ファンタジー小説「深読み彼女」後編
本文(後編)
「秋次、怖い。早く来て」
「トメさんどうした?今どこだ?」
「怖い。あのお客さんが外で待ち伏せているの」
「すぐ行く」
俺は、自転車に乗って、一目散にトメさんの家に向かった。
俺は、途中で死んだ。
高齢者が運転する車の信号無視で、自転車もろとも吹っ飛んで俺の命は尽きた。
こんなにあっさり人って死ぬんだな。
人生って何があるかわかんないよな。
急いでいたけど、俺は、ちゃんと信号を守っていたよ。
あっという間の出来事に俺の魂は、この世に残りたいと思った。
だってトメさんを守れるのは俺だけなんだ。「早く来て」って。そう言われたんだ。
行かなくちゃ。
俺の魂は、閻魔様のところにすぐに呼び出された。
俺、閻魔様に必死で訴えた。
「俺、こんなところにいる場合じゃないんだ。まだ死ねないんだ」
と早口で状況を説明したさ。
「仕方ねぇな。トメさんは、いい子だからな。お前が守れるのか?」
って閻魔様が言うんだ。
「当たり前だ。俺は行かなくちゃいけないんだ」
と告げると、肉体は、三日後に焼かれちまったけど、魂は、トメさんのそばにいていいことになった。
次にこの世に戻ると。俺は、自分の葬式を眺めていた。トメさんの姿を探したら、俺の葬式に出てた。化粧もせずに。
俺は泣けてきた。
閻魔様は、俺にトメさんのためだけに努力することが、この世に魂を残す条件だと言った。
俺は、トメさんの幸せを見届けたら、他の魂みたいに成仏する約束をしたさ。
トメさんが、葬式で、俺の母親に、
「私が、私が、早く来てなんて言ったから」
と言いながら、人目を気にせず、泣きじゃくるのを見て、俺は、悲しくて仕方なかった。
俺の母親は、
「あなたが悪いわけではないわ。運の悪い子だったのよ。あんな気の利かない息子でもいなくなると寂しいものね」
と言って、ハンカチで涙を拭った。
「あなたと出会って、あの子は幸せだったと思うわ。私に、母さん、俺って気が利かないか?って聞いたのよ。そんなこと言う子じゃなかった。あなたは、あの子の分まで精一杯生きてね」
トメさんは、言葉が出てこないようで、目にたっぷり涙を溜めながら、何度もうなずいていた。
俺は、最後の最後までばかだったなと反省した。
親孝行もできずに死んじまってさ。
俺の葬儀から一週間後、トメさんは、バイトを辞め、引っ越しをした。
トメさんは、完全にふさぎ込んでしまった。明らかに俺の死に責任を感じているのがわかる。俺は、トメさんのせいで死んだんじゃないって伝えたらよかったのにな。そんな能力は、閻魔様は与えてくれなかった。
俺に与えられた能力は、三つだけだ。一つは、トメさんの記憶を消すこと。二つめは、夢の中に出ること。三つめは、空耳として声を届けること。
俺は、トメさんの天使になるって決めたんだ。
生きている頃、トメさんが俺の天使だったようにな。
俺は、トメさんを幸せにしたかった。それだけだったんだ。
約束は守る男だぜ。来てって言ったろ?遅れたけど、やって来たぜ。
だから、俺はトメさんのそばにいることを決めたのさ。
閻魔様もいつか生まれ変わらせてくれると言ってるさ。
トメさんの百年の恋人。そう呼んでくれ。
俺は、トメさんだけの天使になったんだ。
トメさん、こんなにあなたを愛してるやつがここにいるんだ。
トメさん、頼む。
家から出て、少し外の空気を吸ってくれないか?
ずっと布団の中で後悔と戦っているようにしか見えないんだ。
だから、俺、夢の中で、トメさんに、
「元気出せよ」
って言ったんだ。
そしたら、トメさん、目を覚ましちゃって、泣いてた。
夢を見る前よりずっとつらそうで、俺、それ以来、夢に出ることはやめた。
トメさん、俺はただトメさんに楽しそうに生きていって欲しいだけなんだ。
深読みしないでくれよ。
それだけ伝えたいだけなんだよ。
トメさんに負い目を感じさせたいわけじゃないんだよ。
「トメさん」
とそう空耳で呼んだら、ヒーと見えないはずの俺の方を見て、怯えてしまうし。
つらい記憶を消してあげようとすると、シャンプーを買うことも忘れさせてしまうし。
俺はどうすりゃいいだ。天使になっても、気が利かない俺にできることなんてないのかもしれないな。努力はしているつもりだけどな。
トメさんは、それからお金が尽きるまでの半年間、ほとんど人と会おうとしなかった。
半年後、貯金通帳を見て、トメさんはため息をついて、やっと重い腰を上げて、アルバイトをすることを決めたみたいだ。
トメさんは、働かなくちゃ、と思ったときに、真っ先にマサルさんに電話をかけた。
お弁当屋を紹介して欲しいと。
俺、マサルさんのこと知ってる。
トメさんの母の古くからの友人の息子さんで、最近、結婚したばかりだ。たぶん。
トメさんが、帰り道で、結婚式に出席するときの服の色を何にしようか迷ってると話してくれた。
俺のことがあって、結婚式には欠席したが。
マサルさんは、電話で、
「俺の学生時代のバイト先?」
と聞いた。
「そう」
トメさんは答えた。
マサルさんは、それ以上、トメさんには詮索せずに、店長に話してくれた。
マサルさんって気の付くひとなんだろうな。
面接で、店長は、余計なことは一切聞かなかった。
トメさんは、めでたくお弁当屋さんで働けることになった。
トメさんは、なんでこの職場を選んだんだろう。
俺は、働き始めたトメさんを見て、女性の多い職場を探していたんじゃないかと思った。
