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「丘の手から」 第1回 鎌倉の北

ここは「港南区」だ。文字どおり「港の南」、横浜市の南部である。でも、横浜港開港よりも、はるかに昔=古代からの歴史を重ねる。

日本書紀にも記載がある古墳時代後期に起こった「武蔵国造の乱」。それは武蔵国の豪族、笠原氏の内紛だったが、一方の主人公「笠原直使主」が朝廷に献上した四つの領地のうちの一つ「倉樹(くらき)」が、今の港南区のあたり。奈良時代に入ってからも藤原京から発見された木簡に「久良岐」の名前を見つけることができる。

今も「笠原」さんの表札は、港南区のあちこちに散見できる。社長さんが笠原さんなんだろう。「笠原」を冠する会社も多い。笠原さんは古代から、ずっとここにいるんだ。

中世に入る頃には、港南区の大半は久良岐郡と鎌倉郡に分かれて統治される。もちろん久良岐郡も鎌倉郡も、武士たちと歴史を重ねてきた。だから、両郡とも、鎌倉の方を向いて発展してきた。そういうわけで、鎌倉に向かって、上大岡・下大岡の順。つまり、第二次大戦の配給配給体制の都合で横浜市に組み入れられるまで、ここは「ミナト横浜」の南ではなく「 鎌倉の北」として過ごしてきたというわけだ。

かつて都筑区や青葉区あたりを「港北ニュータウン」と呼時する時代があった(今はあまり聞かない)。港南区は鎌倉時代の「鎌倉都心から見た北のニュータウン」なのかなぁと思う。横浜市という自治体にとっては「港南」かもしれないけれど、中世以降、ここは鎌倉にとっての「北のニュータウン」だったのだろう。僕はそう思っている。

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