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中編ファンタジー小説「松竹梅の小娘」

あらすじ

 お尻の大きさで優劣が判断されるチョイスマスターの世界で、アチは現在見習いの身である。チョイスマスターは、死んだ人間を天国の「松」「竹」「梅」へと仕分ける専門職である。チョイスマスターは、人間界を卒業し、三年間、チョイスマスター界での空気に慣れるために魂のまま天国と人間界のはざまで浮遊して過ごし、その後、蟻に似たフォルムの肉体を与えられる。完全なチョイスマスターになると、花以外を食べることを禁止されるなどそこには独特なルールがある。様々な人間を観察し、アチは、天国や人間界の世界のしくみを学び、何を感じ、どう成長するのか。天国とは、人間とは。

本文

 昨日よりポイさんのお尻が小さくなっている。アチは、謎をあれこれ考えるのは好きだが、解けたためしがない。どうしたものか。ちまたに溢れるうわさ話から推察するのは、チョイスマスターの本分から逸脱しているように思う。真実を知るのは、当人のみである。偽りのこころがあるのだから、当人さえ真実を知らない場合もある。アチが、ポイさんに「お尻が小さくなったように見えますが、どうかされました?」などと直接、理由を聞けるか?無理だ。弟子のアチが、師匠のポイさんにそんな失礼な質問などできるはずがない。

 それにポイさんは、最近、頻繁にトイレに行くようになった。身体の調子が悪いのだろうか。ポイさんが、腐った花でも食べているのだろうかとアチは心配した。だから、お尻が小さくなったのか?アチと一緒に食事を取るときは、常に新鮮なものを食べている。なのに、どうもポイさんの様子がおかしいのだ。食事でなかったら、他の理由はなんだ?見習いのアチにはわからない。アチは、得意ではない謎解きで、ポイさんを可能な限り心配した。もちろんポイさんが心配してくれと言ったわけではない。アチが勝手にポイさんの心配をしているのだ。大好きで、アチにとって大切なポイさんだから、アチは、たとえ余計なことだと思われようが、心配しているのである。

 三日前、アチの同級生の師匠であるタルバスさんが、ポイさんの元を訪ねてきた。あの日からポイさんの元気がないように感じる。タルバスさんと何か関係あるのだろうか。どうもあの日からポイさんの様子がおかしい。あれまでは、ポイさんはそれまでのポイさんだった。

アチは、ポイさんの部屋で資料整理をしていた。タルバスさんは、ノックもせずに、扉をどかんと前脚で蹴って開け、入ってきて、アチに一瞥して言った。

「ポイはいるか?」

 アチは、どきっとして、慌てて答えた。

「ポイさんは、トイレにいます」

「そんなこともポイはあなたに報告するの?」

「いいえ。私の勘です」

「勘でそんなことを私に言うの?あなたが?」

 タルバスさんの高圧的な態度が好きになれなかった。アチは、ポイさんが戻ってくるまで、ずっと下を向いていた。どこを見ていいかわからなかったからだ。

 それにアチから距離のあるところにタルバスさんがいるのに、タルバスさんがこの部屋に入ってきてから、ずっとタルバスさんから変な匂いがしていた。

 ポイさんは、アチには聞こえない小声で、何やらタルバスさんとしばらく話し込んでいた。アチは、タルバスさんとポイさんを比較するためにじっと観察していた。ポイさんよりタルバスさんのお尻の方が大きいように見えた。前にトゥは、見るからにポイさんのお尻の方がタルバスさんより大きいと言っていたが。

何かの良さや大きさを知るときには、比較した方がよくわかることが多い。一つのみかんでは、わからない大きさが別のみかんと並べることで初めて、大きいか小さいかが明確になる。お尻だってそうだ。鏡のないこの世界では、自分のお尻を振り返って見るのが精いっぱいだ。自分のお尻を振り返ってみるだけでは、よくわからない大きさが、比較するためのお尻が二つあれば、大きいか、小さいかよりわかる。鏡のない世界で本来の自分の姿を想像するのはとても難しい。

ポイさんの元気がないことも、アチが今までポイさんと共に過ごした時間があるから、今、ポイさんに元気がないという変化が気になるのだ。今までと違っているから、人は気づくのだ。大切な人の変化に気づけないやつはバカだ。救いようがない。目が曇っているのだ。

昨日、すぐに食事を終えてしまうポイさんを心配して、アチが言った。

「もうパンジーは、召し上がらないのですか?」

「もうお腹いっぱいだ」

ポイさんは、大量のパンジーをお皿に残していた。心配事か。チョイスマスターには食事が最も大切だと、最初にポイさんがアチに教えてくれたではないか。それなのに。

人間は死ぬと、おのおの名前の名札をつけられて、われわれチョイスマスターの元へ送られてくる。死んだ人の魂は、名札をつけられることにより、人間のカタチを保っていられるのだ。人間のカタチを保っている間は、笑うこともできるし、涙も流す。それにちゃんと死んでからも名前があり、一つ一つの魂は尊重される。他の魂と区別することはとても大切なことだ。必ず人間は一人で死んでくるのだから。しかし、名前にはそんなにバリエーションがないので、同じ名前の場合は、番号がつく。他の魂と徹底的に区別するためだ。名札のつけられた魂は、われわれチョイスマスターにより、「松」「竹」「梅」の天国の扉へと仕分けられる。天国の扉を通るときに、名札ははずされ、人間のカタチは消え、本来の魂のカタチとなる。その姿をチョイスマスターが見送る。そこまでがチョイスマスターの仕事だ。

チョイスマスターは、天国と人間界とチョイスマスター界の均衡を保つ大切な仕事である。いい加減では困るのだ。そういう自負を持って、仕事に取り組むことを研修では、ひたすらに教え込まれる。

それぞれ世界の均衡を保つチョイスマスターは、人間界を卒業した魂の中から選ばれたとされている。アチのような見習いチョイスマスターは、まだシステム全体のことを把握できてない。人間界で肉体を失い、天国と人間界のはざまで、三年間、浮遊した魂として、チョイスマスター界の空気に慣れるのを待ち、三年が経つと、地上でいう蟻のフォルムに似た魂の入れ物を与えられる。頭部、胸部、お尻があり、胸部から足が六本出ている。よちよちと歩行訓練から始め、小さな蟻のフォルムからチョイスマスターは成長していく。

そして、チョイスマスターは、お尻の大きさでどれだけ優秀かがわかる。見た目が全てだ。つまりお尻は大きければ、大きいほどいい。

 どうしてポイさんのお尻は小さくなったのだろう。またポイさんに余計なことを考えるなと言われてしまうかもしれない。

 トゥとかぼちゃを食べているときにアチがトゥに聞いた。

「かぼちゃ好き?」

「普通」

好き嫌いなど言っていられないこともアチにはわかっている。チョイスマスターのまだ見習いであるアチたちは、蟻のフォルムを大きくするために、見習い専用の食事が与えられる。とにかくお尻を大きくするためだ。今は、虫も、りんごも、牛肉だって食べる。正直これらは、おいしくない。ポイさんのような完全なるチョイスマスターになると、花以外は食べることを禁止される。完全なるチョイスマスターのお尻の中身を作るのは、花だ。それも死人たちに贈られた花だと聞いたことがある。アチにしたら、おいしい花を食べて、お尻が大きくなるなんて幸せな環境だと思う。実力もお尻の大きさですぐわかるなんてわかりやすい世界だ。

人間を卒業して、十五年が経つと、アチのように完全になるチョイスマスターの元に派遣され、研修に励み、その後、試験を受けて、正式にチョイスマスターとして独り立ちするのだ。

アチは、たぶん人間界で言うと、女性であると思いたい。チョイスマスターの世界は、一番上の位のチョイスマスターが女王であること以外には、男女の区別はない。ただ一番上は女性だと決まっているのだ。一番上が女性であるというのには、諸説ある。どの説もうわさの域を出ない。何度も言うように、お尻が大きいか小さいかだけが重要な世界である。でも、アチは、どうしても性別が気になる。人間であったときの記憶が、アチには残っているのかもしれない。もしかしたら人間として生きていた頃、女性であったのだろうか。

 一度だけポイさんに聞いたことがある。

「アチは、女性ですか?男性ですか?」

「またお前は、そんなことを考えていうのか。仕事を覚えることに集中するのだ。そんなことじゃ、いつまで経っても、お尻の大きなチョイスマスターになれないぞ。自分のことなど振り返らずに、ひたすらに仕事に励むのだ」

ポイさんは笑いながら言った。アチは、そう言われるのが悔しかった。アチは頑張っている。ポイさんは、アチの仕事への熱量に気づいてくれていない。男性か女性かが気になるのも、人間たちも性別にとらわれ、それが仕事に影響するかもしれないと考えるからである。ポイさんは、まだまだアチが「こむすめ」に過ぎないと思っているに違いない。アチは、チョイスマスター長が、女王であることを常に意識している。チョイスマスター界の手本となるアチになるのだ。ここへやってくる人間たちを見ていると、男女の区別が、松竹梅の判断にも関わっていると思うのだ。仕事熱心なアチである。まだまだ見習いのアチである。憧れのポイさんに認められたいアチである。ちゃんと独り立ちするのだ。お尻の大きなポイさんみたいになるのが夢だ。死後の世界で、夢と言うのもおかしな話だが。

 トゥは、アチの見習い学校からの友達だ。トゥは、タルバスさんの元へ、アチはポイさんの元へ研修にやってきた。トゥとアチは、よく意見が食い違った。アチが自分の言う意見を言うと、トゥは、無感情に否定した。

トゥはうわさ好きで、伝説のチョイスマスター女王と呼ばれていたセイが、高齢のせいで正しい判断ができなくなり、チョイスマスター界を追放されたという話もトゥから聞いた。セイは、素晴らしいチョイスマスター女王であるとアチたちは、教官に教えられた。尊敬される存在であったはずだった。そのセイでさえ判断ができなくなることがあるのだ。自分を見失わずにいることがどれだけの努力の上に成り立っているのか想像に難くない。世界の均衡を保つ大事な仕事が、チョイスマスターに課せられているのだ。

「どうしてこうもつまらない人生ばかり集められるんだ」

 トゥの口癖だ。アチは、その意見には反対だ。つまらない人生なんかない。トゥとは、どこまで行っても、意見が合わない。ちゃんと魂には、物語がある。つまらない物語なんかないとアチは思っている。自分だけがつらいと思いながら、怒りの泥沼に落ちていく人もポイさんの元でいっぱい見た。