俺やストーカーのことがあって、男性の多い職場を意識的に避けたんじゃないかと。
だって年齢はさまざまだが、店長を除いて、働いているひとはみんな女性だった。
それでも身なりを気遣うこともなく、あんなに人とよく笑うトメさんはそこにはいなかった。
トメさんは、なるべくお客さんと接することのない厨房の作業を希望した。
面接の際に、店長に、
「皿洗いが一番好きです」
と言って笑われた。
マサルさんが、働いているときに、働きやすいと言っていたのかなと俺は推察した。
店長の人柄で、働いているひとも優しく、雰囲気はとても良かった。
それなのに、トメさんは誰とも必要以上の会話をすることもなく、心を閉ざし、積極的に打ち解けようとはしなかった。
トメさん、そりゃ人といるのは、面倒なことも多いけどな。
でも、死んだら、それすらないんだぜ。
それは、それでさみしいものさ。
そこにいる人たちは、悪い人には俺には見えないぜ。
それでもトメさんは、よく働くので、文句を言う人はいなかった。
仕事に関係のないことは、一切話さなくても。
トメさんの激しい感情が、トメさんの中で暴れまわり、渦巻いているのだろう。
部屋に帰ると、いつも枕を壁にぶつけていた。
俺は、そっとそれを見守った。
近くにできたチェーン店に対抗して、店長は、お弁当の売り上げを上げようと、配達する人を雇った。
店長の知り合いだと言う。学生だが、暇そうに見えたらしい。
この職場で、店長以外の唯一の若い男性がワタルになった。
一番若い良美は、ワタルが入ってくると、積極的にワタルに話しかけた。
「彼女とかいるの?」
「いないです」
「普段家で何してるの?」
「ぼーっとしてます」
「えー」
なんて若者同士の会話をしている。
他にも良美は、自分からわざと冷蔵庫のふたを足にぶつけて言った。
「痛ぁい。ワタルくんどうしよ」
「そんなに強く当たったように見えなかったけど」
などとワタルにアピールしている。
俺は、それを見ながら、トメさんとの会話を思い出していた。
つらい。つらすぎる。
俺もトメさんとそんな会話したいぜ。
ワタルは、人懐っこい性格で、すぐに職場にも打ち解けて、ベテランの女性軍にも気に入られた。
一番ベテランの万里子さんは、一人暮らしのワタルに、おにぎりを家から作ってくる。
中堅のゆかりさんは、良美の横でにこにこ笑いながら、ワタルを見ている。
さかえさんだけ、ワタルより、トメさんと話したいようなそぶりを見せている。
気づいているか?トメさんよ。
現に、トメさんは、さかえさんによく話しかけられている。
さかえさんの方が、積極的に、トメさんと仲良くしたいんだなと思った。
「同じ年って聞いたんだけど」
「そうなんですか?」
とトメさんは、少しびっくりして答えた。
「私、子どもいるしね。おばさん臭いでしょ」
「そんなことはないです」
少しずつこの職場で、トメさんの居場所ができてきたように俺は感じるけどな。
よく働くやつを悪く言うやつなんか普通はいないもんな。
ワタルは、持ち前の人懐っこさで、営業も担当していて、よく大口の注文を取ってきた。
俺はそれを見て、俺には、あんな芸当はできないだろうな。
逆に注文が減ったりしそうだなとワタルのことを認めざるを得なかった。
その日は、たまたま弁当のおかずにブロッコリーが入ることになった。
トメさんは、いつものように皿洗いをしたり、盛り付けをしたりしていた。
「じゃがいも取ってきて」
万里子さんにそう言われたトメさんは、じゃがいもを取りに倉庫に取りに向かった。
そこでトメさんは誰もいないのがわかると、口を押えながら、ぽろぽろと泣き出してしまった。
泣くのをずっと我慢していたのだろう。
そこに、たまたま通りかかったワタルにそれを見られた。
「大丈夫か?」
とワタルはトメさんに聞いた。
「大丈夫です。目にゴミが」
いや、トメさん、それは言い訳だろ。
即座にボールに、じゃがいもを入れて、トメさんは厨房へと戻った。
俺さ。
なんでトメさんが泣いたか知ってるよ。
ブロッコリーは、俺の一番好きな野菜だったからだよな。
俺を思い出しちゃったんだなって。
俺さ、トメさんに声をかけようとしたけどさ。
また混乱させるだけだろうってさ。
俺さ。
遠慮って言葉を覚えたよ。死んでからさ。
ある日、ワタルが取ってきた仕事で、大量のお弁当の注文が入り、人手が足りなくて、配達のサポートをトメさんがしなければならなかった。頼まれたら、嫌と言えないトメさんだ。
トメさんが、ワタルの助手席に座ると、ワタルは、
「やるだけやったら、もういい。限界を超えていることは考えなーい。それでいい」
トメさんに叫ぶように言った。
ほえっとトメさんの目は、点になっていた。
しばしの沈黙のあと、トメさんは、
「いきなりなんなんですかー」
と俺が死んで以来、初めて大きな声を出した。
「あっ、トメさんって言うんだろ?急にトメさんを見てたら、言いたくなっちゃった。悲しみが止められますように」
にっこり笑って、ワタルは続けた。
「トメだけに。止められますように」
「ダジャレ?」
トメさんは、少しだけ笑った。
それも俺が死んで以来、初めてのことだった。
それからもワタルは、トメさんに一方的に話しかけてくる。
俺のせいで、周りに関心を持つことを怖がっていたトメさんが、少しずつ心を開いていくのが俺にもわかった。
