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中編小説「シミラー」

あらすじ

 地震が多発し、津波、火災、戦争、窃盗など社会不安が増す中、人々はそのつらい現実から逃げるように、生活すべてでデザインが重視される社会になっていた近未来。突如、彗星のように頭脳集団「N」が現れ、次々に予言を的中させ、社会に熱狂的に受け入れられる。そんな中、主人公の祖母が、津波で命を落とす。主人公は、自分を見失い、恋人である「あなた」も主人公の元から姿を消す。「あなた」から主人公の大好きなフクロウのクリスタルの置物が送られてきて以来、一切の連絡が取れなくなる。それから主人公は「あなた」をずっと探している。デザインに支配されていく社会の中で、主人公は何を信じ、何を探し続けるのか。 

本文

 世界は変わる  頭脳集団「N」

 という広告を、目にすることが多くなったのは、おばばが死んでまもなくのことだった。

 おばばの命を奪った津波のように、確かにこの時期あまりにつらいニュースが続いているように感じた。地震も頻繁に起き、火災、戦争、窃盗など、情報の速度が速まるにつれ、たくさんの情報を目にする機会が増えた。世界が広がるほど、世界中の悲しいこともすぐに伝わってきた。悲しいニュースを見れば、遠くの国の出来事でも多少なりとも気持ちは沈む。戦争が起きたと聞いて、笑っていられるわけはなかった。自分にはまだ優しさがあると人は思いたいものだ。そもそもニュースには期待するべきではないのかもしれない。明るいニュースなどほとんどないのだから。幸せな人が一握りに見える。きっと社会全体が希望を持てず、絶望へと進んでいたのだろう。

 そんな時だった。テレビやネットニュース、全てのメディアは、センセーショナルでキャッチーな「世界は変わる」という広告を今の時代に打ち出した頭脳集団「N」を次々に取り上げ、好意的に世間に認められるようになっていた。その言葉を信じた誰もが、そうであれと思ったのだ、たぶん。改善されない、良くならない現実に打ちひしがれるより、世界は変わると信じることを無意識に社会全体が選んだのだ、きっと。

 広告が話題になる前から、一部のファンの間では、頭脳集団「N」の流すニュースは、良く当たると評判だったらしい。あたしは、そんなことを知らずに、おばばと「あなた」と楽しいときを過ごしていた頃の話だ。

「今日はどんな日だった?」

「楽しかった。あなたと過ごせて」

 あたしがそう答えると、「あなた」は、ほんとうに嬉しそうに笑ってくれた。大切な思い出となる瞬間は、案外少ない。すぐ忘れることがほとんど。

 あの頃のあたしは、デザイン社会とも適度な距離も取れていた。「あなた」に合わせた控えめなメイクに、前日の電話で笑いながら相談したシミラールックで十分に幸せだった。

「また寝ぐせがついてるじゃないか」

 と「あなた」が言うから、あたしは、「あなた」の目を見て、

「まあね」

 と答えて、「あなた」と二人で笑った。

 もう昔のこと。

 夜になると、布団で涙をためる、今のこと。

 頭脳集団「N」は確かに優秀だった。世間の人々が求めていることが、ちゃんと見えているようだった。子供から老人まで五人の行方不明者を見つけ出した。種明かしされないマジックを見せられているようだった。

 その行いを賞賛した人々は、何か事件が起きると、真っ先に頭脳集団「N」の情報を頼りにした。文字通り、注目の的になった。一挙手一投足をみんなで取り上げた。

 次に頭脳集団「N」は、ある国のミサイル発射日を的中させた。立て続けに予言が当たったことで、頭脳集団「N」に、世間は魅了された。

 頭脳集団「N」は、世間から確実に信用を勝ち得ていった。

 しかし、頭脳集団「N」の実体を知る者はいない。一体何人で構成されているのか。たぶんこの国のどこかに本部があるのだろうけど、それはどこか。創始者は誰か。現在、指導者はいるのか。なぜ機密情報を知ることができるのか。誰も正確に答えられる人はいなかった。どんな人物が運営しているのか。謎に包まれているのが逆に魅惑的で、世間に圧倒的な力を認めさせた。本来なら、何を信じさせられているのかわかりそうなものなのに。実際は、確かなものなど何もなかった。

あたしの頭の中は、頭脳集団「N」のことより、おばばのことを考えることで精いっぱいだった。

おばばは、波にさらわれてしまった。あたしが、「あなた」と海辺のカフェで、会話を楽しんでいるときに。こんなに文明の発展した世界にもかかわらず。もっと早く頭脳集団「N」が現れて、津波を予期してくれていたら。命は失われてしまった。津波が来ます、の情報一つ、おばばの耳に届いていたなら。お金で情報の手の入らないことのない時代に。多くの紙の本が燃えてしまった。まるで今までの知恵がすべて消されるように。多くの紙の本が、水でぶよぶよになってしまった。丈夫な建物の建てられるようになったこの時代に。

 あたしが、はちおじの家に着いて、おばばのことを知らされたとき、あたしは、天を仰いだ。ぐるぐると同じところを回って、次に何をしたらいいかわからなかった。思考は停止した。終始あたしは、「あなた」が何を話しかけても、ずっと自分の指のかさぶたを見ていた。 「あなた」は、あたしの隣で、ただ涙を流し、たたずんでいた。

 あたしの耳は調律のできていない音程のはずれた音ばかりを聞き取った。大切な「あなた」の言葉を雑音として、あたしを傷つけてくる言葉を自分の主旋律として受け取った。あたしは、あたし自身の中に沸き上がる内なる言葉でも傷ついた。あたしなんかって。

 「あなた」はあたしの隣にいるのもつらく感じていた、ということにまで気が回らなかった。「あなた」はこうも言ってくれたのに。

「俺にできることはあるかい?」

「ないわ」

 感情的に吐き出して、のちに後悔することなんてたくさんあるけど、この言葉は、あたしが発したこころない言葉の代表格だと思う。あたしは、おばばを失ったことで、我を忘れてしまっていた。

 おばばの書斎に閉じこもり、一人、おばばとの思い出を反芻していた。

「あなた」は、別の空気を吸うことも大事だから、友達と会って来たらと勧めてくれた。

 自分がどうすべきかを自分で考えられなくなっていたので、「あなた」の言う通りにみっちゃんと会う約束を取り付けた。みっちゃんはあたしと会うとすぐに聞いた。

「毎日何してるの?」

 あたしは答える。

「本を読んでる」

 紙の本は、化石と同じだと言って、みっちゃんは笑う。紙の本に執着していたら、世間から乗り遅れるわと付け加える。古臭いものは必要ないもののように扱われる。今や一部の人しか紙の本に感心を持たない。

 おばばを失って、声を上げて泣き叫ぶあたしにみっちゃんは言った。

「おばばなんてデザインを諦めたときから死んでいたじゃない?」

 なんてひどい言葉を。そうよ。おばばは、デザイン重視のこの社会が大嫌いだった。おばばの顔は、ずっとオリジナルのままだった。デザイン社会に迎合しないおばばは、社会的に死んでいたから、波にさらわれても問題なんてないと。おかしいわ。どこかおかしいのよ。みんなおかしい。

 みっちゃんの言葉であたしの胸の中の悲しみはさらに広がった。あたしは、泣くことをやめなかった。すぐにみっちゃんのそばを離れるべきだった。物理的な距離も、こころの距離も離れれば良かった。「あなた」が思うような友達は、あたしにはいなかった。それが事実。

 自分が弱っているときには、どうしても優しさを求めてしまうけど、我を忘れている人に多くの人は、何を話しかけても無駄だと考える。沈む船には誰も乗らないものだ。めんどうと感じる人も多い。そうやって人は離れていくし、どうしても人とは距離ができる。「あなた」だけは違っていたのに、差し伸べられていたその手にもあたし気づけなかった。

 みっちゃんはあたしにまだきつい言葉を続ける。

「泣いても何も変わらない。誰だって死ぬのよ」

 あぁ、もうやめて。

 あたしは、絞り出すように言った。

「あたしは、生き残ってしまった。おばばを助けられなかった」

 やっとあたしが絞り出した言葉にみっちゃんは笑いながら言った。

「生き残っただけで幸せだと思うべきだわ」

 あたしは、みっちゃんに殺意を覚えた。みっちゃんは、その場ですぐに鏡を取り出し、化粧直しを始めた。

 マスカラを直しながら、みっちゃんはまだ付け加えた。追い打ちをかけるように。

「そんなことをいつまでも気にすることはないわ。それよりもっと身なりに気をつけるべきよ。おばばは死んだのよ」

 そんなことって何よ。おばばが死んだことがそんなこと?あたしの中で、みっちゃんがはっきりと死んだ。

 その代わりにおばばは、あたしの中で永遠に生き続ける。そのことがもっとあたしを寂しくさせた。

 あたしの中で大きくなり続けるおばばとの思い出は、重さを持って、おばばの死後にあたしの胸を覆った。

 みっちゃんは、さらに落ち込むあたしを追い込んだ。

「もともと死んでいた人が死んだからといってなんだっていうの?」

 みっちゃんが言葉を発するたびに、あたしの中でみっちゃんが小さくなっていく。それは、きっとおばばがみっちゃんを嫌いな理由の一つだったんだろう。

 あたしにとってほんとうに大事なおばばが死んだというのに、みっちゃんは、口から毒を吐くように、次の人事で誰が偉くなるのかということと次に自分が取り入れる流行の顔デザインの話をし続ける。あたしは、みっちゃんのように合理的におばばの死を受け入れられない。みっちゃんのように賢くない。

 それなのに、あたしは、なぜこの場から離れないんだろう。あたしがばかだから?

 みっちゃんは、あたしから奪う人だった。あたしのみっちゃんへの優しさとかあたしの貴重な時間をみっちゃんは愚痴で奪った。

 一方、死んでしまったおばばは、与えてくれる人だった。優しい時間も、本も、おいしい紅茶も、手作りクッキーを添えて。とてもあたたかなものに触れられる時間を与えてくれた。あたしは、そのおばばの与えてくれるものの大切さと刹那を知っていた。あたしは、それがどんなに貴重なことかをちゃんとわかっていた。

 おばばがいなければ、あたしには、生きる楽しみがない。あたしの人生に意味がない。死んでいるのと変わらない。あたしのこころをおばばは、あの世に持って行ってしまった。

 おばばは、ずっと小説家になりたいとあたしに語っていた。幼い頃に夢中で読んだ古い小説たちに憧れていて、いつか人を魅了する物語を書きたいと言っていた。あたしが、いないとき、こっそり書いていたこともあたしは知っていた。創作ノートが机に出しっぱなしだったから。だけど、もう小説家などという職業は存在しない。とっくの昔に、AIが、小説家の仕事を奪い、あっという間に似たような物語が溢れて、世間は飽きてしまい、見向きもされなくなった。この社会構造の中で、創造性を持ち続けることも難しいという理由もあっただろうとおばばは、遠くを見ながら言った。多くの小説家は、廃業するしかなかった。社会から必要とされないものはなくてもいいものだと、多くの人は考えた。

 それに、所有の意識も変わった。新しい本も古い本も紙の本は、なにかと鞄に入れて持ち歩くのに、不便だと言われた。多くの人に必要ないものは、売られる機会も減っていく。紙の本を入れるための大きなリュックも最近は、お店で見つけるのも大変だった。外を歩くときに、かっこう良さを求める人たちにとって本は邪魔らしい。紙の本を所有する人がいなくなった。コレクターも少なくなった。災害がとても多いから。

