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中編ファンタジー小説「あおくなり」


あらすじ

主人公ナリは、生まれたときから、興奮すると、身体が青くなってしまうという特性を持っていた。そんなある日、パパとママが夜中にけんかする声をナリが聞いてしまう。けんかの原因は、ナリのことだった。ナリのことで、パパとママが毎晩けんかするのだ。そこで、ナリは、自分がここにいてはいけないと思う。唯一の救いは、パパとママの会話の中で安堵山に願いを叶えてくれる魔女がいるという希望を見つけたことだった。ナリは、普通になりたいと安堵山へ一人で旅立つこと決意する。安堵山へ向かう道中に個性的な仲間に出会いながら、一緒に安堵山を目指す。
待ち受けるナリの運命とは。

 

本文


 ママは、あたしを常識という缶に入れて自動販売機で買ってもらうのを待っている。そのボタンにあたしの救いはない。嘘ならいいのに。時給にしたら200円の労働をお金持ちに買われてしまうことに恐怖を感じると頭を悩まし、と語り始めるあたしをせせら笑う人がいる。あたしは嘘つきだけど。ずっと心の中が得体のしれないものに支配されていて、あたしのものじゃないみたい。あたしのもやもやを晴らしてくれるのは、チョコでも、ダンスミュージックでも、マラソンでも、温泉でもない気がしている。得体のしれないものをうまくつかまえられないから、世間を恨むことにしたと告白したのは、これが初めてだけど。

 あたしのママは、なんでも一番星が好き。それも含めて全部嘘ならいいのに。ママは、あたしのことより一番星が好きだった。日が暮れ始めると、ママは隣にあたしをちょこんと座らせて、一番星を探させた。

 みんなと仲良くならないといけないの?

 そう聞くあたしからママは、目を離し、うつむくと、「今日も一番星が出るといいわね」と話をそらした。

 私のことよりナリのことが大事なのよというママの愛が重くて、心地よくて、背筋がゾクっとした。まるでホラーみたいだった。常に体が少しずつ侵食される恐怖にさらされているような気分だった。

 夕方になると、必ずベランダで陽が落ちるのを待った。ママとあたしは、同じものを見ているのに、それぞれ違うものを探していた。ママは、晴れている日、希望を見つけるように一番星を探した。一番星が出ない日、ママは、あたしの将来を憂いて、泣き崩れた。あたしは、あぁ、逃れられないとママの鎖に息苦しさを覚えた。

 ママは、あたしを妊娠したことがわかった日、ベランダからきらきら一番星が見えたとしつこいぐらいにあたしに語った。そして、続けて、壊れたからくり時計のように同じ話を繰り返した。ナリの産声が響いたとき、病室に歓声が上がったのよ。とても盛り上がったわ。ナリの誕生を大人たちはみんなハイタッチで祝ったの。だけど、その声に呼応するように、ナリは泣き出し、みるみるうちにナリの身体は青色に変化して、それを見た周りの大人たちは、顔を見合わせたの。異様な光景を目にして、その場にいた全員が言葉を失ってしまったわ。みんな、ナリの将来に差し込む影を感じ、難産でナリを産んだばかりのママに不安と動揺を隠さなかったのよ、とママから涙ながらに何度も何度も聞かされた。ぎゃんぎゃんとママはいつも泣いた。あたしの産まれる前にママは時を戻してほしいのだと思った。その話が始まるたびに、あたしの心はいつもずしんと重く沈んだ。

 それでもママは、ナリは、ママの希望よと言い、一緒に一番星にお祈りするのよと。耳が痛かった。あたしにはわかっていた。ここであたしが、「痛い」と耳を押さえてしまったら、ママがとても悲しい顔をすることを。だから、耳を押さえることを必死にこらえた。ママはママにわからない世界をあたしが持つことをとても怖がった。ママは自分の知っている世界しか知らなかったんだと思う。星に願えば、願いは叶うとママはなぜ思ったんだろう。ママにはあたしの気持ちはわからない。そう、あたしは、ママの気持ちはわかりたくない。だってあたしを高く売るだけが目的のママの願いだったから。あたしは売られたくない。少しでもはみだしたら、ほら、見ろと。ママはいつでも正しいのよと胸を張って言うだけの、それだけのためだった。あたしがそれを受け入れたら、あたし自身がこの世に生きている意味がない。あたしが幼い頃のママはいつも大変そうで、何かと戦っていた。何と戦っているのかは、あたしにはわからない。

 あたしは、時々身体が青色になる以外(何度も病院で検査したが)、脈拍も、内臓も、全て何一つ異常は見つからなかった。ただ、ただ一つだけ。そう、身体が青色になること以外には何も。

 パパとママは、原因究明に躍起になった。わからなかったからだ。なぜ教師と専業主婦のごく普通の親の元に、あたしのような特性を持った子が産まれたのか。毎晩のようにパパとママは話し合った。自分たちにわからないものは、受け入れがたいと思ったのかもしれない。責められる限界まで、自分たちを責めながら。

 でも、その後もあたしは、ハイハイを始める時期も、歯が生える時期も、他の子と変わらず、すくすくと育ったので、パパは言った。「人に迷惑をかけているわけではないから」。このパパの言葉にいつもママは返した。「心配で仕方ないわ。この子は普通にはなれないのよ」と。

 ママは、料理上手で、いびつなにんじんをおしゃれに盛り付けるのがとても上手だった。なんでもできるママだったから、あたしのことも努力すれば、なんとかなると思っているみたいだった。

 ママは変わっている娘のあたしをどうにか普通にしたくて、あらゆる努力をした。あたしにも同じ努力を求めた。

「ナリ、お菓子作りしましょうね」

 恐怖の始まりの一言だった。そう言われると、あたしはとりあえず一回聞こえないふりをした。

 ママは、幼いあたしに一ミリグラムも違わずに計量することを求めた。求められるようにできないとママは半狂乱になってあたしを怒った。あたしは計量が大嫌いだった。ママが、一ミリグラムも違わないように、目を皿のようにしてあたしを見張っているので、あたしは、とても窮屈で、息が詰まりそうだった。

「失敗しちゃった」

 とあたしはママに笑って見せたかった。ママはそれを決して許さなかったけど。

 ランドセルを選ぶときもそうだった。

「ナリは、これでいいわね」

 目立たず、形も色も大人が考える完璧なランドセルをママはあたしに買い与えた。

「虹色のランドセル」

 ナリが、もしそんなことを言ったら、ママは何日泣いて暮らすかわからない。それは、あたしにとって恐ろしいことだった。

 ママのご機嫌取りは、ナリの得意技になった。ママは、優しくないわけではない。ご近所付き合いも上手だ。優等生のママは、ずっと褒められて生きてきたから、そうならないことが、とても不安だったんだと思う。ママの優等生エピソードも耳が痛くなるほど聞かされた。少なくともママは、周りの人にあたしのことでママ自身には非がないことを知ってほしくて、ちゃんと子育てができていると褒めてもらうのを待っているようだった。だから、パパもあたしも、時々、ママが味つけに失敗しても、まずいと言えずに、まずい料理をもくもくと黙って食べた。

 子供ながらにずっと観察してきた。あたしは考えてきた。ママの気持ちを想像するたびに、あたしは、悲しくなった。あたしは、ママの持ち物なの?それも重い荷物?

 一方、そんなママを尻目に、パパはあたしが青色になる法則を見つけた。

「ママ、ナリは、感情が高まると、どうも青色になるようだ」

 とパパが、宇宙の法則を見つけたかのように嬉しそうにママに言うと、

「そうかしら」

 とそっけなくママは言った。ママは、あたしのことなど見ていなかったから気づかなかったんだと思う。ママは自分のことで精一杯だったから。

 パパは、またあたしを観察して言った。

「ナリは、感情が溢れやすい子だ」

 少しずつあたしだけが持つ特性をパパとママが理解すると、二人ともナリの存在を少しずつ受け入れ始めた。まことに奇々怪々なことに次第に慣れていった。自分たちの子であることは変わりようがない。ママのお腹の中から出てくるのをみんなで見ていたのだからと。

  一方で、あたしは、成長につれて、他の子との違いを否が応でも知ることとなった。

 あたしは他の幼稚園生と遊んでいても、よく笑われた。青色になるのが可笑しいらしかった。靴を隠されたり、よくいたずらをされたりするようになった。先生もどう扱っていいのかわからないようだった。

 他の子たちは、感情が高ぶっても、青色に身体が変化したりはしなかった。次第に異質のあたしは、排除された。他の子との間に見えない距離ができるようになった。あたしは、周りの子の輪から離れたところで、いつも周りの様子をうかがう子になった。ママもその頃には、あたしの世界が、少しずつ悲しみに覆われていくのを感じ取ったんだと思う。

 小学校の入学式に向かうあたしに、ママは言った。

「ナリ、学校では青くならないようにしないとね」

「どうして?」

 幼いあたしは、自分の状況を把握できていなかったんだと思う。

 ママの心配はまた的中した。

「ママ、今日ね、学校に犬が入ってきてね」

 と学校での様子を報告するあたしに、

「ナリ、青くなっちゃったの?」

 とすぐママは反応した。

「なんでわかったの?」

 ママは黙ってしまった。

「ナリね、犬より注目されちゃってね。みんなが犬よりナリを指差してね。気持ち悪いって。ナリって気持ち悪いの?」

 とあたしが大きな声で報告すると、ママは、困った顔をした。この頃のあたしは、周りにまだ期待を持っていたんだと思う。避けられることに悲しみという感情があったのだから。どうしてあたしが注目されるのかはわからなかった。

 小学校で一人困惑しているあたしに、ある女の子が寄ってきて言った。

「あんたは、変身するヒーローみたいね」

 あたしには、普段人が寄り付かないのに、ずんずんとあたしに迫ってきたのが、トキだった。あたしは、すぐにトキのことが大好きになって、嬉しくて、家に帰ってすぐにママに報告した。

「ママ聞いて」

「どうしたの?」

 ママは悲しい顔をした。

「トキに話しかけられてね。トキは怖がらないの。ナリは、すぐ青くなるから、変身するヒーローみたいだって」

「おもしろい子ね」

 あたしは、トキと今度遊ぶ約束をして、友達になったことをいつも以上に青くなりながら報告した。そんなあたしを見て、ママは泣き出した。

「そういう子もいるのね」

「どういう意味?」

「トキちゃんを大事にしなさい」

「うん」

 あたしは、次第にトキ以外の子とは話すこともなくなっていった。多くは望まないのが、あたしのスタイルになった。

 隣町でトキを見かけたことがある。トキは、女装をした男の人と手をつないで歩いていた。その男の人の派手な服装を見て、周囲の人が、好奇のまなざしを向けていた。ちらちらと見ては、ひそひそ話をするといった具合に。あたしは、なぜかトキに話しかけなかった。その後、隣町でトキを見かけたことを話題にすることもなかった。

 あたしは、遠足でもあると、すぐにテンションが上がって、一日青くなってしまって、同じ班の子たちも気持ち悪がって、誰も一緒に行動してくれなかった。

 とぼとぼと空を見ながら、悲しくなって歩いていると、トキが、

「ナリ、この飴食べな」

 と飴をくれた。あたしは、トキに聞いた。

「なんでナリとしゃべってくれるの?」

 トキは他にも友達はいるけど、ちょっと特殊な位置にいるのだとナリは知っていたが、それでも不思議だった。

「だってナリは、人の悪口を言わないもの。ナリにはわかるだろうけど、みんな子供なのよ。誰かの陰口なんか全然心がわくわくしないもの」

「トキ、仲良くしてくれてありがとう」

「ナリ、やっぱりあんたヒーローよ」

 そう言ったトキは、太陽の光に照らされていて、ほんとうに嬉しそうに笑った。

 あたしは、子供で、自分の感情をコントロールするのが難しかった。

「あっ、蜂が入ってきた」

 それだけで、すぐ青くなってしまった。クラスの中で、目立たないように浮かないようにしようとすればするほど、他人との間に距離ができていった。

 中学に入る頃には、あたしの居場所は、自分の机か、誰もいない屋上になった。時々、トキがやってきて、

「普通にしていればいい」

 と言ったが、あたしは、普通について頭を悩ますことになるだけだった。部活動に入る勇気などもなく、家に帰ると、

「ナリ、大丈夫?」

 と心配性なママは、毎日あたしに聞いた。その心配は、あたしをさらに心を沈ませるだけだった。まっすぐにママの顔を見ることができなくなった。

 あたしは、何の悪いこともしてないのに、他人が怖くなった。かろうじて、自分の部屋で、大丈夫と自分に言い聞かせるしかなかった。

 ママがあたしを励まそうと思ったのか好物のパンケーキを作ってくれた。あたしはたまらず愚痴をもらした。

「ママ、遠くへ行きたい」

 ママは悲しそうな顔をしてあたしを見て言った。

「どこに行きたいの?」

「ここではないどこかへ」

「どこに行きたいの?春休みになったら、連れて行ってあげるわ」

「今行きたい」

「だから、どこに行きたいの?」

「ここは嫌なの」

「わがまま言わないで」

 と泣かれた。ママは困ってしまったようだった。

  希望の高校には、余裕で受かった。そりゃ、そうだ。勉強しかすることがなかったんだから。受かっても特に喜ぶこともなかった。トキと同じ高校を選んだだけだ。

 トキは、高校に行っても、変わらなかった。

 時々、あたしのところにやってきて聞く。

「なんで?」

「ん?」

「なんで人と交流してないのに、青くなってる?」

「あの黒板の近くにいるグループいるでしょ」

「うん。なんか今、騒いでいるね」

「あのグループの子たち、はぁちゃんをいじめてる」

「なんでわかるの?」

「ナリにはわかる」

「ずっと青くなってるつもり?」

「だって怒りで青がおさえられない」

「ここでナリが怒ってても、世界は何一つ変わらないのに」

「でも、いじめは許せない」

「ナリは、仲間はずれにされるのは、慣れているんじゃないの?」

 なんてあたしに気を遣わない言い方だろうと苦笑しながら、トキの飾らない言葉に、あたしは、トキの鈍感さがあたしにあればと思った。確かにあたしは、寂しさの耐性は強くなった。それでもまだトキのように堂々と生きられるのは、羨ましい。トキのように生きられたら、あたしはもっと人の輪の中へ入っていけただろうかと思いを馳せる。でも、違う。トキのように、とか、トキの持っているものに憧れたら、途端にまたあたしは、不自由を纏う。トキになれないことにとらわれて、身体に緊張が走る。毎日張り詰めて、トキの偽物になろうとするだろう。そうやって自分を見失うんだ。

 あたしの正義とトキの正義がちょっとずつ違うように、正義は、時によって人によって変化する。だけど、いつも変わらないのは、人をまっすぐに澄んだ瞳で感じ取る正確さなんじゃないかと。それこそ失ってはいけないことなのだと、思いたいけど。