それからの二人の様子は、互いが気になってるように俺には見えた。
鈍感な俺にもわかるんだぜ。
俺にはつらいことだけどな。好きなやつが、俺以外に興味を持ち、惹かれていくのを何もできずに見てるしかできないんだから。
今の俺には何もしてあげられないからな。
トメさんは、俺が死んでからワタルが出現するまで、ベットで歯を食いしばりながら、泣いてた。誰に頼ることもなく。
唯一幸せそうだったのは、甘いものをひたすらに食べてるときぐらいだ。
ストレスも相当溜まってるように見えた。
俺が、トメさんに言いたいことは山ほどある。山ほどだ。てんこ盛りだ。
それは、二か月間も便が出ない悶絶するような苦しみをもたらす便秘のようだ。きっと下品な例えね、秋次。そう言って、トメさんなら笑ってくれるだろう。あぁ、俺、涙。
ワタルは、俺と違ってすぐ考えすぎてるトメさんのことに気づいた。俺には到底できない芸当さ。
ワタルは、トメさんと目が合うと、にっこり微笑む。
その目線に気づいたトメさんは、一回目をそらす。で、もう一回、ワタルを見る。まだワタルはトメさんを見ている。ワタルは、にっこり微笑む。
楽しそうだよな。俺もトメさんを見ているぜ。
最初のうちは、少し気になるぐらいの存在になっていたワタルが、トメさんの中で少しずつ大きくなっていくのをずっと俺は、ここから見ていた。
勤めて一年も経つと、他の店員さんとも打ち解けていった。そうだよな。トメさんは、優しいひとだからな。慣れるっていいこともあるんだな。
最初の頃は、周りの人もトメさんの「話かけんな」オーラに圧倒されて、必要なこと以外、話かけてこなかったけど、話しかけたら、ちゃんと答えてくれることがみんなわかったんだな。
トメさんは心を閉ざしているけど、もともと優しい子だからな。
でも、トメさんの心が、ワタル効果か、和んでくると、自然と俺といた頃のトメさんに戻っていくのがわかった。
「ありがとう」
とトメさんが、ゆかりさんに言うと、
「どういたしまして」
とコミュニケーションがちゃんと取れるようなったみたいだった。
トメさんは、ワタルと打ち解けていく中で、周りの他のひとたちともコミュニケーションが取れるようになってきた。
俺は、正直ほっとしながら、でも、寂しかった。
俺の存在が、トメさんの中でも薄くなっていくんだろうなと思ったらさ。
俺、何やってるんだろな。
あぁ、もっと生きたかったな。
トメさんの笑顔に応えたかったな。
そのためなら、俺、何だってする覚悟あるぜ。だって現に死んでるんだぜ。
トメさん、最近、一人で泣くことが減ってる。
「昨日の雨はひどかったですね」
なんていう日常の会話をゆかりさんやその他の同僚のひとと話すこともできるようになって、俺は、もうそろそろ成仏かと考え始めた。
いや、俺は甘かった。
ワタルのことだ。
まだまだ俺には仕事が残ってる。
トメさんは、洗い物をしすぎて、手が荒れても、全然気にしてない。
もっと自分のことに目を向けてくれ。
自分を大切にしてくれ。
それにワタルが、ほんとうにトメさんを幸せにするか見届けなくてはならない。
酒癖、女癖が悪くないか。
ささいなことで楽しそうに笑うトメさんを取り戻すんだ。
トメさんは、こないだの配達から頻繁にワタルとも話すようになった。
「トメさんは、どんな映画が好き?」
と聞いてきたりする。なんだ、なんだ、映画デートでもしようっていうのか?
トメさんは、聞かれたから答えるというようにそっけなく言う。
「コメディ」
「じゃ、アニメは?」
「アニメはそんなに見ない」
「そうなの?」
「うん」
そんな会話をした後のワタルは、外が雨が降っていても、傘もささずに、嬉しそうに帰っていった。
万里子さんは、その姿を見て、
「大丈夫かしら。何かいいことがあったのね」
と言ったら、トメさんは、少し顔を赤らめた。
なんだ、この幸せ空間は。俺がいるのによ。
俺さ、トメさんを幸せにするためにどうすれば良かったんだろうな。
常に考える。
ワタルじゃなくて、トメさんの隣にいるはずだった俺のこと。
ワタルの方が、大人なのはわかる。
俺じゃ、ワタルのようにトメさんの心の機微に気づけない。すぐ怒らせてしまっただろう。でも、今のところ、俺に向けられたトメさんの笑顔の方が最高だったって思ってんだぜ。
俺もばかじゃないから。
トメさんのワタルへの恋心に気づいてるんだぜ。トメさん自身は、気づいてないみたいだけどな。
だってバイト先でいつもワタルの姿を探してるトメさんの視線を。
もうさ、見ているのがつらいから、トメさんとワタルがくっついて、それでハッピーエンドで、俺は、思い残すことなく、成仏させてほしい。
俺、やりきれないさ。
生きている頃より、今の方が苦しみを知ってる気がするんだ。
トメさんの気持ちも手に取るようにわかる気がする。
だってわかってるんだぜ。俺が生きてる頃にトメさんにしていたことより、ワタルの方が気遣いってやつが完璧なんだ。
俺がなかなかわからなかったトメさんの心の中をワタルはわかってるようだった。
俺ってだめだなと天使になってからの方が、反省は多いさ。
でも、またトメさんが荒れ始めた。
なんでだ?ワタルがあんなにトメさんを励まそうとしているのに。
そうか。
「ワタルくん、ちょっといい?」
「なんですか?」
「このリップ変えたんだけど」
良美がワタルに話かけるのが、トメさん、気に入らないのか?