 アチはときどき、パオのことを思い出す。

 パオとデリとトゥとアチは、蟻のフォルムを授けられたときからの同級生だ。パオとデリとトゥとアチは、蟻のフォルムになったときから、いつも一緒だった。

 パオは、よく言った。

「トゥとアチがいなければ、僕は何もできないんだ」

 デリの名前がその中に入ってない理由は、ゆっくりわかるだろう。パオは出会ったときから、弱気なチョイスマスターだった。

「大丈夫?」

 よくアチはパオに聞いた。トゥはすぐ言った。

「なんでそんなに弱虫なんだ」

「ごめん、ごめんよ」

 いつもパオは謝っていた。

でも、トゥのパオに対する扱いは、デリのパオに対する扱いよりはずっとましだった。アチは、パオのことが友達として大好きだった。トゥよりずっといいやつだったからだ。

 パオは、弱虫で、方向音痴だった。いつも人より何をするのも遅れていた。

「パオ、遅いよ」

「ごめん。A5の教室に行くはずが、C5に着いちゃって。先輩のチョイスマスターにここまで連れてきてもらったんだ」

「どうしてそんなことが起こる?」

 トゥはいつもパオを責める。アチは、

「一緒に来てあげれば良かったね」

 とパオのことを心配した。パオがデリに影でどんな扱いを受けていたかまでは、アチは、想像できなかった。それが、アチは悔しい。

 パオとデリとトゥとアチは、パオとデリ、トゥとアチに分かれて行動することが多かった。トゥとアチは、日本人専門のチョイスマスターを目指していたからだった。

 アチは、最初から決めていた。教官が進路指導で、日本の資料を見せてくれたときに確信に変わった。浮世絵が特に気に入っていた。だから、日本がいいと。

アチはトゥに言った。

「トゥ、アチのマネをしてるでしょ」

「そんなわけない。日本の菊がおいしいからだ」

 すぐトゥはアチについてくる。本当は、トゥがチューリップの方が好きなことも知っている。アチは、本当はトゥよりパオと一緒に行動したかった。話は合うし、アチの失敗も笑ってくれるし、誰といるよりパオといるのが楽しいから好きだった。

 そんなパオにデリはいつもいじわるをした。アチは、パオをいじめるデリは、パオの優しさに甘えているのだと思っていた。優しさに圧倒的な敗北感を感じているから、デリは悔しくて、パオにいじわるする。いじめられるパオは弱いんじゃなくて、デリが友達の多いパオに嫉妬していじめているんだと。パオをときどき殴ったりすることもあったということは、のちにパオから聞かされるまで、アチは知らなかった。デリは、パオを誰も見てないところで、いじめるのが上手だったようだ。それにアチには、トゥがひっついてくるために、結果的にパオはデリと一緒に行動することになってしまって、それもアチはとても後悔している。パオは、アチに助けてと言ったことがあっただろうか。いつもパオは、一人で耐えているようにアチには見えた。

「パオ、言いたいことがあったら、ちゃんとデリに言うんだよ」

「いいんだ。僕がいけないんだ」

「ばか!あほ!」

 デリはすぐパオをののしった。

「パオは、バカなんじゃない。そういうお前がバカなんだ」

 アチは、パオを守るように言った。デリは、歯向かわないパオ以外には、いい面ばかりを見せる。そういうずるさがあった。トゥやアチみたいに反論してくれるやつには、何も言わずに、優しくして、自分の内側に不満を溜め込んでしまうパオばかりを攻撃した。

 アチは、教えてくれる教官にパオを守ってくれるように頼みたかったけど、パオは優しいから、

「いいよ、いいよ。僕が我慢すればいいんだ」

 と言うから、その優しさを尊重して、アチは教官に言わなかった。

 アチは、パオがもっと自信を持って、デリに、「やめてくれ」と言うべきだったんだ。

 デリは、自分のことを棚に上げて、パオを攻撃し続けていたみたいだ。巧妙に、アチとトゥにはわからないところでずっとデリによるパオへのいじめが続いていたらしかった。それを知ったのは、事件が起こってからだった。

 講義が終わると、教官は、なぜかデリとパオにある荷物の運搬を頼んだ。アチは、他にやることがあって、その運搬の作業にデリとパオが向かったことは知らなかった。のちに聞いたところによると極秘任務だったらしい。

 アチは、事件のことを知り、真っ先にパオの元へ駆けつけた。そこで痛々しいパオの傷を見て、アチは、泣いてしまった。

「どうしちゃったの?」

 パオの身体は、変わり果てていた。見るからに大きな穴がパオのお尻に開いていた。

「アチ、僕、お尻に穴が開いちゃったんだ」

 アチは、聞いた。

「どうしてそんなことになっちゃったの?」

「転んだんだ。そこに針が落ちてきて」

「針?」

「そうなんだ。どうしてかわからないんだけど、針が落ちてきたんだ。極秘任務だったから」

最後まで詳細をパオは語ることを教官から固く禁じられたとあとでアチは知った。

 その日からデリの姿をチョイスマスターの見習い学校で見ることはなかった。

 パオは、言った。

「教官にデリのことは言わないように口止めされているんだ」

 とはらはらと泣いた。

 パオは、お尻のことは、トゥには言わないでくれと言ったけど、すぐにバレるウソはつかない方がいいとアチがパオを説得して、トゥに報告した。

 パオは、自分では言えないと言うので、アチが報告することにした。

「トゥ、まず落ち着いて怒らず聞いて」

「なんだよ」

「だから、怒らないで聞いて」

「怒るか怒らないかは俺が決める」

「怒るなら教えてあげない」

 アチは、脚をばたつかせて懇願した。

「わかったよ。怒らないから言ってみろよ」

「パオがね」

「パオが?」

 トゥが、もう怒る準備に入っているようにアチは感じられた。

「パオのお尻にね、穴が開いちゃったんだ」

「お尻に?」

「穴が開いちゃったんだ」

「なんだって?」

「だから、穴が」

「そんなばかなことが」

「起こるんだよ」

「起こったんだな」

「うん」

 隣にいたパオは、下を向いていた。

「それで俺にどうしろと言うんだ?」

「いや、友達だから、報告しようと」

「俺が友達?」

「そうだよ。違うの?」

「ああ、友達だ」

 トゥは、アチやパオが思っているより、怒らなかった。アチは言った。

「デリはもうここには戻ってこない」

「なんで?」

「アチにもわからない」

 それからも合理的なトゥとお尻に穴の開いた優しいパオとちっとも謎の解けないアチで、なんとか珍道中の修行を続けた。

 いよいよ進路の決定の段階になると、

「どうする?」

 とアチは、パオに聞いた。

「うん。僕ね、虫のチョイスマスターになろうと思ってる」

「待て」

 それを聞いたトゥが言った。

「待て。こないだ、俺とどんな人間のチョイスマスターになるか、夢を語ったよな?」

「もう僕は、人間のチョイスマスターにはなれないと思うんだ。へまばかりしてしまうし。道は間違うし、お尻の穴のこともあるし、でも、記憶力には自信があるんだ。虫の名前もたくさん覚えられると思う」

「待て。どうしてお尻に穴が開くと、虫のチョイスマスターを目指すことになるんだ?」

トゥは、ちゃんと約束を覚えているんだなとパオとトゥの会話を聞きながら、ほっこりしていた。

「ごめん、ごめんよ」

 パオは、勉強を教えてくれている担当の教官に、お尻のことを相談して、その穴には、花を詰めればいいと教えられて実行して、すぐに事なきを得ていた。もしかしたらデリの行方をパオだけは、知っているのかもしれない。あの場で何があったかをパオは決して口にしなかった。

 トゥは、パオが、虫専門のチョイスマスターになることを最後まで反対した。

 アチは、自分の好きな道を歩むのがいいんじゃないかと思っていた。だって、パオは、いつだって優しすぎるんだ。

「バナナといちご、どっちを食べる?」

 とアチがパオに聞くと、答えが出るのがとても遅くて、パオはバナナの気持ちまで考えちゃうんだ。きっと人間の担当になったなら、パオの優しさは裏目に出てしまうんじゃないかと思った。パオは優しすぎて、こころが押しつぶされてしまう。

 アチにとってパオは友達だけど、アチは、トゥより少し冷静な目でパオを見ているのかもしれない。トゥは、本当は友情にあついやつなんだ。トゥの方が、パオを想っているのかもしれない。いつもそっけないトゥだけど。

 パオのお尻の傷も癒えて、それぞれがチョイスマスター先の選考試験を受けるとき、パオはやっぱり虫の専門チョイスマスターの元へ修行に行くことを選んだ。

 アチは、日本専門のチョイスマスターの経歴や評判を調べて、有名なポイさんを見つけ出し、見習い試験を受けて、無事に合格した。

 トゥは、写真を見て、見てくれが良くて、お尻がとにかく大きいチョイスマスターということで、タルバスさんというチョイスマスターの元で修行することになった。それでもアチのマネをしたのか、日本専門を目指すという。

「俺は、どこで修行するかじゃなくて、俺自身の能力でのしあがっていくさ」

 とトゥは、誇らしげに言った。

 パオは、アチとトゥを見て、

「頑張ってね。僕とは会う機会も減るだろうけど、遠くから応援しているよ」

 と、どこまで優しいパオだった。

 アチとトゥとパオで、見習いへと旅立つ日に、アチの大好きなくちなしの花を食べながら、語り合った。

「アチとパオには笑わせてもらったさ」

 とトゥが珍しく素直な日だった。

「うん」

 とパオが答えると、パオは泣いていた。

「パオ、本当に虫担当でいいの?」

 アチは、最後に少しでも人間担当をしたいならば、今なら遅くないんじゃないかと思った。

「うん。いいんだ。僕は人間よりずっと虫が好きなのさ」

「そうか。それぞれの道を歩むことになるんだな。別々の道でも、きっと思い出は、力に変わるさ」

アチは、力強く言った。

別れの挨拶のとき、パオのお尻は、トゥとアチよりずっと小さかったけど、あれは、針が刺さったせいだったのだろうか。その疑問をアチは誰にも言えなかった。


 トントントンと三回、ポイさんが前脚で机を叩く。審判は近い。その音が鳴ると、アチは、ポイさんの方を見る。来る。案の定、ポイさんは、ササッと書類に「松」と記入し、その書類に、ふーっ、と息を吹きかけて、その風の力で書類をアチの前に置かれた箱に入れる。見事に箱に書類がピタッと収まる。はい、仕事が一つ完了。

 ひたすらこの作業を繰り返す。

アチは、ポイさんの全てを盗み、いつかポイさんのようなチョイスマスターになる。そう決めている。しぐさも考えも全てポイさんのマネをするのだ。アチが、一人前のチョイスマスターになったあかつきには、審判の音は、前脚で二回、トントンと叩くと心に決めている。

 人間界や天国を見ていると、わかりやすさとは縁遠い世界だとわかる。ぱっと見て判断できることなどほぼない。写真には、ウソが写るような世界だ。ままならぬ世界で、人間界や天国はできている。どうも人間も天国をさまよう魂も、チョイスマスターたちも、したいように過ごしてわけではなさそうだけども。

 トゥは、すぐアチをバカにする。懸命に仕事に励むのがおかしいのだと言う。いつも求められていることと違うことに興味を持つ意味がわからないと言う。アチからしたらなぜトゥのように合理的に立ち回れるのかわからない。

 人間界の勉強をすればするほどわからないことが増え、アチの身体には、ホコリが溜まりやすくなった。アチは、のしのしと大きくなってきたお尻で、人間界を見渡す。肉体を持つというのは、厄介なものだ。花粉症があったり、髪や爪が伸びたり、脳も年齢で衰えるし、肉体もがたがくる。移動するのにも苦労する。

 チョイスマスター見習いのアチは、魂をじっと観察する。魂だけになると、肉体の心配はしなくていいが、その分、暇になる。

 アチは、人間のチョイスマスターだが、パオのような虫担当もいれば、動物担当もいると聞いたことがある。そこにもチョイスマスターが花しか食べられない理由があるようにも思う。

 どこまで世界は広がっているのだろうか。

 例えば、

「私は明るく元気に生きてきました」

 そう伝えてくる魂に、「松」「竹」「梅」の天国の世界に振り分けるのだ。やりがいはある。日々忙しい。絶妙なバランスで、世界が破綻しないように、仕事をこなす。

それぞれの世界に尊敬される人がいる。ポイさんは最高ランクのチョイスマスターなのだ。お尻が早く元に戻るか、大きくなってほしいとアチは心から願っている。きっと今、ポイさんには何か心配ごとがあるに違いない。