 建築家のはちおじが、おばばのために作った頑丈な地下のおばばの書斎には、おばばが生まれてからずっと昔からのたくさんの紙の本が保管されていた。おばばが、もっと早く津波の情報を手に入れていたら、出かけていなかったら、この頑丈な書斎に逃げ込んで、助かることができた。そう思うと、あたしは、悔しくて仕方がない。

 おばばの書斎にある紙の本たちは、孫のあたしに託された。残った。おばばの思い出とともに。はちおじじと「あなた」以外、誰もそのことを知らない。だって大切なことを汚されるくらいなら、口をつぐむ方が、ずっとましな世の中よ。

 だって、みんなが今、興味を持っているのは、他のこと。みっちゃんみたいな人が、ほとんどなの。着飾ることに必死なのよ。時に生きることより。

 みんな深く考えることを放棄しているの。あまりにつらいニュースが多いから、暗いと片付けられることが多いから。暗いことは悪だと言う人もいるわ。でも、ほんとうにそうかしら。あたしは、まだ大切なものを探している。

 「あなた」は、あたしの前から姿を消した。

 「あなた」は、あの日、あたしといたことで責任を感じた。あたしは、自分を責めた。「あなた」がいなくなって、初めてあたしは、おばばが死んでから、まともに「あなた」を見ていなかったことに気づいたの。あたしにとって、「あなた」は大切な存在の一人だったのに。寂しい思いをさせたかもしれない。それに気づいたのは、おばばの死から少し自分を取り戻し、「あなた」が去った理由を考えるようになってからだった。それから二重の後悔をすることになった。「あなた」の正しく、優しい音に調律が合っていなくて、みっちゃんやあたしを傷つける雑音ばかり、拾っていた。雑音が、たやすくあたしを痛めつけた。「あなた」の言葉は、あたしのこころまで届かなかった。あまりの悲しみにこころを閉ざしてしまっていたから、壁の内側まで届いてこなかった。「あなた」はただ寄り添ってくれようと、手を握ったのに、あたし、その手を振り払ってしまった。

 おばばの遺体が見つかり、葬儀が終え、数日経つと、「あなた」からフクロウのクリスタルの置物が届いた。それを最後に「あなた」からの連絡も途絶えた。フクロウはあたしが大好きな動物だった。

 いつだって世界は変わる、あなた次第で。言うのは、簡単よ。そんなシンプルな言葉で世界は変わるかしら。嘘だわ。

 きっとキャッチコピーから見落とされていることってあると思う。

 きっと考えるには、少々、こころを痛めつけないと割り切れない死とか、どうにもならない自分のどうしようもない性格のことを考えることも必要だと思う。あまりに悲しい過ちに思いを巡らせるより、そりゃ、頭脳集団「N」の合理的な考えを鵜吞みにした方が楽かもしれない。そこに優しさの一つもなくとも。世界は変わる。そんなの嘘よ。

 あたしは、今はまだ抗いたい。きっと変わり者。今は、それでいい。

 あたしは、おばばの書斎の中で、こんなにもたくさんの言葉を味方につけられる。先人の知恵がある。頭脳集団「N」の考え尽くされたキャッチコピーには騙されない。

 おばばは、自分の言葉を持っていた。だから、みっちゃんもキューちゃんもいちさまも、あたしの周りの人は、おばばをよく思っていなかった。

 おばばは、口癖のように言った。

「デザインが重視される世界なんて地獄よ。自由がないわ。つまらない。そこにすべてをかけるなんて愚かだわ。それぞれにそれぞれの個性があるのよ。みなが同じ方向を向いているなんて気持ちが悪くて、寒気がするわ」

 だから、おばばは、あたしと「あなた」以外、書斎には入れなかった。書斎の存在さえ限られた人しか知らない。おばばは、あたしの友達が嫌いだったけど、否定はしなかった。それも生き方なのよとあたしに諭した。

 あっちもそっちもこっちも同じ顔。生きることに必死なのではない。着飾ることに必死で、こころを大切にしないから、自分を見失っていることに気づくこともなく。

 どんどん頭脳集団「N」色に染められていく世間を見ながら、あたしは、悲しむことも、非難することもなく、ただ腑に落ちずに自分の言葉を探した。

 いつから人々は、考えることを億劫と考えるようになったのだろう。思考を奪われることが悲しいことだと思わなくなったのだろう。他人に思いやりを持って接することをめんどうなことだと思うようになったのだろう。他人のために時間を使うことが無駄なことだと思うようになったのだろう。

 次々に起こる事件を予言して、的中させた頭脳集団「N」は、多くの人のこころを取り込んでいった。

どれが真実か判断するのが難しいこの時代に、信じられるものが欲しくて、盲目的に頭脳集団「N」の言うことを信じる選択肢が、もっとも楽に感じられる人が多かったことが、ここまで頭脳集団「N」を支持する人が増えた理由の一つだろう。

 多くの人は、頭脳集団「N」の言っていることがすべて真実かどうかを吟味する前に、的中率がいいというだけで、自分の考えも言い当てられていると思い、予言だけでなく、頭脳集団「N」のコメントもそのまま信じるようになった。

 ほんとは、事実を言い当てるより、こころで自分が感じることを言葉にする方がずっと大事なことなのに。ニュースは、事実かもしれないけど、その奥にもっと知るべきことがあるはずなのに。お腹がすいていて、焼肉を食べたいと思っているのに、天丼を出されたら、食事に満足してしまうみたいに、社会に浸透してしまった。きっと社会の落とし穴の中に、つけ入る隙があったのだろう。優しさに飢えているのに、楽しさを提供されたら、それで満たされたような気になるものだ。そして、そういうことが、とてもうまいから頭脳集団「N」と名乗っているのだ。

 あっという間に、頭脳集団「N」は、社会の中で権力を手に入れていた。デザインを重視する中でも、人々はきっと不安だったのだ。

 頭脳集団「N」の言うことを信じれば、未来への不安も解消される。信じることで救われると。信じていれば、争うことはなくなると。予防策で戦争もなくなると。世界は変わると。

 あたしは、まだまだ抗いたい。みんな同じじゃつまらない。我慢して働いて、時間を消費し、物や顔を手に入れるための労力が消費され、常に何かを消費されることに注目が集まる。

 あたし、まだ自分の頭で考えたい。誰かの意見を鵜呑みにしたくない。

 あたしは、この世界で、まだ「あなた」を探している。

 あの日、おばばのいない隙に、手を重ねて、楽しい時間を過ごせた。「あなた」は特別な時間をくれたから。

 頭脳集団「N」は、また一番注目されている今、新たなる秘策を打ち出した。

 「顔デザイン会社」の広告部門に進出し、流行顔ランキングを発表することにしたのだ。毎週金曜日に、「顔デザイン会社」から発表される。そのことは、ますます流行に乗り遅れないように必死な人たちのこころに火をつけた。

 この国で一番儲かっている会社が、「顔デザイン会社」だ。大繁盛している。最高益を日々更新している。田舎も都会も画一化が進み、町には、今までより同じ顔が溢れるようになった。お金があれば、誰でも顔が変えられる。あたしは、半年前の流行の顔をしている。今はお金を、顔をデザインするより、「あなた」を探すために使いたい。

 キューちゃんは、会うたびに、

「早く新しい顔にしなさいよ。一緒に歩くのが恥ずかしい」

 と言う。あたしは、それには何も答えない。反論すれば、論破されて、けんかになることがわかる。それで、キューちゃんとはおさらばだ。でも、まだあたし、そうしない。あたしの気持ちを想像する余裕なんてこの国の人にはないんだから。あたしにいらない言葉ばかり返ってくる。あたしのほんとうの目を見ていない。

 あたしが、気持ちをわかって欲しいのは、「あなた」だけだから。理解という幻想は、他人に求めない。あたしの気持ちは、閉じ込めて、誰にも触らせない。扉を開けても、傷つけられるだけだから。

 マフラーの巻き方一つ誰かに聞いて、流行を求めるなんてばかげている。マフラーなんて首を絞めない程度に、自由に巻けばいいじゃない?

 今の時代は、おばばの本の中にある世界とは大きく異なっている。望めば、耳を足につけることもできる。きっと耳を足につけてしまったなら、歩くたびにうるさいと想像がつくから、誰もそうしないだけ。足の悪い人もお金を払えば、普通に歩けるようになる。かもしかのような足にも。

 いくら美容にお金をかけたかは、エンゲル係数じゃなくて、美ゲル係数と呼ばれている。美ゲル係数は高いほどいいらしい。お金持ちほど、前の顔がわからない。

 男性アイドルが、それも男性アイドルの顔も次々に変わるんだけど、誰かと付き合っているとわかると、その相手の写真を手に入れようとする。なぜか。同じ顔にしてもらうため。

 ほら、また街を歩けば、同じ顔。もはや証明写真では、特定できない。だってコロコロ顔は変わるから。

 みんな目を開けたまま、福笑いしている。

 町を歩いていて、個性的な顔をしている子はいない。オリジナルは流行に反するから。生まれてきた顔がどんな顔でも、お金さえかければ、流行の顔になれる。多くの人が大事だと思っている価値観が、あたしやおばばとは違っていた。就職も、流行の顔をしている人が優遇される。会社の顔になるから。それにデザインされた顔は、財力の象徴であるから。

 あたしにはわかっている。デザインを重視しすぎる社会の罪を。消費にすべてをつぎ込ませて、デザイン消費をうながして、それが幸せのすべてだと頭脳集団「N」に呪いをかけられている。気づいてない人が多すぎる。頭の中まで支配されて、操られているのに。

 こんなに多くの人が、デザインにさらに傾倒していったのは、社会不安からだったのかもしれない。そこにいろんな要因が重なった。隣の人とけんかしないために、自分で考えることをやめてしまった。

 そこに、現れたのが、頭脳集団「N」だ。顔を変えて、自分だけは良くなっていると思う方がそりゃ楽だ。みんながみっちゃんになった。そうだ。みんな姿かたちまでそっくりなのだから。

 目に見えて確かめられる顔で判断すれば、わかりやすい。デザイン重視になる前は、人は惑い、騙され、誰も人を信じられなくなっていた。独裁者を失った戦後のように。

 またこの国で災害が起こった。大雨が降り、河川の水は溢れ、迅速に災害物質の手配をした頭脳集団「N」の評価は、ますます上がった。

 一方、災害対応で、国の借金は、膨らむばかりだった。この国の偉い人たちは、頭脳集団「N」にもう太刀打ちできない。信用がない。必要なものは、デザイン会社と食を満たすパン屋で、映画監督も小説家も廃れてしまった。社会に創造性は、もう求められていない。かつて文学部や教養学部がいらないと言われたように。ほら、歴史は繰り返される。

 紙の本が、今はもう必要とされなくなったことは、頭脳集団「N」にとっては、好都合だった。オリジナルな考えは、頭脳集団「N」の嘘を暴くから。歴史は繰り返されるから、歴史の変遷を記した物語が、いつでも役立つはずなのに。

 自分の考えで行動する人より、規律やルールを守る人が良いとされた。合理性は、素晴らしいという風潮は止まらなかった。創造性は、あたしのように和を乱すと言われるから。

 生きるか死ぬかより、デザインへと国民の目を向け、頭脳集団「N」は、国を乗っ取った。

 頭脳集団「N」は、政府「N」国を建国することを宣言した。目の曇った国民は、賛同した。頭脳集団「N」は、今や国民にとって神だった。

 すぐに政府「N」国は、政策を次々に打ち出した。

 始まりに、政府「N」国は、国民の心配や恐怖から守るため、情報を制限し、管理すると発表した。つまり、情報鎖国だ。あたしは、知っていた。自分の権力を強固なものにするために、権力者がよく使う手だった。

