言わない。

「いくら必要です」

「お金が足りません」

 私は聞き飽きた。それですぐにバンは、すぐ金を出すが、ちっとも国民の生活が良くなっているように見えなかった。そのことをバンに指摘すると、

「財政をつかさどる私なしに国は動きません」

 と言うのだ。それでは、私にはどうすることもできない。

 とにかく国民のために何かしたいと思ったとき、バンを説得し、トニに定期的に会えるようにする必要があると感じた。バンに私とトニが定期的に会うことを納得させるのだ。トニに聞いた。

「トニは、何が得意なのだ?」

「得意なものですか。なんでしょうか」

「それじゃ困るのだ」

「そうですね」

「星については詳しいですが」

「それはいい」

 バンをさっそく呼びつけた。

「トニという者は、星に詳しいようだ。いろいろ聞きたいので、晴れた日の夜には、トニを私の元へ遣わせてくれ」

「星ですか?それなら、別の者でも」

 トニと私がこれ以上親しくなるのをバンはよく思っていないようだった。

「ならば、城の外へ夜に出かけて、講義を受けろというのか?」

 少々強引だが、そう言われたら、バンは何も言えなくなり、トニが私の元へやってくることを仕方なく了承した。バンも疲れていて、正常な判断力を失っているようだった。

 トニが夜にやってきて言った。

「あの、バン様や王女の間で、私と王様が、ただならぬ関係だと言われております」

「はははは。まぁいいではないか。私との噂は都合が悪いか?」

「別に気になりません」

「ふふふふ。トニはおもしろい男だ」

 もう泣き虫のトニはいなかった。

「ところで私に何が聞きたいのでしょうか」

「国民のことだ。私がどれだけ働いても、ちっとも国民の生活が楽にならない理由はなんだ」

「それは」

 とトニが口ごもる。

「いいのだ。正直に話をするために、この天守閣で会う場を作ったのだ」

「告げ口するようで、申し訳ないのですが。王様やバン様、家臣の方たちばかりがいい思いをしていると国民は思っているようです」

「それはどうしてだ?」

「支援についても、国民に届く前に、奪っておられます」

「なんだと?」

「それに国民から非難の声があがるようになった今では、全て王様の贅沢のせいだと、家臣の方々が口々に言い、その言葉を国民は信じてしまって、王様ばかりが悪者になっております。今までに関係を持たれた女性たちも次々と王様の良くない噂を暴露しています」

「私が悪く言われるのはいいのだ。どうすれば、トニは、国民全員に必要な支援が届くと考えるか?」

「すごく難しいと思います」

「難しいでは困るのだ」

 外から足音が近づいてきた。

「そろそろお時間です」

 家臣がやってきて言った。

 トニは、

「考えてみます」

 と言って、一日目は去っていった。

 この城は、伏魔殿なのだ。私は監獄にいるのと一緒だ。宿から帰るときに、私は、監獄に入ることを自分で選んだのだ。本当の王様になるために。

 価値観の違う者に、説明する情熱を失ってしまったら、こう思うだろう。どうかどうか私をそっとしておいてほしい。どうせ私の気持ちなどわかるわけがないのだからと。だが、そう思ってみても、私は王様だ。国を諦めるわけにいかないのだ。

 次の日にトニがやってきて、見せてくれたのは、写真だった。チエが送ってきたという。そこには、横断幕を持った宿の者たちが写っていた。その横断幕には「王様、ガンバレ」と書かれていた。

 私は、感動するというより、何より驚いてしまった。

「これはどういうことだ?」

 とトニに聞いた。

「女将を中心に集まった王様応援隊の写真だそうです」

「応援隊とな?」

「宿の者たちは、王様が批判の的になっていることを嘆いており、正しい王様の人柄を知ってほしいと宿で王様の正しい宣伝活動を始めると申しております」

「やめさせるのだ」

「なぜですか?皆、王様のことを心配して」

「そのような心配はいらない。私は大丈夫だ」

「そんなに抱え込まなくても」

「いいのだ。私は、王様なのだから」

 私には、宿の者たちの気持ちがあの写真一枚で十分に届いていた。

 私は、まずトニにこう指示をした。

「今まではチエが一方的に送ってきたものを読んでいたが、これからは私がテーマを出す」

「チエは喜ぶと思います。チエは王様のことが大好きなのですから」

 私は少し頬を赤らめた。私は、チエを激しく求めていたのだ。この気持ちは誰にも気づかれてはいけないと思っていた。しかし、トニの言葉でわかった。私の気持ちなどもうとっくの昔にばれているのだ。私がここまで一人の女性と関わりを持つのは、初めてだった。身体の関係はすぐ終わった。王女に興味は最初からなかった。地震の後、しばらくすると、王女は、もう城では贅沢できないことを悟り、実家に戻った。私は、もう何も知らない王様ではなくなっていた。