「でんすけ五番」は、ポイさんの顔を見て、開口一番言った。

「私は、生きていた頃、誰にも愛されていなかったのです。仕事が全てでした。家族のことは妻に任せっきりでした。晩年は、家庭にも居場所がなかった」

 とでんすけ五番は言った。アチは、深い寂しさと後悔の色を見ていた。とても寂しそうな魂だった。でんすけ五番は、はらはらと泣いて見せた。

 アチが前日にした裏取りでは、でんすけ五番の言うことと事実は違っていた。でんすけ五番は、家族に愛されていた。ただ家族は、でんすけ五番の看病に疲れていたのだ。でんすけ五番の死因は、ひどいがんだった。その闘病を支える家族は、肉体的に疲れを見せていただけだった。でんすけ五番の感じやすい心ゆえに、でんすけ五番に見えていたのは、家族の暗い顔で、その暗い顔を見たでんすけ五番は、誰にも愛されていないと感じた。でんすけ五番は、家族にとって無価値だと信じて疑わなかった。

 しかし、でんすけ五番の死後、家族は、三日経っても、でんすけ五番のいなくなった穴の大きさでショックを隠せずにいた。奥さんは、この三日間睡眠も食事も取っていない。

 裏取りをしたアチは、でんすけ五番がこんなに愛されていることをなぜ本人は気づかないのだろう。魂も救われずに。不思議で仕方ないアチだった。

 ポイさんがトントントンと机を鳴らす。「松」と書いた。真実はいつか明らかになる。必ず。時間がかかっても。

 名札を取り、天国の扉をくぐって天国へと送られていくでんすけの魂は、球体に近いカタチをしていた。

 アチは、ポイさんがアチの裏取りの資料にきちんと目を通してくれているのだと思って、嬉しかった。

 アチは、きっと人間の人生を調べるが好きなのだと思う。死人には勘違いや思い込みがあり、残された人々には、死人に伝えきれなかった心残りが充満している。さまざまな愛が必ずしも報われないことに、アチは寂しさも感じていた。

 悩みながら、仕事しているアチにポイさんは言った。

「裏取りは、悩むことではない。よく観察するのだ。事実確認も大事だが、短い会話だけでは気づけない人間の歩んできた道のり、どうやって生きてきたか、周囲と打ち解けていたか。本当に孤独であったか。さまざまな姿を知る機会なのだ。よく見るのだ」

「はい」

 アチのやる気は、誰の目から見てもわかるくらいめらめらと燃えていた。アチの目を見れば、大抵のことが明らかになる。

 トゥは、アチのそんな様子を見て、笑いながら言った。

「そんなに真面目にやらなくても、ポイさんならなんでもお見通しなんだろ?」

「いや、違う。アチの裏取りがあるから、いい仕事ができるんだ」

 アチはムキになってトゥの意見に反論した。

「そんなことはないと思うけどな」

 トゥは、納得がいかなさそうだった。トゥはいつも合理的で、アチのことを賢くないと言った。

 トゥの師匠のタルバスさんは、もっとドライで、トゥに仕事について細かくは教えてくれないようだった。トゥは、それを自分が優秀だからだと思っている。アチは、タルバスさんの横を通り過ぎるたびに、タルバスさんの身体から発せられる匂いがきつくなっているのが、気になっていた。今のポイさんとタルバスさんのお尻の大きさは、同じくらいだ。

 トゥは、まだアチに言いたいことがいっぱいあるようだった。一緒に棘に気をつけながら、バラを食べているときに、トゥは言った。

「なんで無駄なことばかりする必要がある?」

 アチは、ぐぅの音も出なかった。アチにだってわからない。どうしても気になるのだ。全てが。トゥは言った。

「俺は、タルバスから早く卒業する。なぜならタルバスさんから発せられる匂いが好きじゃないからだ」

 アチとトゥは、明日から一週間、人間界での研修だった。アチは、どんなことがあるのだろうと不安ばかりだった。アチには、もっと自信があればいい。トゥみたいに、自分は間違ってないと自信を持てたら、人間界の研修でも、天国への研修でも、うまくいくさと自分を奮い立たせられるだろう。だけど、アチは、すぐ自分のすることが当たっているのか、間違っているのか不安になってばかりだ。強くなりたい。弱い自分を振り払いたい。

 ポイさんと一緒に菊の花を食べ終え、二人でタンポポ珈琲を飲んでいるときにポイさんに相談した。

「アチは、どうしたらいいんですか?」

 不安がおさえられなかったので、聞いた。

 ポイさんはたたきつけるように言った。

「まず私に聞く前に自分でどうすべきか考えなさい」

 怒られたのかと思ったが、ポイさんの目は笑っていた。

 アチは、全ての世界の正解をポイさんが知っていると思っていた。だから、ポイさんはあれだけ仕事を早くこなせるのだと、そう思っていた。アチは、それを全て盗んで、マネをすればいいのだと。

「まず自分で考えろ」

 ポイさんは、今、アチにとても大切な言葉を教えてくれた。簡単な言葉だけど、とても大切なことだ。やっぱりアチは間違っていない。ポイさんは、素敵なポイさんだった。そんなポイさんだってお尻が小さくなることがあるのだ。いつも同じではいられない。

 世の中は、めぐる、めぐる、繰り返し、繰り返し、日々には、終わりがなく、いつも続いている。

 いざ人間界へ修行に行く日、アチは、一時間前には、トゥとの待ち合わせ場所に着いていた。それなのに、トゥはよりによってこんな日にも遅刻してきた。早く来いという内容の紙飛行機を何通送ってもなかなか返事が返ってこなかった。

「遅いよ」

「わりぃ、わりぃ、時間間違ってて」

 指導員さんとの待ち合わせ場所に着いたとき、およそ一時間遅れていた。アチは、アチではなく、トゥが遅れたと弁明したかった。つまりアチは悪くないことを知ってほしかった。言えなかった。

「リンリンリーン、時は鐘なり」

 指導員のスナさんがアチとトゥの姿を見つけると、大きな声を出した。アチとトゥは、びっくりして、目を合わせて互いを見た。

「なかよしごっこをするための研修ではありません。人間界をちゃんと見る目を養うための大事な研修です。いい加減では困ります。真剣に取り組んでいただかなくてはなりません」

 口の達者なトゥは、自分が遅れてきたくせにスナさんに嚙みついた。

「われわれがそんないい加減なやつに見えますか?」

 アチは、同類と思われたくないから、われわれと言って欲しくなかった。

 スナさんは、黙って聞いていた。さらにトゥは付け加えた。

「人間界のことをしっかり教えてください」

 アチは、何も言わず、トゥから目を離し、ふと右上を見上げた。

 スナさんは、そんなアチの方を見て、目を伏せた。スナさんはすぅと息を吸い込み、

「それでは行きましょう。リンリンリーン、時は鐘なり」

 と言うと、アチに微笑んだ。ポイさんもスナさんもなぜ怒っても良さそうなときに、微笑むのだろう。アチの疑問は尽きなかった。ささやかなことが気になった。

 チョイスマスターが人間だった頃の記憶は、キレイに消されている。きれいさっぱりだ。でも、アチには人間界にいたあたたかな記憶が残っていた。とてもあたたかく幸せな記憶だ。ぼわんとした不確かなものだけど。

 スナさんは言った。

「アチさんとトゥさんは、特に日本人専門科のスペシャリストを目指されているとのことでしたので、その辺をご案内していこうと思います」

 アチは聞いた。

「日本人たち特有の特徴はあるのですか?」

「人間界では、どの専門科でもそれほど違いはないのかもしれません。言い切ることは私にはできませんが。人間界では、お金が最大の意味を持っています。みな、お金を欲しがり、お金を得るためにあらゆる努力をします」

「ないとどうなるのですか?」

「盗んだり、お金がないだけで、死を選んだりする人もいます」

「どうしてそこまでするのですか?」

「大事だからです。リンリンリーン、時は鐘なり」

 スナさんは、アチが深いところまで掘り下げようとすると、時間には制限があることを告げる。

 アチは、知りたいことからは引き下がらない。

「どうして人間は、お金が好きですか?」

 アチが畳みかけるようにスナさんにそう質問すると、トゥが怒り出した。

「なんでそんなに細かいことまで知る必要がある?」

「だって、お金が大事なら、そこには理由があると思うから」

「いいんだよ。黙ってろ。人間界では、お金が大事だ。それが全てじゃないか。全てだろ?それ以上、われわれチョイスマスターが知る必要はない」

 トゥの身体が怒りでばたばたと動く。われわれと一緒くたにして欲しくないとアチは思った。トゥとアチは違う。

「そうですね。アチさんの質問されたようなことは、直接チョイスマスターの仕事には関係ないかもしれません。トゥさんは、この研修をどのようなものにしたかったのですか?」

 スナさんは、トゥをなだめるように言った。

「偉いチョイスマスターになるための過程に過ぎないと思っています」

「それです。きっと偉いチョイスマスターがいるという価値観。人間の中でお金を持つ人が偉いという価値観。それらが大事だと思っている人がかなりの数いる。そのことに間違いはありません。リンリンリーン、時は鐘なり」

 アチは、まだまだ腑に落ちていなかった。アチはどうしてそれらの価値観にこだわりがうまれるかが知りたかった。頭はその疑問でいっぱいになった。スナさんにもトゥにも言えなかった。アチが、深くつっこんで教えてもらおうとすると、スナさんの鐘が鳴り、トゥは、どんどん不機嫌になった。

 スナさんの説明は、次にうつっていた。

「人間の中には、自分が太っていることで、存在価値がないと感じている人もいます。もちろん太りすぎは、寿命にも影響します。お金の価値も、太っているかどうかも昔と現在とでは価値観の変容が見られますが」

「太っているだけで?痩せているとどうなるのですか?」

「アチ!いい加減にしろよ。そんなこと俺たちに関係ないだろ」

 トゥは、またブルブルと身体をふるわせて怒った。

 アチももう止まらなかった。

「チョイスマスターは、お尻が大きいのがいいのに、人間は痩せているのがいいんだよ。トゥは、ちっとも不思議じゃないの?」

 すると、スナさんが、助け船を出してくれた。

「一つ言えるのは、太っているのにもいろいろ原因があります。例えば、裕福であるがゆえに食べるものに恵まれ、太っている場合もあります。一方で、誰にも何も言えずに、ストレスを溜めて、食べることに執着してしまっている場合もあります。リンリンリーン、時は鐘なり」

 アチは、混乱した。人間界のことを知るために来たのに、全く答えがわからなくなってしまった。一つの魂、二つの魂、三つ目の魂、それぞれに理由があるのだ。背景があるのだ。それら全てを知ることがアチにできるだろうか。ポイさんの凄さを改めて実感した。

「ここで、アチさんとトゥさんに大事なことを知っておいて欲しいのです。人間界で大事なものだとされるお金のことです。そのお金は、虚像である場合があります。私のような人間界の案内人の中で、トップオブトップは、ある針を持っています。その針が何を刺す針か知っておいて欲しいのです。その針が刺すのは、お金です。お金を刺すことを、日本人は、バブルがはじけると言います。人間がズルしてお金を儲けたり、ウソをついたりして稼いだお金の正体は、その針によって暴かれるのです」

