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自分の行動の意味を他人から教わるな

 以前、こういう文章を書いた。

 「問題が無い」が、問題。この文章は、プロダクト開発、チーム活動の文脈で書いたが、この現象は生き方にも現れる。

 「日常」の方がよりこの問題に気づきにくい。家庭や会社で上手くいってない、何かトラブルがあれば放ってはおけない。まず、何らか対処するはずだ。だから、日常というのは多くの場合、「まあまあ上手くいっている」あるいは、「それほど大きな問題があるわけではない」「とてつもなく楽しい毎日というわけではないが、まあまあ良くやっている」状態にあるはずだ(「少なくともその状態」に持っていくための意識と行動が働きやすい)。

 だから、気が付きにくい。自分がどうありたいのか、今どれほど離れているのか。そして、今、自分が動くべきなのか?が。

 日常こそ、現状維持のモメンタムは力強い。「やってもいいけど...まあ、他にもやることあるし」「ちょっと、忙しい」「ちょっと、気分が乗らない」「ちょっと、」。このモメンタムを乗り越えて、考え、具体的に動くというのは結構な負荷がかかる。ちなみに、「本業を持ちつつ執筆する」という行為も、このモメンタムにまず打ち勝たないと1文字も進むことはない。

 自分の人生だ。今、動くべきなのか、その時を、誰かが教えてくれるわけではない。自分で乗り越えるよりほかない。もちろん、乗り越えることが自分の人生にとってどういう意味を持つのかということも、他人から教わることではない。動いてみた結果、どうだったのか?自分で決めることだ。

 だからこそ、私は人が自分の判断で取った行動というのを尊重するようにしている。それは既に結果が見えているな...という意見も求められ無い限り言わない。その過程と結果にどんな意味があるのかは、本人にしか分からないことだ。

 逆境にあって、当然思い悩みながらも、それでも自分で考え、自分たちで動いていこうとする人たちがいる。その人達が踏み出す一歩が単なる利己に終わらず、何かしら社会へと繋がっている、そういう人たちの行動を、自分の専門性や存在で支援することをこれからやっていく。

 なぜなら、自分たちで動いていくしかないと決意したときに、もっともその支えとなるのは、是非を問わずただ寄り添ってくれる存在だからだ。そのことを既に。知っているから。

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