 それでも私は、チエへの思いを封印しようと努力したのだ。だが、無駄だった。

 本を見れば、チエが浮かび、女性が泣いているのをみれば、チエはどうしているかと心配になった。許されるならば、チエに思いを告げ、抱きしめたい。でも、そうしないのは、チエがとても大事な存在だからだ。壊したくない関係だった。最近、チエが送ってくる本が、遠距離のロマンスものばかりというのも、私にはなんとも悩ましかった。

 顔が真っ赤になった王様を見てトニは言った。

「応援隊は、チエが言い出したことのようです。王様はとてもお優しいと」

 私は、なんとも言えない顔で少し笑った。

 私が王様でなければ、国など背負っていなければ、またひかり書店で、一緒に本の話に花を咲かせることもできるのに。

「そうだ。私は知恵をつけるのだ」

「時には、ゆっくり休むことも必要です」

 トニは、トニで私の心配をしているようだった。

「ぐぅはどうしておる?」

「ぐぅは、すくすくとまっすぐに育っています」

「そうか。なぜトニは、ぐぅの様子がわかるのだ?」

 トニはしまったという顔をした。

「トニ、この写真は誰が撮ったのだ?」

 トニは、すまなさそうに言った。

「私です」

「やはりな」

 トニは、涙を浮かべて笑った。

 それからの私は、本の中だけでなく、困っている人や家臣の誰を見ても、全てがチエで脳内再生された。私が思い浮かべる全ての物語の主人公はとうとうチエだけになった。

 私は、バンではなく、トニの目を通しての世間を知る必要がある。トニと私は、あらゆることで意見を交わした。

「バンは、高名な医者たちから文句が出ているというのだが」

「私たちとって医者はとても大事な存在です。年老いた祖母を幼き頃に見ていて、長く生きていると、身体のどこかには変調をきたします。そのときに必ず医者が必要となります。今回の地震のようなときも、何かの下敷になってしまった場合、外科が必要です」

 とトニは、私に率直な意見を言ってくれる。

「そうか」

 私が大事にするべきは、高名な医者の意見より、どこにどれだけの医療が必要かどうかだ。

 トニに聞いた。

「医者を育てるのはなんだ?国か?教育か?親か?金か?」

 トニは、まっすぐな目をして私を見て言った。

「私にはわかりません。医療が大事なことだけはわかります」

「それでは、私が医者に命令を下し、限界まで働かせるのは、間違いか?間違いがあるとすれば、どこだ?」

「私には、医者を必要としている人が、今、たくさんいるということしか言えません」

 トニは、苦しそうに私に言った。

 震災以前まですべてを戻すことは、難しいかもしれない。だが、国民が少しでも安心して、隣にいる人と会話が成り立つような平和を噛み締めることのできる国になれと願うしかなかった。トニもそれには同意見だった。

 地震により倒れた家屋を立て直すことは、物理的なことだから、時間はかかるかもしれないが、可能だろう。しかし、汚職や傷ついた心はどうだろう。国民の中には、先々の生活に対する不安もある。目に見えない傷を私にはどうすることができようか。

私は、今まで発した言葉にどれだけ責任を負うことができるだろう。

たった一人でもこちらを向かせるのは、どれだけ大変か。チエにさえ本当の想いをうまく伝えらずにいる私が、どうして大勢を振り向かせることができようか。みなが同時に笑う小噺などあろうか。大勢いれば、その中に一人は不快に思う者があらわれるに決まっている。私は王様だから、その一人のことは忘れていいのかもしれない。だが、誰のことも置いてきぼりにしない公平性こそ私には善なのだ。

 トニにバンの悪事もいろいろ聞いた。私はバンを殺めてしまいたくなるほどに信じられなくなっていた。同じ時間をあんなに過ごしたのに。

「バンをクビにするべきか?」

 そうトニに聞くと、こう答えた。

「私ができることは限られていますが、バン様を通して、できることは多いと思います」

 そうトニが言うなら、きっとそうなのだろうと思った。バンというフィルターを通すことで、守られてきたものもあるのだろう。トニは言った。

「敵か味方かなんてつまらない価値観です」

 真実に近づいた私は、家臣に指示するのにも、現状を知れば知るほど慎重になり、言葉を一つ発することにまで恐怖を覚えるようになった。あまりに恐怖を感じて、紙にメモしたものしか話さない日もあった。