 政府「N」国の出す情報は、正確で、すべて正しく、反対する者や異論を唱えるものは、不利益を被るシステムを作り出した。紙の本が、震災で、ほとんど失われてしまっていたことは、政府「N」国には、好都合であった。

 歴史は、政府「N」国によって書き換え可能となった。とうに紙の本の存在を知るのは、高齢者か一部の物好きだけであった。都合の悪い電子書籍は、すぐに閲覧できないようになった。

 政府「N」国のニュースサイトから流れるもの以外は、真実であっても、すべて偽りだとされた。

 みんな気づいていない。便利に手に入れた情報や知識が、政府「N」国のフィルターを通して管理されたものでしかないことを。そこにアイデアのオリジナルはない。

 あたしは、おばばの本を読んでいたから、一人一人考え方に個性があることを知っていた。あたしは、真実の吟味と真実の裏取りがどれだけ大切かを知っていたから、若い子たちが簡単に政府「N」国の言うことをすべて正しいと簡単に信じたことに驚いていた。皆、同じ色のクレヨンで、それもみな同じ顔の似顔絵を書きなさいと言われているようだった。もっと悪い。選ばされているのに、自分が選んでいると思っているのだから。思考の痕跡もない。

 正式に、2324年、政府「N」国は、世の中の平和と国民の安心を目指すという名目で建国された。「あなた」が、あたしの元を去って、2年が経っていた。

 熱狂的に政府「N」国は、受け入れられた。自然には勝てないと誰もがわかっているはずなのに、自然の脅威さえ、政府「N」国なら、なんとかしてくれるという幻想を国民に抱かせるほどだった。

 政府「N」国は、国を豊かにするために、さらに国民のデザイン重視の方へと先導した。国民の消費をうながし、経済を活性化させた。そのもくろみは、成功した。

 政府「N」国は、情報を制限することに成功したあとで、デザイン会社のすべてを国営化すると発表し、顔だけではなく、洋服、病院、家、食事、体型などトータルでデザインできるようにした。「デザインローン」も導入され、誰でも担保なしにデザインすることが容易にできるようになった。その代わりに、国民は死ぬまでローンを払うためだけに、働き続けなければならなかった。たった一つ、流行に乗るためだけに。

 おばばの残した本の中にある源氏物語を読むより、電気が使えるようになった。核実験に怯えて過ごすより、さらに肉体を美しくすることに興味はうつった。外国に旅行に行くより、自分にお金をかけて、美しくいることがすべてになった。子供から老人まで、全世代で、デザインされた顔が良いとされた。テレビに映る赤ちゃんは、生まれただけでこんなにかわいいのに、これからデザイン社会の渦に巻き込まれていくのかと思うと、とても心が痛んだ。

 でも、その代わりに死への意識は、薄れたように思う。あたしのこころには、言葉にできない違和感と虚無が広がった。もし隣の誰かが突然失踪しても、そんなに悲しまないのではないか。人との関係がとても希薄になった。

 政府「N」国によって情報が制限されたより、若者の中にはかつてこの国で戦争が起こったことなど知らない人もいた。学校も政府「N」の作ったマニュアルのカリキュラムに、いつの間にか移り変わっていた。

 そんなあたしもおばばと「あなた」がそばにいない寂しさで、ぽっかり空いた穴を埋めるために、世間に流されて、少ない給料で、顔をデザインして、流行の顔に、流行の化粧流行の服を求めてみた。だけど、ちっとも満たされなかった。さらにむなしくなったので、それが自分を見失う危険なことだと思い知った。

 クイズ番組を見ていても、10人中8人は、同じ顔をしていた。クイズの実力は違っていても、おもしろさはなかった。そのうち3人は、「サン」という同じ名前だった。

「またあのお金持ちが昇進したわ」

 みっちゃんは、続けた。

「また新しい顔にしないと、いくら仕事をしても認められないわ。いつにしようかしら」

 あたしは、それをむなしいことだと知りつつ、こころを守るため、何も感じてないふりをしながら、

「そうだね」

 と相槌を打ちながら聞く。

 今日の政府「N」国からの最新ニュースは、「顔デザイン会社」のCEOに就任した男性の顔についてのニュースだった。

「あれ?」

 いつもこの時間に見る女性アナウンサーの名前が違っている。顔は変わることがあっても、名前が突如変わることは珍しいことだったので、印象に残った。

 政府「N」国は、即座に反応して、女性アナウンサーが、外国の方と結婚して、その国に移住したと速報を流した。

 いちさまに会うと、その話題になった。

「そう言えば、結婚したアナウンサーは、流行の顔にすることを拒否したからクビになったらしいわよ」

 いちさまがそう言うので、あたしは聞いた。

「それ、ほんと?」

「ウワサよ。テレビ局の友人に聞いたんだけどね。きっと政府が流したニュースの方が正しいわ」

 いちさまは、政府「N」国を信じた。あたしはまた政府「N」国を疑った。

 みっちゃんが、あたしに会いたがるので、カフェで待ち合わせた。

 あたしが、女性アナウンサーの話とあたしの見解を口にすると、みっちゃんは言った。

「騙されて生きた方が、騙されているかもしれないと疑いながら生きるより楽だわ。私は、政府を信じる。疑っていて、全然幸せそうじゃないあなたよりね」

 あたしは、初めてみっちゃんの言うことに「なるほどな」と思った。みっちゃんの顔には、シワ一つないのに、あたしの顔には、眉間にシワができるはずだわと妙に納得した。まぁ、みっちゃんは、人工的にシワを取っているんだろうけど。いつもみっちゃんの顔デザインは最先端だから。

 政府「N」国は、何か社会で変化が起こるたびに、いち早く都合の良い事実、つまり国民が求める展開のニュースを発信し続けていた。

 すべては一見、順調に進んでいるようだった。テレビ、端末、すべてのメディアの画面上では。

 いちさまとあたしが、町を歩いていると、男性がぼこぼこに殴られて、お金を巻き上げられていた。相手は、お金を手にすると、すぐにその場から立ち去った。

 いちさまは、すぐに政府「N」国に通報した。そして、通報を終えると、

「いきましょう」

 と言って、いちさまは、その場から普通に歩き出した。

 さらにあたしが、ハンカチを持って、殴られていた人を介抱しようとすると、いちさまは言った。

「もう報告したから、大丈夫よ」

 あたしは、あたふたしながら言った。

「でも、この人、血が出ている」

「大丈夫よ」

「でも」

 いちさまは、政府「N」国のニュース検索をして言った。

「報告したし、すぐにニュースサイトにアップされていないのだから、撮影だったのよ。これは、演技よ」

 顔に怪我をした人がこっちを何も言わずに見ている。いちさまは、あたしの腕を強く引っ張って、その場からとにかく離れようとした。あまりに強く引っ張られたので、あたしは、いちさまが怖かった。

 こんなことが目の前で起こっているのに、演技?

 この出来事は、ほんの一部だ。国民は、いちさまのように、政府「N」国が、ニュースにしないものは、嘘だ、演技だ、ドラマの撮影だ、虚構だ、と思うように洗脳されている。

 だが、あたしのような人は、少なからず危機を間近に感じていた。デザインにしか興味がないように見える国民のこころが、すぐ悲鳴を上げ始めた。

 みんなを悲しいニュースから遠ざけることは成功しているようだが、みんな同じだと決めつけ、同じ枠の中に閉じ込めようと、自分たちの政策が正しいと、政府「N」が、主張するのとは、逆に、国民は、不平不満を内側に溜めこみ、暴力、麻薬、デザインローンに苦しみ、デザイン料を稼ぐための売春や略奪が増え、急速に治安が悪化した。

 政府「N」国は、その不満に対処する必要があるのではないかとあたしは考えていた矢先、政府「N」国から次なる政策が発表された。政府「N」国の対応は、あいかわらず早かった。

 政府「N」国は、公式の投稿サイト「ダストBANK」を誰でもアクセスできるメタバース上に創設すると発表した。メタバースにログインすると、すぐ相談のアイコンが現れる。そのフクロウの形をしたアイコンに投稿すれば、悩みに答えてくれるという。

 苦情、陳情、不平不満、悩みをフクロウアイコン相手に国民が投稿すると、デザインで使えるポイントや景品がもらえると、その「ダストBANK」の有意義さをアピールした。そこでもらえる景品というのが、政府「N」国の国旗にも描かれているフクロウのマークのグッズだった。

 フクロウのグッズは、たちまち人気になったとニュースサイトで拡散された。すぐに、フクロウグッズを持っていないと不思議がられるぐらいになった。

 あたしは、そのグッズがフクロウだということに強く惹かれてしまった。あたしとしたことが。

 今日は、「あなた」を思い出させるサクラが咲いたから、いい日と考えられたら、どんなに良かったろう。どうしても、「あなた」が去ってから、今日も「あなた」に会えなかったから、悪い日と考えてしまう日々が続いていた。そのあたしをあたしが寂しく笑う。

 明日はどんな日になる?

 すべての人のこころを操れると思った政府「N」国の頭脳は、きっと頭は良いんだろう。でも、「あなた」を思うあたしの姿より、優位だと思っているなら、それはきっと間違いだ。

 外面を同じようにデザインできたとしても、気持ちを同じ方向に向かわせることがどれだけ大変なことか。同じ顔でも、こころの中まで一緒にはたぶんできない。

 始めは、全く信じることのできない政府「N」国に対して、何かを送るなんて緊張していたし、疑心暗鬼だった。あたしには、誰かに相談したいことなどないと思っていた。

でも、フクロウのグッズはあたしにとって魅力的で試しにこんな質問を送ってみた。

Q「友達との話が盛り上がらないのですが、どうしたらいいですか?」

A「フクロウグッズの話なら必ず盛り上がるでしょう。この相談であなたは、フクロウのキーホルダーを手に入れるのですから」

 景品交換所に行くと、本当にフクロウのキーホルダーをもらうことが出来た。

 政府「N」国は、あっさり疑い深いあたしを夢中にさせた。

 それは、あたしの弱点だった。おばばの死後、あたしの周りには、あたしのほんとうの気持ちを言える人がいなかった。おばばがいた頃は、なんでもおばばに相談していた。心情を吐露でいる場がないというのは、居場所がないというあたしの弱みだった。誰にでもあると思う。弱みが。

 あたしの日々は、「あなた」とおばばがいないまま、その穴は開いたまま、まだ続いている。

 いつも思っていた。

 どうしてあたしは、まだ生きているんだろう。

 そんな自問自答を今日も繰り返す。おばばが、元気のないときに淹れてくれたロイヤルミルクティーを懐かしく思いながら。

 思い出の中を生きるあたしに、みっちゃんは言った。

「いつまでもくよくよしている場合じゃないわ」

 その次に続く言葉が、あたしを傷つけることがわかっていたので、その場から離れた。

「トイレに行ってくる」

 立ち上がり、トイレへと避難した。あたしは、みっちゃんといるとき、何回トイレに行くか、みっちゃんは考えたことがあるだろうか。

 あたしは、自分の部屋からまた「ダストBANK」へ投稿した。

Q「SOS」

A「なんでしょう。なんでもお答えします」

 「ダストBANK」は、秘密や個人情報は守ると言うけれど、ほんとうに守られているのだろうか。

「ほんとうにいらいらしちゃう」

 キューちゃんが電話をかけてくる。あたしは、キューちゃんの悩みに一生懸命に応える。

「あなたにはわからないことよ。黙ってて」

 電話かけてきたのは、キューちゃんなのに、あたしは、電話でも煙たがられる。

 お金自体には、名前はついていないのに、デザイン料、裏金、補助金など使われていくときに名前がつく不思議なもの。言葉自体は、あたしにとって通り過ぎるだけのもの。でも、傷つけられると、あたしの中にずっと残るもの。