 トゥは、困惑して言った。

「なぜそんなことを言う。われわれが混乱するだけじゃないか。お金が全てではないと言うのか」

 アチは、トゥとは反対に納得していた。われわれと言うトゥとは、全く違うことを思っていた。トゥとアチは同じではない。同じだと思われたくもない。アチには、アチの考えがある。考え続けた分だけ、アチは必要なことを知ることができる。トゥには不必要でも。

 さまざまな世界の想いがある中で、アチにわかったのは、少なくともアチが知っている三つの世界が確かに存在していることだった。アチの知らぬ世界もまだ存在するような気がしていた。まだ全てを知ったつもりになるには、どこも世界は広すぎるし、価値観は、無限に広がっている。

 本当に大事にしているものは、人それぞれにある。落とし穴は、大事なものは、忘れやすいということだ。誰も教えてくれない。一つでもない。それぞれの努力で、自分でちゃんと見つけるのが、きっとどの世界でも最低限のルールなのだ。

「ほら、あそこでお金に針を刺されて、パーンとはじけてる」

 トゥは元のトゥに戻って、落ちぶれていく人間を指差し笑っていた。アチには、笑うことはできなかった。

 そんな様子を見て、スナさんは言った。

「商売をしていくなら、利益を追い求めなければなりません。しかし、利益にとらわれすぎると、何をしてもいいと勘違いする人も出てきます。リンリンリーン、時は鐘なり」

 スナさんは、アチを真剣な目でじっと見た。

 アチは、精神を病んでまでも、お金を稼ごうとする人を見ながら、スナさんに質問した。

「どうしてあそこまでする必要があるのですか?」

「それは食べるためであったり、家族を養うためであったりします」

「人間界で貪欲に生きたいという意志の表れなのでしょうか?」

「的確な答えはありません」

 スナさんは固い表情を崩さなかった。

 トゥは、スナさんを見て言った。

「人間界なんかそんなにいいところには思えないけどな」

 アチは、そのトゥの言葉に反応して言った。

「他にどこがいいところなの?」

 トゥは間髪入れずに言った。

「それは天国だろ」

「そうかな。本当にそうなのかな?」

 アチはまだ納得がいかなかった。そして、今度はスナさんに質問した。

「じゃ、大金を手にした人間は誰より幸せですか?」

「それは、針を刺してみて、確かめるしかありません」

「そうですか」

「空虚に刺す針なのです。自分ではなかなか気づけないことをあらわにします」

 スナさんはポイさんと同じように核心は教えてくれない。自分の頭で考えるしかないのだ。

 アチは、お金の本当の価値を知りたかった。虚像のお金があるのならば、大切なお金もあるはずである。

 例えば、働いたお金で、

「おいしいね」

 と家族で食べる食事代は、大切なお金の使われ方ではないか。

 スナさんは、付け加えた。

「お金にとらわれすぎて、大金がもたらす責任におしつぶされてしまう人間もいます。お金が恐怖になるのです」

 スナさんの説明は続いた。

「大金を持つ国は、武器を買うのです。お金は、お金自体の存在の大きさだけでなく、そのお金によって、人の命の行方さえ左右してしまうのです。それが、お金のもたらす幸福と不幸の両輪なのです。リンリンリーン、時は鐘なり」

 まだまだアチには、知りたいことがあった。

「人間界には、殺人と言われる人間が人間を殺すことがありますね?」

「あります」

 アチは、裏取りをするようになって、殺人を犯す人の中で、一つ気になっていたことがあった。スナさんに率直に聞いた。

「成熟した人間は、人を殺しますか?」

「未熟だから、人を殺すとおっしゃりたいのですか?」

「そうです」

「そのことについて私はなんともお答えすることができません」

「そうですか」

 アチが残念そうに答えると、スナさんが続けて言った。

「最後に、一緒に日本のお葬式を見に行きましょう」

 トゥとアチは、スナさんのあとについて行った。

「代表的な日本のお葬式をご覧ください」

 そこには、キレイに死に化粧されて、魂の抜けた肉体の周りにお花を飾り、死を悼む儀式が行われていた。

 アチは、スナさんに聞いた。

「あの、どの段階で魂は、肉体から離れ、チョイスマスターの元へやってくるのでしょうか?」

「そうですね。一概に言えませんが、チョイスマスターの繫忙期もありますし、日本ではほとんどが火葬されますので、その煙が天へと昇っていくときに魂は、チョイスマスターの元へ送られると言われております」

 アチは質問の鬼になった。

「魂は、自分のお葬式の様子を見ているのでしょうか?」

「そうですね。亡くなった原因にもよりますが、希望者は、見てからチョイスマスターのところへ行くことが多いと聞いています」

「チョイスマスターは、職務についている間に、どれぐらいの人間の審判をするのでしょうか?」

「それは、私の答えるべき質問ではありませんね?」

 とスナさんは前のめりのアチに微笑んだ。トゥは、もう呆れて、いい加減に早く質問を終えろと言いたげな視線をアチに送っていた。

「こんなの形式的な研修だろ。そんなに一生懸命になっても、何の評価もされないんだぜ。メリットがないだろ?」

 トゥは、アチを迷惑そうにあざ笑った。

 チョイスマスターは、人間の十年を一分で眺める。それで判定するのだ。チョイスマスターにとっての最大の関心事が、お尻であるように、人間にとってのお金は、自分を見失わせるほどの魔力があるようにアチは感じた。

「自分で考えるんだ」

 とアチは自分に言い聞かせた。

 ふとアチは、自分のお尻が人間界に研修に来る前より、大きくなっていることに気づいた。トゥより大きくなっていた。ほんの少しだけ。細かくお尻を観察しないと見過ごすぐらいの違いだったが。トゥと比較したから気づいた。

 アチはそのことをお世話になったスナさんと別れるときに聞いた。

「アチのお尻が少し大きくなったように感じるのですが」

「それは、私にはなんとも申し上げられません」

 つまりスナさんは、最後まで確かな答えは教えてくれないというわけだ。

 次の日からは、チョイスマスターの間でも、よく知られていない天国での研修だった。アチは、天国の扉を通っていく魂の後ろ姿しか知らない。その先を見ることができるのだ。

 またトゥと一緒の研修だった。

「わりぃ、わりぃ、寝坊した」

 トゥは、またしても十五分遅刻してきた。

「リンリンリーン、時は」

 とアチがスナさんのマネをすると、

「モノマネして楽しいか?」

 とトゥが言うので、アチは、

「行こうか」

 とすぐ真顔になって、トゥと天国へと向かった。

「はい。ラザです。みんなハッピーですか?」

 遅刻したアチとトゥを責めることもなく、にこにこと微笑みながら、ラザさんは言った。ラザさんのテンションの高さに飲み込まれて、いつものアチは自分のペースを崩され、

「天国は明るいところですか?」

 などというどうでもいい質問をしてしまった。そのくだらない質問にもラザさんは、嫌がることはなく、答えてくれた。

「明るいところです。ここは、地獄ではないのです。ここに地獄などありません。みんな思い思いに魂がさまようだけなのです。松の天国には、魂がひしめきあっています。みんな出会いを求めています。竹の天国には、そこそこ魂がいます。他の魂と出会う機会は、松より少ないです。梅の天国では、ほぼ出会う魂はいません。わかりましたか?ハッピーですか?」

 アチは、ラザさんの勢いに押されて大きくうなずいた。ラザさんなら、知りたいことは何でも教えてくれそうだ。

 トゥはラザさんのことが苦手なタイプのようで、ずっとラザさんとは一定の距離を取った場所にいた。それに気づいたラザさんは、わざとトゥに近寄り聞いた。

「ハッピーですか?」

 トゥは珍しく戸惑いの表情を浮かべている。

 まずラザさんは、アチとトゥを梅の天国へと案内した。

「ここには、一番寂しい魂がやってきます。ご覧の通り、こんなに広いところに、魂の数が少ないのが特徴です。出会う魂がいないのです。ご存じの通り、天国は無音で、清潔ですが、色がなく、魂は常に退屈しております。ここまではわかりますか?ハッピーですか?」

「ええ」

 アチは大きくうなずいた。いつもアチが見ているのは、天国の扉の中へと進む一瞬の魂の姿だけだった。その先の様子は今回初めて見た。

 天国は、真っ白などこまで続きそうな終わりの見えない空間で、目を凝らして、やっと魂のカタチがわかるような場所だった。かろうじて見える。その魂は、雲のように浮遊していた。ラザさんの言うことには、つんつんとその雲のような魂をつつくと、ぼわんと跳ね返るらしい。研修で触ることはできますか?と聞いたら、できないと言われた。

 アチはよく目を凝らして、梅の天国にいる魂たちのカタチに注目した。梅の天国にいる魂たちは、みな歪なカタチをしていた。棘がいっぱいあったり、どこかぼっこーんと変にへこんでいたり、四角であったり、ぱんぱんにふくれあがっていたり、レモンのカタチだったり、メガネのカタチだったり、魂のカタチは個性的で独特なカタチをしていた。観察しているだけなら、おもしろいカタチの魂ばかりだった。

 アチは言った。

「少し息苦しくない?」

 ラザさんが言った。

「梅では、息苦しいと感じるチョイスマスターもいます。空気を入れ替えることができないのです。それぞれの魂の持つ空気がよどんでいるからだと考えられています」

 ラザさんは、気を取り直して言った。

「続いて、竹の天国に行きましょう」

 移動の途中で、トゥはラザさんに聞こえないように、小声でアチに話しかけてきた。

「なんでハッピーですか?って聞くんだろうな。うるさいだけだよな?」

 アチは、それには答えなかった。アチは天国への興味が尽きなかったからだ。

 ラザさんは、アチとトゥに自分のペースで説明を続けた。

「竹の天国では、自分から出会いを求めないと、他の魂と出会えません。ほとんどの魂が出会うことを諦めていきます。梅の天国との違いは、出会いの数です。梅の天国では、見てきた通り、出会うことが皆無でしたが、ここでは少し希望が残されているわけです。ここまではわかりますか?ハッピーですか?」

 アチはへへへとラザさんに愛想笑いをした。トゥは、ラザさんの機嫌を取るアチの方を見て、にらんでいた。

 竹の天国の魂は、梅にいる魂より、少しだけ整ったカタチをしていた。

「それでは、いよいよチョイスマスターが一番知るべきシステムについてよくわかる松の天国へと参りましょう。ハッピーですか?」

 もうアチもトゥも抵抗せずに、何も言わなかった。アチは、天国について考えることでいっぱいいっぱいだったし、トゥは、ますますラザさんが苦手になったようだった。

「松の天国は、一番天国らしさがあるところです。大変魂の数が多く、出会いに恵まれています。ここにいる魂たちには、一つの希望が与えられます。魂は、自分の意志で魂のカタチを決められるのです。そのことにより、梅や竹の天国の魂とは違い、たやすく他の魂と一体になることができます。それは、結合や合体と呼ばれます。松の天国の魂たちは、うるさいぐらいに会話をします。そして、結合した魂と魂の子どもは、人間界で新たに生み出される肉体の中に入っていくのです。ここまではわかりますか?ハッピーですか?」

 アチが質問した。

「どういうカタチがいいカタチとされているのですか?」

「アチさん、いい質問です。天国で、一番ハッピーな魂は、球体になることです。丸くなるのです。見てきてわかるように、梅の天国にいる魂は、結合することは、とても困難であるとわかるカタチをしておりました。一つの魂で球体となっている魂は、非常にまれです。つまり一つの魂では、不完全であるというのが、われわれチョイスマスターの認識です。魂と魂の欠けている部分を互いに補い合って、カタチを合うように変化させ、やっと完全な球体となることを目指します。ハッピーですか?」

