"現場思いのマネージャー"は組織を変えられるか?

 先日あるところで、「新しい技術に取り組みたいけど上司が認めてくれない」というテーマで議論になった。オーディエンスと対話をするような時間があり、そこで誰からともなくと出た、ある意見が趨勢を決めた。

 「どうしたいのか道筋を持ってきたら、許可ができるのに。」

 こうした意見は現場思いのマネージャーらしい一般論だと思った。集まった人たちの間に、こういう包容力のある考えを持った人がマネージャーや上司だったら良いのに、という空気感が満たされていくのを感じた。

 一方で、私は思った。自分がどうしたいのか、上手く説明できない人はどれほど素晴らしいアイデアを持っていたとしても、やはりマネージャーの壁の前で佇むより他ないのだろう、と。「人の時間を使うのだぞ、自分の意見くらい整えてからもってこい」と思う人もいるだろう。私もいざとなればそう思うかもしれない。だが、本当に困るのは、まさに「自分の感覚に論理を追いつかせることができない」状態なのではないか。

 例えば、メンバーがアジャイル開発に取り組んだほうが良いと捉えているとして。だが、そうはまだなっていない職場環境で、上司に、論理的に、その必要性を語れる自信がない場合は表明できないまま、残念それが芽吹くことはない.....ということで良いのだっけ?

 「筋道、論理性」とは誰にとってのだろう。もし、その筋道を本人が自力で立てられたとしたら、マネージャーが存在する意義とは何だろう。その人の持つ鮮度の良い感性の代わりに、上司が提供できる価値とは何だろう。物事に論理性を付け加えるのに長けているのは経験豊富な上席者ではないか。こういうぐんにゃりした状況のためにこそ、1on1があるのでは。

 物わかりの良い管理者のていを取ったところで、組織が変わらないままだとしたら、それにどんな意味があるのだろう…というのは言い過ぎかもしれない(だんだん自分の耳も痛くなってきた)。

 でもね。良く分かってない相手が分かるレベル感の結論でお茶を濁すのを是とせず、どうしたいか考え抜いても未だ分からないがどうにか前に進みたいんだ、という人こそ私は応援したいと思ったんだよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?