 はぁちゃんがいじめられる意味も、あたしが気味悪がられる理由も、そんなに違ってはいない。自分たちの常識の外側にいるから、恐怖心から、排除されようとしているのだ。

 またあのグループは、ねちねちとはぁちゃんを言葉でいじめていた。

「はぁちゃん、先生呼んでたぞ」

 とある男子が言った。トキは、その声を聴いても何も気づかずに自分のクラスに戻っていったが、あたしにはわかった。それが、はぁちゃんを救うための助け船だと。

 その一言から、あたしの興味は、一気にその男子に注がれた。大木ケンジという名だった。

 その日からなぜかケンジが気になって仕方なかった。目でどうしても追ってしまう。ケンジは、いつも笑っていた。そして、ふざけていた。

「俺さ、新しいギャグを考えたんだ」

「少し黙ってろよ、ケンジ」

「そうか?おもしろいぞ。俺の愛犬は笑ってくれたぞ」

「俺ら、今、忙しいんだよ、お前にかまってる暇ないんだよ」

「ああいいさ。君たちが幸せならそれで俺はいいのさ」

「だから、黙ってろって」

 そんな会話からケンジは、仲間の中ではいじられ役を買って出ているようだった。

 ケンジが笑っている様子を見ると、あたしは、青くなってしまうことが増えた。どうしてケンジを見ているだけで青くなってしまうのかわからずに、ママに相談した。

「最近ね、ナリは青くなったまんまなの」

「何か気になることがあるの?」

「ないと思う」

「言ってみなさい。ママはこう見えても、高校時代、みんなの相談役だったのよ」

 優等生のママにあたしの悩みがわかるわけがないけど、どうしても自分が青くなってしまう理由が知りたかった。自分だけではどうしようもなかった。

「どういうときに青くなるの?」

「そうだな。ケンジが不思議でね」

「なに?男の子?」

「そう。ケンジはどうして何を言われても笑っているんだろうと気になるの」

「ママにはわかったわ」

「わかったの?」

「わかったわよ」

「なに?教えて」

「ナリ、それは恋と言います」

「恋?」

「そうです。ナリの初恋ね」

「どうしたらいいの?」

「どうなりたいの?」

「どうなりたいかなんてない。ただ気になるの」

「それは、誰でも経験することよ。おかしなことではないわ。ナリが青くなる理由は、ケンジくんを好きだからよ」

「ひぇー」

 おかしな声が出た。驚いたが、普通のことだと言われて、安心もした。謎は解けた。

 困ったのは、謎が解けても、まだ青くなってしまうことだった。昨日のママとの会話を思い出し、さらに青くなるのも早かった。

「おは」

 と教室にケンジが入ってくるだけで、速攻青くなった。

 トキがやってきて言った。

「ナリ、なんかあったの。いつもより青い」

「これは、ナリの大暴走です」

「大丈夫?」

「わかりません。ナリの大暴走の大混乱です」

「説明できる?」

「できません。理由はわかっているので、時が来たら、お話します」

 トキは「なんだ、それ」と言って笑いながら自分の教室へ戻っていった。

 あたしは、なんとか心を落ち着けようと必死だった。鼻から思いっきり空気を吸い込むといいかもしれない。そうだ、目を閉じてみよう。肩を回してみよう。一人で試行錯誤していると、ただただ怪しいやつになった。

 だが、突然に、

「おっ、ごめん」

 とケンジがあたしの机の横を通り抜ける。もうだめだった。どわーっとあたしの身体は一瞬で青くなった。

「だめだ、こりゃ」

 あらゆる抵抗をやめて、自然な流れに身を任せることにした。

 だが、そんなあたしは、さらに追い詰められることとなる。なんと席替えで、ケンジと前後の席になってしまった。

「はい、プリント」

 と渡されただけで、青くなってしまう。クラスの子たちは、気持ち悪がって、あたしにますます近寄ってこなくなった。

 そんなもんもんとした日々が続いていた。

 ケンジの消しゴムがこちらに転がってきたので、あたしが拾ってあげた。ケンジは、

「ありがとう」

 と言った。それだけで、あたしは青くなった。

 それを見たあのグループの女子の一人が言った。

「なんで、あの子、身体が青くなるの?気持ち悪い」

 言われ慣れているので、あたしは聞き流した。でも、ケンジは、

「お前、何様だよ。興奮したら、俺らだって赤くなるんだよ。青も赤も大した違いじゃないだろ。他人のことをとやかく言う前に自分の性格の悪さを直せよ」

 と怒った。顔を真っ赤にして。

 あたしは、嬉しくて、なぜか恥ずかしくて、真っ青になった。あたしのケンジへの好きは、大爆発した。

 ケンジはすぐにその場の空気を察して、教室の外へ出ていったが、注意された子は、真っ赤になって、その場でうつむいていた。

 あたしは、青くなりながら、ケンジを好きになって良かったと思った。あんなに笑いながら生きているようなケンジが、あたしのために怒ってくれた。それだけで初恋の相手がケンジで良かったと思った。

 きっと怒った瞬間だけだとしても、あたしとケンジは同じ正義を見ていた。きっとそうだ。

 高校は、その出来事がメインイベントで、それ以外は、くずみたいな思い出ばかりだった。

 あの後、ケンジは、しばらくすると何事もなかったように教室に戻ってきて、男友達とバカ話を始めた。この出来事は、あたしにとっては、ご褒美みたいなものだった。

 あたしの世界は、窮屈でできているけど、外の世界には、様々な価値観や正義がある。この世界が、絶望だけに覆われた世界ではないと、ケンジの存在は信じさせてくれた。見つけさせてくれた。だってあたしの外の世界が闇なら、ケンジの存在が嘘になってしまうから。

 注意された子だって、あたしが何か反論しただけなら取り合ってくれないだろう。気にも止めないだろう。だけど、あちら側にいるケンジから言われたから、顔を赤くして、彼女は自分を恥じることを初めて知ったのだ。

 どうしたってケンジとあたしは住んでいる世界が違うのだとわかっている。だけど、同じもの見ていることだけがあたしにとっては救いだった。まだ絶望は先にある。

  大学生になると、あたしの口癖は、

「めんどくさい」

 になった。ママに何か用事を頼まれても、

「やだ、めんどくさい」

 と言って、ママに小言を言われた。

 大学もなんとなく通ったが、経済学には興味を持てなかった。たまたま受かったからだ。

 ある日、パパが運転する車の中で聞いていたラジオがあたしの心を鷲掴みにした。

「めんどくさいってすぐ言う人いるでしょ。俺、ああいうの一番嫌い。なんでもやってみないとわからないだろ」

 そうかっちゃんは言った。そのセリフがとってもかっこよかったから、あたしは、かっちゃんが出ているラジオを楽しみにするようになった。かっちゃんの言葉はあたしの理想でできた魅惑のケーキをナイフでぶった切るのではなく、優しくフォークで食べてくれているように感じた。

「一人だと思ってる人がいるでしょ。俺だってそうだよ。みんなこの世の中では一人だよ。だけど、自分の限界を自分で決める必要はないんじゃないか」

 リスナーの悩みに真剣に答えるその姿勢を大好きになった。毎週真っ青になりながら、楽しみにラジオを聞いた。部屋の中なら青くなっても、誰のことも気にしなくて良かったから。パパとママ以外にあたしの行動を注意する人はいないから。かっちゃんの声が、何度も頭の中で繰り返し聞こえるケンジの声にとても似ていることは、誰にも気づかれてはいない。

「ナリ、ご飯よ」

「今はいらない」

「お味噌汁よそったのに、冷めちゃうでしょ」

「今からかっちゃんがゲストで出るラジオ始まるから」

「そんなのどうでもいいでしょ」

「どうでもよくない」

 今のあたしには、かっちゃんしか見えない。ママには、あたししか見えない。他の人たちも同じ。みんな、一人か二人ぐらいのことしか本当は見えてない。見えている人のことは、ささいなことが気になる。だから、思い通りに動かそうとする。あたしの気持ち良いこととママの気持ち良いことは違っているのに。

 かけっこでは、ビリにならないぐらい、お給料は、生活が困らないぐらい、孫は欲しい。ママの希望を叶えてあげようとすると、あたしは苦しい。あたしは、好きなように生きたい。好きなように。絶対的権力と莫大なお金でもないと叶わない夢なのだろうか。好きなように生きる。そのためならなんでもできそうな気がしないわけでもないけど。どっかで自由は売っている?そんなことを言っていると、誰かの頭の中であたしの人生が「好きなように生きたけど、失敗した人の末路」みたいに、みじめな人生だと自動記憶保存されてしまうのかも。

 歌合戦に出られない歌手とか、ノーベル文学賞の取れない作家とか、すぐ誰かの頭の中で勝手に烙印を押されてしまう。本人は、意に介していないとしても。意に介してないということを他人に説明する難しさよ。特定されない誰かが信じてきた正しさに従った方が楽だから。勝ち負けで勝負がつく方が、喜びが大きいように錯覚するから。同じ認識がある方がわかりやすいから。自分の周りに一つ一つと自分が思う大事なものを見つける方が、はるかに悩ましく、大変なことで、それこそが、とても大切なことだとは気づく暇もなく、あの子、変わっているよねと、特定されない誰かの価値観に、みんな、がんじがらめだ。さらに他人に自分のことを理解してもらいたいと求めると、もっと難しい。そして、誰に理解されたいのかさえ怪しい。

 そりゃ、欲を言えば、気になる人には、理想の人であってほしい。あたしは、ママから押し付けられる理想像に反発しちゃう。あたしにも理想はある。あたしは、ママにはもうちょっとおしゃれな服を着ていてほしい。遊びに来たトキには怒らない優しい素敵なママであってほしい。そう思ってしまうから。きっと自分の思い通りにしたいのは、お互い様なんだろう。理想のママと理想のあたし。かなり収まりが悪い。

 そうだ。あたしの理想のかっちゃん。ラジオを通して、こちら側からしか見えてない。かっちゃんが、誰かをののしっているところなんか想像もできない。機嫌が悪い日もない。ママが押し付けてくる理想のあたし、あたしが求めている理想のママ、あたしが勝手に作り上げている、かっちゃんのイメージ。

 全部から自由になってさ。きっと魔法のお薬より、気持ちいいはず。だって空だって飛べるんだ。想像の羽を広げて。しらがみのない空へ。あたしの憧れの場所。ただ自由だけが手に入るその楽園へ。

 そんなんあるかーいってつっこみが、全部笑い話になる世界線にあたしは行きたくて。

 想いの翼は広がるばかりだけど、何もしないで、遠くに憧れを抱いている。自由を重んじるあたしは、大学四年生だというのに、就職活動をする様子もなければ、探そうともしていない。

 その日は、たまたま、かっちゃんの聞き忘れていたラジオを聞いていて、深夜一時になってしまった。トイレに行って、のどがかわいたので、ノンカフェインのルイボスティーを飲もうと、一階へ降りると、台所の方から話し声が聞こえてきた。

 なぜか聞いちゃいけない気がして、扉の後ろに隠れて、パパとママの会話に耳をそばだてた。

「あなたがそんな態度を取って、ナリを甘やかすから、あんな風になっちゃったのよ。もっと厳しくしてくれないと」

「俺のせいか?」

「なに、私のせいだとでもいうの?」

「お前が厳しすぎるから、へそ曲げているんだろ」

「何、その言い方、私は忙しいあなたに代わってナリをここまで育ててきたのよ」

「一人で育てたみたいに言うなよ」

「そうじゃないと言えるの?」

「すぐ感情的になるなよ」

「あなたの態度にはいらいらするわ」

 それを聞いて、びっくりした。まるで自分の知らない戦場で起こった紛争地域の人から、思わぬ方法で攻撃されたような気分だった。パパとママからいきなり攻撃されたと感じた。大きな地震が起きたように足元がぐらんぐらんに揺れた。

 パパとママの中にも、うねるような感情があることをがつんと知らされた感じがした。今まで、パパとママは、どんなにあたしがへんてこでも、あたしが傷つかないように、常に気を遣っていて、傷つかない世界を先回りして用意してくれていた。

 パパとママの本当のけんかを目撃した覚えはあたしにはない。少なくともあたしには、仲良しの夫婦に見えていた。直接ではないが、パパとママの本音が聞けた。おい、待てよ、と思った。ここで反撃に出るのはなんとなく違う。気がしただけだけど。反撃に対する違和感だけが肌にどわっと広がった。感じてしまった攻撃への傷跡を隠せるぐらいには成長していた。パパとママがくれていた表面上だけだとしても、今まで育ててくれたことやお菓子を作ったこと、そういう全体を通しての、なんちゅうか、傷ついた言葉と愛の行動が頭の中でぐるぐる合わさって、あたしは、ここで生きている。生まれて今まで死なないで生きられている事実を。優しくされたことを。見放さず育ててくれたことを。

 あたしは、パパとママといると、ぬるま湯でいいと甘えて自分の世界から一歩も出ない温泉につかるカピバラと一緒だ。

 あたしは、それから毎晩のようにあたしには秘密で開催されていたパパママ会議の様子を盗み聞きした。夜になると、必ずパパママ会議があるので、あたしの気持ちは沈んだ。

 心配してくれて嬉しいというより、期待に応えられない自分のふがいなさに心を痛めた。

「ナリの将来が心配だわ。私たちが生きてるうちはいいわよ。死んでから、ナリは一人でやっていけるのかしら」

「ナリは強い子だと思うがな」

「それでも一人で生きていけるわけがないわ」

「そうだな」

「あれはどうかしら」

「なんだい?」

「安堵山というところに、病気をなんでも治してくれる魔女がいると聞いたことがあるの。二人でナリを連れて、行けばいいのよ」

「おいおい、俺には仕事があるんだよ。何を言い出すんだ。そんな眉唾な話を持ち出すなんて」

「仕事なんて言っている場合?ナリのためなのよ。それともまたわたし一人に押し付ける気?」

「そんなことは一言も言ってないじゃないか。現実的ではないと言っただけだよ」

「あなたは、ナリのことに本気じゃないのよ。本気ならなんでもやってみようとするはずだわ」

「それは心外だ」

 パパとママは、あたしの前だといい顔をして、優しい両親の顔を見せていたが、夜には毎日のようにののしりあっていた。

 あたしは、そんな二人の姿を見たことがなくて、悲しくていたたまれなかった。

 そして、家庭の中だけには自分の居場所があると思っていたが、それが幻想であることを理解した。

 その日からあたしの中のあたしが変化し始めた。

「ここではないどこか」

 その言葉を具体的に想像するようになった。

「本当なら、ナリが大学へ行かなければ、家を修理したり、建て直したりするぐらいできたはずよ。それぐらいお金がかかっているのよ」

 というママの言葉が出発の決め手になった。あたしは邪魔なんだと思った。パパママ会議の間中、あたしは真っ青だった。

 あたしが出発を始めたのには、大きな志がある。きっと表も裏も関係ない人がいる。きっとあたしと同じように悩んでいる人がいる。今、そばにいる人を嫌いにならないために、枠の外へ出て行くのだ。幼い頃に、見せてくれたパパとママの優しさをウソにしないために、あたしには見つけなくちゃいけないものがあった。不確かだけど、あると信じた。信じるものが目に見えるものなら、もっと良かったけど。ぼんやりした宝物のような思いを言葉にしようとすると、ちっぽけなものになってしまいそうだったから、誰かに説明することはしなかった。パパもママもあたしを本当は信じたいはずなんだ。みんな、何かを盲目に信じたいんだ。その方が悩まないで、信じたものが答えを出してくれるから。悩むのは、結構大変なんだ。簡単に信じられたら、すぐ答えは出るし、それはそれで、楽だし。それに信じたものに裏切られても、そのせいにできるから。