「それでは、魂たちの楽しみは、他の魂と出会うことにあるのですか?」

 アチはさらに質問を続けた。

「そうです。退屈からも解放されます。梅の天国をご覧になりましたよね?無味無臭の何もないところで、退屈を持て余していて、楽しみがないのです。退屈の残酷さをご存じですか?やることがないということですよ。わかりますか?ハッピーですか?」

「みんな松の天国に入ることがいいと思われますか?」

 アチはもっと天国のことが知りたかった。

「一つの例ですが、ずっと自分のカタチを少しも変化させずともぴったりと結合した魂たちがいました。本当にまれですが」

「他にはどんな魂がいましたか?」

「変わり者や枠におさまらない魂も確かに一定数います。忙しいことを望まず、退屈であっても、何とも思わない魂もいます。ハッピーですか?」

 さらにラザさんは続けた。

「われわれにとって一番困る魂のことをお話ししましょう。ハッピーですか?」

「はい」

 アチだけ返事をした。

「われわれが一番困る魂は、他の魂との境界線にべたべたと張り付いて取れない魂です。結合とは違うのです。べた~と張り付いてしまい、その魂にへばりつかれると、へばりつかれた魂たちは、身動きが取れなくなってしまうのです。それがわれわれの中で、一番困り果ててしまう魂です。ハッピーですか?」

「それらの魂はどうなるのですか?」

 アチが聞いた。

「そうですね。それは、ラザの口からは言えません。ハッピーですか?」

 アチがラザさんの話を聞きながら、目を凝らして、松の天国の魂を観察していると、不思議な光景を目にした。

「あの魂は、光っているようですが」

「ああ、あれですか。そうですね。天国の中に探している魂同士が近くにいると、ほんとうに、ほんとうに、まれにあの現象を見ることがあります。どうして光るのかは解明されていないのです」

 トゥは、珍しくアチを怒ることもなく、静かにアチがラザさんに質問する様子を少し離れた位置から見守っていた。

「全ての魂が、松の天国に送られることが嬉しいことなのでしょうか?」

「そうですね。それは、チョイスマスターの判断に委ねられていると考えるのがいいとしか申し上げられません。チョイスマスターは、バランスをとても大事にします。ハッピーですか?」

「つまりこういうことですか?自分で考えろと」

「そうです。ハッピーですか?」

 コホンコホンとトゥが咳払いをした。もうその辺でやめておけという合図だと思った。

 アチは、天国での研修で今までの勉強会や伝聞で仕入れた知識より、ずっと深く天国を感じた。

 ラザさんは別れるときにも、

「いつまでもハッピーで」

 と明るく声を上げた。

 人間界と天国の研修を終え、ポイさんに報告に行くと、

「少し大きくなったようだな」

 とアチのお尻を見て言った。食べることでしか大きくならないと教えられていたので、不思議な感じがした。

「われわれは、常に思い込みと戦っていかなければならぬ」

 ポイさんは、自分に言い聞かせるように言った。

次の日からまたポイさんの見習いの仕事を再開した。

「けんご二十五番」は、ポイさんの元へやってきてから、ずっと笑っていた。

「なんでそんな仮装しているんだ?」

「これは仮装ではありません」

「ははは。しゃべった。蟻の仮装だろ?」

「ちゃんとお話ができないようですね」

「ははは。真面目に話したって、俺が死んだことに変わりないだろ?」

「死んだあとの身の振り方の大事なお話です」

「ははは。死んじまって、死後の世界ってやつか?」

「笑うのをやめませんか?」

「ははは。笑うのをやめて何になる?」

 最後までけんご二十五番は、わっはっはっはと豪快に笑って、ポイさんは、トントントンと机を叩き、「松」と判定した。

 なぜポイさんは「松」と判定したのだろうか。ポイさんがごちそうしてくれた胡蝶蘭を食べているときに疑問をぶつけた。

「なぜけんご二十五番は、松だったんですか?」

「そうだな。けんご二十五番は、笑いながら、目で私を探っていた。私がどんな人物かをだ。

だから、天国でも見込みがあると私は感じた。きっと魂になっても、たくさんの魂に埋もれずに、切り抜け、結合の相手を見つけていくだろう」

「そう考えるのですね」

「そうだな。理由をつけるのは、簡単だが、言葉にすると、結局、長年の勘というものになってしまうものなのだ」

「勘ですか?」

 アチは不思議そうに言った。

 ポイさんの元へやってくる魂は、待ったなしだ。

 「さちよ十八番」は言った。

「私は不幸な人生を歩んできました。幼い頃に両親を亡くし、親戚に引き取られて、それは、それは、肩身の狭い想いをしたものです。成人になってからは、生活費を稼ぐために」

 と話したところで、珍しくポイさんは、さちよ十八番の話をさえぎった。

「そのお話は長くなるのですか?」

「私はこれからどこかへ送られるのでしょう。私のことを全て知っておいて欲しかったのです」

「こちらでは、調べはついています。その必要はありません」

「でも」

 まださちよ十八番は、話したがっているように見えた。だが、ポイさんはそれ以上、さちよ十八番の話を聞かずに、「梅」と判定した。

 アチは、ポイさんが仕事を終えて、帰ろうとするところをつかまえて、さちよ十八番のことを聞いた。

「なぜさちよ十八番は、梅なのですか?」

「そうですね。さちよ十八番は、自分の話しかしていなかったように私は感じましたが、どうですか?」

「確かにそうかもしれません」

「さちよ十八番は、死んでからも自分の話しかしなかった。きっと天国でも自分の話を続けるでしょう。魂になっても自我が強いのです。その自我は、魂になったときに、さらにふくらみ続けます。魂のカタチが肥大しすぎるのです。もしさちよ十八番が、松の天国に行ったなら、他の魂は、さちよ十八番の話を聞くだけで終わってしまいます。他の魂は、多くの出会いを大切にしなければなりません。さちよ十八番にだけ多くの時間をとられてしまうわけにはいかないのです。それを調整するのも、われわれチョイスマスターの役割です。だから、さちよ十八番には、まず広い梅の天国で、自分と向き合う時間が必要だと感じました。天国には、肥大しすぎた魂に刺す針があります。その針によって程よい魂へ変化することも可能なのです。それに天国では、少ない機会ですが、再審議の機会もあるのです。さちよ十八番が、落ち着けば、竹の天国へも松の天国へも変更届が認められるでしょう。一つ忘れてならないのは、チョイスマスターはカウンセラーではないという点です」

 ポイさんは、あの短い時間にそこまで考えていたのだ。偉いチョイスマスターなのは、間違いない。

 アチは、さちよ十八番の話に同情し、話を聞くことに集中しすぎて、その背景や送られた先の魂のことにまで考えが及んでいなかったと反省した。

 「ごう九番」は、ポイさんの前でいきなり泣き叫んだ。

「どうして俺は死んだんだ?」

 そう言いながら、涙で顔をびしょびしょに濡らしながら、ポイさんにすがりつくように叫んだ。

「原因は、一つではありません。例えば、がんだとしても、たばこが原因の場合もあれば、ストレスが原因の場合もあります」

「そんなことはわかってる。でも、どうして俺が死ななければならなかったんだ?」

 今度は、何度も涙を手で拭いながら、ポイさんを見て、

「なんで俺は死んだんだ」

 と訴え続けた。アチは、「梅」だと思った。でも、ポイさんは、「松」と判定した。アチは、驚いて、ポイさんの方を見た。

 また仕事終わりに、アチは質問を続けた。

「なぜごう九番は、松ですか?」

「あれだけ生きることに貪欲な人は、天国で十分にやっていけます。だって生きることに貪欲なのですよ。天国でも求められていくでしょう。どの魂と話しても、また一緒になる魂を探し、出会うことを受け入れていくでしょう。泣くのも飽きてしまうものですから」

 天国では、一つの魂でいることは、あまりよろしいことではない。天国での研修で、何もすることがないということがいかに無であることを見てきた。人間界での暇つぶしにするようなゲーム、読書、料理、音楽、どれも肉体がなくて、できないのだから、無の恐ろしさしかないのだ。

 しかも全ての魂が「松」に送られるわけではないので、残酷だ。チョイスマスターは、責任の大きな仕事だとわかってきた。

 「りこ三番」は、何も話せない魂であった。言葉数が極端に少ない。

 死んだ理由は、バイト先の買い出しの荷物を両手いっぱいに持って、バイト先に戻るとき、階段を踏み外し、頭を打って亡くなった。

 ポイさんの前に来ても、一言も話そうとしない。恨みごとも言わず、弁明もしなかった。口を開いたかと思ったら、「私が悪いのです」の一点張りだった。

「何か最後におっしゃりたいことはありませんか?」

 とポイさんが聞くと、りこ三番は、

「ありません」

 と答えた。

 ポイさんは、「竹」と判定した。アチには、その理由がわかった。りこ三番は、松の天国に行っても、自分から他の魂に合わせることはないだろう。そういう魂は、松の天国に行っても、うまくはいかない。出会いは少ないが、自分のペースで合う魂と出会う可能性のある竹が合っているのだ。もう一つ、アチは気づき始めていた。誰かから一方的に傷つけられた魂は、自分の魂をゆがめてしまうことを。

「キョウ二番」という幼子もやってきた。まだ人間の言葉も話せない。ポイさんは「松」とつけた。

 アチにはその理由はわからずポイさんに早速質問したが、ポイさんは説明してくれなかった。まだまだアチには勉強が必要なのだ。

「ジュン一番」という母親の魂とその子供だという魂が、同時に送られてきた。

ジュン一番は、自分の身勝手で、自分の子どもを殺し、自分も命を絶ったという。アチは、ジュン一番は、「梅」で、道ずれにされた子供の魂は、「松」じゃないかと思った。

でも、ポイさんの判定は違っていた。どちらも「竹」だった。同時に親子で送られてくる場合は、子供の親への想いが強いから、「竹」ですぐに会えるようになるべく同じ「竹」で見つけやすくしてあげるのだと思う。ポイさんは言った。

「どんなにひどい扱いを親から受けようとも、子供の魂は、親を悪くは思えないものなのです。たとえ、自分がどんな扱いを受けようとも」

それが、天国での研修で見た光の正体なのかもしれないなとアチは思った。

 突然、トゥがアチを訪ねてきた。アチは、暗い顔のトゥを見て、

「どうしたの?」

 と心配して聞いた。

「アチ、一緒に花を食べに行かないか?」

 アチは、まだ仕事の途中だったが、トゥの尋常じゃない様子に、ポイさんに「今日は、これからお休みをください」と慌てて早退の許可を取りに行った。

 ポイさんは、アチの目をじっと見て、

「いいだろう」

 と言ってくれた。

 アチは、花の食べられるレストランでトゥの話を聞くことをトゥに提案したが、トゥは、

「誰もいない場所で話したい」

 と言った。アチは、お花をテイクアウトして、誰もいないベンチを探した。

 ちょうど空いていたベンチを見つけると、

「あそこでいい?」

 とアチは、トゥに尋ねた。トゥは何も言わない。

「食べる?」

 と、かすみ草をアチが差し出すと、トゥは、

「いらない」

 とだけ言った。しばらく沈黙のときが流れた。アチは、ただトゥが話し出すのを待った。

 トゥは、意を決したように、辺りをぐるんと見回し、誰もいないことをしっかりと確認すると、

「実はさ」

 と口を開いたが、あとが続かない。これまでの経験から、アチは、大切なことを話し出すには、その人のタイミングがあるのだと学んでいたので、アチは、トゥが話し出すのを待った。