それは、嫉妬っていうんだぜ。
トメさん気づいてないのか?
良美は、どうもワタルに好意を寄せているようだった。
「ワタルくん、今度の休みいつ?」
「なんでですか?」
「えー」
なんて言う会話を毎日、トメさんが聞いていて、何とも思ってないふりをしているのが俺にはわかるぜ。
誰にでも好かれるやつを好きになるって大変だよな。
そんなトメさんは、俺が死んでから初めてさかえさんにランチを誘われた。
「明日、トメちゃん、暇?」
「ええ」
「あのさ、私も休みだから、ランチ行かない?新しくできたお店なんだけど、一人で行きにくくて」
「いいですよ」
とトメさんが答えた。
俺は、トメさんのこと心配してたんだな。
俺、トメさんが、ランチに行くのが嬉しかった。
さかえさんは、トメさんと同じ年のシングルマザーだった。
最初の頃から、さかえさんにだけは、トメさんは、少しだけ心を開いているように見えた。
「トメさんは、こんなときでも、お化粧しないの?日焼け止めは?」
そういう遠慮しないところも、変にトメさんのあざのことも気にしないところが、さかえさんをトメさんが頼りにする理由なのだろう。
「ところで、ワタルくんとどうなってるの?」
さかえさんは、またも核心をつく質問をした。
トメさんは、急にワタルくんのことを聞かれて、慌てたのか。
「どうって?」
と目を見開いて、答えた。
「だから、どこまで進展してるのかってこと」
「進展?」
まだトメさんは、驚いていた。
「だってワタルくんのこと気になってるんでしょ?」
「えっ?」
トメさんは、今度は絶句していた。
「だってワタルくん、トメさんのことばっかり聞くのよ」
「えっ?」
俺が死んで以来、トメさんにそんな質問するやついなかっただろうよ。
慣れない会話に、トメさんは、完全に戸惑い始めた。
そして突然暗い顔になり、トメさんはこう言った。
「私なんかここにもいてはいけないんだわ」
「はぁ?」
さかえさんは怒っていた。
「なんでそんなこと言うの。これから楽しい会話をしようとしているのに」
「ごめんなさい」
トメさんは申し訳なさそうに謝った。
「別にいいけど、私がワタルくんのこと聞きすぎたのね。とてもいい感じだったから、私がくっつけてあげようかと思ったのよ。気に障ったらごめんなさい」
とてもさかえさんというひとは、正直なひとだと思った。
だから、トメさんは最初からこのひとを頼りにしたのだ。
「何か話したいことが別にあるのね」
その言葉にトメさんは何も答えなかった。
さかえさんは、察して、それ以上、ワタルの話もしなかった。
「ここの料理はどう?お手頃価格で、ランチだから、こんなに食べられると思わない?」
とお店のことや好きな食べものの話をするさかえさんの気遣いに、トメさんは、少し目が充血していた。
別れ際に、さかえさんは、
「また今度、新しい店探すから、話をしましょう」
とトメさんに言った。
「ありがとう」
とトメさんは、下を向いてそう言うと、さかえさんに両手を差し出した。
さかえさんは、一瞬驚いたが、右手を差し出し、固く握手をした。
次にさかえさんに会ったときに、トメさんは、にっこり笑って、
「おはよう」
と挨拶できていたから、俺は安心した。
俺、トメさんが変わるときだと思った。分岐点さ。峠は越えた。
俺は、トメさんは、ワタルが好きなんだと改めて思った。
トメさん自身もそれを十分にわかっているんだ。
ただ認めることを怖がっている。
俺は、心配した。俺が死んじまったことで、トメさんは誰かと心を通わせることを諦めてしまっているのではないかと。
俺、死を経験して、トメさんより生きることが見えるようになったのかもな。
生きているときに、トメさんに伝えられていればなと思うことが多いよ。
そしたら、未来は変わっていたのかな。
実際の戦争を目にしないと、平和がわからないようにさ。
それじゃ、遅いのにな。
それじゃ、遅いんだぜ。
トメさんに見えていない、そんな世界を死んでから俺は見ているんだ。
トメさんに生を。戦争に平和を。
きっとそっちを見るべきなんだ。
目隠しをはずしてさ。
その瞳を曇らさずにさ。
さかえさんにだって、昔のトメさんだったら、話せていたことがあるのかもしれない。
友達関係まで話す前に俺死んじまったからさ。
ワタルは、あいかわらず、トメさんに、話しかける。
嬉しくて何度もトメさんに話しかけちゃうのわかるぜ。
「トメさん、得意料理はなに?」
「餃子」
「俺、餃子大好き」
トメさんは、微笑んだ。
やっぱり俺のにらんだ通りだ。さかえさんのおかげで、トメさん、峠は越えた。
そして、ここからだ。
相手には、気持ちを伝えなくちゃいけないんだよ。トメさん。
だから、ここからだ。
二人きりで配達も増えた。俺は、知っていた。それがさかえさんの差し金だってことをさ。
さかえさんと俺は気が合いそうだ。
トメさんもワタルへの話し方も変わってきて、親しげだ。
「トメさん、宝くじ当たったら何を買う?」
「えー、そうだな」
「すぐ出てこないのか」
「そうだよ」
「物欲ないの?」
「そんなにないかも」
「いいな。俺なんか夜寝る前に、宝くじのニュース見てさ。買いもしないのに、欲しいものリストを書き出したんだけど」