 あたしは、不確かなものを心の中で燃やし炎にして、生き抜いてみせる。人にはわからないものでも、あたしには確信めいたものがあった。根拠はなくとも、底知れぬ信念の熱が身体に広がっていくのを感じた。

 あたしに足りないものは、圧倒的に行動力で、今までのあたしは考えているだけのあたしだった。そこから準備をするあたしには、決意のオーラがみなぎっていた。

 でも、出発する準備をするにあたって、大きな問題は、二つあった。

 一つ目の問題は、あたしがとんでもなく臆病者だということと。どうにもこうにもあれだけの疎外感にさらされてきたのに、自分の知らないことに対する免疫がなく、すぐ挫けてしまう弱い自分との闘いが待ち受けていた。子供のままのあたしだけが現実だった。それじゃだめなんだ。自分の手に自分の人生をつかまえるために、ずんずんと進むんだ。何もしないで震えているのは、身体が青くなること以前の問題だ。

「怖いな~」

 と思い続けて、しまいには怖い、怖い、怖いと連呼し、身動きを取れなくするような弱さに打ち勝たねばならない。あたしは、未知の生物みたいな特徴がある。でも、守られてきたから、他の未知には遭遇したことがない。だから、未知は怖い。わからないと思うけど、怖いものは怖いのだ。

 二つ目の問題は、どこに安堵山があるかわからず、どんな準備をすればいいのか検討がつかないことだった。めんどくさがりも影響して、なかなか準備が進まなかった。

 とりあえず急に真面目に大学に通うふりを始めた。まぁ、進歩だ。

 ママには、すぐ気づかれた。大学に行くと言って毎日通い、遅くまで帰られないからおかしいと思ったんだと思う。そりゃそうだ。今まで部屋に閉じこもっていたやつが、急に活動的になったのだから、普通は気づく。

「ナリ、何かあったの?」

 この質問は想定内だった。

「あのね、卒業論文で、いろいろやってみようと思って」

「何するの?」

 まぁ、想定内だ。用意しておいた答えを口にした。

「ガラクタは、どこまで役に立つお金に換えられるかという題材で書こうと思っているから、いらないものがあったら、取っておいてね」

 まぁまぁおかしなことだとわかるだろうけど、大学でそんな論文を書いている人はいない。ママも何かおかしなことを始めたと、わかっていると思う。ママは、内容よりあたしが、元気に学校に行くのが嬉しいようだ。理由などなんでも良かったんだろう。

「いいわよ、なんでもいいのね」

 と安心した様子だった。

「お願いします」

 ママにまっすぐ顔を見られたら、あたしの顔に不安や後ろめたさが浮かんでしまうと思ったから、食事以外は、ママの真正面には座らなかった。

 中華料理店で、土日に二時間だけ皿洗いのバイトも始めた。ほとんど旅に行ったことがなかったので、どういうものを持っていけばいいかわからなかったが、お金はいくらあって困らないと思った。

「ナリ、これも役に立つかしら」

 そう言って、ママが用意してくれたのは、レンズが壊れた双眼鏡、電池の入ってない懐中電灯、穴の開いたフライパン、ママがパパと付き合う前の元カレにもらったネックレス、ママが植えようと買ってきたが、結局植えなかった植物の種がたくさん。

「こんなの絶対役に立たないよ」

 とは言えなかった。

 安堵山のことは、伝説から、自伝から、研究書から、大学の図書館で調べまくった。数々の資料の中から、安堵山は、ぼんやりと東の山のあたりにあるらしいことがわかった。安堵山のことは公然の秘密らしかった。あんまり書くと、人気スポットになってしまうからかもしれない。まだ魔女がいるかどうかさえ確信は持てなかった。でも、きっといるんだろう。これだけ噂で溢れているのだから。

 バイト代をはたいて、大きなリュックも買った。ガラクタを置いて行って、家出だと怪しまれないように、ママから渡されたガラクタをリュックに詰めた。逃げるのではない普通に戻って帰ってくることが目的だ。穴の開いたフライパンは本当に悩んだが、ママがフライパンを持ったなら、遠くへは行かないだろうと安心してくれるのではないかと思って、ちょっとかさばるけど、持っていくことにした。石鹸、時計、水、本、ラジオはどうしよう。かっちゃんの声を聞いたら安心するだろうけど、ラジオを持っていくと変われない自分も持っていくようだから、家に置いていくことにした。一番の心配は、ママの匂いのついた毛布がなくて眠れるかどうかだった。

 出発は、三月の満月の日にしようと決めていた。足元の暗さを満月が優しく照らしてくれると思ったから。二週間前から毎日のように、天気予報をチェックした。あたしの希望通りに、快晴の予報が変わることはなかった。この日しかないと思った。

 出発を思い立ってから、何度も弱虫風が吹いた。このまま出発しないほうがいいのではないか。女の子なんだから。夜出歩いたら、危ないよ。何かあったらどうするの。今までに言われた禁止の言葉が、いくらでも思いついた。出かけない理由も出かける理由よりあった。でも出発を決めたのは、自分を縛る常識から解放されたかったから。

 あたしは旅で一つ強く心に決めていたことがある。武器は持たない。あたしのしたい旅に、ナイフは必要ない。そう、信じた。まず信じてみる。自分の道を、人を、決意を、志を。それが大事だと信じた。だから、出発という重大な決断をしたのだ。人を傷つけるためではない。

 保険が大好きなママは、あたしをいろんな保険に入れていたから、もしあたしに何かあったら、その保険がパパとママを助けてくれるだろう。

 パパとママが寝静まった後、見つからないように、こっそりと家の玄関を出た。家の鍵は、お守り代わりにポケットに入れた。

  ぴかんぴかんに光る満月が、あたしの行く末を祝福するように、輝いていた。決意の夜、神様はあたしに微笑み、あたしの身体は、ふわふわと軽くなったように感じた。

 最新の民話を集めた本の中に、安堵山があるとされる場所に一番近い駅が書いてあった。とりあえずその駅に夜行バスで向かうことにした。表紙に河童が書いてある怪しい本だ。不確かな情報だったけど、そこへ行き、何も手がかりが見つからなければ、また探せばいい。家を出るという行動にちゃんと移せたことで、気持ちは高揚していた。

 あたしの他に乗客が三人というバスに乗り込むと、他に席がたくさん余っているのに、白髪を一つに束ねたおばあさんがあたしの隣の席に座った。

「どこに行くの?」

 いきなり知らない人に話しかけられたらどうすると教えられたっけ?

 おばあさんは、あたしの答えを微笑みながら待っている。気持ちは不安と期待が入り混じって、よくわからないテンションになっていた。

「安堵山に行きたいんです」

「そうよね」

 知っているなら聞かなくていいのにと思った。少し身体が青くなった。わかる人には、あたしが変わっていることがわかるのだろうか。

「あなたの運命を占って欲しい?」

「お金はありません」

「いいのよ。このバスの通称が占いバスだとは聞いたことがある?」

「いいえ、初耳です」

「乗車券に占いがついているのよ」

「そうなんですか」

 そうやって騙されるわけにはいかない。まだ旅は始まったばかりだ。

「本当にお金はないんです」

「わかったわよ。それより私のアドバイスが知りたくないの?」

「特に必要ないんじゃないかと思います」

 おばあさんは、くくくと笑い出した。

「あなたおもしろい子ね。安堵山へ向かう人は、みんな不安だから、私のアドバイスに、すがりついてくるのに」

「あたしに助けが必要だと思ったんですか?」

「だってこのバスに乗る人は、救いが欲しくてたまらないのよ」

「あたしの目的は、安堵山に、自分の力で、たどり着いて、魔女に会って、普通に戻ることなんです」

「あなた普通じゃないの?」

「それには答えたくありません」

 おばあさんはくくくとまた笑った。

「じゃ、私のアドバイスは聞かなくていいのね」

「いや、タダなら聞きたいです」

「じゃ、聞きたいのね」

 と言って、くくくとおばあさんは笑った。

「何占いにしようかしら」

「種類が選べるんですか?」

 とあたしが喜ぶと、おばあさんは、またくくくと笑いながら言った。

「あなたは変わっているわね。種類にそんなに食いついてきた子はいなかったわ。タロットにしましょう」

 占いの準備ができると、何について占うかを聞いてきた。

「もちろん安堵山に行けるかどうかです」

「そりゃそうね」

 まだ可笑しいらしくて、おばあさんは、くくくと笑っていた。

 そして、あたしの目をしっかりと見ると、語り出した。今まで笑っていたおばあさんとは違った表情になり、真面目にあたしに語りかけた。

「この世の中に神様がいるなら、きっと起こらないだろうという残虐な出来事もあるわ。だけど、長く生きて、諦めない限り、今まで生きてきたご褒美のような日もくるのよ。神様は、私たちから同じ距離で、それぞれを見えているのよ。行いは見つかっているわ。本当はね。だけど、志の高い人には、遠くに、背の高さや年齢、性別には関係ないのよ。さらに求めることが大きいと、さらに神様は遠くに、何かを得るためには、犠牲も必要になるわ。だから、人はそれぞれの願いを星に願うのね」

 占いだか、諭されているのかわからない話を延々とされて、あたしは、途中から真面目に聞いていなかった。この人は、魔女じゃないと思ったから。願いを叶えてくれる人ではない。もっともらしい話が一番怪しい。

 最後の一言は、

「実りの多い旅になるわ」

 という言葉だった。それだけ覚えて、あとのアドバイスは、おばあさんには悪いけど、忘れることにした。最後の一言は、あたしの明るい未来を想像できて、わくわくしたから、覚えておこうと思った。何しろタダの占いなんだから、何を参考にするかはこっちの勝手だ。

 占いより、あたしが、昨日より、今日、明日へと安堵山へ続く道を着実に歩めている気がして、嬉しかった。心の中に行きたい方向が、まっすぐに見えていることは、とても素敵なことだ。そうだ、ゴールはあたしの前に開かれている。

 おばあさんの話を聞き終え、これからの旅をどう進めようか考えて、物思いにふけっていると窓から朝焼けが見えた。その美しさに見とれて、しばらく無言で、昇る太陽を見つめていた。隣のおばあさんにその美しさを伝えようと、隣の席を見ると、おばあさんの姿は消えていた。

 完全に夜が明けると、安堵山近くの駅にバスが到着した。重いリュックを担いで、きょろきょろと辺りを見渡し、不安げにバスを降りた。さて、ここからだ。

 タクシーの運転手さんに安堵山のことを聞いて回るなどということはできそうにない。そんな勇気はない。あたしらしいとトキなら笑うだろうか。

 でも、あたしにはとっておきがあった。漠然とここへ来たのではない。今回の旅は、行き当たりばったりではない。あたしは、慎重なばかだ。安堵山を示す重要なマークを大学に残る古い資料から見つけていたのだ。この旅の背中を押したマークだ。このマークを手がかりに安堵山を見つけるのだ。マークには、いかにも魔女が描きそうな山といろんな言語で「安堵」という意味の文字が書かれていた。

 駅周辺の地図が書かれた看板を見つけた。

「あった」

 嘘みたいな話だが、すぐに安堵山を示すマークがその地図に書かれていた。それもご丁寧に、あと三キロと書いてあった。

「近い」

「近すぎないか?」

「こんなに近いのか」

 とぶつぶつとあたしは独り言を言った。

 こんなに事がうまく運ぶなら、願いを今すぐ魔女に叶えてもらって、

「ナリは、普通の子になりました」

 とママに伝えよう。ママは、言う。

「心配していたのよ」

 あたしは答える。

「ナリを信じることも大事だったでしょ」

 あたしが正しかったことを褒めてもらうのだ。

 この調子でいけば、新調した靴も汚れずに済みそうだ。ママは、どんな顔するだろう。喜んでくれるだろうか。ママの顔を想像すると、心は弾んだ。親孝行になる。今までしたことのない親孝行に。

 案内板に書かれた道のりを紙に丁寧にメモした。その地図を見ながら、歩き出すと、分かれ道には、丁寧に看板があり、「あんどやま」と矢印で方向が記してあった。その看板を頼りに、右へ左へと進んだ。途中に砂利道があったり、歩道が狭いところがあったりした。

 急に小雨が降ってきて、あたしは、やはり願いを叶えるためには、それなりの苦労が必要であることを思い出しながら歩いた。

 ようやく駅の案内板に書いてあった所に到着すると、そこは、周りの音を拒絶し、神聖な沈黙が辺りを支配していた。すーっと風があたしの周りに吹いた。

 ここからは地図にない道だった。周囲をぐるりと見渡すと、旗が落ちていた。近づいて、旗に書いてある文字を読むと、「あんどやま」とひらがなで書かれていた。

 着いたんだ。ここが安堵山か?