 アチは、トゥを気遣って、ポイさんの話を始めた。

「ポイさんがね、またお尻が大きくなったんだよ。前にポイさんのお尻が小さくなったときは、誰にも言えなくてさ。アチは凄く心配したんだよ」

 トゥの顔は、神妙な顔でそれを聞いていたが、さらに顔が暗くなったようにアチは感じ取った。

 そして、ぽつぽつと小声で話し出した。

「タルバスさんのことなんだけど」

「えっ?」

 あまりにトゥの声が小さいので、アチは聞き返さないといけなかった。アチは、トゥに顔を近づけた。

「タルバスさんのことなんだけれども、俺、見ちゃったんだ」

「何を見たの?」

 なんとなくアチは嫌な予感がした。

「実は、花以外のものを食べているのを見たんだよ。事務所に忘れ物を取りに行ったときに、変な匂いが充満していてさ。タルバスさんの部屋の扉が少し開いていて、そこからこっそりのぞいたんだ。そしたら、タルバスさんが、むさぼるように、昆虫や肉や野菜をむちゃくちゃに食べていたんだ。何かに取りつかれたようなものすごい怖い顔をしてさ」

「つまり?」

「タルバスさんは、チョイスマスター界の規則を破って、お尻を大きくしてるんだ」

 アチは、まだ勉強不足で、チョイスマスターが、花以外を食べるとどういうことが起きるのかを詳しく知らなかった。憔悴したトゥの様子を見ていると、大変なことだというのが伝わってきた。アチは、ポイさんが花以外を食べているところを見たことはない。

「チョイスマスターが、規則を破って、花以外を食べるとどうなるの?」

 トゥは、そんなことも知らないのかという呆れ顔でアチを見た。

「お尻に空洞ができるんだよ。その代わりにお尻は大きくなるんだ。人間界で、お金を刺す針を見ただろ。あれと同じようにチョイスマスター界には、お尻を刺す針が存在してるんだ。そんなことも知らないのか?虚像は、やがて明らかになるのさ。きっとパオのお尻に刺さった針と同じものさ」

「そうなの?」

 トゥは、どうやら話す相手を間違ったらしい。

「アチ、このことはお前の胸の中にしまっておいてくれ」

「でもさ、空洞ができてるなんてバレないんじゃないの?見た目は変わらないでしょ?」

「お前さ、タルバスさんから変な匂いがしていることに気づいたことはないか?」

「ある」

「それがヒントなんだ。チョイスマスター界でも有名なうわささ。俺は、その現場を見てしまったんだ。俺たち見習いが花以外のものを食べても、匂いはしないだろう。だけど、完全なるチョイスマスターが花以外のものを食べると、嫌な匂いが消えないらしいんだ」

「それで?」

「俺さ、俺がどうするべきかを考えたんだ。師匠の悪事を知って、弟子がどうするべきかをさ」

「どうするの?」

「聞いたことないか?チョイスマスター女王の部屋の中に、お尻の空洞に刺すことのできる針があるってことを」

「知らない。刺すとどうなるの?」

 アチは素直に答えた。アチは、自分がうわさの話をとことん知らないんだなと思った。

 トゥが大きな声を出した。

「俺だって刺してどうなるかまでは知らないさ。デリだって、触れてはいけない規則に触れたか、知ってはいけないことを知ったのか、どこかへ行ってしまっただろ?」

 アチは、身をすくめた。

 トゥは、秘密の暴露をアチにやっとできて、いつものトゥに戻っていた。

「それでさ、誰にも言わないで欲しいんだけど、一緒にチョイスマスター女王の部屋に行って、針をちょっと拝借することを手伝ってくれないか?」

「拝借?盗むの?それって悪いことじゃないの?」

「まぁ、怒られるだろうな」

 アチは、その提案にびっくり仰天してしまった。すぐにポイさんの顔が浮かんだ。

「アチに手伝えと?」

「そうだ」

「ちょ、ちょっと考えさせて」

 アチはいつになく気持ちが沈んだ。

 次の日、仕事場でポイさんに会うと、じっとアチはポイさんのお尻を見て、くんくんと辺りの匂いを嗅いだ。

 アチは、自分がどうするべきか考えあぐねていた。ポイさんと目が合って、目が泳ぐのをポイさんは見逃さなかった。トゥは全く大変な問題を持ってきたものだ。

 ポイさんは言った。

「アチ、騙されるのは悪いことではない。それは結果でしかない。だが、必要なところに魂を送り出すのは、われわれの大事な仕事であることを忘れてはいけない」

 ポイさんは、仕事のことでアチが悩んでいると思っているのだ。

 人間界にも、チョイスマスター界にも、天国でさえ重要な針があると知ったアチは、虚像で作られたものを世界の均衡を保つために排除する必要があるのだと知った。

 世界は、他者により審議され、ルールがいつでも必要なんだ。それは、一つ一つの魂が個性を持っているからだ。それぞれに違いがあり、その中で円滑にやっていくためにルールができる。しかし、どうしてもルールを作ると、そこにルールを破るやつが必ず出てくる。ルール違反には、お仕置きが必要なのだ。全ての魂が、自分のことしか考えず、ルールを無視して動き出したら、世界の均衡は保てない。

 どの世界も、優劣にとらわれすぎて、自分を見失ってしまう者がいる。その者が、針の力で追放されて、その後どこへ行くのかは、アチには想像もつかない。もしかしたら、追放された者が行く場所が、地獄と呼ばれるものなのかもしれない。チョイスマスターが見ている世界は、天国の方だけである。知らない世界がある。ポイさんはどこまで知っているのだろうか。

 アチは、まだまだ見習いだ。そうだ。不完全なアチだ。相談してくれたトゥにも誠実な態度を取ればいい。アチはいつもそうしてきたじゃないか。協力したかったらすればいいし、したくなかったらしなくていい。そこには選択があるだけだ。アチは、今、世界を知ろうとする自分自身に満足している。地獄へは行きたくない。

 アチは、ポイさんに付き合ってもらって、練習問題を解いていた。

 アチは、人間界で夢が叶わなかった人に「梅」の判定をした。やさぐれて、魂がギザギザになっているだろうと思ったからだった。

 すると、ポイさんは怒った。

「何を見ているんだ」

 ポイさんは怒りでぶるんと身体を揺らした。アチは、トゥのことが気になっていた。ポイさんが、せっかく時間を割いて練習問題に付き合ってくれているのに、アチが集中していないことを、ポイさんは怒っているのだと思った。

 このままではアチのこれまでの頑張りが無駄になってしまう。アチのチョイスマスターとしての資質まで疑われてしまう。

 部屋に戻ると、すぐに紙飛行機を飛ばし、トゥに連絡を取り、直接会うと、たまらずにこう言った。

「ちゃんとチョイスマスター女王に針を借りに行こう」

「こっそりじゃなくてか?」

「うん。ちゃんと理由を話して借りるんだ。ここでは全てウソはバレるさ」

「ちゃんと理由をアチが話してくれるというのか?」

「ああ」

 アチには、まだ課題が残された。さて、どうチョイスマスター女王に話すかだ。そんな偉い人とちゃんと話せるだろうか。アチのキャパオーバーだ。

 本日の一件目は、みんなに惜しまれて死んだスターの魂だった。アチは、今度こそ「松」だと思った。だけど、ポイさんは、「竹」をつけた。なぜ「竹」なんだろう。魂のカタチが独特だったのだろうか。アチは、誰からも愛されるスターの魂なら、竹の天国でも、相手を探し当てられるということなんじゃないかと思った。

 最近、ポイさんはアチに詳しく理由を教えてくれなくなった。背中で、

「自分で考えろ」

 と言いたいのではないかとアチは感じていた。

 残酷なことに戦争の爆撃による砲弾で命を落とした幼子と暗殺で殺された独裁者が同時に送られてくることもあった。

 ポイさんは、主に日本を専門としていたが、他の国で戦争が起こったりすると、仕事を手伝わなければならなかった。

 独裁者にポイさんは、「竹」をつけた。幼子は、「松」だった。

 審議の後、アチは想いが溢れて、ポイさんに詰め寄った。

「どうして独裁者が竹なんですか!」

「梅にしてしまうとまずいのだ。前に極悪人を梅に送ったことがある。すると、本当にたまに出会う魂同士が、ぶつかりあって、どんどん梅の治安が悪くなり、収拾がつかなくなって、全ての魂のカタチが悪くなってしまって大変なことになったのだ。竹に送ると、弁護する魂もいて、均衡と保つためには、竹に送るしかないのだ。前にも言ったが、チョイスマスターは、カウンセラーではないのだ。現在送られてくる魂は、この独裁者が始めた戦争で命を落とした人々がたくさんやってくる。一番気を遣わなければならぬ。情勢を考慮したのだよ」

「独裁者なんか地獄に送ってやればいいじゃないですか!」

「アチは許せません」

 アチは脚をばたばたと動かし怒った。

「正義を振りかざす場ではないのだ。正義という言葉で、誰かを変えたりはできない。それに天国で正義は関係ない。もう肉体もないのだ。魂の本質で勝負するしかないのだよ」

 ポイさんは悲しい顔をして、

「正義か悪かで裁くのではなく、出会う魂の行方を見つける仕事なのだよ」

 と力なく言った。

 悪か、正義か、タルバスさんをどう判定するか。チョイスマスターの世界にも悪は存在するのか。

「ブク十二番」はポイさんの元に来てから、ずーっと怒っていた。

「金なんかいくらでも払うから、俺の待遇を改善しろ」

 開口一番にそう言った。ポイさんは言った。

「ここでは、お金を持っていたからと言って何の価値にもなりません」

「俺は、仕事のできる男で、みんなに慕われていて、飲み友達も多いし、誰からも愛される男であったという自負がある」

 ポイさんは、じっとブク十二番を見た。

アチは、裏取りのときに、気づいていた。ブクの写真は、いつも景色の良い見栄えのするレストランで撮られていて、みな笑っているが、ブク十二番の死をお葬式で悲しんでいる人は誰一人いなかった。ブク十二番が傷つけた部下は何人も精神を病み、犠牲となっていた。自分の姿ほど正確に把握できないものだ。アチだってそうだ。天国には、写真も鏡もないから、アチは、自分の姿は、お尻を見ることしかできないし、きっと同じ形をしているだろうトゥやパオやポイさんの姿を見て、想像しているだけだ。もしかしたら、目だけ誰とも違った色をしているかもしれないわけだ。それはわからない。ポイさんに聞けば、教えてくれるかもしれないけども。わかりやすさの象徴である肉体を知ることも難しいのだから、自分の魂のカタチを正確に知ることはもっと難しいはずだ。それでも自分を知ろうとすることは、とても大切なことで、正確さを求めると、さらに困難な作業ではあるが、それでも求めることだ。そして、その魂に優劣の判定を下すアチの仕事は、自分の姿を知ることではなく、松竹梅に魂を振り分けることが一番の仕事なのだ。

 全て勘違いかもしれないという疑念は常に持たなければならない。それぐらい責任の重い仕事がチョイスマスターだ。ブク十二番にポイさんは、「梅」をつけた。アチと意見がぴったり一致していた。理由も聞かなくてもわかる。ブク十二番は、天国では誰にも相手にされないだろう。

 たまにポイさんと意見が一致することもあったが、大抵は、そうはいかずに、次々運ばれてくる魂に、どんどんアチの頭の中が、混沌としてきた。ますます混乱する事例もやってきた。