 みっちゃんの脳を使って出てくる言葉には、なんとなくあたしの気分が悪くなる魔法がかけられているみたい。

「キューちゃんが言っていたわ。あなたは余計なことばかり言って」

 もしキューちゃんがそう言ったことが事実だとしても、あたしは、そのみっちゃんの言葉で傷つく。今、みっちゃんに言われた方が傷つく。二人ともあたしを邪魔に思っていることが同時にわかるから、二倍になって気分が悪くなる。なぜ言わなくていいことを人は言うのだろう。だから、人間関係は難しい。そりゃ、顔デザインする方がずっと心が晴れる。

 助けが欲しいとき、思った通りの助けが来ることなどない。逆に、タイミングが悪く、メンタルずたずたにされることの方が多い。

 周りへの不満や人から受けるストレスを共有する必要があるのだろう。きっとみんな疲れて、言葉を吐き出さなくては、やってられないのだろう。そればかりになってしまっている。変えようのない現実ってやつに立ち向かえる人は少ない。

あたしたちは、せっかく隣にいるのに、隣にいるその人と一緒にごはんを食べているのに、なぜ楽しい話をしないのだろう。

 あたしにも問題あるだろう。あたしには、おばばの死が依然として大きくあって、おばばの死を持つあたしと、感じない他人みたいに線引きしているから。悲しみ持っている人と分かり合えない人の線引きは、あたしを孤独にする。

 みっちゃんが言ったように、あたしは、あたし自身で自分を不幸にしているのかもしれない。

 一つ。笑えること。それがあるだけで、彩られる日常があるはずなのに。

 そう考えついたら、政府「N」国を疑っているのも悪いことのような気分になってきた。

 あたしは、「ダストBANK」を頼るようになっていた。「ダストBANK」依存症になっていく。

Q「あたしは、友達の言うことが信じられないのです」

A「すべてを信じることはありません。たった一つぐらいは信じられることがあるでしょう。そこを信じるのです」

 そんなものなのかなと思った。あたしは、二十四時間いつでもすぐに答えてくれる「ダストBANK」に投稿することで、憂さ晴らししていた。少しすっきりした。

Q「昔よりずっと判断が鈍っているのです」

A「それは、昔より思考が深まっている証拠です。悪いことではありません」

 気持ちがすっきりするのと同時に、どんどん部屋がフクロウグッズで埋め尽くされていった。

 今や現実の友達より、「ダストBANK」の方が、友達の感覚に近い。みっちゃんより、ずっと「ダストBANK」の方が、こころを軽くしてくれる。

Q「友達の誘いを断れないの」

A「まず自分が優先すべきことを決めます。行きたくないのなら、そのまま正直に伝えましょう。怒り出したのなら、また投稿してください」

 次の日、みっちゃんから誘いが来た。

「今日は、やることがあるから行けない」

「やること?」

「うん」

「あっそう。わかったわ」

 みっちゃんからの誘いを初めて断ることができた。あたしにだってできる。あたしは、嬉しかった。ずっとあたしは、みっちゃんのすべてを受け入れなければならないと思っていた。一方で、あたしのこころには、誰も近づけないくせに。「あなた」以外には。

 まだ相談したいことはたくさんあった。

Q「一人で外食ができないのです」

A「なぜですか?」

Q「一人ぼっちだと思われたくないのです。友達がいないと思われたくないのです」

A「どうしてそう思うのでしょう。あなたは、一人で食事しているすべての人を友達がいないと思うのですか?」

 そう質問されると、どうしてそう思ってしまっていたのか不思議だった。

「ありがとう。わかりました」

 自分だけで考えて、答えが出たように感じていたことが、案外どうでもいいことであることというのはある。一人で頭の中でこねくり回しているより、誰かに話した方が、ずっと気軽に自分の気持ちに気づくのだ。あたしが何を気にしすぎていたかを知ることになる。

Q「友達が増えないのです」

A「一ついいですか。あなたは以前に友達についての相談をしてきましたね。友達をほんとうに増やしたいのですか?」

 あたしは、「ダストBANK」に痛いところを突かれて、ますます「ダストBANK」にのめり込んでいった。信用するようになった。

 もっとこころの底から悩んでいることも打ち明けるようになった。

Q「道端で見た怪我をしていた人をあたしは、助けられませんでした」

A「大丈夫です。あなたは悪くありません」

 そう言われるだけで、こころの棘が抜けていくのを感じていた。

Q「ときどきふと寂しくなって、もし今、目を閉じて、何も見えなくなって、目が開かなくなって、暗闇で過ごさせなくていけなくなったら、と考えてしまうと、眠れないのです」

A「それは、孤独な証拠です。それと頭の中で考えすぎて疲れているのです。思い出の中にいる大切な人を思い浮かべてください。そして、よく眠ってください」

 なんて血の通った言葉なのだろうと感心してしまった。おばばと「あなた」が去ってから初めて言われたこころに寄り添う言葉を言われたと思った。

Q「あたしは、友達があんなに恵まれていて、楽しそうなのに、なぜあたしは、楽しめていないのだろうと比べてしまいます」

A「あなたに足りないものを探してみましょう。次に、手に入るものか、手に入らないものなのかを区別してください。手に入るものならば、手に入れるために行動してみてください」

 なるほどと思った。手に入らないものをいくら羨ましがっても、仕方ないのだと気づいた。それもこれも自分で他人の相談に乗っていたなら、見つけられる答えだと思うが、自分のことに気づくのは難しい。

Q「あたしは、すぐ人を疑ってしまうのです」

A「それは、仕方のないことです。絶対的なものなどどこにもないのです。月でさえ必ず欠けますから。同じようなことを考えている人も多いようです」

 あたしは、納得した。

Q「あたしは、すぐ人に愚痴を言われるようです。どうすれば楽しい話ができるようになりますか?」

A「人は優しい人に当たり散らす傾向があるようです。怖い人や距離を守らなければならない職場などで、人は不満を溜め込み、優しい人にそれを吐き出すようです。優しい人は、傷ついても笑っていますからね。もっと強い優しいひとは、気にしていないふりをしてしまってあなたのようにストレスを溜めこんでしまうのですね。あなたは、相手にとって優しい人なのです」

Q「優しさとはなんですか」

A「優しい人は周りの人を大切にします。ですが、周りの人は、優しい人が自分をすり減らしていることには気づきません。優しい人は、他人には優しくとも自分への優しさは持てぬ人が多いようです」

 あたしは、「ダストBANK」に心を開いたんだと思う。

Q「あたしは、大切な人を津波で亡くしました。それから生き残ってしまった罪悪感を抱いているのです」

A「つらいことを告白してくれましたね。でも、あなたはちゃんと相手を思うことを学んでいるのです。あなたが死ぬまで大切な人との思い出は失われることはありません。それが大事なことなのです」

 つらいことだとこころを寄せてくれる友は、今までいなかった。あたしは、そのときやっとおばばを失ったことはつらいことなのだと、言い当てられて、はっとした。つらいこと認定マークがついた感じだった。

 あたしだけが「ダストBANK」にハマっているのかと不安になり、キューちゃんに尋ねた。

「ダストBANKを利用したことある?」

「あるわよ」

 当然だという顔をして、キューちゃんは言った。

「何を相談しているの?」

「それを言えないから、投稿しているのよ」

 あたしは、その通りだと思った。あたしもキューちゃんに「ダストBANK」に投稿しているような相談はしたことない。どうせ言ってもわかってくれないと最初からあきらめているからだ。

Q「あたしは、漠然と将来への不安を感じて、交通整理の仕事に就いています。なぜ交通整理かというと、人との関わりがなくていいと思ったからです。でも、そこでも人間関係というのはあって、職場になじめていません」

 すると、「ダストBANK」は、こう返答した。

A「それなら、ダストBANKに就職しませんか?あなたのような人物を探していたのです。2日後の10時半に本社まで来てください。受付番号は、105番です」

 メモをして、あたしは迷わず、仕事の休みを取り、2日後に「ダストBANK」の本社へ向かった。流行の顔ではないが。

 受付で、105番という数字を画面に入力すると、顔写真と指紋、声紋、国民番号の入力を求められた。

 指示に従って登録し終えると、案内のロボットがやってきた。一見ロボットには見えないが、お腹のところがデジタル画面になっているので、人間ではないとわかった。

 ロボットに案内され、フロアの中に入ると、あたしは不安になった。

 人がたくさんいるのに、とても静かなのだ。その静けさが、あたしに恐れを抱かせた。話し声も聞こえない。こんなに人がいるのが目に入っても、電話の音も鳴らない。みんな画面に向かって、口に防護マスクのようなものをつけて、ひたすら作業している。

 面接も想像していたものとは違っていた。

 ロボットは、白が基調の小部屋にあたしを通すと、

「これをお使いください」

 とタブレットを渡してきた。

「ようこそ、ダストBANK本社へ」

 と画面に表示された。

 続いて指示が出る。

「ここに右手を当ててください」

「名前、住所、個人番号」

 をもう一度聞かれた。どうやら簡単な個人確認をされているようだった。

 この部屋の中には、あたししかいない。面接官は姿を現す気はないらしい。

 それから画面上でひたすら質問に答える作業をさせられた。

「つらい気持ちを抱えている人物にどう声をかけますか」

「失恋した友達をどう励ましますか」

 などの悩みの相談から、

「世界は変わりますか」

 とまで聞かれた。あたしは、

「変わろうとすれば」

 と答えると、最後に、

「このダストBANKにあなたは就職する意志はありますか?」

 と表示されると、再びロボットがやってきて、給料を提示された。

 今まで見たこともないような多額の給料だった。

 ロボットに、

「働きたいです」

 と答えると、

「あなたは合格しました。こちらの社員証をお持ちください。いつから働けますか?」

 とロボットが言うので、

「明日からでも」

 と答えると、ロボットが言った。

「では、明日9時半にこの社員証を受付でご提示下さい。本日と同じように案内の者が参ります」

 家に帰ると、すぐに職場に退職すると告げた。

 翌日、受付で渡された社員証を提示すると、またロボットがやってきて、今度は、昨日より大きな部屋に案内された。椅子に座ると、目の前には、大きな画面がある。

 画面の中の人は、人間のアイコンで、声だけが聞こえた。

 女性の声のように感じた。でも、どこか人間味はない気がした。

 その声に従い、ロボットが持つタブレットに次々に画面にうんざりするほど守秘義務のサインを求められた。

 そして、やっと仕事内容が告げられた。

「私は、ダストBANKのAIのビグでございます。あなたは、私の頭脳になっていただきます。私は日々、勉強を続けていますが、人間の悩みは、多様で、私が答えられない質問がたくさんあります。その私が答えに困る質問にあなたが代わりに答えていただきます。もちろんあなたが書いたコメントが直接、国民に送られるわけではありませんが。とても責任のある仕事です。あなたには、日々、国民情報へのアクセスが自由になるのです」

「どうしてあたしなのですか?」

「その質問に、私は、理由は一つではないとしか答えられません」

 そう言うと、画面は暗くなり、ロボットが、

「ついてきてください」

 というので、別のもっと大きなフロアに移動した。

 人が密集しているのに、誰も話している者はいなかった。みんな防護マスクのようなものをつけていた。同じものを手渡されて、装着するよう指示があった。

「キーボードとタブレット、どちらをお使いになりますか?」

 ロボットは聞いた。

「キーボードで」

 あたしは、迷わずに答えた。

「仕事は画面に出るコメントにひたすら返信を書いていただくことになります。細かい個人情報も同時にこのボタンをクリックすると、見ることが可能です。返信の参考にしてください。マニュアルもございます」