そんな中、私の耳にある情報が入ってきた。家臣が怯えたように、私に告げた。

「城の修理中に死人が出ました。国民が、集まって抗議しております。暴動にまで発展しそうです」

「わかった」

 私は冷静にそう言った。この国を私が治めるのは、もうダメかもしれない。私は独裁者だと思われている。血も涙もないと。優しさのかけらなどないと思われているのだ。それでも私は、今の私にできる精一杯をしてみようと思った。

 昨日の夜に、トニを通して、チエはレコードを送ってきた。こちらにはプレーヤーなどないのに。歌詞を読むと、チエが話しているような詞に、私の心は踊った。

 私が、元に戻ろうとしても、もうそこへの梯子は外されていた。

 トニが提案してきた。

「いっそ王様自身の声で国民に伝えてみてはどうでしょうか」

 そして、私は、初めて国民の前で、自分の言葉で話す機会を作ろうと決断した。そこでこう語りかけた。恥をかく覚悟と飛び込む覚悟を宿の者たちに教わった。

「毎回これが、私が国民に対してできる最後のことだと思って、生きてきた。明日、私は、国民の中の誰かに殺されるかもしれない。私は、自分で死ぬことは許されていない。それは、すべてを放棄することだからだ。それは、毎回死ぬ気でやってきたことを全て否定することになる。国を立て直そうとこの改革を始めたからには、最後まで見届ける責任も私にはあると思っている。今、様々な私への意見が存在することは承知している。それでも、今、頑張れているのは、何もできずに、何も知らずにいた頃の苦々しい思いがあるからだ。昔よりは、良くなるように努力する。あれよりは少し良くなる。もっともっとと、過去のつらい記憶も前に進む糧にするつもりだ。今、進んでいる道は明るい兆しだと。少し長い目で見てくれないか。頼む」

 そう言って、国民の前で頭を下げた。伝えたいことの半分もまとまってはいなかったが。本来であれば、そうするべきではないと思う者がいるかもしれないが、トニに背中を押された。自分の言葉で語りかけることが大事だと思った。

 ずっとチエを頭に描きながら、言葉を発した。チエ、あなたが幸せであるように、国に仕える王様でありたい。チエならきっとこのことを喜んでくれると思いながら、行動できることが幸せだと教えてくれたのは、チエだった。離れていても、共に長生きして、いつかチエがこの国に生まれて良かったと、この国の中で幸せに暮らせる国を作ろう。

 私が言わないようにしているのは、相手のためにどれだけ自分が努力したということだ。それを言うことは、裸を見られるより、恥ずかしいことだと大切な者たちに教えられた。まだ全てが始まったばかりで、道半ばだ。

 国のために一人の命を犠牲にするくらい容易だと思う王様に誰が心の底から仕えてくれるだろうか。しかし、国のためと言いながら、一人の喜びなど簡単に無視されてきた。胸をかきむしるような思いの中、乱世が終わったように、時間はかかるが、潮目がやがて変わるときがきっとくる。紙がやがて色褪せていくように。今は気づかなくとも、時を経れば、必ず今、変わらないものが変わるときがくる。自分の時代のもとでは、価値観を変えることが難しくとも、こうやって届けと苦渋で噛んだ唇に、次の時代への思いを託せたら、いつか私の悲しみが次の時代に実を結ぶ。恐れずに、本当のことを告げるとき、ふるえる唇で、それはきっと言葉を与えられた人間だからこそ、つなげていける。希望になる。今がやがて過去となり、人の心に波紋を起こすきっかけになると信じ、未来の者たちへ、行動を起こせと、実弾ではなく、想いをのせた空砲をひとりひとりの空へと私は打ち続けるのだ。そんな願いを込めて、私は邁進した。

 試行錯誤しているうちに十年があっという間に過ぎた。

地方の視察に訪れた先で、「チエ」と書かれたスケッチブックを掲げた少年がいた。

「ちょっと待て」

 と言って、私は、その少年に近づいた。

「ぐぅです」

 私は、目を見開いた。とても精悍な顔つきをした少年だった。

「元気にしていたか」

「元気です。一言だけ。チエは、ひかり書店でずっと王様を待っています」

 私は、深くうなずいた。それだけで、十分に伝わった。その少年の目が潤んで、その瞳の中にまっすぐな優しさを見つけたから。

(了)



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