「なに、それ、買わないのに、欲しいものリストがあるの?」
「そうだよ。普通だろ」
「普通とな」
「そうだよ、欲しいものがあるのは普通さ」
トメさんは、なんかツボにはまったように、笑い出した。
そんなトメさんの笑顔を俺は久しぶりに見た。
やっぱり好きだと思った。
俺、なんで死んだんだろな。あの笑顔を、ずっと隣でさ。
トメさんも自分でこのままではいけないと思うんだろうな。
トメさんの中で、確実に変化が起こってる。
だって薄化粧だけど、トメさん、化粧をまた始めたんだ。
周りのひとも、あざのことは言わなかったけど、トメさんが身の回りのことに気を使うようになったのは、気づいたんだと思う。
さかえさんは言った。
「今度はさ、ランチして、化粧品を選びに行こうね」
トメさんは、笑いながら、
「ええ。そうしましょう」
と言った。
ワタルが配達の合間に、ゆかりさんと話をしていた。
ゆかりさんが、
「ワタルくんは、年上と年下の彼女、どっちがいいの?」
「断然年上です」
という会話をしていた。
俺は、聞き流してたけど、トメさんの顔がこわばるのを見ていて、今の会話の何が問題なのだろうと思っていた。
その日のトメさんは、荒れた。
壁に枕は、三回ぶつけられた。
ソファーは、五回殴られた。
座布団は、七回踏んづけられた。
トメさんが、荒れている。
そして、独り言をもらした。
「私なんか」
その言葉に続く言葉が、「私なんか死んでしまえばいい」じゃないことを俺は祈るよ。
だってこんなにもトメさんのそばで生きたかったと願う俺がいることを知らないわけじゃないよな。
トメさんの荒れていた理由は、さかえさんの質問で俺も理解した。
「トメさん、なんか機嫌悪い?」
と、さかえさんがトメさんに聞いた。
「悪くないです」
と少し怒ってトメさんが言った。
「私の子どももさ。そうやってよくすねるのよ」
そう言われたトメさんは、
「私、子供ですか?」
と笑い出した。
そして、さかえさんと休憩のときに、二人きりで、トマトジュースを飲みながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「私、ワタルくんのこと好きかもしれない」
とはっきりとトメさんはそう言った。
さかえさんは、
「そうでしょうね」
と答えた。
「わかるんですか?」
「わかるわね」
「わかってしまうものなんですか?」
「まぁ、わかるわね」
「そうですか」
そのまま黙るトメさんにさかえさんが聞いた。
「で、どうしたの?」
「ワタルくんは、ゆかりさんが好きなのかしら」
「それはないわね」
「それはないんですか?」
「ないわ」
「だってゆかりさん他に好きなひとがいるのをワタルくん知ってるもの」
「えっ?」
「ゆかりさんがずっと片思いしてるひとの話知らないの?」
「知らないです」
「なんで?」
「話さないから」
「そうね。それじゃ知らないわね」
「有名な話なんですか?」
「そりゃそうよ。ゆかりさんが口を開けばその話だからね」
「そうですか」
「だってワタルくんは、トメさんが好きなんじゃない?」
「それはないです」
「なんで?」
「なんでって、私なんか」
「私なんかって?」
「いや、こっちの話です」
「まだ隠していることがありそうね」
「まぁ」
「あっ、もう時間ね。またゆっくりランチしながら話しましょう」
トメさんの不機嫌は治ったようだった。
少し鼻歌まじりのトメさんがいた。
トメさん、ワタル、早くくっつけよ。
俺、いい加減に成仏したい。こんなもどかしい天使やりたくないんだよ。
だから、俺、トメさんの夢に出て、
「俺のことは忘れてくれ」
って言ったんだ。
そしたら、トメさん、泣きながら、ごめんって言って起きるんだ。
もうどうしようもないだろ。
また俺のこと思い出させちゃったんだ。
何やってんだよな。
だって俺、忘れてくれって言ったんだ。本当は忘れて欲しくないのによ。
ワタルもトメさんも互いの気持ちを読み合って、深読みしすぎなんだよ。俺がやきもきしてどうするんだ?
マサルさんが、トメさんのことをたぶん心配して、お弁当屋にやってきた。
親し気にワタルには見えたんだろうよ。
俺は、マサルさんとトメさんの間柄を知ってるからよ。
でも、知らないワタルには、そりゃ親しげに見えただろうよ。
「マサルさん、最近どうしてたんですか?」
そんな質問、このお弁当屋さんでトメさんが言う相手いなかったもんな。
「いや~、内緒、内緒」
「教えてくださいよ」
「トメちゃんには秘密だよ」
トメちゃんと呼ぶ人もこのお弁当屋さんにはいないからな。
それを遠くからワタルが見つめていた。
ワタルに気づいたトメさんが、ぺこりとワタルにお辞儀をすると、ワタルは何の反応もせずに車の方へ去っていった。
トメさんは、少しワタルの様子が気になるようだった。
ワタルの不機嫌な姿なんか俺、初めて見たさ。
それまではトメさんを見れば、すぐ幸せそうな顔していたのにさ。
トメさんとワタルは、また、さかえさんのファインプレーで、二人きりになる機会に恵まれた。
恵まれたって言っていいんだよな?
