マネジメントシステムとしての「思い巡り張らす」
「思い巡り張らす」
プロジェクトや組織への支援を行う中で、どういうスタンスをもって臨んでいるかを、あえて言語化したときに作った造語。どういう理由からこの変わった言葉が生まれたのか、少し紐解きたい。
どんな仕事でも、小さな(あるいは場合によって大きな)「コミュニティ」のようなものが形成され、その中で目的を果たそうと努めることになる。「現場」と言い換えても良い。
ある、主戦場となる限定的なフィールドの上で、様々なプレイヤーが協力しあいながら(あるいはときに足を引っ張りあいながら)それぞれの役割を果たす。ちょっとした生態系がそこには生まれる。
小さいながらもその場には様々な方向性を伴った複雑な関係性が生じることになる。開発をきっちり仕上げてほしいという期待。チームが上手く立ち回れるようにサポートしてほしいという要望。ある期間のうちに果たしたいミッションの顕在化。そこへのコミットメントの要請…などなど。関わる役割が多岐渡るだけに、関係者のポジションも様々で全体としてややこしい。
とはいえ、いちプレイヤーとしては担う役割にも際限があるから(開発者、デザイナー、マネージャー、コーチなどなど)、自分に関与する関係性だけをまずは気にかけておけば良い。目の前の仕事くらいはそれでどうにかなるというわけだ。
ただ、場全体としての目的達成を意識しようとするならば、話は違ってくる。目の前の所与の仕事に務めているだけでは、全体としては上手く機能しない。というか「全体として上手くいく」への担保が何もない。そこで、それぞれに期待される視座や、見るべき視野を越えていくことが必要となってくる。
だが、誰かがそれを明示的に誰かに要請するということは少ない。ゆえに自発的な動き出しがある場は「強い現場」ということになる。ということを前提にすると、3つのスタンスがあると場の助けになる、というのが自論。
まず、思うこと。プロジェクト、組織、その現場の状況を思う。この調子で目的が果たせるのか、何が課題か、阻害要因か、少し先にどんなリスクがあるか。思索する対象は多岐に渡る。
意外と、思えていない日々になっていないだろうか。タスクやミーティングに追われている日々だと、知らずに思えていないことがある。「思う」という時間を明示的に予定に入れなければならないことは、珍しいことではない。
次に、巡ること。思ったのちに、課題の仮説の裏付けやリスクの兆しなどがないか確かめに動く。具体的に対象となる人物との会話や、場への参加、観察などを行う。巡るはただ思っているだけではなく、さらなる情報の収集や検証のための能動的な動きと言える。狙いを澄まして、ピンポイントで事にあたる。
それゆえに「巡る」は時間がかかる。何でもかんでも「巡る」わけにはいかない。
最後に、張らすこと。すべてを「巡る」ことが出来ないゆえに、張らすというスタンスをもつことで補完する。張らすとは、ある一定の基準を設けておき、それに引っかかる「イレギュラー」を検出するイメージ。行為としては受動的である。
人との会話、ミーティング、ワークの場などで語られる言葉や言及される内容、その語り口調や雰囲気、さらにそれを聞いている人たちの面持ち、そうした状況から「これはおかしいかも」「なにかおきている」といった察しを得る。このあたりニュータイプ力が問われる。
異常を検知する基準は様々だが、要は「一定持っている期待に対して、状況がその期待どおりではなかったとき」に発動させる。例えば、然るべき人物の名前がミーティングであがらなくなってしまった、これはその人物が活躍できていないのではないか、といった具合。
思い、巡り、張らす。ちょっと変わった話(あるいは面倒くさい話)かもしれないが、こうした仕組みを自身に宿していると負荷を小さくことができる。いちいち何か問題が起きてから、場当たり的な対処をするのに悩まなくて済む。自分なりの「マネジメントシステム」を持とう。
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