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定年退職後 東南アジアにはまった  残留日本兵の話

日本が西欧の植民地支配から解放した?

 日本人の中には「日本が植民地支配から解放してくれたから、東南アジアの人々は日本に好意的だ」と主張する人が少なくありません。住んでみると「そんなことはない」とすぐわかるのですが、何年たっても日本が救世主説は語り継がれています。日本の中で。
 なぜか不思議でしたが、敗戦後も現地に残った兵隊たちの働きが語り継がれているのかもしれません。

日本軍に占領された3年8か月

 現地でマレーシアの歴史について調べると、「最初はイギリスから解放してくれる日本に期待をしたが、日本の方がひどい支配をした」と記述されています。シンガポールでもそれは同じです。「3年8か月」という言葉が何度も登場します。これは日本がマラヤを占領した期間で、暗黒の3年8か月とも言われます。

スークチン

 「スークチンの虐殺」という言葉もあります。スークチンは意味がわかりませんでしたが、「粛清」の中国語読みだとあとから知りました。殺されたのは華僑の人々が中心で、シンガポールまで含めるとマラヤ全土で10万人にも及びます。これだけひどいことをした日本を憎みこそすれ、感謝なんてありえないと思います。

戦争が終わってからの話

 興味深いのは日本が降伏して引き上げたのち、連合国が再び支配するまでの支配者がいない空白の期間です。

 終戦後も日本に帰らず現地にとどまった残留日本兵が1万人もいるそうです。シベリア抑留や中国の残留日本人孤児のことは知っていましたが、東南アジアにそんなに残っていたのは知りませんでした。

 そして、彼らの多くは義勇軍に参加して独立のために戦ったことがわかっています。半数は戦死したという説もあります。「彼らなしでは独立はあり得なかった」と言われるほど活躍したようです。

 残留した経緯は様々で、彼らの貢献についても解釈は一通りではありません。マレーシアの残留兵についてはあまり研究されていないようですが、インドネシアについては多くの資料(書籍)を見ることができます。

武器と軍事訓練を提供した

 残留日本兵が、独立を目指す人々に武器を提供し、戦闘訓練を施し、戦闘に参加した人もいるというのは、確認されている事実です。独立を目指す組織が残留日本兵にそれを要求し、積極的に協力した日本兵もいれば、拒否して殺された人も少なからずいたようです。日本軍の武器は連合国に提出する義務があって、それを忠実に守ろうとした人々が悲劇に巻き込まれたといいます。
 武器と戦術を手に入れた人々はゲリラ戦を展開しますが、インドネシアの独立にどれくらい寄与したのでしょうか。

オランダ軍には太刀打ちできなかった

 結果だけ見ると、オランダ軍は圧倒的に強く、1948年12月19日ジョグジャ(ジョグジャカルタ)を攻め、スカルノ大統領以下、共和国首脳を逮捕しました。しかし、インドネシア民族の心をとらえることはできず、1949年1月、インドのネール首相が主催する東南アジア会議が開かれ、インドネシア問題が議題となり、強くオランダが非難されました。この後、国連のインドネシア委員会が活動をはじめ、12月27日に政権移譲が行われました。(大東亜戦史4 蘭印編  森高繫尾 富士書苑 より)

インドネシア民衆の強い意志が独立を勝ち取った

 日本軍の武器は共和国軍にも共産軍にもわたり、残留日本兵もどちらにも与しました。内戦で敵味方に分かれた日本人が銃火を交えることもあったといいます。それが独立のためにどれくらい役に立ったのかを評価するのは難しいですね。真に独立を勝ち取ったのはインドネシア民衆の独立を求める強い意志でしょう。独立のための決定的な要因にはなってないと考えますがいかがでしょう?

フランス人はベトミンを育てたのは残留日本兵であると思っている

 実はその働きが大きかったと考える人々もいます。インドシナに残留した日本兵についてフランス極東派遣軍参謀第二部が作成した報告に次のような文面が見られるそうです。 

日本人の技術面での支援がなければ、ベトミン軍が現在のように組織的に行動することはできなかったであろうことは明らかである。

インドシナ残留日本兵の研究 立川京一  (www.nids.mod.go.jp) 

知らなかった終戦直後のアジア

 「日本が東南アジアを解放したと主張する人々がなぜいるのか」を調べ始めて、残留日本兵が戦後の動乱期に大きな役割を果たしていることを知りました。なかんずく、「ベトミンを育てた」とフランス軍が考えていたことは大きな驚きでした。その戦術はアメリカとの戦争に引き継がれたと考えると、何年も後の結果になりますが、残留日本兵はたしかにアジアの解放に貢献したと言えるでしょう。