「ナカ十三番」は、小学校の担任の先生にいじめられて自殺した小学生の魂だった。

 ナカ十三番は、ポイさんの顔を見ながら、

「悔しいです」

 と言いながら、嗚咽した。アチの裏取りでは、その担任の先生は、とても陰湿な仲間外れをナカ十三番に行っていた。

「どうして悔しいと言うなら、やり返したり、助けを求めたりしなかったのですか?」

 とポイさんは聞いた。

 その担任の先生は、ナカ十三番以外には、とてもいい先生のように見えた。というのも、他の子は見事にその担任の先生の言うことに従順に従っていた。担任の先生のご機嫌取りを上手にしていたわけだ。そこには、恐怖が隠されていたと思う。

 そこに疑問を持ってしまったのが、ナカ十三番だった。

 ナカ十三番は、家族に大変愛されて育って、正義感の強い生徒であった。その担任の先生が、自分の言うことを聞かない生徒に給食を食べさせない様子を見て、

「そこまでしなくてもいいじゃないですか?」

 とナカ十三番がその一言を言ったのが、その担任の先生に、ナカ十三番がいじめられるきっかけになった。

 ナカ十三番は、一人だけプレゼントを渡されなかったり、クラス中でナカ十三番のダメなところ言って笑われたりした。その担任の先生のずる賢いところは、肉体は傷つけなかった。自分のやっていることがバレるからだ。

 ナカ十三番は、心優しく、そんな担任の先生のいじめに耐えきれなかったのだと思う。それに優しい両親の心を痛めさせるわけにはいかないとまで考える優しい子だから、自殺を選んだ。

 ポイさんは言った。

「私から言えることが一つあるとするならば、あなたは死を選ぶべきではなかった。家族に頼れば良かったんです」

 ナカ十三番は、ほろほろと涙を流した。

 ポイさんの判定は、「竹」だった。「松」でもいいのだが、誰かに傷つけられた魂は、周りの魂のカタチを少しずつ悪くさせるので、少しだけ自分の魂のカタチに戻すために、「竹」に送るのだと言う。

「もちろんあの担任の先生は、いつ死ぬかはわかりませんが、必ず梅へと送られるであろう」

 とアチにポイさんは言った。そして、付け加えた。

「ナカ十三番は、竹で少し休んだら、松へと行くことができるだろう」

 アチは、黙ってうなずいた。

 次に、とても優しそうな魂がやってきた。道端で雨に濡れている女性に傘を貸してあげたところ、風邪をこじらせて貧乏で死んだという。裏取りでも、それが事実だとわかっていた。

 アチは、その話に思わず、涙を落していた。

 それなのに、ポイさんは、「梅」だと判定した。

アチは、初めて審議を止めて、ポイさんにやり直しを求めた。

 すると、ポイさんは、アチが冷静に裏取りしていないと指摘した。

 すぐに審議を再開し、ポイさんは、その魂に質問した。

「どんな理由で、その雨の中、外出したのですか?」

 その魂は、うろたえて、あたふたし始めた。

 ポイさんがじっと見ると、ついに白状した。

「同級生を脅して、お金を奪うために外出しました」

 と魂は、悪びれずに言った。まんまとアチは騙されたのだ。裏取りも、目が曇っていた。魂のカタチに偽りありだったのだ。

 でも、審議を止めたアチをポイさんは責めなかった。それどころか、ポイさんはアチを褒めてくれた。話を信じることも大事なのだと言った。

 アチは、すっかり自信を失ってしまった。わからなくなってしまった。ガーベラの暴食をして、わかったのは、一つ一つ目の前にあることを解決していく以外に方法がないことだった。仕事は、次々にやってくるし、立ち止まっていられない。立ち止まっても、何一つ解決しない。

 ポイさんは、アチのことをよく見ていてくれる。

「アチ、何か問題を抱えておるのか?」

 ポイさんは、アチの目をしっかり見て聞いてくれる。

 アチは、ポイさんの目を見なかった。トゥの顔が浮かんで、

「何もありません」

 と答えるしかなかった。ポイさんは、それ以上何も聞いてこなかった。

 アチは、このままではまずいとトゥにまた連絡を取って会った。

「ポイさんが、何かあるとアチを怪しんでいるんだ」

「だから、俺が言ってるだろ。一緒に忍び込んでくれ。理由なんか話して、おおごとになったらどうするんだ。これ以上この問題を後回しにするなんて俺たちに悪影響しかないんだ」

 アチは、トゥのめちゃくちゃな論理に、トゥが持ち込んできた問題じゃないかと思ったけど、トゥの勢いに押される形で、仕方なく、チョイスマスター女王の部屋の前までトゥについていった。

 でも、いくら考えても、アチの頭の中からポイさんの顔が離れなかった。

「トゥ、やっぱりできない」

 とアチはトゥに告げて、その場から逃げ出した。一目散に身体を揺らしながら走った。アチは、怖気づいたのだ。どうしても悪いことはできなかった。自分がどうしてもしたくないことを実行することはできない。チョイスマスター女王に詳細を告げることは、タルバスさんを疑っていることが、バレることになる。もし無実だったら?そしたら、トゥはどうなる?考えれば考えるほどわからない。アチの身体は、なりふりかまわず、ポイさんの元へ走っていた。

 そして、結局トゥのことを裏切り、ポイさんに洗いざらい事情を話してしまった。

 息を切らしながら、アチは一生懸命に説明した。

「タルバスさんが、花以外のものを食べているようなんです。アチは、針を盗もうとしました」

 アチは、わんわん泣きながら、友達を裏切ったことを恥ずかしく思っていた。

「よう思いとどまったな。あとは私に任せなさい」

 そう言うと、ポイさんは、急ぎ足で、たぶんトゥの元へと向かってくれた。アチは、その場で泣き崩れていた。

 しばらくすると、トゥと一緒に戻ってきたポイさんの前脚には、針が握られていた。

「私たちの行くべきところは、タルバスのところだ。見ておくのだ。トゥもアチもついてきなさい」

 ぴかぴかに光った針を持って、ポイさんとトゥとアチは、タルバスさんの部屋へ向かった。

「トントントン」

 三回、ポイさんは、タルバスさんの部屋の扉を前脚でノックした。

「はい」

 部屋の中から返事があった。

 タルバスさんが内側から扉を開けた。タルバスさんの視線の中に、針を見つけると、ポイさんとトゥとアチを部屋の中へと招き入れた。

 そして、全て観念したかのように、タルバスさんは、お尻をポイさんの方に差し出した。そのお尻にポイさんが針を刺すと、ぷしゅーとタルバスさんのお尻はみるみるうちにしぼんで、アチのお尻より小さくなった。

 その様子を見て、トゥとアチは驚き、さらに驚くことになった。なんとポイさんのお尻がさらに大きくなったのだ。

 それにもっともっと驚くことに、トゥとアチのお尻も大きくなった。

 この出来事のあと、アチは、何度もトゥに謝った。

「ごめんね。ポイさんに言っちゃって。アチは、どうしても自分が悪いということはできなかったの」

「いいさ。アチに相談したのは、正解だったのさ。結果的に良かったんだ。タルバスは、あの後どこに行ったんだろうな」

 タルバスが去った後、トゥは、ポイさんの元でアチと一緒に残りの見習い期間を過ごすことになった。

 トゥとアチが見守る中で、相変わらず、ポイさんは、トントントンと三回、机を叩く合図を繰り返している。

 今日やってきた魂は言う。

「まだ思い出さないとだめかな?」

 ポイさんは質問した。

「どうしましたか?」

「思い出したくないのです」

 ポイさんは、トゥとアチの裏取りの資料に目を落として、職業の欄が空欄になっていることに気づいたようだ。

「お仕事はどうしましたか?」

「またその質問か。死んでからも同じ質問か。答えなくちゃダメかな」

 と泣き出した。

 小さな声でトゥが言った。

「泣き落としか」

 ポイさんは、そのトゥのつぶやきを聞いて、トゥをにらんだ。

 仕事終わりに、トゥはポイさんに怒られた。

「魂のカタチをよく見るのだ。背景を含めてだ」

 泣いた魂に、ポイさんはそれ以上、仕事のことは聞かず、好きな作業のことを重点的に聞いた。

 すると、その人は、人間との関わりが苦手だと言ったが、裏取りも含めて総合的に考えると、両親との関係にうまくいかなかっただけで、周りを明るくし、好かれていたのだ。今後への期待を込めて、「竹」だとポイさんは判定した。

 アチは、特に、嘘と本当の違いの嗅ぎ分けが苦手だった。

 トゥにそれを相談すると、

「そんなの経験が足りないだけだろ?」

 と笑い飛ばされた。アチは、トゥは、わかっていないと思った。

 トゥとアチの判定練習は、いつも意見がすれ違った。トゥは、送られてくる魂の気持ちなんか考えずに、合理的に、ほいほいと判定していき、迷いがない。それに比べたら、アチは、仕事に真剣に取り組み、ポイさんにいつも心配ばかりかけていた。

「よしこ二十三番」は、九十歳だった。アチの認識では、九十歳ぐらいになると、魂もいろいろな経験を積んで、人の役に立った経験や必要とされた経験があるのだと思っていたが、どうも話を聞いているとそうでもなかった。

 トゥとアチで裏取りに向かった先の部屋は散らかり、何よりよしこ二十三番は、お金に興味がなく、死んだ旦那さんの死後四十年一人で過ごしてきたが、どうも話す内容が子供っぽい。

「あの頃は、女中がいてね」

 が口癖だった。訪問してくる勧誘にはすぐ騙されたようだし、風呂の掃除も全くせずに、よしこ二十三番は、風呂での心筋梗塞で亡くなったのだが、泥湯のような汚い風呂に入り続けていた。

 繰り返し、繰り返し、ポイさんに、

「あの頃は、女中がいてね」

 と思い出話をし続けていた。

 アチの隣でトゥは、「早く終わらして次に行きたいよな」とアチに言うから、トゥと一緒ではなく、アチひとりだけ集中的にポイさんに教えてもらいたいと思った。

 ポイさんは、「竹」とつけた。アチも納得だった。トゥは、「梅」だと言い張ったが、ポイさんは、トゥの意見には反応しなかった。

「イチ一番」は、一見優しそうで、朗らかに見えた。

「私は友達がたくさんいました」

「どのような話を友達とされていたのですか?」

 そう言うと、戦慄の仮面が牙をむいた。

「どんな話をしていてもいいじゃありませんか?」

「ですから、あなたはどのような会話をたくさんいるというお友達とされていたのですか?」

「だからなんの話をしていても、ここで関係ありませんよね?」

 鬼の形相でイチ一番は、ポイさんはにらんだ。それをポイさんは一瞥して、「梅」の判定をつけた。

 ポイもトゥも納得していた。裏取りでも、イチ一番は、誰にも好かれていなかった。友達が多いと思っていたのは、イチ一番だけで、みなイチ一番の報復を怖がっていた。イチ一番の話すことは、全て愚痴であった。戦慄の仮面だったのだ。本当のことをちっとも言わない戦慄の仮面だったのだ。

