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本当は怖い「結論から話せ」

 「結論から話せ」、日常でふつうに使う返しだろう。結論から話さないと、積み上げられていく言葉がどこに向かっていくのか分からない。辛抱強く聞き続けても、結局何が言いたいのか分からず、残念な思いをする。だから、「結論から話せ」と。

 結論が既に見えているような様子、状況であればもちろんその方が良い。ただ、「結論から話せ」には危険な展開がありえる。言われた側は、結論から話さないといけないと強く意識する。そのあまりに、

結論から話す = 結論を(いますぐ)出す

という思考に陥る場合がある。もちろん、「結論から話せ」はそういう意図ではないはずだ。ろくに考えていない結果の、生煮えの結論を早く出したところで何になるだろう。

 生煮えの結論を出すと、図らずもそれで物事を進めていこうというは歯車が回り始める。話がわかりやすくなった分、進められてしまうというわけだ。

 生煮えの結論によってぐんにゃりとした結果をどれだけ積み上げてしまっても、この問題には気づきにくい。結論には、それがたとえ一旦のものだとしても、人々に方向性を与えてしまう力がある。

 こうした問題を、私は「合理的論理的結論ファースト」と名付けることにした。結論ファーストであろうとするために、その時点で合理的で論理的であれば、一旦の結論に仕立ててしまって、はからずも物事を駆動させてしまう事象。

 切片のような思考をかき集めて、苦し紛れに出した回答を頼りに状況をすすめていくのはあまりに分が悪い。「結論から話せ」に逃げるのではなく、答えの出せない気持ち悪さに、その場の人々でともに向き合えるようでありたい。

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