 魔女の小屋も、山も、魔女の姿も何一つ見つけることはできなかった。

  すると、突然声をかけられた。

「どこに行きたいんじゃ?」

 振り返ると、小さいおじさんがいた。身長が、オラウータンぐらいのおじさんだった。あたしより身体は小さいけども、顔や手のしわは、あたしよりずっと昔からこの世で生きていたことを想像させた。あたしは、いぶかしげに、小さいおじさんをじっと見つめ返した。

「聞こえんのか?」

 またおじさんをじっと見た。よくよく見ると、その小さなおじさんからは、身体の関節という関節から空に向かって、糸がぶらさがっているのが見えた。

「その糸は?」

「聞こえんのか?質問に答えろ。どこへ行きたいのじゃ?」

「安堵山です」

 と慌てて答えた。

「聞こえておるのじゃな」

「その糸は?」

 どうしても気になって、二度聞いた。

「これは、あんたには、一ミリも関係ない。安堵山に行きたいのじゃな?」

「あなたは誰ですか?」

 まだあたしの頭は、疑問から抜け出せずにいた。

「まず名乗る。それが人に質問するときの礼儀だと教わらなかったか?」

「ナリです。あなたは?」

「わしは、安堵山への水先案内人の操り人形と呼ばれている。その名には、わしには大いに不満があるがな」

「操り人形?」

「そうじゃ。わしは、神様に操られておるのじゃ」

「あの、あの、安堵山に行きたいのです」

「その旗はわしのじゃ。わしが、水先案内人じゃ。旗を取ってくれんか?昨日の強風でこんなところまで飛ばされたか。ちょっと今日は、調子が悪くてな。今から仕事を始めるところじゃ」

「その糸は、ずっとついて回るのですか?」

「そうじゃ。あんたには見えるのか?」

「はい。関節という関節から糸が見えます」

「そうか。あんたには見えるのか。感受性おばけには感受性おばけが、グルメにはグルメがわかるのさ。それと同じ原理で、この糸が見えないやつもおるのじゃ」

「あの、仕事というのは?」

「おっ、忘れるところじゃった。ちょっと待っておれ。まずその旗を取ってくれんか?」

 あたしは、近くに落ちていた旗を拾い上げ、操り人形さんに渡した。

 操り人形さんは、机と飛ばされていた旗をセットして、看板をどこからか持ってきた。あたしは、その看板に近づいて、消えそうなその文字を読むと、“安堵山への水先案内人”と書かれていた。そこには、駅の案内板で見たマークもあった。

「このマーク見ました!」

 少し興奮して身体が青くなったかと思ったが、気のせいだった。

「そうか。それはわしが考えたのじゃ」

「あなたが?」

 かなりがっかりした。魔女を示すマークではなかったのだ。

「わしは、ここで右も左もわからないやつらを相手に商売をすることを始めたのだ。他人と同じことをしていても、儲からないからな」

「そうですか」

 あたしのとてもがっかりした表情を見て、操り人形さんは言った。

「がっかりせんでもいい」

「あなたは何年前からここで商売を始めたのですか?」

「忘れた」

「何人を案内したのですか?」

「忘れた」

 都合の悪いことになると、操り人形さんは、目をつむって寝たふりをして、「忘れた」と言う。

「そうそう、水先案内人の役目を果たすためには、少々対価をいただくことになっておるが、あんたは金を持っていなさそうだな」

「はい」

「まっ、気にするな。では、こちらの質問に答えてもらおう」

 そう言って、操り人形さんは、ジャケットの胸のポケットからメモ帳を取り出して、何か書いている。

「安堵山を目指すからには、時間はあるんだろう?」

「はい」

「どこの国から来たんだ?」

「国ですか?」

 あたしが質問に素直に答えずにいると、操り人形さんは早口で言った。

「まぁ、いい。ブルーが青というのはわかるか?」

「つまり?」

「どれだけの言語を話せるか聞いておるのじゃ」

「ジャパニーズです」

「それでは、日本語と英語はわかるのだな」

「そーそー」

「わしをばかにするな」

「質問される意味がわからないので、ふざけてみました」

「わしは、安堵山へのチケットを手掛けておる。味方にしておいて、損はないと思うがな」

「安堵山にはチケットが必要なんですか?チケットを買えば、たどり着けるものなんですか?」

「あんたは、一筋縄ではいかなさそうだな」

 あたしは、突然の展開に頭がついていけずに、ぽっかーんとして、操り人形さんの話を聞いていると、操り人形さんが笑いながら言った。

「あの、あんた、口が開いたままになっているぞ」

「すいません。状況を把握するのに、考えすぎてしまいました」

「少しは整理できたか?」

「あの、目に入ってきたんですが、ここでは、安堵山だけでなく、挑戦が丘や夢の国へのチケットも同時発売されているんですか?」

「そうじゃ。よくそれに気づきなすった」

「なんでも売っているんですね?」

「そりゃそうじゃ。わしが初めて商売にしたんじゃ。まず、わしはそこにゴールテープを設置したのじゃ」

「あなたが勝手に?」

「そうじゃ。ゴールから旅がまた新たに始まるのじゃ。うまい商売じゃろ?テープ代だけで始められる。みな、行先に迷っておったのじゃ」

「あなたが始められたということは、あなた以前はないということですか?」

「そうじゃ。わしが最初の水先案内人だ。創業者なのじゃよ」

 操り人形さんは、胸を張って少し褒めて欲しそうだった。

「あなたの跡継ぎはいるんですか?」

「なんでそんなことが気になるのじゃ?」

「いや、なんとなくです。ゴールには終わりが来るのかと思っただけです」

 操り人形さんは、あたしと話しているとき、笑っているので楽しいのだと思った。久しぶりの話し相手なのかなと思った。

 話を飲み込むのに、時間がかかり、あたしはまたぽっかーんとした。

「あんたは勝手にゴールに入った」

 ぽっかーん。

「あんたは見込みがある。中身がない言葉には疑問を持つ。話が通じんやつとは、いくら話しても通じん。人は無駄なことはなるべくせんのじゃよ。あんたは、思考のセンスも持っておる。見込みがあるぞ。なんでもわかったふりをしているやつより、善良な証拠だ。その口が開けっ放しになるのは、どうかと思うがな」

 まだあたしは、ぽっかーんとしていた。

「そうじゃ。今日は風も強く、雨も降り出しそうじゃ、もう客も来ないだろう。わしの小屋で、あたたかいスープを飲みながら、今後について話さないか?」

 知らない人について行っていいだろうか?と口を開けたまま考えていると、

「わしは、悪いことはできない。見ればわかるじゃろ。わしは、神様の操り人形なのだからな」

 と操り人形さんが言った。あたしは、それをすごく自然に理解をして、ついていくことにした。人生は常に選択に迫られている。この人は信じられる人なのか、そうではないのか。はっきりとした答えは示されないことがほとんどだ。本当に危険だったら、逃げ出せばいいと思った。

 その人は信じちゃいけないよ、周りの人の忠告も、あたしへの言葉であるが、たった一部でしかない。あたしは、自分の頭で選択するのだ。誰のせいでもない。「ああしろ、こうしろ」も、やってみないとわからないことの方が多い。成功例をみんな欲しがるけど、失敗例からの方が多くのことを学べることもある。ママの言葉から逃げ出したあたしは、ここへ自分の意志でやってきた。そうだ、決めるのは、あたしだ。

 あたしが、すぐに操り人形さんの糸に気づいたことは、あたしが操り人形さんに気に入られるには十分の理由だったようだった。

 小屋に向かうときに、操り人形さんは、

「この糸は見えるか?これはどうじゃ?」

 とあたしを質問詰めにした。聞かれるたびに、正直に見えるか、見えないかを伝えた。全問正解だったらしく、さらに操り人形さんの機嫌がどんどん良くなった。

 案内された小屋は、決して大きな小屋ではなかった。それでも、手入れの行き届いた自分の好きな家具を並べて、丁寧に生きていることを想像させた。必要なものには、きちんとお金を使っているが、贅沢な暮らしぶりには見えなかった。必要最低限の心地の良い暮らしをしているようにあたしには見えた。

 定時になると、からくり時計が、よく働いた。あたしは、玉ねぎのよく煮込まれたオニオングラタンスープをいただきながら、疑問に思ったことを聞いた。

「神様からの糸は、みんなについているものなのですか?」

「あんたにはついておらん」

「同じような操り人形さんが他にもいらっしゃるわけなのですか?」

「忘れた」

 嘘をつこうとしているのではない。忘れたのだ。記憶の中に答えがないのだ。

 あまりに深いことを知りたがるあたしを時々、嫌がりながら、それでも答えてくれた。

「こんな田舎でずっと一人ですか?」

「悪いか」

 あたしは、率直すぎる質問も臆せずに聞いた。あたしも不安だったのだ。少しでも一緒にいる操り人形さんのことを知りたかった。

 あたしには、もう選択肢があまりなかった。操り人形さんを信じるのか、また一から安堵山への手がかりを探すのか。この小屋を出るのか。野宿するのか。誰も守ってくれない。

 オニオングラタンスープのフランスパンをスプーンで浸しながら、

「あったかい」

 とあたしが言うと、

「そうだろ?わしはあったかいのだ」

 と操り人形さんが言った。あたしは、スープのことだけどなと思ったが、口には出さなかった。余計なことを言うのは、大事なことだけでいい。

「ところであんた、その大きなリュックには何が入っておるんじゃ?」

「いろいろ入っています」

 あたしがそう答えると、操り人形さんは、にやりと笑って、こう言った。

「わしと取引せんか?」

「えっ?」

 そろそろあたしが、スープの具になってしまうピンチかと思って驚いた。

「あんた、金はないだろ?」

「ありません」

 決意を持って言った。もうどうとでもなれだ。

「その中のものをわしに見せてくれないか?」

「いいですけど」

 あたしは、命を取られるよりましだと思って、リュックの中のものを一つ一つ床に並べると、

「随分、詰め込んだものじゃの」

 と今度は操り人形さんが驚きながら言った。

 あたしが、リュックの中のものを全部取り出し終えると、操り人形さんは、

「あんた、懐中電灯を持っているじゃないか?」

 と指差しながら言った。

「持っていますけど、電池が入っていません」

「じゃ、なんで持ってきた?」

「なんとなく」

 操り人形さんは訳が分からないという表情をしながら、あたしを見た。

「そんな調子で、安堵山に行けると思っておったんか?」

 そう言われると、あたしの計画には計画性が全くなかった。安堵山のマークだけを目指してここまでやってきた。

「ここにまだ使っていない乾電池がある。この使われることを待っておった乾電池と懐中電灯が、今、出会った」

「そうですね」

 あたしには、それはとてもいいことのように思えた。

「その懐中電灯で手を打とう。その懐中電灯をわしにくれないか?」

「交換条件は可能ですか?」

「あんたもタダでは起きないようじゃな」

「はい」

「わしが、安堵山まであんたを連れて行ってやるという条件でどうじゃ?」

「そんなことまで懐中電灯と交換可能なんですか?」

「わしがいいと言えばそれでいい」

「どうぞ、どうぞ、懐中電灯を差し上げます」

「交渉成立じゃの」

「そうですね」

 操り人形さんとあたしは、互いに満足したようにうなずいた。

 そして、操り人形さんは、自分に言い聞かせるように、

「東へ西へ、どこに行くのも神様の仕業さ」

 とぶつぶつと独り言を言っていた。

 あたしは、操り人形さんが淹れてくれたホットレモンティーを飲みながら、聞こえないふりをした。

 操り人形さんは、突然思い出したようにあたしに言った。

「旅では、ばかなふりをするのじゃ。あんたのぽかんとした表情はとてもいい」

 あたしは笑い出した。

「そんなこと言われたのは、初めてです」

 操り人形さんもあたしにつられて笑った。

 いよいよ安堵山への道のりが動き出すとなったら、急に不安になって、寒気が襲い、ぶるぶると震えていると、操り人形さんは言った。

「隣にわしがおっても、全ての心配が消えてなくなるというもんではない。不安など誰にもあるのじゃ。わしにもある。震えるのが悪いことではない。震えが教えてくれることもあるのじゃ。安全な道を歩むだけではわからん道があるのじゃ。不安と戦う方法は、いろいろあるのじゃ。あんたは、それをこれから学ぶのじゃよ」

 操り人形さんは、そう言い終えると、チョコをあたしにくれた。あたしは、操り人形さんを信じ始めていた。

 どうして操り人形さんは、あたしと安堵山に行ってくれるんだろう?

 そのことを操り人形さんが敷いてくれた布団の中で、考えていたけど、近くの水車の音が心地よく規則的なリズムを刻んでいるのを聞いていたら、知らぬ間に寝てしまっていた。

 ベーコンの焼けるいい匂いで目が覚めた。操り人形さんは、朝食の準備をしていた。テーブルに二つずつお皿があるので、あたしの分もあるのだと思った。操り人形さんは、あたしが起きたのを確認すると、

「食べるだろ?」

 と聞いた。あたしは、思いっきりうなずきながら、

「はい。いただきます」

 と声を弾ませた。

「わしはいいやつだな」

 と言うので、大きな声で、

「はい!」

 と元気よく答えたら、操り人形さんは、わっはっはっはっはと高笑いをした。どうもあたしは、本当に操り人形さんに相当気に入られたらしかった。

 あたしは、すぐに出発する準備が整ったが、操り人形さんは、出かけたり、電話をかけたり、なかなか出発する気配がないので、家の中に操り人形さんが作ったと思われるぶらんこで、ぶら~ん、ぶら~んと操り人形さんの準備が整うのを待っていた。

 操り人形さんの準備は大変そうだった。

「本当についてきてくれるんですか?」

 とあたしが聞くと、操り人形さんが早口で答えた。

「ちょっと待ってろ。急に決まったからな。わしにも付き合いってやつがあるのじゃ。ここに長いこといたからな。定住したことでできた関係というのがあるからな」

 これからどうなるだろうな。うまくいくかな。不安の風に吹かれそうになると、操り人形さんは、

「ばかになるのじゃ」

 とこちらの方を向いて、アドバイスしてくれた。そうだ。

「出たとこ勝負だ」

 とあたしが声を出すと、操り人形さんはこちらを振り返り、こくんとうなずいた。もう後戻りのできない旅だとあたしは思った。命まで取られることはないだろう。たぶん。

 操り人形さんが、鞄にナイフを入れているのを見て驚いた。

「ナイフが必要なんですか?」

「何を言っておるんじゃ。これから安堵山に行くつもりじゃろ?ナイフは、護身用にも、肉を切るにも、糸を切るのにも、必要じゃろ?」

「そうですけど、そんなに危険な場所なんですか?すぐ着くんじゃないんですか?」

「今更何を言うのじゃ。危険な旅ではないと思ったのか?近いと思っておったんか?」

 操り人形さんは、呆れた表情であたしを見た。

「そんな覚悟か?」

 あたしの目をしっかりと見据え、操り人形さんは続けた。

「覚悟するのか。行かないか。さぁ、どうするんじゃ。今なら引き返せるぞ」

 とあたしに意見を求めた。あたしは、震える身体をおさめようとしながら、ふぅっと息を吐いて言った。

「行きます」

 ママがいたなら、

「やめておきなさい」

 と怒るだろうなと思ったら、あたしは、逆のことがしたかった。あたしは、ママから独立するためにここにいるのだ。誰かに指図された道ではない。自分の意志だけがそこにあった。自由よ、意志よ、行動よ、退路はないとあたしは覚悟を決めた。行くしかないのだ。

 操り人形さんは、小屋に鍵をかけ終えると言った。

「共犯関係じゃ。旅を一緒にするというのはそういうことじゃ。旅は道連れ。何があっても助け合う。わかったか?」

「もちろんです」

 とても真剣な目をしてあたしを見た操り人形さんをあたしは信じた。信じるものがなかったからじゃない。操り人形さんの真剣さに胸を打たれた。共犯関係の成立だ。

 操り人形さんと歩き始めると、一つの問題が浮かび上がった。操り人形さんは、とても歩みがのろかった。小さな体の操り人形さんとあたしは、油断するとすぐに距離が離れてしまった。