「何時間働くのですか?」

「あなたの体調は、こちらが管理します。時間になれば、休憩が与えられ、食事の時間には、食堂へと案内します」

 あたしは、言われた通りに仕事に取り組んだ。

 時々、フロアにいる人は、席をはずすことはあるが、声を出す人はいなかった。

 そろそろお腹が空いたと思って集中力が切れると、画面上に、

「お昼の時間です。移動してください」

 と表示される。すると、ロボットがやってきて、あたしを案内した。

一席ずつに仕切られた部屋に入ると、

「今日のあなたの体調に合わせた食事はこちらになります」

と注文もしていないのに、食事が出てきた。それもあたしの大好物の鉄火丼だった。

 トイレの時は、トイレのボタンを押すと同じようにロボットが案内してくれる。

 今日、質問が回ってきて、一番答えに詰まったのは、

「何のために生きていけばいいのでしょうか」

 というものだった。

 答えに窮して30分考えていると、画面上のビグは、

「じっくり考えてくれて構いません。大事な質問ですから。私にはわからない質問をあなたは考えているのです」

 と文字が映し出される。

 あたしは、数日働いただけで、明らかに落胆した。

 ビグにも絶望したし、からくりにも絶望したし、もっとも絶望したのは、ここに送られてくる投稿内容に、だ。

 デザインであんなに美しくなった姿ばかりを見ていたから、さぞかしみんな満足した人生を送っているとあたしも勘違いしていた。わけのわからないつらい問題を投稿しているのは、あたしだけで、みんなは、顔デザインの流行を聞きたいなどと投稿してくるのだと思っていた。

 でも、想像と全然違っていた。

「上司の性格と合いません」

「友達が私の彼氏を取りました」

「義母の料理と小言で頭がおかしくなりそうです」

 あたしは、思った。世界なんか全然平和でもないし、素晴らしく変わってもいないじゃないかと。それに、あたしに返してくれていたような返答は、まず特殊だったことがわかった。参考資料も閲覧可能だったが、そこにもどこにも血の通った言葉は見つけられなかった。同じように働いている人の中にあのコメントをくれた人がいるのだろうか。ビグが答えていないことは明らかだった。

 あたしは、投稿して、政府「N」国の世界は変えられるというキャッチコピーを信じ始めていたのをばかばかしいことだと思うようになった。落胆した。

 デザイン社会は、あたし以外には、幸せをもたらしていて、うまくいっていて、あたしだけが孤独なのだと思っているのだと思い込んでいた。つらいのは、あたしだけだと。みんなそんなに人生うまくいっていないのだ。そう見せているだけだった。

 投稿に返事を書いていると、きっとみっちゃんたちもそうなんじゃないか。そんなに幸せではないのかもしれない。推論にすぎないけど。

 毎日毎日「ダストBANK」に送られてくる悩みに答えていると、あたしは、自分のしていることがよくわからなくなって、憂鬱な気分から抜け出せなくなってしまった。他人の気持ちに吸い寄せられてしまうあたしには、きつい仕事かもしれない。

 あたしが感じたことは、情報の進歩と速度、ゲームの発達で、与えられた課題をクリアできる頭の良い人は増えた。

 でも、みな自分の課題を見つけることには苦労しているように感じられた。自分の利益につながるものには、飛びつくが、自分のストレスや自分の惨めさなどを考えることに怯えている。そこで、ストレスを楽しいことに変えようとは思わないようだった。ほんとうのこころに向き合い、癒すことなんか忘れてしまっている。

 あたしは、人の顔色を観察するのは得意だが、女性も男性もそれ以外の人もみな化粧するようになって、ほんとうの顔色がわかりにくくなったと思う。おばばは、ほとんど化粧しなかった。くまができているとすぐにわかった。

 数か月なんとか働いていると、よくトイレで会う女性と挨拶を交わすようになった。ロボットもトイレの中までは入ってこないので、会うたびに話すようになった。

「私はリタよ。仕事には慣れない?」

「ええ。まぁ」

「浮かない顔ね」

 そう言われた。あたしは浮かない顔をしているのだと落ち込んだ。

 会うたびに顔は変わるけど、名札がリタと書いてあるから、リタなのだろう。

 会うたびにリタは言った。

「いつも暗いわね」

 段々、リタに会うと、落ち込むので、トイレに行きたくなくなった。

「トイレは、大丈夫ですか?」

 あまりにトイレに行かないあたしを画面上のビグは心配したらしい。

「はい」

 そう返答して、トイレを長時間我慢した。

 またリタに会ってしまった。

「具合悪いの?」

 その声を聞いた普段案内するだけのロボットがトイレの中にまで入ってきて言った。

「話してはいけません」

「私にも監視がついているわけね」

 とリタが言い、席に戻っていった。

 あたしは、ほっとした。

 あたしは、「ダストBANK」に送られてくる投稿にできるだけ意味のある答えを返してあげたいと思い、働いている時間以外は、おばばの書斎で過ごした。おばばの集めた本を読み、「ダストBANK」に送られてくる悲しい言葉が、全部あたしの言葉で癒されてくれればいいと思った。それが、高い給料をもらう責任だと感じ始めていた。

 だけど、大きな種にはなれないことも、続けていくうちに思い知らされた。なんでも自分の思い通りになればいいという強き思いは、おごりだったのだと。そう思うようになった。

 社会になんか最初から期待していなかったけど、あたしは、あたしの言葉には少し期待していたのかもしれない。無駄な期待だったけど。

 ビグが考えてくれているのかトイレでリタに会うことは少なくなっていた。

 だけど、昨日たまたま会ってしまったリタは、すれ違うときに、耳打ちしてきた。

「マニュアル通りにやるだけでいいのよ」

 そう聞こえた。

 あたしは、マニュアル通りに、仕事ができる人がずっと羨ましかった。あたしは、いつも余計なことを考えて、脱線して、仕事が遅いから。

 みんなはけ口を探している。人といるときは、相手に遠慮して。体裁を気にして。人の目を気にして。「ダストBANK」は、人の裏側をたやすく集めた場所だった。

 あたしは、この仕事に就いて、1年。必死で、高い志を持っていた。

 あたしは、できる範囲の悲しみを希望に転換する装置になりたいと考えていたから。大キライを大好きに。疑いを信頼に。ひどい言葉を優しい言葉へ。

 あたしの感じ取った悲しみを朝日の当たるようなあたたかなものに変えたい。あたしの生きる目的になっていた。あたしならできると邁進した。あたしなら明るく人を変えられる。

 おばばにあんなに愛されたから、親はいなくとも。「あなた」にも助けてもらった記憶があるから。それがなかったら、きっと挫けていた。全員は助けられなくても、一人くらい幸せな気持ちになってくれればいいと、思った。

 でも、その大きな期待が反動として大きく絶望に変わっていった。

 おいしいトマトが手に入ったら、おばばは、レパートリーの中からレシピを考えてくれて、ご馳走してくれた。その思いのあたたかな記憶をなんでもないことだとみんなばかにしている。

 あたしは、必死にこころの通った思い出の大切さを痛感していることを伝えたかった。でも、全然伝わらなかった。言葉は難しい。

 いくら前向きな言葉を打ち込んでも、他人の絶望は止まらない。

「絶望するのは、まだ早い」

 自分をかろうじて保つために、そう毎日唱えた。唱えても、他人は変わらなかった。変わらなさすぎた。暗い渦に巻き込まれて、考えを変えるだけでは、抜け出せなかった。いつの間にかあたしのこころも黒い雲に覆われて、涙雨が降り続けた。

 いつか止む雨だったら良かったけど。

あたしが一度質問に答えた人のその後の投稿を追いかけて、痛感した。

何度も同じ悩みを投稿し続けている。

 あたしは、ほんとうにこの人は悩んでいるのか?

 現状をほんとうに変えたいと思っているのか?

 そう思うようになった。ちっとも楽しいことに向かう気持ちがないように感じられた。文句を言い続けることだけで生きていると勘違いしているのだろうか。きっとその人の悩みに完璧な答えができてないのだと自分の力不足も恨んだ。

 あたしは、何度も人をいい方向へと導きたいと思った。そもそもその考えが甘いのだと。

 みんな泣く理由のすべてを言葉で説明できるのか。

 泣く映像を見ただけで、なぜ泣いているのかわかるのか。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみもすべて言葉で説明し尽くせるか。

 死への感覚も遠のいた。死に敏感でいたかったのに、あたしは、言葉に溺れかかっていて、死の悲しみを忘れてしまった?誰かが死んだと聞いても、何も感じなくなっている。合理的なあたしにこの仕事が作り替えた?忘れたのは、死について深く考えることだけか。

 あたし自身も、すべてを疲れたせいにして、めんどうくさいと思ってしまっていないか。

 作業が進まず、画面とにらめっこしていると、突如フロアに大きな声が響き渡った。

 働き始めて初めてのことだった。

「もうやってられない。やってられないんだ」

 その非常時にフロアにいた全員が凍りついている。そのような人は今までいなかったからだ。

 ロボットたちも、自分の持ち場から離れることはなかった。

 大きな声の主は、五分間、意味不明な言葉を叫び続けた。怖かった。フロアにいる人たち全員の顔がひきつっていた。これは、芝居ではないと伝わってきた。

 すると、5分後、責任者らしき人がやってきて言った。

「大丈夫、俺が」

 懐かしい声だった。「あなた」の声にすごく似ていた。すぐにその責任者らしき人が、大きな声の主を別な場所へと連れ出した。

 あたしは、「あなた」の姿を確認しようと、席を離れようとした。

 すると、画面が音を出して警告してきた。

「ビー」

「席を離れてはいけません」

 あたしは、それ以上、何もすることができず、あなたかどうかは、知ることができなかった。姿を見ても、あの頃と変わってしまっているかもしれない。

 でも、声だけは、「あなた」の懐かしい声だった。確信することはできないけれど。勇気の出ないあたしは、それ以上何もできずに、しばらく立ち尽くしていた。

 周りの人は、何事もなかったように作業を再開していた。

 それ以後、あたしは、「あなた」のことが気になって、作業効率は悪くなるばかりだった。

 あたしも叫び声を上げてみようかしらとさえ考えた。

 あたしが「ダストBANK」で働き始めて、二年目の夏の終わりに、ビグはこう表示した。

「少し休暇を取りませんか?」

 あたしは、画面に映し出された文字に、びっくりして、

「いいんですか?」

 と聞いた。

「好きなところに二週間行ってみてください。リフレッシュになりますからね」

 次の日から二週間、はちおじのところへ行くことにした。リフレッシュと聞いて、思い浮かんだのが、はちおじのところしかなかったから。

「行ってもいい?」

 とはちおじに聞くと、

「もちろん、かまわん。好きなだけいろ」

 とぶっきらぼうに、はちおじは言った。

 はちおじのところに向かう電車の中で、紙の本を開くたびに、あたしのこころは、「あなた」を求めた。憩い、安らぎ、信頼、優しさを求めた。「ダストBANK」で働いても、何一つあたしは変わることできなかった。与えられたことをこなすだけでいいとは思わない。「あなた」を待っているだけじゃ、あなたは戻ってこない。

 あなたが去った理由は何?