なのに、ワタルと来たら、今までと打って変わって、トメさんと一言も話そうとしない。
俺さ、俺がさ、気づいたんだぜ。
ワタルのやつ、嫉妬してるんじゃないのか?
マサルさんってさ、もう結婚して子供までいるんだぜ。
トメさんが、そんなひとに手を出すわけがないだろ?
ないよな?
俺が心配してどうする?
トメさんは、わけがわからないみたいだ。
最初、トメさんも黙って、助手席に座ってた。
お弁当を届け終えてもまだしゃべろうとしないワタルに、トメさんが一言言った。
「わけがわからないわ」
その言葉でワタルに火が付いただろうな。
「勝手にしろよ」
ますますトメさんはわけがわからないみたいだ。
なんで怒ってるの?って顔で、ワタルを見て、トメさんもムカついてきたみたいだ。
そのまま配達が終わっても、二人は何も話さない。
次も、二人のことを何も知らないさかえさんは、二人を配達に向かわせた。
そこでも二人は何も話さない。
トメさんは、お弁当屋さんに戻ると、ゆかりさんに、
「大丈夫?」
と聞かれた。様子がおかしいと気づかれるぐらいだったんだ。
俺は、おろおろと見守るしかできない。
どうすんだ?
俺の能力でこの場をどう乗り切るのか。
空耳で、
「どうした?」
と話しかけた。
そしたら、トメさんは俺の声が聞こえたと思って、ゆかりさんの前で、ぽろぽろと泣き出してしまったんだ。
それまで俺の葬式以来、つらそうにしていても、他のひとの前では泣かなかったトメさんがさ。
ワタルとのことで泣いたんだ。俺が声をかけたからじゃない。
ゆかりさんは、少し休憩をもらって、トメさんの話を聞いてくれた。
最初、トメさんは、何を話していいかわからないようだった。
じゃ、なぜあんなに悲しそうに泣くんだ。
ゆかりさんはもう何年も片思いのプロをしているから、もう大体察しがついたのだろう。
「まず、そうね。トメちゃん、誰に関することで泣いたの?」
うまい質問だ。
トメさんは、黙っていた。
そうさ。トメさんにはわかっていたさ。
今、胸の中で思い描くひとが誰なのか。
俺にもわかっているよ。
俺は、天使になってから、トメさんの気持ちが痛いくらいわかるようになったさ。
ゆかりさんの質問には答えずに、トメさんは言った。
「幸せを思い浮かべられない」
そう言うんだ。
ゆかりさんは、その言葉にこう返した。
「私もよ」
トメさんは、驚いて、ゆかりさんのほうを見た。
トメさんは、まだ泣いていて、ゆかりさんは背中をさすってくれた。
「言いたくなったら、話は聞くわ。いつまでもこうしていられないから、私が先に戻っているから、落ち着いたら、戻ってきてね。店長には適当に理由つけとくから」
トメさんは、泣くのをやめて、トイレで、崩れた化粧を直し、いつものトメさんに戻って、洗い物の仕事をした。
トメさんもワタルも生きてるのに、うまくいかないんだな。
俺は死んじまったから、トメさんとの未来がもうないのが重々わかるけどな。
俺ってばかだな。
生きてるんだから、なんでもできるだろ?と思ってた。
トメさんに好きなひとができれば、トメさんはかわいいから、絶対にうまくいくはずだと思っていた。
難しいんだな、ひとの気持ちってさ。
俺って、ほんとに単純にできててさ。
きっとトメさんもワタルも深読み族なんだぜ。
きっとそんな族分類があったら、深読み族なんだぜ。
俺は、単純族の総長になれるはずさ。
誰もが俺の総長就任に文句言わないと思う。
俺何言ってるんだろな。
だってよ、ばかなんだよ。トメさんもワタルも。
周りのひとがわかることを当人たちが全然わかってないんだ。
それで推測と、予測と、不安と、どうでもいい嫉妬でさ。
すぐ手に入りそうな幸せの前で立ち止まってるんだから。
トメさんを内向きにさせた責任が俺にはあるから、なんとかしてやろうと思ってるけどよ。
ワタルとの思い出を忘れさせちゃうわけにもいかないし。
夢に俺が何度も出たら、せっかく周りのひとと打ち解けてきたトメさんの前向きな気持ちを邪魔しちゃうし。
俺なにやってんだ?
もうこれは、生きてるひとたちに頑張ってもらうしかないと。
俺、結局、手を合わせて、祈ることにした。
ばかだろ?
天使なのに、神頼みってかっこわるすぎるぜ。
俺、今、生きてたら、自分のトメさんへの思いを置いておいて、トメさんに三時間は説教できる自信あるぜ。
何やってんだ?ばかなのかって。
トメさんにすべてをぶちまけて、言ってやりたい。
もうトメさんもわかってるだろ。
天国で「愛してる」を叫ぶ俺より、ワタルが必要だってさ。
心筋梗塞で死にそうなときに、天国で応援されるより、救急車を呼ぶ必要があるのと一緒のことさ。
トメさんは、いつも自分のことがわかってないんだ。きっと涙を流すより、どうでもいいことを事実より深く考えすぎたり、不安を一人で増大させたり、そんなことはしなくていいんだ。深読みは必要ないのさ。
でもさ、俺、トメさんは、そんな風に一つ一つ立ち止まって考えるから、誰かの心のひだに届くような気遣いができるんだと思うんだ。
俺にできなかった気遣いがさ。
だけど、トメさんが深読みするほど、すり減らしているものが、トメさんの笑顔なんだ。
どんなときに、トメさんが笑ってるか自分でわかってるのかな?