「なぜ生き急ぐんだ?」

 と自分のことを棚に上げて、あたしに妥協を要求してきた。田舎でのんびり生活してきた操り人形さんと、都会ですぐ電車やバスの来る環境で暮らしていたあたしは、時間に対する感覚が違っているようだった。

 仕方なくあたしは、操り人形さんのペースに合わせて、操り人形さんの後ろをついていくことにした。

「わしにはわかっておる。あんたが愚痴を溜め込んでいるのもな」

 たまらずあたしは言った。

「それじゃー、早く歩いてくれませんか?だって歩みがのろい上に、すぐ休憩するじゃないですか?」

「あんたにわしの苦労はわからんじゃろ?わしがあんたの苦労がわかんようにな」

 と言われたので、あたしは、少し立ち止まって、ぽっかーんとした。

「そうじゃ、ばかになるのじゃ」

 と言って、操り人形さんは笑い出した。

 あたしは、別なことを考えようと思って、トキに出す手紙について考えることにした。

「おとなしくなったようじゃが?」

 と操り人形さんが話しかけてきても、

「今、考え事をしています」

 と答えた。

 すると、操り人形さんは、ハミングしながら、歩き始めた。互いに心地の良い距離感を取りながら、つかず離れずに協力できる関係に次第になっていった。

 それでも歩みが遅いことを悪いと思ったのか、操り人形さんは、あたしの言うことをよく聞いてくれるようになった。あたしが、疲れた様子を見せると、すぐにチョコをくれた。

 何十億人という人が生活するこの地球で、目の前の人のことばかり考えている必要があるだろうか。目の前の人のことしか目が入らないとしたら、それは不幸だ。目の前の人が、完璧に同じ考えを持つ人である可能性は限りなく少ないから、やがて苦しくなる。

 あたしが旅に出た理由は、自分の居場所を見つけるためのものであったはずなのに、ここにきてまた同じようなことで悩むのか。それはもったいないと思った。新しく学ぶことができないというのは、不自由になることだから。

 なるべく楽しいことを考えよう。明日のわくわくに胸を躍らせよう。操り人形さんと仲良くやっていく方法を探るのだ。助け合いだ。共犯者だ。相棒だ。今のあたしにはなくてはならない人だ。

「ここはあんこ村と言う」

 操り人形さんが、ある村を見つけると、あたしにそう教えてくれた。

「あんこ村?」

「そうじゃ、小豆を作り、良質な小豆を選別し、あんこにして輸出しておる」

「なんかおいしそうな村ですね」

「あんこは好きか?」

「普通です」

「寄っていくことにしよう」

「そうですね」

 そんな会話をしながら、村に入ると、本当に村人たちが、あんこを選別している光景が目に飛び込んできた。今までは、村によっては、労働の対価に食糧をもらった。

 操り人形さんとあたしも小豆の選別に挑戦したが、二人とも忍耐力が足りず、すぐに村人に小豆を取り上げられてしまった。

 がっかりしながら、村を散策すると、操り人形さんが言った。

「おお、ちょうど食堂がある。そこで休もう」

「そうですね」

 操り人形さんが、食糧の問題やお金の問題を解決してくれる役になっていった。

 村の食堂に入って、メニューを見ると、「あんこ定食」の一択だった。仕方なくそれを頼むと、小声で、

「本当にあんこしかないんですね」

 とあたしが操り人形さんに言うと、「しー」と叱られた。そうだ、誰が聞いているかわからないから、村の中で悪口は言わないようにと言われていた。運ばれてきたのは、あんころもち、おはぎ、おしるこ、あんみつのセット、おまけにあんぱんとどら焼きがついてきた。

 あたしは、世の中には、いろんな村があるのだと一人で感心していた。

 安全そうな村だと宿に泊めてもらうこともあったが、大抵夜は、野宿して、動物や危険な人物が寄ってこないように、どちらかが見張りをして、交代で寝た。

 何日も一緒に旅するうちに、操り人形さんとの心地の良いルールができていった。分かり合えないと諦める前に、譲歩や交渉が大事だと強く感じながら。

 いつものように操り人形さんの後ろをとぼとぼと歩いていると、操り人形さんが、何かを探し始めた。

「何しているんですか?」

 トイレにでも急に行きたくなったのかと思って聞いた。

「この辺までくると、知ってるやつがおるんだが。どこにおるんやろか」

 と独り言のように行って、辺りをきょろきょろしている。

「どんな人ですか?」

 一緒に探してあげようと思って言うと、

「まぁ、近づけばすぐにわかるさ」

 とまた歩き始めた。

 立ち寄った村で、アボカドのサンドイッチを買った。アボカドのサンドイッチを操り人形さんと並んで食べていると、かすかに遠くから、どーん、どーんという音が聞こえてきた。何の音かと思って身構えると、操り人形さんが言った。

「おったぞ」

 すぐに操り人形さんは立ち上がり、その音の方へ走った。ぽかーんとしていると、

「ほら、行くぞ。早くせぇ」

 と怒られた。もういつもと逆じゃんとあたしは文句をいいながら、操り人形さんの後を追った。

 音に近づくと、そこには、二十人ぐらいの集まりができていた。その輪の中心には、カラフルなステージ衣装を着た少しお腹の出た優しそうなおじさんが太鼓を叩いていた。演奏を聴いている人たちは、嬉しそうに太鼓に合わせて手拍子をしたり、身体を揺らしたり、歌を歌ったりしていた。

 あたしの目は、なぜか太鼓を叩いている人の脇に立っている怖そうな黒づくめのお兄さんをとらえていた。そのお兄さんは、しかめっ面で、腕を組み、辺りの様子を監視していた。

 一通りの演奏が終わると、一斉にお客さんの拍手が鳴り響いた。そして、お客さんは、次々に缶へとお金を投げ込んでいった。

「あんがとな~」

 と太鼓のおじさんは言った。演奏が終わっても、お客さんが帰らないので、操り人形さんに聞いた。

「まだ続くの?」

「そうじゃ、あのタイコタタキは、十五分しか休めないのだ」

 そういう体質なの?あの怖そうな黒づくめスーツの人に命令されているの?と次々にタイコタタキさんへの疑問がわかったが、すぐに演奏が始まってしまって、聞きそびれてしまった。

 あたしは、頭に浮かんだ様々な疑問をぶつけるために、タイコタタキさんがトイレ休憩のときに、近寄っていって聞いた。

「素晴らしい演奏ですね」

「あんがとな~」

 すぐに立ち去ろうとするタイコタタキさんに、

「すぐ演奏が始まるんですか?」

「そうだよ。聞いてくれてあんがとな~」

「休みは?」

「ないよ。聞いてくれてあんがとな~」

 あたしには、それ以上聞くことはできなかった。あたしは、すぐ操り人形さんのところに戻って、操り人形さんを質問攻めにした。

「誰かにやらされて演奏しているんですか?」

「そうとも言うし、そうとも言えない」

「あの隣にいる怖そうな人は誰ですか?」

「司令官じゃ。司令官が、労働を管理しておる」

「じゃ、タイコタタキさんはあんなに楽しそうなのに、やらされているんですね。休みもなしに働かされていているんですね」

「タイコタタキはそんな風には思ってないがな」

「かわいそう」

「かわいそうは違うぞ。タイコタタキは、心底仕事を楽しんでいる。聞いてくれる人がいるだけで嬉しいはずじゃ。昔はもっと孤独にさいなまれていた」

「昔を知っているんですか?」

「わしが、安堵山へのチケットを売った最初の男だからな」

「安堵山に行こうとしていたんですか?」

「そうじゃ。途中で司令官に雇われることになったがな」

 また演奏が終わり、タイコタタキさんは、

「あんがとな~」

 とみんなに挨拶して、十五分の休憩を取った。今度の休憩は、司令官さんから玄米のおにぎりをもらって満足そうに食べていた。

「いつもいつもあんがとな~」

 過酷な労働をさせている司令官さんに笑顔でお礼を言うタイコタタキさんをあたしは、とても好きになった。

 その様子をあたしの隣で見ていた操り人形さんが言った。

「わしに考えがあるのじゃ」

 と言って、司令官さんのところに行き、なにやら相談しているようだった。その間もタイコタタキさんは、リズムを刻み、みんなを笑顔にしていた。

「話はまとまった」

「話?」

「そうじゃ、あと一歩じゃ。あんた、アクセサリーを持っておったな。あれと交換に用心棒を雇うことは可能じゃろか?わしらだけだと、山の中におるクマも、オオカミも、きつねも、ハイエナも追い払えん。村に泊まれないときもある。タイコタタキに守ってもらいたいのじゃ」

「あっ、あのママの元彼のアクセサリーでいいんですか?」

「そうじゃ」

「うーん、どれぐらいあたしにメリットがありますか?」

「夜に安心して眠れるだろう」

「そうですか。わかりました」

 今のあたしには、アクセサリーより、身の安全の方が大事だった。

 操り人形さんは、あたしの手から元彼のアクセサリーを受け取ると、司令官さんに渡した。

「いろいろ契約を詰めなければならん」

「契約?」

「わしがやるから、あんたは、タイコタタキと遊んでおれ」

「なんかリクエストはあるかい?」

 とタイコタタキさんがあたしに聞いてくれたので、パパとママの大好きな曲を選んだ。すると、タイコタタキさんは、歌まで歌ってくれて、あたしは、タイコタタキさんの優しさとパパとママへの恋しさで泣きそうになった。なぜか怒っているママではなく、笑っているママが思い出された。

「あんがとな~」

 と演奏が終わると、必ずタイコタタキさんはそう言った。あたしは、仲良くなれそうだと思った。

 司令官さんと操り人形さんの契約が終わると、あたしとタタイコタタキさんも交えて、十五分間の話し合いが行われた。

「安堵山に行けるのか?」

 とタイコタタキさんは嬉しそうだった。話し合いを終えて、タイコタタキさんがまた演奏を始めると、操り人形さんが、あたしにこっそり言った。

「いい用心棒になるぞ」

 あたしが笑顔で応えると、操り人形さんは続けて言った。

「タイコタタキは、十五分以上休むと、みんなに忘れられて、この世に居場所がなくなるという暗示を司令官にかけられておるのじゃ」

 あたしは、それを聞いたときに、寒さで身震いをした。安堵山への道中に、あたしは騙されて、タイコタタキさんのように、つらい暗示をかけられてしまう可能性もあったわけだと思った。

 生きていく過程で、世界の広さと自分の小ささに気づきながら、成長していくわけで、誰とともに生きるかを本当は選べるはずだけど、逃げられない暗示をかけられてしまうことがたまにある。逆に、あたしみたいに誰かに反発して自由に行きたいと思って生きる人もいる。全部自由だよ、というのは、孤独で。時に、寒さに震えなければならない。それとは逆に、タイコタタキさんみたいに暗示をかけられて、一つのことに打ち込むと、孤独からは逃れられるとしたら、どっちが幸せか。まだあたしに、答えはない。

「自分にはこれしかできないからな」

 とタイコタタキさんは、あたしに言った。あたしは、その言葉をずどんと重く受け止めた。

「そんなことないよ」

 とはとても言えなかった。口先で言うことは簡単だったけど。タイコタタキさんの太鼓を叩いてないときの姿を何一つ知らなかったから。あたしには、無責任なことは言えなかった。

 タイコタタキさんのそばには、いつも司令官さんがいて、タイコタタキさんを監視していた。

「お前が隊長になるのか?」

 と司令官さんは、あたしに聞いた。あたしは、ぽっかーんと口を開いていた。耳のちょっと上を言葉が通過するように聞こえた。

「お前が隊長になるのか?」

 二度、司令官さんは聞いた。司令官さんには、余程大事なことなのだと疑問に思った。

 あたしは、

「チームです。軍隊ではありませんもの。ほーほほほ」

 と笑って、ばかなふりをして答えた。

「じゃ、俺がチームを指揮することになってもかまわんな」

 またあたしはぽっかーんと口を開けていた。

「まぁ、みんなが同意すればの話ですが」

 と言って、操り人形さんの方を見た。すると、操り人形さんは機転を利かせて、

「大事な決断は、チーム全員の多数決じゃ」

 と言った。

 すると、司令官さんは納得したようだった。

 タイコタタキさんが、あたしと出会ってから、二十五回目の演奏を終えて、十五分の休憩を取っているときにあたしはタイコタタキさんに言った。

「一緒に楽しみながら、安堵山へ行きましょう」

「あんがとな~、オイラ、楽しみだ」

 と言ってくれて、チームになったことを喜んでくれて良かったと思った。迷惑をかけているわけではなさそうで安心した。

「ちょっとオイラとセッションするか?」

 とタイコタタキさんは言った。

「あたし、音楽の才能ありません」

 と言ったら、

「手拍子ぐらいできるかい?」

 と言うので、恐る恐る手拍子をしたら、その音に合わせて、太鼓でリズムを刻んでくれた。あたしは、このタイコタタキさんのリズムや呼吸に合わせて、みんなでうまくやれそうだと思った。こういう優しい人が、チームに一人いるだけで旅は全く違うものになる予感がした。チームの心を一つに、リズムに合わせて、呼吸を整え、一つの目的地に向かうのだ。安堵山という謎多き山へ歩みを合わせていくのだ。

「しゅーっぱーつ」

 あたしは大きく宣言した。タイコタタキさんは道中、首から下げた小ぶりの太鼓を叩きながら歩いた。

「ほんとうに休めないんですね」

 とタイコタタキさんに言うと、

「うるさいかい?」

 と言うので、そういう意味で言ったのではないと思ったが、うまく説明できず、

「いや、楽しいです」

 とあたしが答えると、

「あんがとな~」

 とタイコタタキさんが答えたから、心の中でどこまでいい人なんだと思った。これでは騙されてしまうのもわからなくはない。

 最初、タイコタタキさんは、司令官さん、操り人形さん、あたしの歩みのリズムがそれぞれに違っているので、誰に合わせて、リズムを刻めばいいかで苦心した。

 しばらくすると、タイコタタキさんは言った。

「このリズムに合わせて歩こう」

 と言って、誰の歩みからも遠くなく、それぞれに無理のない、みんなの歩きやすいリズムを見つけてくれた。

 あたしはそれまで操り人形さんのリズムと合わなくて、ストレスが溜まっていたので、タイコタタキさんがチームに入ってくれて助かったと思った。

 夜になると、さらにタイコタタキさんは大活躍だった。今まであたしと操り人形さんは交代で寝ていたが、タイコタタキさんが、太鼓をたたいていてくれるので、安心して眠ることができた。さらに、タイコタタキさんは言った。

「寝るのにうるさくないかい?」

「全然」

「本当はうるさいんだろ?このぐらいの音はどうだい?」

 とやわらかな太鼓の音に臨機応変に変えてくれた。宇宙の中のような音に、あたしは安心して、旅に出てから、やっと熟睡することができた。

 あたし次の日、寝坊した。それを見た操り人形さんは言った。

「ほら、言ったじゃろ?わしの道案内は間違っておらん。どんな人物がどう役に立つかわしの頭の中はちゃんとわかっておるんじゃ」

「頑張っているのは、タイコタタキさんですよ?」

「そうじゃった」

 とぺろりと舌を出して、操り人形さんは、あたしの方を見た。

「操り人形さん、この方向で合っていますか?まだですか?」

「あんた、まだそんなに簡単に安堵山に着くと思っとんたか?」

 あんなに簡単に、変なマークを見つけたから、どうもおかしいと思っていた。そうそう甘くないのだ。簡単に願いは叶わない。自分の考えの甘さにやっと気づけた。でも、ここはどこだ?安堵山は、どこだ?