 はちおじの家へ向かうあたしの荷物の大半が、おばばの本だった。そのことは、あたしがどれだけ紙の本を大切にしているかということの証明であるように感じた。

 はちおじの家には、離れがあった。昔は、避暑地として有名なところだったけど、シーズンを過ぎていたので、人に会うことも少ない。デザインにまだみんなは夢中で、そもそも避暑地に来るような観光客もとても少ないのだけども。

 はちおじは、車好きで、余分に車もあった。

 あたしは、車を運転して、海沿いのカフェへ行き、そこで本を読みながら休暇を過ごしたいと考えた。

 そのときのあたしときたら、精神的に疲れすぎていて、ずっと謎の頭痛が続いていた。

 窓辺で頬杖をつきながら、海を見ていた。おばばを奪った海を。気の利いたカフェラテと。「あなた」のいない隣に失望しつつ、「あなた」のなつかしい声を思い出しながら。

 ふぅー。吐き出した息は、近くにいた知らない人にも届きそうだった。まるでこの店にいる全員に不幸の知らせを配達するように。

 あたしもみっちゃんたちと同じだった。仕事を始めると、愚痴が口から出そうに何度もなった。あたしは、吐き出すことをぐっとこらえたけど。

 あたしの刹那にとうとう寂しさが到達した。ずっと「あなた」がいなくなってから危惧していた。当然として、そこに寂しさがあるのに、ずっと目をそらしていた。気が狂わないための方法として。「あなた」の不在。「一人にしない」と言ったじゃない?

 「あなた」が見つけられないあたしにとって他人の言葉はもう響かない。だって「あなた」の言葉だけがずっとあたしを支えていたから。ほんとうの言葉は、「あなた」のそばにあると信じていた。それが、今、仇となる。

 苦しい。「あなた」の強烈な光で、やっとおばばのいなくなったこの世界がかろうじて光を持っていた。あたしの「あなた」を探すこの目は、その光が当たり前のようにあると仮定して、その光の中で見つけようとした。また怒ったり、笑ったり、穏やかに「あなた」となら過ごせると。命の続き方は、とても不思議だった。だって、おばばがいなくなっても、「あなた」が去っても、あたしには、時間があった。今は、光の弱まった世界をあたしだけ生きている。「あなた」の存在もなくしそうで。「あなた」のいない世界は、足元もおぼつかない。カーテンの下りた舞台で、目が暗闇に慣れることはなく、目の前にある小さな椅子にさえつまずき、足を負傷する。ささいなこころのない言葉に傷つきやすくなる。

「ダストBANK」には、あたしをすり減らすものしかない。

 目に見えない刃がこころにたくさん刺さっている。その傷を「あなた」に見せられないのが悔しい。話して聞かせてあげられないことが、あたしをなおさら一人にする。

 「あなた」以外、「一人じゃないよ」という人がいない。

 あたしは、冷たくなった目で、また窓の外の海に視線を落とす。

 隣にいて欲しいのは、「あなた」以外いない。そばにいるのは、「あなた」であってほしい。求めることがそれだけなのに、叶えられない願いに不条理を感じる。

 欲しいのは、「あなた」だけ。それだけでいいのに。何十億人と世界にいても、「あなた」に代わる人などいない。満たされないの。

 過去とは追いかけてくるもので、変えられるものではない。同じ言葉だけ頭の中で反芻する。

「一人にしないから」

 「あなた」は嘘つきだった。場の空気をよく読む人だった。たいしておもしろくない相手の話を笑顔で聞く人だった。いつも少しだけあなた自身の気持ちを置き去りで。そんな刹那を信じたあたしがばかだった。

「すいません。お店は、来月で閉めるんです。クリスマスケーキの今年の予約はお断りしているんです」

 店主の声が聞こえる。常連さんとの会話だ。

 あたしの耳がその声をとらえる。

「そうなんですか。とても残念だわ。毎年、ここのクリスマスケーキを楽しみにしていたんです」

「申し訳ありません。私も主人も年なので」

 あたしは、かなり動揺して、店主に駆け寄って言った。

「ここ閉めるんですか?」

「そうなんです」

「閉めた後はどうなるんですか」

 あたしの怒りを含んだ声に、店主は、あいまいな笑みを浮かべた。

 少し冷静になろうと思い、席に戻ったが、まだあたしは動揺していた。

 このカフェは、「あなた」だけではなく、おばばともよく訪れた唯一の場所だった。書斎以外で、一緒に過ごした場所と言えば、このカフェだった。

 たくさんの思い出がある。ここ以外に、「あなた」とおばばを近くに感じられる場所がない。唯一の息抜きの場所だった。

 おばばは、死んだけど、「あなた」は生きている。そして、書斎かこの場所にいれば、きっと会いに来てくれる。そう思っている。

 ここで「あなた」を感じているときだけが、あたしの平穏なのに。

 ここの店主とは、個人的な話をしたことはなかった。「あなた」と窓辺のこの席に座って、他愛のない話をするだけの場所だった。それが、最高の居心地の良さだった。誰の干渉も受けずに、「あなた」とじゃれ合った場所が、ここだった。

 ここがなくなる?あたしからすべてを奪うの?どこで「あなた」を待てばいいの?あたしの居場所など神様は興味がないと言うの?

 あたしの一部が、波にさらわれていく。魂を奪われる気がして、あたしは、途方に暮れる。また海を見ていた。

 はちおじの家に戻り、はちおじに言った。

「あのカフェ、閉めるって」

「そうか。今は、カフェでのんびりするやつなんかいないからな」

「そう?」

「そりゃそうだろ。デザインにばかり目を向けるやつばっかりだ」

「どうしよう」

「お前があのカフェやればいいじゃないか?」

 そう言って、はちおじは、はっはっはと笑った。

 あたしは、はちおじのその冗談を本気で受け取った。

 あたしが、あのカフェをやる?

 何度も銀行の残高を確認しては、ため息をついた。

 頭の中で喫茶店の行方を案じながら。「ダストBANK」で定年まで勤めて、自分をすり減らし、安定と言われる時間を過ごして、あたしに今後どんな幸せが訪れるというのだろう。あのカフェのない人生に。「あなた」もいない隣に。

 おばばとの思い出は、書斎に。「あなた」との思い出はあのカフェに。

 そう考えると、逃げ場のなくなったあたしは、明日のあたしを始めることができそうもない。頼りをなくした心細さがあたしのこころを締め付ける。

 書斎以外で、ほっと息のつける場所のあのカフェで、海を見ているとき、こころが安らぐのを感じた。すべてさらわれていく恐怖に根幹から生きる目的が揺らぐ。

 二週間の休暇を終えて、「ダストBANK」に戻ると、また同じような日々が繰り返されていく。

 あたし、どこで安らぐことができる?

 あたしは、戻ってきても、まだ貯金残高とにらめっこしていた。老後の蓄え。どれぐらい?デザイン料どれぐらい?老後まで生きている保証もないのに?寿命は?

 決断するときに、どう決断したかと成功例を参考にする人がいるけれど、あたし思うの。失敗する人も同じ数ぐらいいるんじゃないかって。どれだけ続けられているかを見ていく必要があるんじゃないかって。本当に大切なことは、何かを決断したことではなく、その後、どれだけ努力して続けてきたかということにあるのだと。そんな話も、あの窓辺で「あなた」とよく真剣な顔をして話した。

 どこの職場でもなじめないと嘆くあたしを、「あなた」は、それじゃ、出世できないと言った。でも、あたし、こう思っていたのよ。「あなた」もそう変わらないんじゃないかって。だって席だってすぐ譲ってしまったじゃない?大好きな窓辺の席だって、どこかのお子さんが、「ここがいい」と言ったら、「いいよ、僕たちが別の席に移るよ」と。そういう人は、出世には向かないのよ。

 同じことを感じるのは、同じ認識がないと無理なのね。どこか人生の中で大事にするものが似ていたから、「あなた」とは気が合ったのかもしれない。付き合いたてだった頃の二人は、気の遣い合いで、カフェの新メニューでどれとどれを頼むかが、なかなか決まらなかった。それが、のちに二人の笑い話になった。

 でも、いつの間にかあのカフェで、海のそばで、波が打ち返すのを見ながら、のんびり過ごす時間がとても安らぎになっていた。

 ほんとうにどうでもいい話の数々を今、「あなた」の痕跡をこの世に探すように反芻する。それが思い出の意味なのだと初めて知った。それが、世の中の暗さに負けないための息抜きだったと思う。

 「ダストBANK」では、ずっと「あなた」の声を探していた。だけど、あれ以来、誰一人、声を出す人はいなかった。

 あたし、今、あのカフェのことや仕事のことでほんとうに疲れている。

 休暇から帰ってきて、最初に見た質問にあたしは絶望してしまった。

Q「なぜ死んだらだめなんですか?」

 そんな質問に答えられる?あたし、もうこの世界には、希望なんかないんだと思った。

 初めて質問の答えを提出できずに、ビグに「答えられません」と返答したら、

「あなたが答えられないものは、誰も答えられません」

 と返ってきて、ビグは、最後に、

「いつか答えてください」

 と懇願されたわ。あたしは、答えられないというのは、ここでの役目がなくなったように感じられた。それでも悲鳴を上げながら、なんとか希望を見つけて言葉を綴った。

 でも、あたし自身が、「あなた」が去ってから、ずっと「さみしい」と一言言える相手がいない。

「あたし、いま、さみしいよ」

 それだけ言えたらいいのにと。

 それからだわ。「天空の手帖」をつけ始めたのは。

 「ダストBANK」に投稿してくる悩みの多い人は、続けていてわかったことなのだけれども、あたしと同じようなことを悩んでいる人も多かった。生きる希望を自力で見つけられない人たちよ。

 そういう印象に残った人の個人情報を一日一人だけ住所やアドレスなどを記憶して、家に帰ってから、手帳にメモしたの。

 それが、あたしが作った「天空の手帖」の正体よ。

 何かに使えると思った。それに、その「天空の手帖」に出てくる人は、みんな人生に絶望していて、救いようのない悩みを持っていた。あたしは、そこに共感したのだと思う。あたしも悩みに答えながら、人生に希望を見出せられずにいたから。

 あたしは、通常残高を見るのをやめて、決断した。

Q「やっぱりなんで死んだら、だめなんですか?」

 という質問には答えられそうになかったから。それは、あたしへの永遠の宿題のような気がした。

 次の日には、別の人が、こう投稿してきた。

Q「こんなにまで心を踏みにじられて生きる理由は?」

 あたし、やっぱり答えられなかった。だから、「ダストBANK」を辞める決意をした。

 給料は、めちゃくちゃ良かった。人生3周ぐらいできそうだったのに。その給料よりあたしは安らぎを求めた。この決断を後悔することになるかもしれないけどね。

 はちおじに電話して、

「あのね、あたし、あのカフェを引き継ごうと思うの」

 と告げると、

「おお、そうか。決めたか」

 はちはちおじにはわかっていたのね。あたしの気持ちが。

 なぜかあたしは笑ってしまって、

「何が可笑しいんだ」

 とはちはちおじも笑っていた。

 あたし、おばばの本はほとんど手放してしまったの。はちおじのところに持って行って、「処分して」と言ったわ。そしたら、はちおじは言った。

「本は、波にさらわれることになっている」

 あたしは、その冗談に笑うこともなく、はちおじは、知り合いに売ってくれた。貴重な本もたくさんあったのだけど、ほんとうにお金にならなかった。おばばとの思い出がお金に換算されるのは、つらいことだったけど、書斎に置いておくより、あたしが身軽になると思って、処分することを決断したの。あたしは、自分を変えようとするときに、おばばの価値観から少し距離を取ることを選択した。でも、おばばの本を処分したときから、あたしの方向も狂い始めたのかもしれない。それでもこの場所から始めることをあたしが選んだ。おばばとの思い出にしがみ続けるより、新たに踏み出すことを選んだの。もしかしたら大切なものを失った瞬間かもしれない。それでもいいと。先へ進むことをあたし、今、選択した。亡くなった人は帰ってこないけど、あたしは、まだ生きているし、なんでも始められる。だって一人で生きるってほんとうにさみしいの。おばばの書斎にいれば、紙の本が答えをくれるかもしれないけど、さみしさは、さみしさのままなの。一人ではこの世はさみしすぎるのよ。

