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価値観の平行線の終着点

夫婦や友達、仕事仲間、上司部下で価値観が異なることはよくある。


論理的に良し悪しが区別できることについては、問題にならないが、問題は論理的に解決出来ないことだ。


例えば、

好きか嫌いか。

何かが欲しいか欲しくないか。


特に夫婦や、頻繁にコミニュケーションを交わすことが多い仕事仲間との価値観のズレはストレスになる。


このとき、どうでも良いこと、つまり自分に対してデメリットが無いようなことなら価値観の違いを受け入れ、多少は譲歩したり、無視したりしてもダメージは少ない。


また、譲歩してもある程度は自分の好き、や、欲が達成できる結論の幅にグラデーションがあるものならば、落とし所もつけやすい。


問題は、右か左か、0か1か、のような2択しか結論がない場合だ。


たとえば、子供が欲しいか欲しくないか。1人でいいか、2人欲しいか。


ここに明快な良し悪しはない。


よく子供にとっては兄弟がいた方が良いという理屈を意見を聞くが、1人っ子は兄弟がいるより幸せではないのか?という問いに対しては、変数が多すぎて比較することができないので、解はない。


ここの結論は、ただその人が自分のエゴにおいて、どうしたいか、という主張以外にないと思っている。


ここで意見が違うと、譲歩するにも譲歩した側の影響は大きいため、譲歩しずらいし、譲歩したとて、その先の長い人生の中でずっと譲歩したことに対する後悔を引きずる人もいるだろう。


となると、お互い説得するための主張がエスカレートし、喧嘩を交えつつも、最終的には平行線になっていく。


この平行線の結論は、一つは時間軸で放置すると結果的にどちらかが譲歩した形にならざるを得なくなるということ、だ。


もしくは、この主張の押し付け合いが起きない相手に関係性を置き換えることだと思う。



つまり、この例で言えば、離婚して再婚相手と子供を作るということ。


仕事でも、プライベートでも、重要なポイントは確認しておきます、価値観による影響を確認しておいた方が良い。


だが、それでも、年月が経つに連れ、価値観が変わることもある。それは良い方に転ぶ場合もあるし、そうでない場合もある。


でも、そうなった時に、私は今まで譲歩してきた気がするのだが、これからはその譲歩をあまりせずに、自分の価値観で道を選ぶことを増やしていきたいと思う。

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