「腹減ったのぉ」

「そうですね。ろくなもの食べてないんですもんね。操り人形さんは何が一番食べたいですか?」

「わしか?わしは、おでんが食べたいのぉ」

「あたしは、あったかいシチューが食べたいです」

「夢は広がるのぉ」

 と操り人形さんとあたしは話していた。あたしたちを横目に、司令官さんは、お客さんからもらった自分のためのハンバーガーをたらふく食べて、残りをタイコタタキさんに渡していた。あたしには、司令官さんがタイコタタキさんを利用しているようにしか思えなかった。

 操り人形さんとあたしには、分けてはくれなかった。二人も欲しいとは言えなかった。二人とも司令官さんを怒らせる勇気はなかった。

 今朝、食いしん坊のタイコタタキさんは、司令官さんに内緒で勝手に木の実を食べて、お腹を壊してしまい、十五分以上、太鼓を叩くのを休むはめになってしまった。そしたら、司令官さんは、拾った石で、思いっきりタイコタタキさんの手を殴った。タイコタタキさんの手は、赤く腫れた。

 その様子を見たあたしは、黙っていられなくて、

「何するんですか!タイコタタキさんは体調が悪いんですよ!」

 と石を奪おうと司令官さんにつかみかかった。司令官さんは何も言わない。その代わりに、タイコタタキさんが、

「いいんだ、いいんだ。オイラが悪いんだ」

 と言って、力ない笑顔であたしを見た。それ以上、何か言ったら、何かしたら、タイコタタキさんとお別れしないといけない気がして、何も言えなかった。あたしは、タイコタタキさんがいてくれるだけでいいのだ。

 しばらく歩くと、今度は、どこからともなくおいしそうな匂いがしてきた。その匂いであたしのお腹がぐーっと鳴った。操り人形さんは、

「俺が偵察に行ってくる」

 と言って、そそくさと出かけて行った。司令官さんは、ゆっくりとハンバーガーを食べ、タイコタタキさんは一口で、ハンバーガーをぺろりと食べると、また演奏を始めていた。タイコタタキさんの手はまだ赤く腫れていたが、お腹は治ったようだった。

 お客さんは、自然とタイコタタキさんの周りへと集ってくる。

 「あんた、ちょっと来てくれないか?」

 と操り人形さんは、あたしを呼びに来た。

「どうした?」

 と操り人形さんの様子を見て、司令官さんが聞くと、操り人形さんは答えた。

「隊長を呼んで来いというのじゃよ」

「俺が行く」

 とすたすたと司令官さんがいい匂いのする方に向かった。あたしと操り人形さんも何事かと司令官さんの後をついていった。

 司令官さんが、浮かない顔をして、戻ってきたのを見て、操り人形さんが言った。

「司令官じゃ、無理だと思ったんじゃ」

 あたしたちの顔を見て、司令官さんが言った。

「話にならん」

 操り人形さんは、すぐあたしを見た。

「あたし?」

 何があるのかだけでも見てこようと、いい匂いのする方にさらに歩いて行った。

 そこには、大きなお鍋で、おいしそうな豚汁を作っている小太りの女性がいた。鼻歌を歌いながら、楽しそうにお料理を作っていた。とりあえずにこにこと笑顔で、女性の方にあたしは近づいて行った。

「いい匂いがしたので」

「そうでしょ?匂いだけでなく、本当においしいのよ」

「何人分あるんですか?」

「私の分だけよ」

「こんなに?」

「私は、あたたかいものしか食べられないのよ」

「それは体質で?」

「もう決まっていることなの」

「そうですか」

「さっきからちょろちょろ私の料理の邪魔しに来る人たちはあなたのお仲間かしら?あなたが隊長なの?」

「はい。仲間です」

「この豚汁を食べたいのね?」

「はい」

「そういえばいいのよ。あなたは素直ね」

「だってすごくおいしそうな匂いなんですもの」

「そう最初から言えばいいのよ。前に来たお仲間は、ああだ、こうだ、と偉そうだったり、食べたそうにしているのに、そのことには触れずに、私のご機嫌取りしたりしてくるのよ。食べていく?」

「はい。是非いただきたいです」

「私は、ノーベンバーよ」

「あたしは、ナリと言います」

 自己紹介をすると、大きな器に豚汁をたっぷりよそってくれて、七味はお好みでねと言われた。

 あたしには、操り人形さんの家で食べたスープ以来のあたたかい食べ物だった。

「本当においしい。味付けといい、おだしといい」

「私は、お料理が得意なのよ」

 ナリは、「おいしい、おいしい」と言いながら、一気に豚汁をたいらげた。

「早いわね?おかわりいる?」

「おかわりもいいんですか?」

 ちらっと振り返ると、操り人形さんが木の陰からこちらをのぞいていた。

 あたしの目線の先の操り人形さんを見つけたノーベンバーが言った。

「お仲間もお腹がすいているようね」

「そのようですね」

 そして、あたしは、まっすぐにノーベンバーの方を見た。

「仕方ないわね」

「お仲間を連れてらっしゃい」

「あと他に二人もいいですか?」

「ナリは、図々しいわね」

 タダでこんなにおいしい豚汁をいただくのも悪い気がした。何かいいお礼はないかと思った。あたしのリュックに入っているものの中で、ノーベンバーさんに役に立つものを考えた。

「そうだ」

 あたしは大きな声を出した。

「どうしたの?」

 ノーベンバーは、あたしの大きな声に驚いて聞き返した。

「種があります。あたしは、家から持ってきました。その種とおいしいお食事を交換というのはどうでしょう。小さな種だけど、やがて食べ物に成長します」

「そうね」

 ノーベンバーは優しく笑った。

「私から食事をあわよくば食べようとした人はたくさん見てきたわ。だけど、ちゃんと何かと交換しようとした人は、初めてよ。実がなるのは素敵なことね。悪くないわね。お友達全員連れていらっしゃい」

 操り人形さんに、司令官さんとタイコタタキさんを連れてくるようにお願いした。

 三人が来る前に、あたしは、今までのいきさつを話して、仲良くなっていた。

「あら?あの偉そうな人もお仲間なの?」

「そうです。仲間です」

「個性豊かね」

 とノーベンバーさんが言った。

 司令官さんは、着くなり、

「仕方なく来てやったんだ」

 と言い、ノーベンバーに嫌われていた。

 それでも、ノーベンバーは、あたしの顔を立ててくれた。

 でも、一口食べて、司令官さんが、

「うまいな」

 と言ったので、ノーベンバーはそれ以上、怒らなかった。タイコタタキさんは、嬉しそうに受け取って、すぐ食べて、

「あちち。あんがとな~」

 と言って、自分の太鼓を披露した。

 ノーベンバーは、タイコタタキさんの演奏が終わると、大きな拍手をした。

「楽しそうな人を連れ来たじゃない?」

 とノーベンバーはタイコタタキさんをとても気に入ったようだった。

 操り人形さんとあたしは、二人で内緒話を始めた。

「なんとかノーベンバーを仲間に加えることは可能か?」

 と操り人形さんが言い出した。

「そうですね。一緒に来てくれたら、本当に助かりますね」

「あんたが、交渉してみろ。あんたが、一番好かれておる」

「そうですか?」

「そうじゃ。あんたと話しているノーベンバーはとてもいい表情をしておる。わしが言うんだから、間違いない」

「やってみます」

 あたしは、ノーベンバーさんに近づくと、あたしが話し出す前に、ノーベンバーが言った。

「ナリ、あなた、私を仲間にしようとしているでしょ」

「はい。その通りです。そこで、私からの提案ですが、私の鞄の中には、もっとたくさんの種が入っています。私たちの目的地は、安堵山です。安堵山では魔女が願いを叶えてくれると言われています。この種を安堵山への道中で、一緒に種を植えていきませんか?芽が出るかは、わからないけど、退屈しないと思います。それに、あたしの仲間には、タイコタタキさんがいます。いろんな楽しい音楽が聞けて、用心棒になるのです。どうですか?仲間になりませんか?」

「ナリ、一つ、問題があるわ」

「はい」

「五年前になるかしらね。小さないざこざがあってね。この場所で、命を落とした人がいるのよ。敵の料理を食べてね。私がその敵の料理を作った人かもしれないわ。私は、もう二十年になるわ。この山の中で、一人で生きてきたのよ。どうやって生きてきたと思う?やってくる人に毒を盛らなかったとでも?」

 そして、ノーベンバーは、持っていた切り干し大根を差し出すと言った。

「さぁ、この作り立ての切り干し大根が食べられる?」

 あたしは何の躊躇もなく、ぱくりと切り干し大根を食べて、

「おいしい」

 と言った。それを見たノーベンバーは、笑い出した。

「なんで?そんなにすぐ食べたの?毒入りの切り干し大根だとは思わなかった?」

「思いませんでした」

「そうなの?」

「いや、正直言うと、ちょっと手が震えました」

「そうでしょ。じゃ、なんであんなにすぐ食べたの?」

「ノーベンバーさんの目を信じました」

「そうなのね。嬉しいわね。きっと手が震えるのが、人に対する不信よ。わざと怖がらせて、私を信じるか試したのよ」

「わかっていました。だから食べました」

「とても大事なことをすらりとかわしたのよ、ナリは」

「一緒に行ってくれますか?」

「いや、まだ条件があるわ。一緒に行くと、私は、お料理が得意だから、きっとずっと料理を要求され続けると思うの。誘ってくれたのも、お料理ができるだからだと思うのよ。だけど、料理を作るだけの人にはなりたくないのよ」

「はい」

「作ってもらえることが当然という顔をされるのが本当に嫌なの」

「はい。たぶん司令官さんは無理です。偉そうに食べると思います。あたしは、種まきとお料理のお手伝いをします」

「そう?そうしてくれる?司令官っていけすかないわね」

「はい。でも、タイコタタキさんには必要みたいです」

「私が決める番ね。味付けを決めるときみたいに。ずっと私は、一人で決断してきたの。塩をどれぐらい入れるか。砂糖の分量は?お酒は?みたいに私だけのレシピがあるのよ」

「はい」

「これから旅が終わるまで、おいしいごはんを約束させていただくわ」

「ありがとうございます」

「ナリが私を信じたからよ」

 操り人形さんにこのことを報告に行くと、

「どんな裏技をつかったんじゃ」

 と驚いていた。

 ノーベンバーが朝、昼、晩とご飯を作ってくれているのに、司令官さんは、料理を作ってくれるのが当たり前のような顔をするので、ノーベンバーは、いつも怒る。それを見て、タイコタタキさんが太鼓を叩きながら、ノーベンバーの大好きな曲を演奏する。ノーベンバーの機嫌が直る。そこまでの一連の流れをどうもノーベンバーは楽しんでいるように見えた。

 そして、種まきに良さそうな土地を見つけると、あたしたちは、みんなでいろんな種を植えた。司令官さんも操り人形さんも文句を言いながらも、手伝ってくれた。タイコタタキさんは演奏を休めないので、作業するときの音楽を演奏してくれた。あたしたちは、安堵山への道のりを着実に歩み出した。
 
 しばらく歩くと、今度は、

「ほーほーい」

 そう言いながら、チームの横を走っていくランナーに出会った。

「あの人は、何を急いでいるんだろうね?」

「どっか遠くに行こうとしてるんじゃないかな?」

 チームの中でも噂になった。なぜなら、ゆっくり歩くチームに、一日三回ぐらい遭遇するのだった。

「また会ったね」

 と噂していると、

「ほーほーい」

 と言いながら、チームの脇を通りすぎていった。

 五回目の通過のときに、操り人形さんがランナーに声をかけた。

「君、君、ちょっとちょっと立ち止まってみないか?」

「なーんですかー?」

「君、同じところをぐるぐる回ってるようじゃが」

「そーですよー、僕は、乗り物に乗る勇気がなくて、ずっとこの場所を走ってるんですー」

「それは、こういうわけかな?」

「どーゆーわけですかー」

「君は、どういうわけか、同じところを回り続けている」

「そーゆーわけです。僕には、勇気がないんです。だから、景色の良いこの場所をずーっと走り回っているんです」

「あのこういうわけじゃな?」

「どーゆーわけです?」

「体力は余っておるんじゃな」

「まーそーゆーわけです」

「ちょいと待っとれ」

 とランナーをその場にとどまらせて、こちらに声をかけた。

「あのな、わしが思ったんじゃが。彼を食糧の材料調達人として、仲間に入れたいんじゃが」

「それはいい考えだわ」

 と枝豆の種の植えながら、ノーベンバーは言った。

「いいですね」

 あたしは言った。

 司令官さんは、

「俺も別に構わない」

 と言って、タイコタタキさんにも聞きに行った。

 大きな声で、

「あんがとな~」

 というタイコタタキさんが言うのが、聞こえた。

「みんなの総意として伝えるぞ」

 操り人形さんは、ランナーとの交渉に戻った。

「仲間になってもいいそうだ」

「よーろしくおねがーいします」

 ランナーが駆け寄ってきて言った。

 あたしは不思議そうに聞いた。

「疲れないの?何かの大会を目指しているの?」

「ちがーいまーす。自分との闘いです。そして、疲れるって感覚わかりませーん」

「時計も持っていないの?」

「身体が時間を刻んでいます。大体わかりまーす」

 なんかランナーは、変な子だなと思った。

 ノーベンバーはランナーに言った。

「今日はなにが食べたいの?」

「そうですねー、クリームシチューが食べたいですねー」

「わかったわ。これが材料よ、買ってきてくれる?お金は、ナリからもらってね」

 この旅の会計係は、あたしになっていた。操り人形さんが二人のときはやってくれていたが、仲間が増えるにつれ、役目があたしに回ってきた。みんなにあたしは、信用されているらしい。きっとばかなふりをしているからだ。必要経費をみんなから少しずつ預かっている。