 あたしは、老夫婦からこのお店を買い取った。何が決め手になったかというと、簡単なことだった。ここにしか息ができる場所がなかったから。おばばから自立して、「あなた」を待つと決めたの。開店準備だけで、貯金は、羽がはえてどこかへ飛んで行った。

 ビグに、

「あたし、ダストBANKを辞めます」

 と書いたら、

「いつまで働けますか?残念です。あなたはよく働いてくれました」

 とだけ言われて、次の日から出社しなかった。何か連絡が来ることもなかった。きっと辞めたいと言い出す人は、あたし以外にもいて、珍しいことではなかったのね。

 あたしには、もう周りの心配の声など聞こえては来なかった。「あなた」との思い出の中に生きることだけがあたしにとって生きることだった。かなり矛盾していると思うけど。

 老夫婦は、あたしに優しくて、何度も「あなたが思っているよりずっと大変なことよ」と心配してくれた。

 あたしは、まずお店を一人でも営業できるように、おばばの本の中で残した本と半分を新しく集めた本で埋め尽くした。おばばの本は、あまりに思い出が多すぎる本たちだったから。それを選ばなくとも、本気で探してみると、あたしみたいに紙の本に愛着を持って所有している人もわずかばかりいることがわかった。今まで探さなかっただけなのね。新しくあたしが選ぶ本は、まだあった。探すのは、大変だったけど、見つけられないわけではなかった。独自のルートをはちおじが知っていた。あたしの知らない本を扱ったお店の情報も探してみると見つかった。新しく選んだ本の基準は、ただ一つ。「あなたが喜んで、これから読もうとする本」。

 思い出の本ではなく、これから喜んでもらえるといいなと思える本を並べて、老夫婦に教えてもらった取引先から仕入れた珈琲をメインとした。大手のコーヒーチェーンでバイトした経験が少しだけ役に立った。

 まずは、軽食と飲み物のブックカフェの真似事のような商売を始めた。軽く考えていたわけではないけど、「ダストBANK」とは違って、今度は脳ではなく、自分の体力をすり減らしながら働くことになった。掃除をするだけで二時間を要する。それに仕込みの時間を加えると、自分の時間はほぼなかった。開店してしばらくは、窓辺でゆったりカフェラテを飲むなんて持ってのほかだった。労働だ。果てしない労働がやってきた。

 お客さんは、老夫婦のころから通ってきてくれている人もいたが、そんなに多くはなかった。開店してしばらくすると、雨が降ると、全くお客さんが来てくれない日もあった。おしゃれデザインカフェ登録をしていないので、口コミでしかお客さんは来てくれない。

 小さなお客さんがいつもあたしを窓の外からのぞいていることに気づいたのは、開店してから一か月が過ぎた頃だった。

 あたしは、気になるが、積極的に話しかけることはなかった。子供といえども、今のあたしには、受け入れる余裕がなかったからだ。それでも、学校が終わる時間になると、毎日、小さなお客さんは、外からこちらをうかがっていた。ランドセルを背負った小さなお客さんをあたしは、とうとう受け入れることにした。

「メロンソーダをおごるわ」

 そう小さなお客さんに話しかけたが、警戒心の強いその子は、じっとあたしの目を見ただけだった。心の中で、「めんどうはごめんよ」と思った。やっぱり話しかけなければ良かった。あたしが、世間と接点を持つべきではなかったのよ。

 次の日もその次の日も小さなお客さんは、このお店の前でこちらをうかがっている。あたしは、もう無視することにした。それは、あたしの悪い癖だった。「あなた」に何度も指摘された。急に何も言わず、怒って沈黙する癖が「あなた」は嫌いだった。なぜ気持ちも告げずに、相手の言葉を待たずに諦めるのか。「あなた」は、顔を真っ赤にしてあたしに怒った。あたしは、それを笑いながら、聞いていた。「あなた」がいなくなったからと言って、自分の欠点がすぐ直ることはないと理解したわ。

 あたしは、小さいお客さんの様子をカウンターから眺めるのが日課になった。一度、習慣化されると、その人との間には、情のようなものがうまれるのかもしれない。年齢さえ知らない間柄なのに、来ないと、どうしたのだろうと心を寄せてしまう。

 また声をかけてみることにした。一週間に一回だけ。

「コーラでも飲む?」

 小さなお客さんは、首を振った。それでも、次の日になると、外からこちらを見ている。お金がないのかしら。それで遠慮しているのかしら。他人の原因不明の行動というものは、興味をそそるものだ。「あなた」のことだけしか考えることができなくなっていたあたしの意識が少しだけ小さなお客さんへと向けられるようになってきた。それが、前進か、後退かはわからなかった。

 小雨が降り出したのが、店の中から見えた。あたしは、小さなお客さんに駆け寄って、こう言った。

「オレンジジュースとクッキーがあるけど、食べる?」

「うん」

 その子はうなずいた。そうか、メロンソーダでも、コーラでもなかったんだわ。オレンジジュースを待っていたのね。小さなお客さんは、店内をぐるっと見まわして、行儀よく、隅っこの席にちょこんと座った。

「本でも読む?」

 あたしも人付き合いが上手ではないから、この子に何を話すべきなのかわからなくて、長く沈黙が続くことになった。

「好きな本読んでいいよ」

 そう告げると、本当に嬉しそうに、

「いいの?」

 と聞いてきた。

「いいよ。特別にね」

 まっすぐ小さなお客さんは一冊の本のところに向かった。あたしも大好きな本だった。

 あたしの目は、その頃には、光のない世界に少しずつ慣れ始めていたのだと思う。その代わりにあたしの人生の背景は色づき始めた。

 小さなお客さんは、あたしの存在を忘れたように、楽しそうに本と戯れている。

「おもしろい?」

 と聞いてみた。小さなお客さんは、うん、と嬉しそうにうなずいて、こちらに笑顔を向けてくれた。

「いつか感想を聞かせてね」

「また来ていいの?」

 その小さなお客さんの言葉は、またおごってということなのかしら。あたしは、苦笑しながら言った。

「オレンジジュースは、小学校を卒業するまで、タダにするわ」

「友達を連れてきてもいい?」

「それは、あたしが商売にならないわ。名前は?」

「シンジだよ。アイザワシンジ」

「また来てくれる?」

「いいの?」

「うーん。それまでにルールは決めておくわ」

 あたしは、悩んでしまった。毎回シンジをお店に入れていいものなのかしら。あたしにどんなメリットがあるのかしら。

 商売があたしは、下手なんだわ。お客さんにまずお店に足を運んでもらわないと。開店して二か月ぐらいになると、目新しさもなくなって、明らかにお客さんの数が減った。このお店には、何の特徴もないのよ。珈琲はおいしくても、そんな店は他にもあるわ。ゆとりの時間なんてみんな忘れている。この店を選ぶ意味が必要なのだと思った。それに顔が変わるから、常連さんの声を覚えなくてはいけなくて苦労している。

 それでも「ダストBANK」での静かさとは違って、あたしはこのお店での静けさが好きだった。閉店後の誰もいないお店で、一人でカフェラテを入れて、店の売り上げを計算する時間が好きだった。心で鳴り響く悲鳴も、頭の中で鳴り響く騒音もない。ただ、あたしは、この静けさを求めていたのだと気づけた。自分を少しだけ取り戻せた気がした。あたしは、ずっと一人だったのだ。そのことを頬にひとすじ流れる涙が教えてくれた。

 あいかわらず常連と言えば、お金を払わないシンジだけだった。ときどきやってきては、オレンジジュースが出てくるのを待っていて、次々にお店にある本を読破していっている。

そして、あたしに慣れてきたようで、

「この本はさ、どうやって見つけてきたの?」

 などと言い出す。あたしは、

「それはね、あたしのおばあちゃんの大切な本なのよ」

「すっごくいいよ」

 シンジはあたしの選書を喜んでくれている。そういうのは、嬉しいものだ。

「その本が好きなら、今度新しい本を用意しておくわ。あれもきっと好きだと思う」

 お金にならないお客さんなのに、話ができると、あたしは、とても喜んでいるのが自分でわかった。あたし、シンジに一番心を開いている。本を通して。

 お店の方は、何か改革をしないと、どんどん売り上げが減っていきそうだった。

 シンジがある日、唐突に言った。

「この本に出てくるパンケーキっておいしいの?」

「食べたことないの?」

「だってばあちゃんは、そんなおしゃれな食べ物は作ってくれないんだ。僕は、このパンケーキが食べたいな」

 もうあたしに遠慮のなくなったシンジは、笑顔であたしに甘えた。

「そうねぇ」

 あたしにも作れるかしら。お客さんもいないから、作れるかもしれないわ。

 お料理は好きな方だから。まずは、パンケーキとクッキーぐらいは、常時出せるように準備を始めた。

 なぜか洗面所のところに、飲食メニューを貼った。すると、少しずつ注文が入るようになった。軽食は、喜ばれた。お腹がすいては生きていけないものね。

 パンケーキに注文が少しずつ入るようになった頃、シンジがある絵本を差し出して、甘えるような声で言った。

「あのね、僕ね、これに出てくるお料理が食べたい」

 その本を見ると、人間に虐待されていた保護猫が、優しい飼い主に出会って、世界中のいろんな料理に出会って、だんだんに、人に恐怖心をいだかなくなり、かわいがられて、一生を終えるという内容の本だった。

 あたしが、その絵本を仕入れたのは、「あなた」がとても好きな絵本だと知っていたから。

 ずっと「あなた」の好きな本だと聞かされていたけど、絶版になっていて、なかなか手に入らなかったのだけど、「あなた」のいなくなったあとに、本を探していたら、この「保護猫みぃ」と見つけて、すぐ購入したの。

 「あなた」は言った。あたしは、保護猫みぃみたいだなって。人にひどい目にあわされて、人を信じることに怯えているから。「俺とご飯食べている君はとても幸せそうで、俺に会った頃、あんなに攻撃的だったあたしが、ウソのように俺になついている」って言いながら、微笑んだ光景がまだ浮かぶ。

「そんなにあたしって人間不信だった?」

 と聞いたら、

「ひどいもんさ」

 と言うから、その言葉で、あたし、「あなた」と出会えて良かったと。あたしは、自分のことを保護猫だと思って、これでもかってぐらいに「あなた」に甘えられた。

 シンジが、

「僕ね、この本の保護猫みぃが、大好きなんだ」

 と言うから、この本に出てくるお料理を再現してみようと思ったの。

 だってあたし、保護猫みぃなんだもの。

 でも、いざ料理となると、ほぼ経験のないあたしには何から始めればいいのかわからなかった。こういうお料理を作りたいと思っても、なかなかレシピを見つけ出すのには、苦労した。

 そんなときに、はちおじが、お店にやってきて言った。

「調子はどうだ?」

「うまくいってないわ。一人でできることも限られているし、打開策を探しているところなの」

「俺の同級生で、今は、農家をやってるんだが、元料理人がいるんだ。紹介してやろうか?」

「そんなにお給料を払えないかもしれない」

「暇しているから、そんなに給料は要求しないんじゃないかと思うがな。聞いてみてやろうか?」

「うん」

 そう返事はしたものの、人を増やして、うまくいかなかったからどうしようかと。

 自分だけでやっていくのなら、全責任は自分だけで処理できるけど、誰かを雇って重くなる責任をうまく引き受けられるかしら。「あなた」がいたら、なんと声をかけてくれるだろう。