その笑顔が俺をどんなに幸せな気分にしたかわかってるのかな?
俺、トメさんわかってないんじゃないかと思うんだ。
心配になるのは、不安だからだろ?
トメさん、人には気遣いできるのに、洗い物をして、手が荒れてても、無頓着だし、あざがあるのに、パックもしないし、もう少し自分に磨きをかけてもいいのにな。
俺が言うことじゃないけどな。笑わせてくれるぜ。
人の何手先を読んでも、将棋じゃないんだからよ。
誰に勝つって言うんだ?
俺さ、本当にトメさんのために何ができるんだろ。
でもさ、状況はそんなに悪い方向に向かってるとも俺、思ってないんだ。
だってさ、人前でトメさんが泣くなんて今までなかったことだろ?
それだけで前に進めたことなんじゃないかって。
よく言うだろ。
雨降って地固まるってさ。
俺、頭良くなってるだろ?
さかえさんが、トメさんをまたランチに誘ってくれた。
トメさんは、それまで家の中で七転八倒しててさ。
でも、さかえさんとランチに行く日、俺と一緒に働いてた頃にしてたちゃんとしたあざを隠す化粧をして出かけたから、俺、ただ嬉しかった。
別にあざを隠してくれたからじゃないぜ。
それ以上に、意味のあることだと俺が思ったからさ。
さかえさんがまた見つけてくれたパスタ専門店で注文が終わり、トメさんが口を開いた。
「聞いて欲しい話があるんです」
とても真剣な目でトメさんがさかえさんを見たから、さかえさんは、
「もちろん」
と答えて、トメさんが話を始めるのを待った。
「私、ワタルくんが好きなんです」
「そうね」
「そうね?」
「知ってました?」
「前にも聞いたわ。わかりきったことよ。ええ。それで?」
「それで?」
それ以外、話すことを決めてなかったのかよ、トメさんよ。
「それでどうしたいの?」
「どうしたい?」
「その話じゃないの?」
「どういう話ですか?」
「告白するとか。また一緒に配達行きたいから協力してくださいとか?」
「そんなこと」
「なに?」
「はい?」
「どういうこと?」
「ええ」
「ワタルくんが好きですということだけ私に伝えたかったの?」
「ええ」
さかえさんと俺は全く同じ反応をした。
あちゃーっておでこに手をあてた。
トメさん、あれだけ思い悩んでそれだけかよ。俺は壮大な悩みをこれからさかえさんに相談するものと思ったぞ。
だって家でタオルを壁にまでぶつけていら立ってたじゃないか。
「それだけの告白じゃだめですか?」
「あの、私に告白してどうするの?」
「ああそうか」
深読み族のくせに。トメさん、あほか。
「ああ、そうか。ゆかりさんの前で泣いちゃいました」
「聞いてる」
「聞いたんですか?」
「だっておおごとかとゆかりさんも心配してたのよ」
「申し訳ないことをしたわ」
「いいのよ。誰も気にしてないわ。きっとトメちゃんが泣くからびっくりしただけよ」
「そうですか」
「トメちゃん、何でも気にしすぎるところは昔から?」
トメさんは、その言葉を聞いて、表情が沈んだ。
俺のことを話そうか考えてるんだなと思った。
トメさんの俺のことを考えるときの暗い顔を見慣れてるからさ。
「私、付き合ってた人を交通事故で亡くしたことがあるんです」
さかえさんは、その言葉をしっかり受け止めてくれて、しばらく沈黙した。
それからゆっくり口を開いた。
「そうか」
「そうなんです。それで、私なんか幸せになる資格がないように感じて」
「違うわ。それは違うわ。わからないけど、違う」
「違う?」
「きっと亡くなった恋人もそう思ってるはずよ」
俺は、その言葉に、俺の方が泣きそうになった。
俺の言葉をやっとさかえさんは、トメさんに伝えてくれた。
「そうですかね。そうかもしれないですね。優しくて、おもしろいひとでした。私の鼻のあざを見て、初対面でアンパンマンって言うんですよ。ひどいですよね」
「トメちゃんは、そのひとのことが大好きだったのね」
「はい」
俺は、号泣した。
俺、思ったんだ。
トメさんのためにこの世に残ったと思っていたけど、俺自身のためでもあったんだな。やっぱり伝えきれてないと思ってたんだ。
俺のあふれんばかりのトメさんへの思いをさ。
トメさんは、もう俺のことを忘れていいのさ。
幸せを見つけろよ。
さかえさんには、感謝だよ。
今までのトメさんには、誰も何も言えなかったんだ。
トメさんは、一筋の涙をこぼしながら言った。
「成仏してくれてるといいけど」
それは、トメさんの幸せを見届けてからさ。
さかえさんは、別れ際に言った。
「ワタルくんとのことは、私に任せなさい。悪いようにはしないわ」
とても頼りになる言葉だった。
ワタルは、次の日にさかえさんに何を吹き込まれたのかわからないが、機嫌が直っていた。
「トメさん、元気?」
と元に戻っていて、トメさんを驚かせた。
その日の夜に、トメさんが家の郵便受けを見ると、トメさんの顔色が変わった。
引っ越し先のポストにあのストーカーからの手紙が入っていたのだ。
またトメさんの幸せを邪魔する気なのか。
トメさんは、どうするのかなと見守っていると、じっと耐えているようだった。
俺に頼ったみたいに、相談できるひとはいないようだった。
誰かに話せばいいのに。
俺は、空耳で、
「ワタルくん」
とささやいて、夢の中で、
「もう幸せになれ」
と現れて、一時的にポストの手紙を忘れさせた。
次の日、さかえさんの助けで、トメさんはワタルと一緒の配達になった。
そこで、遠くからトメさんを見ているストーカーを見つけてしまって、ポストのことも忘れさせたはずなのに、思い出させてしまった。
隣にいたワタルが、トメさんの異変に気付いて聞いた。
「どうした?」
トメさんは、俺のことを思い出し、話すことをためらい、ただぶるぶると震えていた。
ワタルは、自分の連絡先をトメさんに教えて、
「何かあったら、連絡くれよ」
と言った。
バイト先から帰るときも、後ろを振り返りながら、怯えながら、トメさんは家に帰った。
そして、机の上のスマホをずっと見つめていた。
ワタルに連絡しようかどうか迷っているみたいだった。
俺は、大きな声で、
「ワタル」
と叫んだ。
トメさんが、自分を責めて、生きているのが嫌になっても、俺なんかもう悲しみのはじまりももうないのさ。
ストーカーになんか負けるなよ。
どうかなんとか生きて。生きて欲しい。
トメさんが、この世にひとりぼっちだと感じても、俺はトメさんの幸せを。
トメさんはもう知ってるよな。
今、トメさんに必要なものは、お金ではなく、名誉でもなく、人だということを。
ワタルが必要なんだろ?