 ノーベンバーに内緒で、あたしはランナーに言った。

「安いのにしてね。予算はそんなにないの」

 ランナーは、ウィンクして、食糧調達に向かった。

 そして、すっごいスピードで戻ってきて、

「ちょっと遠くのお店まで行ってきました」

 と言っておつりを見てびっくりした。

「こんなに安かったの?」

「はーい、お安い店を見つけましたー」

「すごい」

 あたしは、ノーベンバーが料理を作るのを手伝いながら、興奮して話した。

「ランナーはすごいの。安いの、それに新鮮じゃない?」

「そうね。確かに新鮮だわ」

 ナリは、操り人形さんの人の見る目を信じた。ちゃんと必要な人をスカウトして、仲間の絆を深くしている。どこか足りない、物足りない、何か助けが必要であれば、助け合い、人に責任と自信を植え付け、育てる。そんな旅になった。

 ランナーはあいかわずぐるぐる休むことなく走っていて、すぐに、

「僕どこかにまた買い物に行きますかー?」

 と楽しそうに言う。ノーベンバーは、そのたびに、料理をしないといけないのでちょっとうんざりしながら言った。

「食べてばかりでは、みんな体調を崩してしまうわ」

「そうですかー?みんな走ればいいのに」

 とランナーは言う。操り人形さんはそれを聞いて言う。

「みんなお前のように身体が頑丈だとは限らんのじゃ」

「そういうもんなんですかー」

 とランナーは走りながら言う。

「ちょっとそこら辺を走り回って、偵察してこい」

 と操り人形さんに言われて、ランナーは走って偵察することになった。

 タイコタタキさんは、みんなのリズムに合わせて、演奏を続けていて、

「心地よい音だとナリが言ってくれるのは嬉しいんだ。あんがとな~」

 と相変わらず優しい。仲間が増えて、楽しい旅になってきた。

 だが、時々、一行は、ハエに襲われた。

「くさいのかな?」

 とあたしが言うと、

「そうじゃろな」

 と操り人形さんが言った。

 ランナーは大きな杉の木のところまで来ると言った。

「僕はここから先は行ったことがありません。ここまでしか知らないでーす」

「じゃ、みんなで一緒にランナーの未来に突入しよう」

「そーしまーす」

 と大きな声でランナーが言ったので、あたしが、

「突入」

 と掛け声をかけた。すると、ランナーが一歩踏み出して言った。

「なんでもないことでしたー」

 みんなで笑った。

 ランナーは知らない土地にもすぐに慣れて、走り回るようになった。

 また操り人形さんは、ランナーに、

「偵察してこい」

 と言った。

 ランナーの姿をしばらく見ないと思ったら、すっごいスピードで戻ってきて言った。

「あっちに、あっちに」

 早口で伝えようとしてうまくランナーが話せないでいると、操り人形さんが、

「少し落ち着かんか。何があったんじゃ」

 ランナーは、弾む息を整え、言った。

「すっごいスタイルの良い美人が風呂に入ってます」

「なんじゃとー」

 と言って、ランナーの後を操り人形さんと司令官さんが大急ぎでついていった。

 ノーベンバーとあたしは、男って嫌ね~なんて言いながら笑っていた。

 しばらくすると、慌てた様子で操り人形さんがやってきて、あたしに言う。

「あんた、あんた、交渉じゃ」

「どうしたんですか?」

「風呂に入れるぞ」

 旅に出てから、操り人形さんの家や村でシャワーは浴びたが、あたたかいお風呂には入る機会はなかった。

 操り人形さんの後をついていくと、すっごい美人が水着で、薪割りをしていた。

 みんなで話し合い、あたしが最初に交渉しに行くことになった。

「そんな恰好でどうして薪割りしているんですか?」

「わたくしは、一日に一回一時間、必ずお風呂に入らないと太ってしまうのよ」

「なんか大変そうですね」

「大変?」

「そうです。お手伝いできることはありますか?」

「薪はサブスクで契約しているから、必要なものは、毎週届くの。そうね、人の助けが必要と言えば、そうね、そんなことは考えたことがなかったわね。全部自分でするものだと思ってきたから」

「お風呂のサブスクなんかあるんですか?」

「そうよ。場所さえわかれば、定額で届けてくれるのよ」

「しかし、抜群のスタイルですね」

「それはセクハラよ」

「ももも、申し訳ありません」

「まぁ、いいわ。言ってみただけよ。みんなスタイルのことしか言わないのよ」

「タダ、タダ、感動でした」

「わかっていたわ。誰かと話すのが久しぶりだったから。お風呂入る?」

「は、は、はい!」

 あたしは、お風呂に入りたかったのだ。

「ちょっと仲間に報告してきていいですか?」

「お仲間がいるの?」

「五人います」

「みんな入らせる気?」

「はい。あたしだけだと悪いので」

「案外あなた図々しいわね」

「はい!その代わり、全部お手伝いします」

「まぁ、それならいいわ。もちろん薪代も払ってくれるんでしょ」

「は?」

「そうじゃないとわたくしのメリットがないわ」

「みんなに交渉してきます」

 と言って、あたしは走って、仲間の元へ向かった。

「お風呂入れるって」

「ほんとうか?」

 と操り人形さんが言った。

「でも」

「でも?」

「薪代とお風呂を焚くのは、こちら側の負担になります」

「いいじゃろ。あの美人やろ?」

「そうです。そうです」

 司令官さんにも言うと、

「わかった」

 と言っただけだった。ランナーは、

「薪を運ぶのも楽しいな」

 となぜか嬉しそうだった。

 タイコタタキさんは、作業しやすいようにリズムを刻んだ。

 ノーベンバーは嬉しそうに、

「お風呂上がったら、おいしい料理が必要ね」

 と言って、ランナーに材料を買ってくるように指示をした。

 ランナーはまだテンションが高く、

「行ってきまーす」

 と言って、食糧を調達に向かった。あたしと操り人形さんは、懸命に薪を割った。

 その様子を見て、ベリーは、

「私、ずっと一人で風呂と向き合うだけだったの」

「結構大変でした?」

「そうね。大変だったかさえ考えてなかったわ。だってお風呂に入らないと、太ることだけが事実だったから」

 久しぶりのお風呂に仲間も気持ち良くなり、ノーベンバーの料理も相変わらずおいしかった。

 操り人形さんが、ベリーに言った。

「わしらと旅をせんか?」

「わたくしが?」

「そうじゃ。行く先は、願いが叶うという安堵山じゃ。わしらには、風呂に入れるというメリットが。サブスクの薪も天候によって届かないこともあるじゃろ。それもランナーに頼めば、ランナーが探してくるじゃろ。風呂釜は、わしらが運ぼう。それにこのノーベンバーの料理がついてくるのじゃ。まっ、少しは、食事代をいただくのじゃが」

「そうね。生活さえ不便なこの場所で、毎日お風呂に入らないといけなかったの。それがどれだけ大変なことだったか。旅なんかできるかしら」

「そりゃ、大変じゃったの。でも、今回わかったように、手伝うこともできるのじゃよ」

 ベリーは、神妙な顔をしたかと思ったら、

「一緒に行きますわ」

 と笑顔を浮かべながら言った。司令官さんとあたしとランナーが交代で風呂釜を運ぶ役になった。

 仲間も人数が増えると、トラブルも表面化した。

 操り人形さんが、あたしに言った。

「壊れた双眼鏡を貸してくれんかの?」

「どうするんですか?」

「ええじゃろ。わしに考えがある」

 あたしは、腑に落ちなかったが、操り人形さんを信じて、壊れた双眼鏡を貸してあげた。

 しばらくすると、ベリーが叫んだ。

「のぞきよー」

 次に、別なところから操り人形さんが叫ぶ。

「糸がからまってしもうた」

 ベリーの元へは、ノーベンバーが行き、あたしは操り人形さんの元へ向かった。

「どうしました?」

 操り人形さんのそばには、壊れた双眼鏡が落ちていた。

「まいった。わしの糸がからまってしもうた」

「もしかしてベリーの風呂をのぞいたのは、操り人形さんですか?」

「ちがう!」

 と操り人形さんが叫ぶ。

 仕方なく、あたしが、操り人形さんのからまった糸を一つ一つほどいてあげた。

「もう!なんで仕事増やすんですか?」

「わしも好きでからまったんじゃない」

「悪いことしようとしたんですか?」

「全て忘れた」

 と言ったが、操り人形さんは、言い直した。

「いや、安堵山を見ようとしたんじゃ」

「うそ」

 みんな操り人形さんを疑った。あたしは、目を凝らして真実を探そうとした。何を信じるか選ぶんだ。あたしは、考えた。操り人形さんは、失敗した。まだ犯罪前で、天罰を神様から受けた。あたしは、とんでもない悪人と旅をしていたのかもしれない。

 でも、隣で、ぺろりと舌を出して、おどけて見せている操り人形さんを見ていたら、あたしは、考えが徐々に整理されてきた。操り人形さんには、あたしが完璧に信じていられる人でいてほしかったけど、そうだ、ここで確かなことは、ベリーがすごく魅力的だってことだけだ。のぞいたか、のぞかなかったか、あたしにはわからない。それに双眼鏡は、レンズが壊れている。人を惑わせてしまうベリーの魅力に感嘆しつつ、厄介なものだと思った。ベリーのスタイルに、多くの人が惑わされて、うっとりした目で見つめる。ベリーは、そのための努力を怠らない。美しいものへの価値観が、あたしたちには、それぞれにある。痩せている方がいいとか。足は細い方がいいとか。デコルテが美しい方がいいとか。肌はキレイで、いい匂いがする方がいいとか。誰が決めた美しさなのかは怪しいけども、美しさの基準が、誰の中にもあるんだろう。あたしは、太っているベリーでもいいと思うけど。ベリーには、ベリーの目指す美しさがあるんだと思う。あたしが、この世で一番美しいと思うのは、笑顔で、ストレスを溜めていないすっきりとした笑顔だ。あたしの心の目がとらえてしまうのは、形の美しいものではなく、その裏の醜さだ。あたしは仮面の美しさには、興味がない。だって美しくいるためには、本人の血のにじむような努力が隠れているから。全て美しいものではできていない。妬み、嫉妬、執着が美しさの裏に隠れているものをどうしても感じてしまう。あたしは、美しさを第一に考える人には、決まって嫌われてきたから。青くなるというだけで。あたしの身体は美しくなかった。もし美しいなら、みんなから賞賛を向けられたはずだ。ほどほどがいい。美しさや醜さへの怨念は、時に、軽蔑や差別の種にもなるから。

 あたしは、ふーっと息を吐いて、操り人形さんに言った。

「神様は見ていますよ。神様に感謝してくださいね」

 それだけ念を押した。この一件で仲間であるはずの一行に、疑念の種が植えられた。 あたしは、困ったな~と思って、解決策を提案した。

「この穴の開いたフライパンを司令官さんがこないだスープをすくうときに壊したお玉で叩いて、自分がお風呂入り終わったら、知らせる。そうしませんか?」

 そうあたしが提案すると、みんな同意した。あたしがばかなふりをして、こう言った。

「良かった~、人が増えると、意志統一が難しいですね~。それぞれに思い思いの行動をするから」

 あたしは、場を和ませようとしたのだ。和ませることを選んだ。人と一緒に行動するために。あたしの行動が、正解か不正解かは、わからない。トラブルを招いた人を責めることもできるけど、あたしはそうしなかった。そうしなかったのだ。

 一緒にいるために、他人のすべてを知る必要があるだろうか。あたしに見えてない裏の顔を知らないからと言って、すべてがダメではない。あたしだけに、いい顔しているかもしれない操り人形さんも否定する気にはなれない。だってあたしにとっては、必要な人なのだ。だからこそ一緒に旅をする相棒である操り人形さんには、最後まであたしがすべてを信じられる人でいて欲しかった。そうならなかったことは悔しい。

 操り人形さんは言った。

「そうじゃ、自由とは、試行錯誤の先にあるのじゃ」

 あたしがまだ疑いの目を操り人形さんに向けた。すると、操り人形さんは目をそらした。

 トラブルは続く。また司令官さんがノーベンバーの作った料理の味つけに文句を言って、

「あなたには作りたくないわ」

 とノーベンバーが言い出した。操り人形さんが、司令官さんに注意した。

「あんたが悪い」

 すると、司令官さんは操り人形さんの言葉に怒り出した。

「はさみ持ってこい。糸があるんだろ。それを切ってやる」

 と言い出し、操り人形さんが、今度は、本気で怒って、

「糸が見えんやつに切ることはできん」

 と怒鳴った。

 タイコタタキさんは、みんなのいざこざを見ていて、たまらず、

「はい、みんなで拍手しましょう」

 と言って、太鼓を叩いた。それぞれがタイコタタキさんの声で思い思いに拍手した。

「それじゃ、リズムが合いません」

 とみんなの拍手の音が重なるまでタイコタタキさんはみんなに拍手を続けさせた。

「タイコタタキ、おぬしも休むのじゃ」

 と操り人形さんが、タイコタタキさんが休んでいないことを心配して言った。みんなが同時にタイコタタキさんを見た。

 すると、

「仲良くやりましょうね~、心配、あんがとな~」

 とタイコタタキさんが笑って、その場が和んだ。あたしの下手なフォローより、タイコタタキさんのリズムに合わせることが必要だったのかもしれない。気持ちを一つにできる音楽は素晴らしい。

 タイコタタキさんが、リズムを刻み、それぞれの歌詞を歌い、騒ぎ、司令官さんが嫌がり、ランナーは、あちらこちらとよく動き回り、ノーベンバーが料理を作り、ベリーのいい匂いのお風呂に入る。

「うまい具合にいきよったな」

 操り人形さんが、満足げにあたしに言った。

「だって操り人形さんが考えた通りになったんでしょ」

「いや、わしは、チケットを売った相手の情報を元に歩いただけじゃ」

「そうなんですか?」

「そうじゃ、思い通りになど、この世はいかん」

「あたしは、全部操り人形さんの策略かと思っていました」

「あんた、それは失礼じゃ」

「えっ?」

「策略など、わしは考えん」

「いっつも悪いことを考えていると思っていました」

 とあたしが冗談を言うと、操り人形さんは笑わずに、真剣な顔で言った。

「ここからが大変な道になる」

 その様子が少しよわよわしく見えたので、あたしは不安を覚えた。

 けんかしながらも、なぜか毎日が充実していて、楽しくて、安堵山に行かなくても、幸せなんじゃないかと思った。

 操り人形さんは、ある村に入ろうとするあたしにたちに言った。

「待て。ここが安堵山に続く最後の村じゃ。二つの村が隣接しておる。ハンドル村とタイヤ村だ。ハンドル村では、タイヤ以外の自転車の部品を作って、輸出しておる。タイヤ村は、タイヤだけじゃ」

「どうしてそんなにめんどくさいことしているの?隣の村だし、一緒に作ればすぐ自転車になるのに」

「かつては同じ村だった。その経緯は、わしにもよくわからないのじゃ。昔からじゃからの。二つの村は、毎年十二月になると、スポーツの大会が開かれ、買った方の村が、七割、負けた方が、三割の自転車の利益を得ることになっておったのじゃ。じゃが、五年前に伝染病が流行り、そのスポーツ大会が中止になると、二つの村は、バランスを失った。今はどうなっているか知らん」