 シンジのおかげで、人と話すことのリハビリはできてきたようで、はちおじの同級生の蛭田さんがやってきても、なんとか話をすることができた。

 蛭田さんは、圧倒的に言葉数が少ない人だった。はちおじと来るときには、自分の作った野菜を持ってきて、ささっとミネストローネを作って食べさせてくれた。

「すいません。高い給料は払えないんです」

 と伝えると、

「俺は、暇つぶしを探してる」

 とだけ言う。どれぐらいお給料を払えばいいのかしら。でも、なんとなくあたしと同じで言葉数が多くなくて、蛭田さんのことは気に入った。だから、正直に話した。

「まだお店が軌道にのってなくて」

「どういうお店にしていきていきたいかだけ聞きたい」

「あの、人の悩みを軽くするお店です」

「わかった」

 わかった?それだけ言って、あたしとはちおじの夕飯を作って、蛭田さんは帰っていった。お店のコンセプトまでちゃんと考えてなかったけど、自分の口から悩みを軽くする店と口から出てきたことにあたしは、ちょっと驚いた。そう考えていたんだなと。それに蛭田さんは、はちおじの知り合いだから変わっているのかもしれない。

 ぐるぐると考えていたことが、ふと口から出たときに、人に話したときに、気づかされることがある。一人で頭の中だけで、考えを整理するのも無理があるものだ。だって人は、一人で成立しているわけではないのだもの。自分のことが一番わからない。自分のことをすべて知っている人なんかに出会ったことはないわ。勘違いして生きている人はたくさん見てきたけど。

 次の日から、蛭田さんは、お昼の二時間だけお店を手伝ってくれるようになった。自分で作っている野菜も破格の値段で譲ってくれた。

 あたしは、びっくりしてしまって、

「どうしてそこまでしてくれるんですか」

 と大声をあげてしまった。だけど、蛭田さんは、「まぁ」と言っただけだった。

 あたしが、行動することで、誰かのアクションが起きる。そんなことは初めてのことだったので、不思議な気分だった。

 海を見ている時間もとても大事だけど、誰かと心地よく流れる空気も「あなた」を失ってから、感じたことがなかったから、あたしは、嬉しかった。

 「あなた」が生きていたら、今のあたしになんていうかしら。後先考えないで、行動するなんてすごいじゃないかって驚くんじゃないかしら。いつも臆病なあたしが行動しているのを笑っているかしら。

 あたしの落とした波紋が、人の行動を起こすきっかけになる。生きているのもそう悪くないんじゃないかって気持ちにさせられた。一人じゃ見つからなかっただろう優しさに触れることができて、あたし、嬉しい。

 あたしは、自分の道を過ごしたけど、「ダストBANK」で作った「天空の手帖」の人たちのことも忘れたわけではなかった。

 あの悩みにはどう答えれば良かったのだろうと考えない日はなかった。

 ある日、蛭田さんは、フグを捌くという。

 目の前でフグを捌くのを見ていて、あたしは質問した。

「そのフグの毒はどうするんですか?」

「捨てる」

 昔は、フグの毒は、厳重に管理されていたが、今やデザインが重視されすぎて、それ以外の法律は厳守されていないのが現状だった。

「ちょっともらえますか?」

 あたしは、ダメ元で聞いた。

「いいさ。あんたが使うのかい?」

「いいえ」

 その答えを聞くと、蛭田さんは何も言わずに、フグの毒をあたしにくれた。

 あたしは、「ダストBANK」で死にたいと言った人たちに、フグ毒を提供してみたらどうだろうと考えていた。

 「天空の手帖」の人たちを想定していた。もちろん人の命を左右する問題なのだけど、どうしても苦しかったら、お守り代わりに、これを持っていたら、もっと生きることに必死になってくれるのではないかと。

 あたしは、「天空の手帖」の中から選んで、手紙を書いた。ほんとうはこんなことをしちゃいけないのは、わかっていた。カフェの案内と、悩みを聞きますと。

 希望を思い浮かべながら、生きるのは、うまくいっていないときにはつらいし、すぐ絶望が訪れるけれども、期待しないで、絶望がすべてを思いながら、過ごしてみると、案外ささいな他人のしぐさで優しさを発見できます、と書いた。

 あたしは、ふぐ毒を持つことで、死を選ぶギリギリでとどまることができると考えていた。きっとあの世とこの世を分ける線、生きていることと死んでしまうことの壁をすぐ選択できるとわかれば、きっと死ぬことも生きることも大差ないと。だから、あたしは、死を近くに感じることで、生きて欲しいと思っていた。死を前にしてこそ生きられると。生きることを選択してほしかった。だってあたしだってこうやって悩みながら生きている。せっかく生きているのだから。生まれてくるだけで大変なのだから。

 一人の人がやってきて、

「悩みを聞いてくれるのですか?」

 その人の悩みは、親の暴力に悩む人だった。

 真剣にその人の話を聞いて、あたしは、ぐったり疲れてしまった。画面で答えるよりずっとハードだった。

「生きていてもいいことなんかないのです」

 そういう人に、「そんなことはありません」と言えなかった。死にたいというのは、より良くしたいということの現れではないか。まだ何かやれることがあるのではないかと考えられないだろうか。そこまで思考を深めるきっかけがフグの毒がなればいいと思った。

 その代わりにあたしは、提案した。

「ここにフグの毒があります。いつでも死ねると思って、これをお守りにして生きることはできますか?」

「いいんですか?」

 あたしは、あんまり深く考えずにその人にフグの毒を渡した。

 その人が帰り際に見せた満足げな笑顔にあたしは、いいことをしたと思った。

 だけど、政府「N」国のニュースを見ると、その人が次の日に亡くなったことが載っていた。死因は書かれてはいなかった。

 あたしは、とんでもないことをしてしまったのだと思った。あたしは、罪を背負った。

 それからそのことは誰にも言わずに、カフェの営業を続けた。蛭田さんは、あいかわらずおいしい料理を作ってくれる。

 あたしは、自分の罪を背負い、「あなた」だけを待っていた。

 あたしは、毎日労働に明け暮れて罪を忘れようと、がむしゃらに働いた。

「久しぶり」

 あなた、の声だった。

 あたしの目は、涙で溢れた。あたしは、カフェを「準備中」にすると、あなたに珈琲、あたしは、カフェラテを準備すると、あの窓辺の席に座った。

「ここにいたんだね」

「うん」

 聞きたいことも言いたいことも山ほどあった。

「あなた、ダストBANKで働いているのね」

「ああ、結構出世したよ」

「あの声は、やっぱりあなただったのね」

「ああ、気づいていたか」

「うん」

「ビグではなく、あなたがあたしの投稿に答えていたのね」

「ああ」

「あたしは、あたしを大切にしてくれない人の言葉を真に受けて、耳を傾けるべきあなたの言葉に素直に耳を傾けなかった。手は差し伸べられていたのに」

「遅くなった。君が新しいものに出会ったとき、きらきらした瞳で、いつも俺を見ていたからさ。おばばが死んでしまって、すべてが変わった。君の見ている世界を良きものにしようとしたんだ。俺、頑張りすぎたか?」

「ううん、いいの。ただあたしには、会えなかった時間の中で隣にあなたがいて欲しい瞬間が多かっただけ。それだけで良かったの。事が大きすぎて、あたし、びっくりしているの。それにあたしは、言葉足らずで、人の命も奪ってしまった。もう失われたことが多すぎて。あたしは、あなたを探すことで、自分を失っていたのね。あたし、あなたを探していたつもりだったけど、何もせずに待っていただけだった。ようやく気づけた。あたしは寂しくて、自分を失ったのね。一人じゃないかどうかより、一人と一人でいいから、あなたと同じ時間を隣で過ごしたかった。それがあたしのさみしさの正体よ。はっきりとわかった。あなたもこんなひとじゃなかった。きっとあなたもあたしのためにあなたを失った。時間も労力も気力も想像力さえ錆びついてしまった。多くのものを失って、あたしたち、再び会うのが遅かったのかもしれない。あなたもあたしも失いすぎたと思う。あたしとあなたに必要だったものも。きっとあたしの言葉の足りない部分を想像してくれて埋めようとして、あなたは、あたしを離れた。だけどあたしがあればいいと思ったのは、あなたと過ごす時間だけだったの。ずっと前からすれ違っていた。こうするしかあたしたちは、生きてこられなかったのも今なら理解できる。あたしたち、互いのために、ほんとうの自分の目を曇らせてしまっていた。失われたものを、もう完全に失われていたのに、探し続けてしまった。それがあたしたちのミスだった。お互いに送り合ったものの中身はからっぽだったのよ。あのダストBANKやデザイン社会のようにね。あたしに残ったのは、言い表せないむなしさだった」

「こんな悲しい告白は、聞いたことがないな」

「こんなに話したのは、久しぶりで余計なことも言ってしまうかもしれない。こんなことがあたしあなたとずっとしたかった。あたしは、あなたと話すことが好きだったのよ」

「俺は、君の周りの世界を変えたかったんだ」

「一番目が曇っていたのは、あたしよ。おばばが急にいなくなって、わけがわからなくて、自分を見失っていたの」

「あんなにカラカラ笑う君が笑わなくなったから。世界が悪いと思ったんだ。世界は終わったみたいな顔をして俺を見たからさ」

そう言うあなたの目は、涙でいっぱいだった。

 泣き出す前に、席を立とうとするあなたの背中に呼びかける。

「あなたは、またあたしから離れるの?あなたは、あたしのそばにいることを望んでいたのではないの?またどこかへ答えを探しに行くの?そっちは、真っ暗よ。あたしのそばより、もっと暗いわ。ここよりましな場所なんてこの世にはもうないのよ。それが事実よ。裏読みも、深読みもいらないわ。すでにあなたもわかっているはずよ」

「君を理解できていなかった俺が悪いと?」

「いいえ。あなたは、あたしの周りのことは、よく理解してくれた。あたしは、あなたに甘えすぎていた。でも、あなたは、あなた自身のことがよくわかっていなかったのね。きっとあたしのためと言い、自分を見失っていた。あたしのほんとうの目をあなたは見ていなかった。あなたには考える力があるのに。目の前にいたのに」

「もう今更になってしまったな」

「あなたがあたしに必要だと思ったものは、あたしに必要ないもので、あなたの場所から距離を取って見られているより、また触ってほしかった。考えてみたことあった?きっとあたし自身でさえわかっていなかった。あたしにほんとうに必要だったものを。あの時に、あたしから離れず、もう少しあなたがそばにいてくれたら」

「俺もつらかったんだ」

 あたしは、話すことを止めようとしなかった。

「あなたの今の顔は流行だけど、すごく年を取った気がするわ」

 あたしが、そう言うと、二人で笑った。

「こういう時間が、一番欲しかった。本音をそのまま伝えられる。気遣いなしに。何もしてくれなくていい。ただ着飾らずにいられるだけで。冗談が冗談としてちゃんと伝わる」

 あなたは最後に言った。

「君が悲しまないために、政府「N」国を大きくしたんだ。世界を変えたんだよ。悲しみのないデザインの方が、君を悲しみから遠ざけられると思っていたよ。フクロウは気に入ってくれていたか?」

 あなたの声が遠ざかる。

 ただあたしは、まだ「あなた」を探していた。死より「あなた」を。

(了)



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