 トゥとアチとポイさんで桜を食べているときに、人間界でのお金の話になった。

 アチがポイさんに聞いた。

「ポイさん、人間界でのお金について知りたいのですが」

「何を知りたいのだ」

「なぜ人間は、手っ取り早くお金を手に入れる方法を考えるのでしょうか?」

「うん」

 ポイさんは、一つうなずいた。

「ポイさんの元で見習いをして感じたのですが、ここでの審判や天国では、お金の価値は意味をなしませんよね?いくら札束を持ってきても、燃やされてしまいます」

「うん」

「それでは、なぜ人間は、お金に執着するのでしょうか?」

「うん」

 またポイさんはうなずいた。そして言った。

「天国では相手を見つけるために、たくさん話して結合するが、一旦結合すると、天国での記憶は消されてしまう。自分が本当に手に入れたかった宝物のことも忘れてしまうのだよ。宝物の存在を思い出すためには、見つけようとする努力が必要になる」

 ポイさんは、目を閉じた。

 トゥは隣でのんきに桜を食べて、

「もっとアチもどうでもいいこと考えずに食べろよ。この桜は、散りたてだぞ」

 と言うので、トゥは、合理的ですぐぷんぷんするけど、いいやつかもしれないなと思った。それに、アチは、トゥに好かれているようだし。

「シマ八番」は、五十歳の小説家志望の女性だった。でも、審判の前に来ても、もうやりきりましたという顔をしていた。アチは、前日に裏取りをしたときに、珍しい魂だなと思っていた。なぜかというと、部屋には、本と最低限の衣服しかなかった。あとは、一人分の必要な分だけの食器や調理器具だけだった。

「お金は生活に足りていましたか?」

 ポイさんは、アチが見習いについてから初めて人間にお金についての質問をした。

「はい。必要なだけ、お皿洗いのアルバイトをして稼ぎ、小説を書いていました」

「それは、どのような時間だったのでしょうか?」

 ポイさんは、珍しく積極的に、その小説家志望の女性に質問を重ねた。

「とても充実した生活でしたわ」

「お金がなくともですか?」

「そうですね。あればいいとは思いますが、私は、人との付き合い方がときどきわからなくなってしまって、正直に小説を書いていると何回も言ってもみたのですが、みんな蔑むだけでした。そんなもの趣味でね。読ませてよと言われて、持って行っても、私は、最下層の人間ですから。わかりますか?その人の質問に誠実であろうとすればするほど、相手の人との間に吹く隙間風とがっかり感。そのうち、人には期待しなくなりました。バカにされ慣れたと言いますか。静かに本を読み、感じたことを綴る時間だけが、最上の時間でした。そこに気の利いたホットコーヒー」

「そこに幸せがあったと?」

「はい、誰かに認められることはなかったのですが」

「認められたかった?」

「どちらとも言えません。若い頃から本を読むときに、幸せな時間がありました。弟がいたのですが、若くして亡くなってしまって、弟に大切なことを伝えられなかったことで若い頃は、たくさん泣きました。弟に大事なことを伝えそびれたとずっと後悔していたのです。想いを大事な人に伝えきれないからか。私は小説を書き始めました。口から出る短い言葉では、想いを表現し尽くせなかったのです。最初は、文学賞にでも応募して、見返してやろうなんてよこしまなこころもありましたよ」

「あなた自身は、悔しい思いはしなかったのですか?」

「小説家なんて言うたびに、笑われましたよ。だけど、その人の価値観は、私とは違うということに小説を書き続けていく中で気づいたのです。その発見は、私にとってとても大きなことだったのです」

 小説家志望の女性は笑いながら言った。

「小説なんてフィクションだから、現実より、実体験より劣ると考える人もいますね。だけど、そうじゃないと思いました。人生は、他人と同じ時間を歩めないんですもの。自分の時間を今、生きるとき、他人も同じ時間をそれぞれに刻み続けます。全てを知ることは不可能です。だから、知っていると思っても、相手のことで、知らないことって案外多いのです。小説はフィクションだけど、伝えたい思いの全てなのです。そこに私の真実はありました。想いの全てを言葉にして、せめてあたしは、自分の人生に納得することを選んだのです。後悔はありません」

 ポイさんは、じっと小説家見習いの言う話に耳を傾けていた。そんなにポイさんが、言い分を聞くのは、初めてだったので、ポイさんがどう思っているのかはわからなかった。

 ポイさんは、「〇」をつけた。見たこともないマークだった。

 ふーっと息を吹きかけたポイさんの書類は、どこかへ飛んで行った。

 アチもトゥも何が起こったのか理解ができなかった。

 すると、天国の扉ではなく、アチのいるずっと上の窓が開き、そこにシマ八番の魂が吸い込まれていった。

 トゥとアチは、ぽかんと口を開けて、その様子を見守っていた。

 その審判が終わったあと、ポイさんが口を開いた。

「あの魂は、お前たちの後輩になるだろう」

 トゥとアチは、目を見合わせて、

「どういうことですか?」

 とアチとトゥは同時に言った。

「あの小説家見習いの魂は、ほぼ丸に近い魂だった。その場合、またチョイスマスター女王がさらに選別するかもしれないが、たぶんチョイスマスターになる道に入ることになるのだよ」

 ポイさんは、ゆっくりアチとトゥの方を見て、

「今日の話をよく覚えていなさい」

 とだけ言った。

 アチとトゥは、二人きりになると、

「凄かったな。あんな上の方に窓があるなんてな」

 トゥが興奮ぎみに言った。

「あっ」

「どうしたの?トゥ?」

「どれぐらいの魂が選ばれるか聞いておけば良かったな」

「アチもトゥもああやって選ばれたのかな」

「そうなんじゃないか?」

「まだまだ知らないことが沢山あるね」

「そりゃそうさ。アチは、闇についても知らないだろ?」

「闇?」

「そうさ。人間界の闇、チョイスマスター界の闇、天国の闇」

「トゥは、知ってるの?」

「そりゃ、そう言えば、アチって、カゲに会ったことはなかったのか?」

「ない」

「すっげぇんだぜ。なんでも知っててさ」

「そのカゲって信用できるの?」

「できるさ」

「ほんとに?」

「たぶんな」

 トゥは結構すぐ人を信じるんだなと思った。アチは信じているようで、疑ってばかりだ。

 アチがトゥに珍しく話かけた。トゥが、だんだんにちゃんとアチの話を聞いてくれるようになったのが大きかった。タルバスの事件から少し元気のないトゥも成長したのかもしれない。トゥだって、トゥなりの物事の受け取り方、アチの知らないところで流した涙もあるかもしれない。タルバスのことだって恥だと思っているかもしれない。アチには、深くはわからない。でも、トゥと笑ったことも忘れない。

「こないだの小説家見習いの人の魂もそうなんだけどさ、お金の粋な使い方ってどんな使い方だと思う?」

「お前さ、いい加減にどうでもいいことを考えるのをやめろよ」

「どうでもいいことじゃないよ。粋にお金使うとさ。自分に返ってくるんじゃないかってアチは思うんだ」

「だって人間にとってお金は大事なものなんだろ。貯めておけばいいんじゃないか?」

「だってさ、ここにお金持ってこれないじゃない?」

「そうだな」

「それにさ、人間界に虚像のお金があって、チョイスマスター界にも、デリみたいに追放されるやつがいて、天国ではさ、魂がひしめきあっていてさ。知らないことばっかりだよね」

「そうだな」

 やけに素直にトゥが会話に付き合ってくれたので、アチは、嬉しかった。

「パオ元気だと思う?」

「元気だろ?」

「元気だといいな。パオが楽しそうに仕事してたらいいな」

 トゥもアチも程よいお尻に成長して、ポイさんの元での修行もあと一週間で終わろうとしていた。

 ポイさんも最近、笑顔が絶えない。アチもトゥと前より親しくなって、なんでも話せる間柄になっていた。

 トゥとアチの見習いとしての最後の判定となった魂は、ひどく怯えていた。

「大丈夫ですか?」

 とポイさんは、珍しく疑問と心配が入り混じった声をかけた。すると、こう返ってきた。

「悪夢がずっと追いかけてくるのです」

 それを聞いたポイさんは、うつむいて、小さな声で言った。

「私たちには答えが出せない」

 ポイさんはいつになく弱気だった。今まで自信を持って判定していたポイさんとは違っていた。アチが初めて見るポイさんの弱々しい姿だった。

 審判の間中、その魂は、同じ内容を繰り返した。

「仕事や時間や人やら全てが追いかけてくるのです。ずっとです」

「逃げられそうにはありませんか?思いを断ち切ることは?追いかけてくるものに恐怖を感じているのですか?」

「悪夢なのです。ずっと追いかけてきます」

 とその魂は、ずっと怯えながらポイさんに訴え続けた。

 ポイさんの元に見習いについてから、「不可」の判定が初めて出た。ポイさんが書類にそう記入すると、足元が開き、その穴へとその魂は落ちて行った。

 ポイさんとトゥとアチでささやかなお別れ会をすることになった。

 トゥとアチとポイさんで、皿いっぱいのバラを食べているときに、「不可」となった最後の魂についての話題になった。

 アチが口火を切った。

「ポイさんでも答えが出ないことがあるんですか?」

「ある。死ぬと、人間は肉体を失い、われわれチョイスマスターに会った後で、人間のカタチを失い、記憶もリセットされ、天国への扉を通り、心のカタチとなる魂になる。それは知っているな」

「はい」

「だが、まれに人間界に強く引っ張られる魂がある。あれだけ強い恐怖を人間に抱いているとき、われわれチョイスマスターは、その強い恐怖をどうしてあげることもできない。だから、松竹梅をつけることも不可能だ。新しい魂に出会う以前の問題なのだ。魂のカタチさえ見えない。想いが強すぎる。魂が広がりすぎているのだ。針で刺しても刺し続けなければならず、意味がない」

「あの魂は、あのあとどうなってしまうのですか?」

 アチは、大きな声で詰め寄った。

「タルバスのことも含めて、一人前のチョイスマスター試験に合格したあとで、もっと多くのことを知ることになるだろう。今は、私から教えることはできない」

 とポイさんは、暗い表情になり、ぽつりとつぶやいた。

「人間は難しい」

 トゥが、のんきな声で、

「このバラ、おいしいな」

 と言うので、ポイさんは笑って、いつものポイさんに戻った。そうだ、花はいつだっておいしい。花に罪はない。最後に、ポイさんは、アチにくちなしの花束を、トゥにチューリップの花束をプレゼントしてくれた。それぞれの大好物だった。

 アチは、ポイさんに最後の挨拶として、こう宣言した。

「人の人生を想像し、こころのありように目を凝らし歩くようにします。ポイさん、ありがとうございました」

 そして、ポイさんは、これからチョイスマスターの最終試験を受けて、独立しようとしているトゥとアチにはなむけの言葉としてこう言った。

「これだけは忘れないでくれ。まあるく。単体でも、他者といても、まあるくなるのだ。まあるくだぞ。自分だけで球体になることはとても難しいことだ。人間が一人で死ぬように。死んだら、一人なのだよ。人間でも、チョイスマスターでも、魂でも、結局は、不完全なものなのだ。忘れるな」

 アチは、ポイさんにいろいろ教わったから、ポイさんの言っていることが、なんとなくわかる気がしたが、トゥは、きょとんとしていた。

 ポイさんは、まだまだ言いたいことがたくさんあるようだった。

「チョイスマスターの仕事のできることを感謝するのだぞ。感謝しろと言われたから感謝するのではない。それは違う。それと人間を嫌いになるな。嫌いになったら、この仕事は続けられない。人と比べて、自分の小ささも大きさもわかる。だが、やがて気づくはずだ。誰かとの評価の追いかけっこなど、何の意味をなさないことを。だから大事なのだ。まあるくなれ」

 最後の別れの挨拶をしたあとも、ポイさんは、アチとトゥの後ろ姿に向かって叫んだ。

「まあるくあれ」

(了)

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