俺、わかるぜ。
やっとばかな俺も賢くなったろ?
賢くなるのが遅かったかな。
笑ってくれよな。そんな俺を。
「泣くなよ」
「笑えよ」
「忘れていいよ」
トメさんは、やっとその声を俺からのエールだと受け取ったみたいだった。
しかも、恐怖には勝てなかったみたいで、トメさんはワタルに電話をかけた。
「もしもし」
「どうかした?」
ワタルは、優しい声で、トメさんの話を聞いてくれた。
トメさんは、堰を切ったかのように、ストーカーが待ち構えていること。俺が、そのストーカーから守ろうと家に来てくれる途中で亡くなったから、他人に頼るのが怖いことをワタルに話した。
ワタルは、
「うん」「うん」
と懸命にときどき同じ話を何度もするトメさんの話を聞いてくれた。
俺さ、その様子を見て、ほっとしたんだ。
ストーカーになんか人生を奪われるなよ。
もう笑っていいよ。みんなトメさんの笑顔を待っていたさ。
俺が幸せにしてあげられなかった分、ワタルに幸せにしてもらえよ。
悔しいけど、俺がしてあげたかったことをしてもらえよ。
そして、俺が死んだのは、俺のミステイクだ。
トメさん、君のミステイクじゃないさ。
ワタルは、トメさんの話を聞いた最後に、
「俺さ、トメさんのこと好きなんだけど、力になれるか」
って言ったんだ。
俺もそんな風にかっこよく告白できてたらな。
俺、明日とか言っちゃったんだぜ。
どこまでもかっこの悪い俺と、さらりと気遣いを見せるワタルの差は大きいかもな。
俺の運の悪さも含めてさ。
トメさん、なんて答えるんだろうと見守ってたら、こう言った。
「私もワタルくんが好きです」
もう一人で頑張る必要がないと、その電話で思ったんだろうな。
もう深読みし合うより、想いを伝えあった方がいいと互いにタイミングが合ったんだと思うんだ。
それからワタルとトメさんは、いろんな話をしてるようだった。
トメさんは、俺の話も笑いながら話せるようになったみたいだった。
続いていく未来と終わる思い出さ。
俺なんか扱いはどうだっていいさ。
ワタルって気の利いたセリフが得意なんだ。俺と違って。
「贅沢だな」
「これ、水だよ」
「トメさんと過ごす時間が贅沢なんだよ」
「鼻のあざのある私とでも?」
「もちろん」
なんて言うんだぜ。俺には何回生き返っても出てこない台詞だぜ。
ワタルが、ちゃんとトメさんのお化粧の時間を待ってくれるのを見て、
「秋次じゃ、そこまでわからないと思う」
なんて平気で言うようになったんだぜ。
トメさんは、ワタルと話していると、嬉しいみたいで、話に夢中になって、珈琲がすぐ冷めてしまうんだ。
俺のことなんかすぐ無視してたくせにさ。
トメさんは、俺が死んでからずっと我慢していた俺の話もワタルにするようになっていった。
「ほんとに気を遣わなくていいひとでね」
「ほんとに変なひとだった」
トメさん、それはないよ、俺、聞いているのに。
俺、涙。
まだまだ俺のことでも、ワタルとのことでも不安になると、自分を責めてしまうトメさんは、急に、
「ワタルくんに愛される資格ない」
と言う。ワタルはそっと抱きしめる。
「そんなことないよ。そう言わせないようにするよ」
「秋次なら、あたしに劣等感はなかった」
それは言っちゃだめだろ?
そりゃないよ。
でも、ときどき、ワタルは、あんまり笑いながら、俺のことを話すトメさんに気分を害してるみたいだ。
ワタル、少しぐらい俺に嫉妬はするべきだ。
でも、俺といるときより、トメさん、柔和な笑顔に変わったことがわかったから。
俺、成仏。
最後に誰にも聞こえない俺の声で、最後に一言言わせてくれ。
「ワタル、くたばっちまえ」
(了)
前編
ファンタジー小説「深読み彼女」前編|渋紙のこ (note.com)
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