「関わらないほうが良さそうね」

 とベリーが言った。

「どっちにも言い分があるだろうね」

 とあたしは言った。

「簡単に解決できると思うのは、外側の人間じゃ。人の暴走は止められると、甘く見ないほうがいいのじゃ。我々は、あくまでも旅人にすぎない」

 と操り人形さんが言った。

「それでも何人もが解決しようとしたのじゃが、誰も何十年も続く分断と争いに、辛抱強く解決への道筋を作ることはできんかったんじゃ」

 と操り人形さんは、悲しい目をして言った。

「口で言うだけなら簡単なのじゃ。必要なものは、理想ではない。カネと感情論を同期で考えるからさらに難しくなるのじゃ」

「そうか。なんとかいい方法はないの?」

 あたしが訊ねると、操り人形さんは言った。

「わしにもわからん。せめてまたスポーツ大会が無事に行われるようになるといいんじゃがの。スポーツ大会は、苦肉の策だったのじゃ。争いについての最善の解決策など、どんな天才もどんな有識者も持ち合わせておらんのじゃ」

「難しいね」

 結局、みんなで多数決を取って、その村に入ること断念した。

「ナリは、なんのために安堵山に行くの?」

 料理の手伝いをしていると、ノーベンバーがあたしに聞いた。

「あのね、あたしはね、身体が青くなるのが嫌だからなの」

「私の前で青くなったことある?」

「ないの。生まれてから、ずっとね、感情が高ぶると青くなっていたんだけどね。操り人形さんに出会った頃から一回も青くなっていないの。青くなるのは、きっとあたし、自信がなかったのだと思うの。おぎゃーとうまれたときには、社会への不安やずっと独りぼっちだった。でも、ここに来るときに、決意したから、きっとあたし強くなって、青くなってる場合じゃなかったんだと思う。蛇に出会ったときに、少し青くなりかけたことはあるんだけどね。言わなかったけど」

 紅茶を飲みながら、あたしたちの話を聞いていた操り人形さんが言った。

「水が合っているんじゃな。ここにいる者たちは、みんな、傷を持っておる」

「傷?」

「みんな傷ついておるのじゃ。他人の傷は、見えんのじゃよ。そうじゃな、それぞれが自分の宿命と戦って居るのじゃ」

「宿命?」

「あんたの持っている宿命なぞ、ここでは意味をなさないのではないか?」

「そうなのかな」

 あたしは、操り人形さんに出会うまで、自分の傷のことしか考えたことがなかった。だけど、この旅で出会った人たちは、それぞれに、個性的で、一人で頑張っていて、何か問題を抱えていた。自分のことなど考える暇がなかった。生きることに必死で。

「みんなのお願いが全部叶えばいいな」

 と言うと、操り人形さんは言った。

「それは、この旅の終わりを意味するのじゃよ?」

 そう言われると、急に寂しくなった。操り人形さんの小屋で震えたのは違う意味で、身体が冷えた。お別れがくるのだ。いつかは。

 ノーベンバーもうつむいたので、あたしが言った。

「世界中の食べ物が、ノーベンバーのライスコロッケならいいのに」

 すると、それを聞いた人たちが、みんな一斉に笑った。みんなノーベンバーのライスコロッケが大好きだったんだと思う。あたしは、ノーベンバーのライスコロッケをママに食べて欲しかった。そしたら、素敵な仲間のいるあたしのこともママは、きっと好きになってくれる。こんな素敵な仲間を自分で見つけたのねって喜んで、ママはノーベンバーのライスコロッケをおいしそうに食べてくれるはずだ。

 しばらく歩くと、操り人形さんが言った。

「あと二日ほど歩いたら、きっと安堵山の入口には着くじゃろ」

 あたしは、仲間との時間を楽しみつつ、この先のことを考えたが、幸せなときに、心配事や困難を想像することなどできそうになかった。

 「おお、着いたぞ」

 操り人形さんが、指差した先に、美しい形をした山が見えた。

「あれが、安堵山じゃ」

 操り人形さんのその言葉で、みんなが声をそろえて、

「おおおお」

 と歓声を上げた。

「あれ?操り人形さん、これって船に乗らないといけないですよね?」

 あたしがおかしなことに気づいて、声を上げた。

「そうじゃ、言わんかったかの?」

「言ってないです。泳いで渡れないですよね?」

「そうじゃよ、船に乗るのじゃ」

「船どうするんですか?」

「六人乗りの船がある」

「六人?」

「そうじゃ、六人じゃ」

「今日はサブスクの薪を持ってきてくれる人もいるじゃないですか?どうするんですか?」

「そうじゃ、二手に分かれるのじゃ」

 あたしはあるアイデアを思いついた。司令官さんとは別の船にタイコタタキさんを乗せたいと思った。そうすることで、タイコタタキさんには自信をつけてほしかった。自分だけでも生きていけるのだと信じて欲しかった。

 キレイな船とぼろぼろの船の二艘があった。

「俺は、こっちにする」

 キレイな船を指差して、司令官さんが言う。

「じゃ、オイラも」

 とタイコタタキさんが言ったが、あたしが言った。

「ぼろぼろの船は、自力で漕がないとダメだから、タイコタタキさんのリズムが必要です」

「そうか?」

「そうです。あたしもぼろぼろの船でいきます」

「それなら司令官と薪のスタッフさんは、キレイな船にするといい」

 と操り人形さんが言った。

 他のみんなは、あたしがいる方が良かったらしく、ぼろぼろの船で行くことに素直に従った。

「そんなに遠い距離ではない。もう安堵山は見えておる」

「そうですね」

 とみんな同意した。ぼろぼろの船に乗ったみんなは、タイコタタキさんのリズムに合わせて、交代でオールを漕いだ。

 操り人形さんは、

「それそれそれそれ」

 と声で鼓舞した。

 すると、前を行くキレイな船の上に、もくもくもくと黒い雲がやってきて、キレイな船の周りだけ風と雨と荒波が吹き荒れている。すぐにキレイな船の姿は見えなくなった。こちらのぼろぼろの船は、天候に一切邪魔されることもなく、無事に安堵山に着いた。

 着くと、すぐにみんなで先に着いたはずのキレイな船を探した。

「だめじゃ、あの船は沈んだようじゃ」

 と操り人形さんが言った。

「あの悪い波に、彼らはさらわれていってしまった」

 と操り人形さんは続けた。

 すると、タイコタタキさんは、

「オイラは、司令官がいないとだめだ」

 と泣き叫んだ。

 あたしは、タイコタタキさんの手を握って、

「でも、タイコタタキさん、あなたは、十五分以上、何事もなく休めていますよ」

 と言った。

「ほんとだ」

 とタイコタタキさんは、泣きながらも不思議そうに、頭を抱えていた。

 みんなどこか落ち込みぎみで、司令官さんのことはみんな好きじゃなかったけど、命を落とすとは思っていなかったんだと思う。みんなから笑顔が消えた。積極的に会話しようとする人はいなかった。司令官さんは嫌なやつだったけど、一緒に寝食をともにしてきたから、いなくなったらいなくなったで、寂しかった。もうちょっと仲良くしておけばよかった。もっと優しくしておけばよかった。死んでしまうなら。あたしの判断で人の命が失われてしまうことをあの瞬間わかっていたなら、別の方法もあっただろうか。人の命を奪ってしまう責任から逃れられただろうか。それがタイコタタキさんを想った善意からだったとしても。命までは奪われないものだと思っていた。嫌なやつでも、司令官さんの命の灯が消えたのは、とても悲しいことだった。

 思い出は美化されていく。司令官さんの本音は何一つ知らなかったことに気づいた。司令官さんの好きな色さえあたしは知らない。もっと一緒にできたことがあったのかもしれないと思っても、あとの祭りだった。

 あたしも重い責任を感じた。みんなも自分たちだけ助かってしまったという罪悪感が広がったと思う。それぞれに。それぞれの。

  安堵山のふもとをさらに進むと、大きな木にもたれかかって、浮かない顔をしている一人の男がいた。

 操り人形さんが聞いた。

「名はなんと申す?」

 男は何も言わない。

 タイコタタキさんは、気持ちが和むような明るい音でリズムを作る。

「ちょっと踊りましょうか?」

 ベリーが踊り出した。それにつられて、みんなも踊り出した。

 すると、男はこちらを探るように見て、口を開いた。

「僕の名前は、ナイトと言います」

「ナイト?」

「そうです」

「何しているの?」

 あたしがそう聞くと、ナイトの手に傷が浮かんだ。あたしは、驚いて、

「どうしたの?今、何があったの?」

 と聞くと、ナイトが答える。

「僕は、心が傷つくと、身体にも傷が浮かび上がるのです」

「何?あたしが傷つけたの?今、傷ついたの?」

「そうです。僕は、こんなに楽しい人たちにすぐ名前を言うこともできないのかと思って、傷つきました」

「あほなの?」

 ノーベンバーが言うと、今度は、ナイトの顔に傷ができた。

「また傷ついたの?」

 とあたしが言うと、今度は、ナイトの足に傷ができた。

「ずっとそうしているつもり?」

 また腕に傷ができた。

「僕は何もできないんだ」

 とナイトは言い、傷さらに深くなり、また落ち込んでいる。

「ちょちょちょっと待って」

 タイコタタキさんには、優しいリズムをお願いして、みんなで、ナイトとタイコタタキさんから離れた場所で、相談した。

「どうする?なんか厄介なやつに声をかけてしもうたな」

 と操り人形さんが言った。

「助けてあげようよ」

 とあたしが言った。

「でも、すぐ傷つくから何も話せないわ」

 とノーベンバーが言い出す。

「だけど、あたしたちには、できることがたくさんある」

 とあたしが言うと、

「何も言わずに、ぼくらがナイトを幸せにすればいいのだね」

 と珍しくランナーが口を開いた。そう言うと、ランナーは走ってどこかに行ってしまった。

  あたしたちは、なす術なく、タイコタタキさんの演奏を聴いているだけだった。

 ランナーは、両手いっぱいに荷物を抱えて、戻ってきた。

「なんとか薪と食べ物を手に入れてきました。風呂釜も見つけました。水はみんなで運びましょう」

「どこまで探しに行ったの?」

「めちゃくちゃ探しました」

「安堵山にも人の暮らしがあるのね」

「ぼくの願いは、みんなと楽しい時間を過ごすことだと唱えながら、走りました」

 とランナーは言った。

 なぜかその言葉をしっかりとみんな受け止めていて、ノーベンバーは、

「そうね。楽しい時間にしましょう。とにかく食べましょう」

 と言いながら、お料理を作り始めた。

 そして、安堵山に着いてから、お風呂に入ることができずに、太ってしまっていたベリーが言った。

「こんな身体になっちゃって」

 と言い出した。

 それを聞いたナイトが言った。

「こんなとか言わないでください。僕なんか」

 と言うと、また顔に傷ができたのを見て、操り人形さんが言った。

「ナイト、おぬしは、もう考えるな。わしらのおもてなしを受けるだけでいい。それだけでいいのじゃ」

 そう言われたナイトは、ほろほろと泣き始めた。

「今まで僕を遠ざけた人は数多くいるけど、一緒にいてくれて、さらに解決してくれようとした人たちは、初めてだ」

 と言うと、ナイトはまた泣いた。

 あたしは一人で机の上で青くなっていた頃とは、まるで違う気分を味わっていた。こうじゃなければいけない、痩せていなければいけない、お風呂に入らなければいけないと頭で思い込んでいることが誰にもある。知らず知らずに、自分を思い込みの鎖でがんじがらめにしてしまう考えがある。例えば、美しいとされていることさえ、人よって感じ方が違っていることに気づけない。あの頃のあたしは、ママの価値観や周りからの目で、誰のことも味方と感じることができなかった。誰かの価値観で傷つけられるだけの弱い自分との闘いの中、生きてきた。目に見えない成果だけど、ここでみんなと一緒に旅をしたことは、占い師さんが言うように、とても実りの多いものになったと思う。ぼんやりと見つけた自由でいい。それでいい。

 みんなで、焚火を囲みながら、今までの思い出話をみんなでした。

 ノーベンバーは、

「ナリが来たとき、何かが始まる予感がしたわ。いい予感だったのね」

 と言った。ベリーは、風呂に入れて、元の美しいスタイルに戻り、

「ナリは、人を笑顔にする才能があるのよ。ちょっとうっかりさんのところがあるけどね」

 と笑った。あたしは、すかさず、

「ランナーは、人のためにいっぱい働く才能がある」

 と言い、みんなが同意した。

 ノーベンバーが、笑いながら、

「私のいいところも言ってくださる?」

 と言うので、操り人形さんが、

「おいしい飯を作る。それもわしの知ってる限り世界でも指折りのな」

 と言うと、ベリーが、

「私は?」

 と言うので、嬉しそうに操り人形さんが言った。

「風呂のプロフェッショナルだ」

「なんだかやらしいわね」

 とベリーが返すと、またみんなが笑った。

 ランナーが言った。

「夜が怖くないのも、毎日が楽しいのも、タイコタタキさんのおかげだ」

 と言うと、タイコタタキさんは、

「あんがとな~」

 と言った。そして、最後に、操り人形さんが、

「わしの役目もここまでじゃな」

 と言うと、あたしは焚火を見ながら、眠りに落ちていった。

 突然、あたしの身体がふわふわと軽くなった。この世を俯瞰するように高速で空へと身体が浮き上がるような感覚だった。

 そして、全ての感覚が消えたかと思うと、次の瞬間、前が見えないほどの桜吹雪の中にいた。薄い桜の花びらが全身を覆い、身体はとても軽い。

 なんとか桜吹雪がおさまり、目を開けると、パパとママが、あたしの顔をのぞいていた。

「こんなところで何しているの?」

 とあたしが不思議そうに、ママに聞くと、

「何しているじゃないわよ。大丈夫なの?」

 とママに逆に聞かれた。

「夢を見ていたの?」

 あたしは、ここが自分の家の玄関であることに気づき、驚いて聞いた。

「玄関なんかで寝て、心配させてなんてのんきな子なの」

「あたしはなぜここにいるの?」

「朝起きて起こそうとしたら、部屋に姿がなくて、探したら、玄関で倒れていたのよ」

 あたしは、これまでのことをママに報告しようとするけど、何一つ言葉になってくれなかった。

「忘れた」

 そうだ。操り人形さんの口癖がうつったんだ。言葉にはならなかったが、身体全体をとてもあたたかいぬくもりが覆っていた。

「夢だったの?」

 花びらまみれの顔から一つ花びらを取ると、その花びらをあたしはじっと見つめた。

「ナリ、なおしたわ」

 そう、魔女の声が、あたしには聞こえた気がした。あたしはゆっくりと息を吸い込んだ。安堵山へ続く道に豊饒を祈りながら。

(了)

 

 


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