HOTおじいさん

医学生の頃の話です。

毎朝学校に行くためにマンションから出ると、いつも散歩しているおじいさんに会いました。

おじいさんはいつも酸素ボンベを持ち歩いており、鼻には酸素を吸入する「鼻カヌラ」をつけていました。

痩せ型の体型で、首の筋肉「胸鎖乳突筋」の発達など特徴的なところがあることから、肺気腫の患者さんと推測しました。

ちょうど大学で肺気腫について勉強したところで、

講義で学んだ肺気腫の患者さんが、まさにそこにいるようでした。

肺気腫は主にタバコが原因となる慢性の肺障害で、日本人の死因の第10位に位置しています。

慢性に続く咳、息切れや呼吸困難を起こし、

肺炎などの併発によって急に悪化して死に至ることもある病気です。

肺気腫の患者さんは呼吸障害により体内の酸素が十分でないため、

自宅でも酸素投与ができる

在宅酸素療法(Home Oxygen Therapy:HOT)を利用することがあります。

略してHOT(ホット)とよばれる治療です。

HOTをしていることからは、少なくとも病状は初期の段階ではなく

そこそこの状況だったと推測されます。

実際、おじいさんの歩くスピードはとてもゆっくりで、ややしんどそうでした。

そんなおじいさんは毎朝、決まった時間に散歩して、

いつも決まった街路樹のところに腰掛けて、休憩して帰っていきました。

私が大学に向かう方向とは逆を向いて座っていたので、休憩中の様子は見えなかったのですが、

ある日、ちょっと興味本位で休憩中のおじいさんの横を何気なく通り過ぎてみました。

そこでは、

タバコを吸っていました。

”あらあら、おじいさん” 

内心けしからんと思いましたが、声をかけることはできず。。。

でも、そのおじいさんのことが気になって

その後、毎朝観察するようになりました。

おじいさんは毎日決まった時間にあらわれて、あの街路樹の裏に隠れて、タバコを1本吸って帰っていきました。

おそらく家族に隠れて吸っていたのではないかと思います。

肺気腫の患者さんは歩行により筋肉をつける、いわゆるリハビリテーションによって、呼吸状態や生活の質の改善が期待できます。

もしかしたら、リハビリテーションという正当な理由で家を出て

タバコを1本隠れて吸っているのかもしれないと思いました。

おじいさんの一連の”習慣”は、大学に行く日の朝に、毎日観察することができたので、

ひそかに私は、「HOTおじいさん」というあだ名をつけて、

”お、今日もいる” と心の中に思いながら学校に行っていました。

家族に隠れて吸っているということは、家から少し離れたところまで歩いてきているはずで、

病状からはそこそこ負担のかかるものだったと思います。

タバコを吸うことは病気にとってももちろん良くないことですので、

授業で肺気腫を学んだばかりの医学生はタバコの害について力説したい気持ちにはなりました。

しかし、病院等でタバコの害についてはイヤというほど聞かされているだろうし、

家族からもタバコを吸うなとイヤというほど言われてることでしょうから、とくに声をかけることはなく

「今日もHOTおじさんいるかな」と安否だけ確認して、学校に行っていました。

だいたい2~3ヶ月くらいHOTおじいさんの様子を観察することはできたのですが、

ある日秋が深まり寒くなるころ、

大学に行く朝にHOTおじいさんの姿を見かけませんでした。

翌日も翌々日も姿をみかけなかったので、

家族にばれたのかもしれない。

もしくは調子が悪くなって入院でもしたのかな?と思いました。

”あーあ、家族に隠れてコソコソタバコなんて吸うから”

と当時は思いましたが、おじいさんのように明らかに健康を害するとわかっていても、

タバコはなかなかやめることが難しいもののようです。

タバコは依存性が高いといわれます。

依存性とはつまりアルコール依存症とか薬物依存症などのように

ある種の快感に対しての欲求が抑えきれなくなり、その快感がないと体や心が不安定になってしまうもので、いわゆる禁断症状が出ることもあります。

タバコ依存つまりニコチン依存症は依存性がとても強く、

コカインなど麻薬と同レベルのため、やめることがとても難しいです。

HOTおじいさんは、タバコが自分の健康を害することは十分に知っていたとは思いますが、

それでもなお隠れてタバコを吸っていました。

それほどタバコはなかなかやめれないもののようです。

禁煙に失敗する人は多いですが、

それは意志が弱いからとかだらしないからとか、

そういった理由だけでは説明がつかないものと思われます。

これほどやめるのが依存性が高い、麻薬と同じくらいやめにくいものを

簡単にはやめれません。

「やる気」だけでやめることには限界がありますので、

病院の「禁煙外来」などで薬を使ったり、医療者に相談したりして

「薬物依存」の治療としてするしかないのではと思います。

禁煙外来の一般的な成功率は70%ほど。

普通にやる気だけでする禁煙の成功率ってどのくらいかはわかりませんが、

禁煙外来の成功率は高いと思われるので、少しでも禁煙を考えたことがある人は受診したほうがいいと思います。

また、逆に言うとそれでもなお30%の人は禁煙できないので、

やはりなかなか難しいものなのでしょう。

タバコは吸い始めると、やめるのが難しいので

最初から吸わないことが一番幸せなのではないかと思います。

(それは健康的なこともあるし、タバコや禁煙外来にかけるお金の問題も含めて)

タバコは法律的には20歳以上で吸えるようになりますが、

実際は10代で吸い始める人が9割ほどです。

そして22歳以降にタバコを吸い始める人はほとんどいません。

中高生の頃はタバコを吸っている人がなんとなくかっこよく見えるのかもしれませんが、

22歳を超えると健康の知識や、経済的な問題から合理的な思考がはたらいて吸い始めないのかもしれません。

10代の子の働きかけて、吸わないように教育することがとても大事だと思います。

また、呼吸器疾患の最期は治療が難しいので本当につらいです。

痛みに対しては鎮痛剤などが効きますが、呼吸困難感は、

もともとの病気がよくならないとなかなか改善しないといわれます。

そして意識がはっきりしている場合はとくに、息苦しさを常に感じながら生活することになります。

全速力で走ってぜーぜー息切れしているような状態が24時間続くようなものです。

緩和ケアの先生によると

「”痛み”は麻薬などでかなりコントロールできる。それが末期のがん患者であっても。

でも”呼吸困難感”は難しい。鎮静剤などで寝かせてあげるくらいしかない」と。

死ぬのはもちろんイヤだけど、その死に方の中でも呼吸困難を抱えながらの死は一番イヤかもしれません。

街でHOTをしている人を見かけると、

時々あのおじいさんのことを思い出します。

おじいさんの体調はその後大丈夫だっただろうか。

あの日以降

HOTおじいさんの姿を見かけることは、一度もありませんでした。

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