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「正しいものを正しくつくる」というヒロイズム

 「正しいものを正しくつくる」という言葉を使うとき常に、「しかし、絶対的な正解があると言っているのではない」と後に続ける。それだけ誤解を招く標語なので、使わない方が良いのではないかと思うときもある。だが、この6年この言葉を会社として掲げ続けてきたし、書籍のタイトルにも逡巡を経て採用した。この言葉を使うときは今でも多少の緊張を伴う。

 そこまでしてなぜこの言葉にこだわるのか。最初は感覚的なものだった。拠り所にしたい言葉であり、自分を律する言葉でもある。ある時、こだわりの源泉を自分の中に見つけた。それは、ヒロイズム(英雄主義)を信じたいという思いに他ならなかった。

 自分たちの持っているもので世界を少しでも良くしよう、良くできるはずだという信仰にも近い信念。自分の手の届く範囲をより良くするために、自分たちが出来ることは必ずある。誰もが世界ーそれは自分がいるチームかもしれないし、隣に座っている1人の同僚かもしれない、あるいは組織そのものかもしれない、を救うヒーローになる可能性がある。

 そういう幼稚で、誰もが心の底に持っている世界観を、「できるわけないでしょ」「そんな頑張らなくていいでしょ」という他者や自分自身から寄せられる良識に砕かれることなく、貫き通そうとする強い意思。「正しいものを正しくつくる」を支えるのはそんな感情にある。

 これは、専門家や技術者の矜持と繋がる。「正しいものを正しくつくる」とは、単なる勘違いでも無謀への賛美でもない。絶対的正解など無いと言いながら、それでいてイマココで自分が出来ることの全てを動員して、これ以上の選択はもう無いと出し尽くさんとする。意地にも近い。

  自分が認識、理解していなかったものでも受け入れられる余地と、自分は今時点この状況での最適解を見つけ出すことができるという妄想、どちらか一方に偏ることなく、それらが同時に存在することで強力な適応性を生む。そうした適応性が、不確実性の高い状況を前進していくための武器になる。

 しかし、だからといって爽快な結果にたどり着けるわけではない。持っているものを出し尽くしてなおかつ届かない境地に触れ、やはり「正しいものを正しくつくる」なんて到底至らない、問い続けなければならないのだと戒めることに大抵なる。だだ、そのときの清々しさは、次へと向かうための原動力になる。

 われわれは何のために専門性を自分たちに宿し、磨くのか? その答えは、ヒーローになりたいという、いつかの思いにまで辿り着くのではないだろうか。そう。その回答は、自分たちの内側だけではなく、外側にそもそも向けられるものではないだろうか。だって、世界を救うんだよね?

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