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「とりあえずやってみる」の功罪

 「とりあえずやってみる」

 この言葉自体は正しい。むしろ、こうした姿勢がないから、「事前にすべてを見通すこと」を善とするあり方を取ってきてしまったから、日本の現代企業の苦しさがある。

 考えて続けても結論がでないことは、ひとまずやってみる、一歩踏み出してみる、それによって状況の変化があり、新たな情報、つまり理解を得ることができる。これが「やってみる」の意義。何をやったらどうなるか分からない、現代においては有力な選択肢といえる。

 だが、「とりあえずやってみる」は苦し紛れでも、精神論でもないことには留意したい。あくまで「新たな理解を得るため」の選択肢であるということ。つまり、意図した作戦と言える。

 「とりあえずやってみる」は思考を止めて「とにかくやってみる」とは違う。やってみることで、何を得たいのか? やってみたらどうなるのか? そもそも、やってみる他に選択肢、作戦はないのか? に考えを巡らす。(もちろん、ただただ逡巡して、一歩も動けないというのでは何もならない。これは別の問題として、冒頭に示した通りだ)

 例えば、組織を作る、事業を作る、ということを「とりあえずやってみる」だろうか。では、プロダクトを作るということはどうだろう。もう少し、やってみよう感は出るかもしれない。とはいえ? 文脈に依る。

 今考えて、では明日からやってみようか、と判断できるものは、そういうスコープであるということだ。例えばスプリント(1〜2週間)の中での問題を解消するのに、1週間〜2週間先まで先伸ばすことはやらない。今日できることは早速いますぐにでも取り掛かる。

 短距離と長距離の仕事の文脈をかき混ぜて、いかなる事象にも「とりあえずやってみる」一辺倒というのは、あまりに作戦がなさすぎる。「とりあえず、やってみたら良いじゃない」は正しいが、先読みできることを読まず、選択肢の列挙をさぼるのを、テキトーと呼ぶ。

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